Snapeの英語指南

英語長文対策、英語速読法、英語学習法、高校生、中学生、社会人の英語学習に役立つヒントを紹介。

いきなり辞書を引くな! (実際編)

2009-08-20 17:06:46 | 英語の辞書

「いきなり辞書を引くな!」 の実際編として、すぐに辞書を使わないで文脈から推理する実例を紹介する。

次の文章を訳せ。

Americans are more apt than Englishman to ask personal questions, but one question which an American never asks an acquaintance is his salary. In Japan, however, I was often asked how much money I earned, to my confusion.

高3でも、辞書なしの10分間で、すべて正しく訳せるひとは少ないかもしれない。まず、いくつかの難易度の高い単語が目につく。

1行目:apt     2行目:acquaintance    3行目:earned, confusion

●これらの単語は初めて見る生徒もいるだろうし、すぐにに辞書を引きたくなるかもしれない。しかし、ここでぐっとガマンである。まず文章全体を2,3回スキャニングして、どんなことを言っているか、何についての話かの見当をつける。内容把握において手掛かりとなりそうな語をここではキーワードと呼ぼう。

キーワード: Americans / more apt than / Englishman / personal questions / his salary / In Japan / how much money
 
●固有名詞(地名、人名)など大文字で始まる単語は重要である。固有名詞は非常に情報量が多いからである。ここでは、Americans,  Englishman, In Japan である。この3語からだけでも、 “国民性”“文化”がテーマであることが推測できるのではないか。

●「アメリカ人」、「イギリス人」 と言っていて、「日本では」と来るのであるから、日本人との比較にも及ぶ可能性が大である。

●次にこれが、国民性の“比較”、文化の“比較”であることも容易に推測できる。というのは、more apt than という比較級があるからである。

●さらに、これが personal questions “パーソナルな質問”についての話であることも見当がつくはずである。パーソナル=プライベート は、ふつうの高校生なら知っている外来語ではないだろうか。

●そして、これが“お金”についての話であることも見当がつくはずである。というのは、
 his salary,  how much money I earned というフレーズがあるからである。salary が 「サラリー」のことであることは、そのあとに how much money I earned という表現が出てくることからも想像できるはずである。

●さて、いちばん辞書を引きたくなる単語は、more apt than の apt であろう。こういう場合は以下のように考える。
Americans are more _______than Englishman to ask personal questions,
「アメリカ人はイギリス人よりパーソナルな質問を_________」とまではわかるはずだ。そこから推理力が問われる。一般的な通念としても、アメリカ人は陽気でフレンドリーな性格で、いっぽうイギリス人は、より控えめで、うちとけにくい性格であるという対比がある。こうした予備知識を援用するならば、<イギリス人よりアメリカ人のほうがパーソナル(プライベート)な質問をするんだな、>というところまでは、ある程度の確信を持って掴めるはずである。このくらいで先へ進むべきである。(実際、この語をヘタに辞書で引くと、かえって混乱して意味が取れなくなる生徒は多いだろう)

●次の文はより具体的になってくる。
 but one question which an American never asks an acquaintance   is  his salary.
主語部分は関係代名詞が入っていてやや長いが、構文的には単純である。問題は、acquaintance であろう。未知語が、常に推理によって見当がつくというわけではない。推理してみてどうしても見当がつかない場合は、とりあえずそこを空欄と考えて先へ進む。文章中でキーワードになるほどの重要性を持たない場合は、その部分を除いた状態でも十分意味が取れることが多い。
but one question which an American never asks _______ is his salary.
「しかし、アメリカ人が _______ に決して訊かない質問は、そのひとの給料である。」
<そうか、相手の給料についての質問はさすがのアメリカ人もしないんだな>くらいの理解に至れば十分である。

●次に、話は日本に来る。
In Japan, however, I was often asked how much money I earned, to my confusion.
In Japan, however, 「しかしながら、日本では、」 は問題ないだろう。
I was often asked how much money I earned, ここで、”I” という筆者が、何人(なにじん)かを考えてみる必要がある。I was often asked と過去形になっていることからすると、日本人である可能性は極めて低いと思っていいだろう。過去の一時期に日本に暮らしたことのあるアメリカ人かイギリス人であろうと推測できるはずだ。often とあるので、一時的な滞在ではなかろう。前文で、「アメリカ人が _______ に決して訊かない質問は、そのひとの給料である。」というふうにアメリカ人について never という語を使い確信を持って語っているところからすると、どうやらこの筆者はアメリカ人らしいと推測できる。

●また、ここでの how much money I earned が、前文に出てきていた salary と同じ内容であろうと推測できるはずである。「サラリー」は 単に「お金」を指すのではなく、「給料、給与」のことであることは常識だろう。であれば、how much money I earned の earned の意味も多少は見当がつけられるのではないか。ここまでで、「しかしながら、日本では、私は自分がいくら稼ぐかよく訊かれた 」 という意味は取れるはずだ。

●最後の to my confusion がわからないと言うひともいるだろう。 To my surprise, / To my regret, という、感情表現のフレーズは、似たようなものは目にしているはずだ。

●さらに confusion は、一度くらいは目にしたことがないだろうか。それが何らかのマイナスな状態を指す、くらいの記憶があるはずだ。<このひとはおそらくアメリカ人であり、アメリカ人は給料についての質問を決してしないと言っている。それなのに、日本ではよく訊かれたというのであるから、この筆者は、参った、面食らった、困惑した、返事に困った、という状況かもしれない> こういうふうに見当をつけることはできるだろう。

“読む”という行為は、これほどまでに能動的な行為でありうるのだ。こういう読み方をしていると、ある日、日本語の本を読むのが速くなってきたことに気づく。そうなのである。ただ、実は、読解力、言語能力、理解力が向上しているのであって、日本語だけでなく、英語の読解力も向上しているのである。しかし、日本語のほうが読む機会も多く、スピードの差を実感しやすいので、最初に日本語で気づくのである。

さて、辞書を使わなくても、その気になれば英文の内容をかなりつかむことができることがおわかり頂けたと思う。本番の試験のときは、まさにこうするしかないのである。また、仕事の実務で英語を使っている人たちも毎日大量の英語にふれながら、こうしているのである。さて、英語の学習途上にあるひと(筆者もその一人)の場合、上に紹介したような推測読みのあとに、その推測がどのくらい当たっているかを確かめるために辞書を使うことを勧めたい。「辞書を引くな!」と言っていて、今度は「辞書を引け!」である。つまり、いきなり辞書を使わず、まず自分の頭を使い、次に自分の頭でどのくらいわかったか確かめるために辞書を使うのである。このように2段階で学習する習慣をつけているひとと、初めての単語や、忘れた単語が出てきたら何も考えずに電子辞書をで検索しているひととでは大きな差が出てくるということである。

この違いは、問題集を解いていて、むずかしい問題はそのつど別冊解答を見て答えを書いている生徒と、むずかしい問題でも別冊解答を見ずにがんばって自分の頭で答えようとするひととの違いである。


I don't believe it.

2009-08-17 21:09:39 | 映画・テレビの英語

● I don't believe it.

● I can't believe it!

映画で上記のセリフが出たときに、日本語の字幕では、ふつうどちらも「ウソだろー!」となる。字幕であるから、細かいニュアンスは無視して当然であろう。しかし、ここでは、字幕では隠れてしまうその細かいニュアンスの違いにこだわってみたい。

まず、両者をそれぞれ 直訳(意訳) してみると、以下のようになるだろう。

● わたしはそれを信じません。  ( オレ、信じないよ、そんなの。)

● わたしはそれを信じられません!  ( 信じらんなーい!)

 

これから映画を観るときは、上記の違いに気をつけてみたまえ。 "I can't believe it." よりも、意外に "I don't believe it." と言っていることが多いのに気づくだろう。実は、この  don't   と can't   の違いが、日本人にはとかく無視されがちなのである。われわれ日本人は can や can't を必要以上に使う傾向がある。以下の例をみていただきたい。

1) I can't understand this.   これは理解できません。

2) I can speak Chinese a little.  中国語を少し話せます。

3) Can you speak Japanese?    日本語を話せますか。

4) I can't swim well..  上手に泳げません。

5) He can't drive a car.  彼は車の運転ができません。

"can't " はもちろん ”can の否定” であり、”能力の欠如” を意味する。 can は ”能力の所有” を意味する。それらをわかったうえで、上記のような英語を日本人は当たり前のように口にする。まるで以下のような表現が可能であることを知らないかのように。

1) I don't understand this.   これはわかりません。

2) I  speak Chinese a little.  中国語を少し話します。

3) Do you speak Japanese?    日本語を話しますか。

4) I don't swim well..  泳ぎは上手ではありません。

5) He doesn't drive a car.  彼は車を運転しません。

「できる」、「できない」といった能力の表現でなくては伝えられないこともあるかもしれない。しかし、単なる「する」、「しない」というニュートラルな表現で十分意味が伝えられる場合も多いのではなかろうか。不必要に can や can't を使うのはいささか大げさで、場合によっては大人げない印象すら与える。

Can you speak French?  という表現は、はっきり言って相手の能力を問うている。フランス語を話す能力を相手が有しているかどうかを問うている。就職試験の面接なら自然な質問かもしれない。いっぽう Do you speak French? は、能力を問うているのではない。単に話すかどうかを訊いているだけである。No, I don't. と答えるほうが、No, I can't. と答えるよりおそらく屈辱感は少ないだろう。Do you speak French? とは言っても、実際は能力を問いたいのだが、あえてニュートラルなかたちで訊いているということも大いにある。相手の能力を問うというのは考えようによっては、相手のプライバシーに踏み込んだ質問だからである。

逆に I can speak French. という表現は、聞きようによっては、自分の能力を誇示しているようにも取られかねない。I speak French. で済ますか、 can を入れるか、状況に応じて使い分けてみてもいいだろう。プライバシーを尊重する人は、上記のような場合、can を用いないニュートラルな表現を使う傾向がある。

さて、最初にあげた2つのセリフをあらためて見てみよう。

● I don't believe it.

● I can't believe it!

映画で、これらのセリフが発せられる場面は、たいてい、異常な、とんでもない状況である。そういった場面に直面したときに、I can't believe it!  と大声でで絶叫するよりも、 I don't believe it. という、ニュートラルな、より抑えたセリフをボソッと言うほうが、効果的なのである。つまり、悲劇的な場面(家族の突然の事故死など)では真実味が増し、喜劇的な場面(エイリアンが目の前に現れるなど)では可笑しみが出るのである。特にイギリス人が得意とする understatement "過小表現"の効果である。異常な現実に直面して、それを事実として受け入れることができないという意味での "I can't believe it!" は、「不能の悲嘆」になる。いっぽう、異常な現実に直面して、それがたとえ事実であろうが、私は受け入れない、という意味での "I don't believe it!" は、「事実の拒絶」の表現と言えるだろう。 

Do you understand?   I hope you do.

 

 

 

 

 


関係代名詞、2つの誤解

2009-08-17 11:09:00 | なるほど英文法 
<この記事は携帯では見づらいので、パソコンで見ることを勧める>

関係代名詞を理解するうえで注意しなければならない点は、以下の3点である。

●関係代名詞は名詞に文をつなげて、より長い名詞を作る。
●関係代名詞が文を作ることはない。(作ると思う誤解1)
●関係代名詞が文と文をつなげることはない。(つなげると思う誤解2)


実際の例を用いて、説明しよう。1がスタートで、4がゴールである。
(ブログではスペースが取れないので、かわりに下線を使っている)

_________名詞________________________________文 (修飾文)____________________
---------------------------------------------------------
1. [the book]_____/_____I bought__the book__yesterday :[名詞] / 文
2. [the book]_____/_____I bought_______it_______yesterday :[名詞] / 文 
3. [the book]_____/_____I bought____which____yesterday :[名詞] / 文
4. [the book___which__I bought________________yesterday] :[名詞 + 文] = より長い名詞

<説明>
1. スタート:左に核となる[名詞]が置かれ、右側にその名詞を修飾することになる文が置かれる。
2. 右の修飾文の中に、左の名詞と同じものがあり、それを適切な代名詞に置き換える。
3. その代名詞を、つぎは適切な関係代名詞に置き換える。
4. ゴール:関係代名詞を、名詞と修飾文の間に移動する。これによって左の名詞と右の修飾文が連結し、[ひとかたまりの長い名詞フレーズ]となる。
関係代名詞を用いて完成したものは、より長くなった名詞に過ぎず、決して文ではない。これをしっかり頭に入れたまえ。

[the book which I bought yesterday]    「昨日私が買った本」

繰り返す。これは、“ひとかたまりの名詞”である。文のように見えるかもしれないが、“文”ではない。一つの長い名詞、一つの名詞のフレーズと理解したまえ。これを文だと思うのが、最初のつまずきである。

これはもっと長くなる場合がある。たとえば、以下の例も、文ではないので、最初も大文字にはしないし、最後にピリオドもつけてはならない。

[the English book which my sister bought me as a birthday present at the small bookstore next to the post office the day before yesterday]
「おととい私の姉が郵便局の隣の小さな本屋で私に誕生日のプレゼントとして買ってくれた英語の本」

この長ったらしい単語列が名詞である証拠に、これは代名詞1語に置き換えられる。この場合は “it”1語である。どんな名詞も名詞である限り代名詞1語で置き換えられる。さて、それでは次の2つの単語列を比べてみたまえ。

A) [the English book which my sister bought me as a birthday present at the small bookstore next to the post office the day before yesterday] (単語数:25)
「おととい私の姉が郵便局の隣の小さな本屋で私に誕生日のプレゼントとして買ってくれた英語の本」

B) He overslept. (単語数:2) 彼は寝過した。

どちらが文か言ってみたまえ。1つの単語列が文であるか、名詞フレーズであるかは、長さや語数で決まるのではない。品詞の働き、フレーズの構造で決まる。上記二つはあえて極端な例をあげているが、当然、B)が文である。A)は名詞フレーズであって、文ではないが、文の材料にはなれる。

関係代名詞を使って長くなった名詞のフレーズ(以下、“関係詞名詞フレーズ”と呼ぶ)は、通常、文の材料として主語になったり、目的語になったり、補語になったりする。以下の例をよく見たまえ。

The book which I bought yesterday was very expensive. 主語として使われている例
I have just read the book which I bought yesterday.  目的語として使われている例
This is the book which I bought yesterday.  補語として使われている例

※ 以下は、1つの文の中に“関係詞名詞フレーズ”が2つ使われている例である。主語と補語である。

The book which I bought yesterday is not the one that she recommended to me.

このように、関係代名詞は直接に文を作るのではなく、“文の材料となる名詞のフレーズ”を作る。“名詞フレーズ”というものに慣れる必要がある。以下をすべて日本語で言ってみたまえ。(高3の受験生は8を完璧に訳せなければならない)

1. [ the girl whom you talked to in the library ]
2. [ the building which you and I are looking at now ]
3. [ the dog which they have loved very much for more than ten years ]
4. [ the pianist who played the Mozart’s piece very beautifully yesterday ]
5. [ the car that my uncle borrowed from my father and drove on the day ]
6. [ the policeman whom she tried to ask the way to the city hall this morning ]
7. [ the old motorcycle that my brother was repairing with one of his friends in the garage all day long last Saturday ]
8. [ the two little boys who have been just found in the forest by the rescue team dispatched to the area by the local police the following day of their disappearance ]

確 認 : 関係代名詞が作るものは、どんなに長くても文ではない。

ネットは有害廃棄物の山?

2009-08-16 14:22:16 | インターネット
英語に限らず、外国語を学ぶ者にとって、ここ40年のオーディオ機器の小型化、記録容量の増大、機能・操作性の向上はまさに福音と言えよう。レコード、ソノラマ、オープンリールテープレコーダー、カセットテープレコーダー、VHSビデオ、CD、MD、DVD、MP3といった変遷、多様化を経てきて、私はこれらをすべて経験している。しかし、今の子供たちには、レコード、テープなどはもはや伝説の世界だろう。

インターネットに関しても、今の子供たちは、物心ついた時にはすでに家にパソコンがあり、インターネット環境にあったのではなかろうか。インターネットはその存在がそもそもグローバルなものであるが、それでも、というか、それだからこそと言うべきか、使われている言語はやはり90%以上が英語である。そういうわけであるから、英語の教材になるものもネット上でいくらでも見つかるはずである。ところがである。ネット上で子供たち(中高生)が自分で自分の興味のある分野で自分にあった英語のサイトや記事を見つけるということは簡単なようで、実はなかなか難しいことなのである。

生徒向けの英語の教材として使ういじょうは、以下の条件をクリアしていなければならないだろう。

1. 有害な内容でないこと。
2. 間違いの多い、乱れた英語でないこと。
3. 品位に欠ける英語でないこと。
4. 生徒に合ったレベルの英語であること。
5. 適切な長さ、分量であること。
6. 生徒の興味を引くような内容であること。
7. 偏った、信頼性に欠ける内容でないこと。
8. 生徒の知的発達に有益と思われる内容であること。

これだけの条件をクリアしたものを見つけ出すのは簡単ではない。英語教師歴30年以上、インターネット歴10年以上の私にとっても容易なことではない。ましてや生徒が独力でこれら8つの条件をすべてクリアしたものをすぐに見つけられるとはとても思えない。インターネット上の、それこそ天文学的な数のサイトには、良質なものも悪質なものもある。玉石混交ともいわれるが、残念なことには、実際は良質なもののほうがずっと少ない。テレビでもレベルが低く非教育的なもののほうが多いが、インターネットではそれをはるかに上回る悪質なもの、ほとんど犯罪的なものが横行していて、無法状態である。そしてそれに対する規制があまりない。常識のある大人はそうしたネットの世界でも、警戒心を持って、まともなものだけ見て利用して終わり、危うきに近づかないようにしているものである。しかし、何も知らない子供、好奇心の旺盛な十代の子供の場合、いつの間にかインターネットの闇の百鬼夜行の世界に無防備に入り込んでウロウロしているということがしばしば起こる。これが現実である。

であるから、子供がひとりで好き勝手にインターネットをしていて、英語のサイトも見ているからといって「うちの子供はインターネットで自然に英語に親しんでいる」などと思ったら、親のとんだ勘違いである。子供の見ているものは、有益、教育的なものであるより、有害で非教育的なサイトである可能性のほうがずっと高いと思っていい。有害、非教育的な内容であることを知らずに見ていることもあるし、むしろ有害、非教育的な内容であるから興味を持って見ていることもあるだろう。これは日本語のサイトでも同じであるが、英語のサイトだと一見して分からない場合がある。

上記8つの条件のうち、子供が自分でネットサーフィンするときの基準は、5.適切な長さ、分量であること。6.生徒の興味を引くような内容であること。の2つくらいだろう。あとの1、2、3、4、7、8 は中高生にはまず判断できないと思っていい。ということは、中高生がひとりでネットサーフィンをしていて、行き当たりばったりで英語のサイトにたどり着くと、それは上述の1、2、3、4、7、8の条件をクリアしていないものである可能性が高い。つまり、有害なもの、間違いが多く、品位に欠けた英語、生徒のレベルに合っていない英語、そして、偏った、信頼性に欠ける内容で、生徒の知的発達に有益でない内容のものである可能性が高いということである。

英語の教師がネット上で教材に使えるものを探す場合は、そんなに行き当たりばったりということはない。ただ、一見何の問題もなさそうなテーマ、たとえば「ナスカの地上絵」について探す場合でも、ちょっと苦労したことがある。グーグルなどを使い、英語で検索をかけると無数に出てくる。いくつか候補を絞って見ていくと、現地ペルーの研究者の実に詳しいものがあった。これがよさそうだと思い、コピーして適当な長さに編集してから改めて読むと、変な英語が目につく。あまり英語が得意でない人の英語なのである。内容的には非常に面白く、有益なものであるが、英語があまりにも稚拙でミスが目立つためにあきらめざるをえなかった。次の候補はアメリカ人の手になるサイトで、英語の文章としては中高生には決して簡単ではないが、その他の点ではほとんど問題がない。長さ的にも、章だても申し分ない。ただ内容、視点があまりに偏っている。具体的には、ナスカの地上絵をほとんどエイリアン関与説で説明しようとしているのである。それも科学的なはっきりした根拠もなくである。けっきょくこれも残念ながら捨てざるをえなかった。

ナスカの地上絵にしても、エジプトのピラミッドにしても、モアイ像にしても面白いテーマであるが、そういったテーマのサイトには、いわゆるマニアが精魂傾けて作ったようなサイトが無数にある。そういう中でまともなサイトを見つけるのは、それこそ乾し草の中から1本の針を見つけるようなものである。ふつうの子供、中高生は、速読して素早く内容の信頼性、英語の質を判断できるほどの力があるわけはなく、けっきょく内容的に偏った、怪しげな、英語学習的にもあまり有益でないものにたどりついて終わってしまうのが落ちである。「地球温暖化」Global Warming といったごくありふれたテーマでも、ありとあらゆるサイトがあり、その内容もさまざまである。英語としての難易度は別としても、その主張、内容がプロパガンダのようなもの、過激なもの、科学的な根拠の欠けるもの、幼稚なもの、無責任なものなど千差万別で、まともなものを探すのに苦労する。

インターネットには情報の宝庫、知識の無尽蔵の鉱脈という面もたしかにある。しかし、それはある程度の知識と経験に裏打ちされた選択眼を持つ者にとってなのである。そういった選択眼を持たない者にとっては、インターネットは実質的にゴミの山、有害廃棄物の山と変わらないとも言える。

主語と動詞が入れ替わる?

2009-08-16 10:29:45 | なるほど英文法 
1) He is a teacher.  (彼は教師です。)
    ×
2) Is he a teacher?  (彼は教師ですか。)

1)の英文を 2)に書き換えた場合、 he と is が入れ替わると教えられる場合があるようだ。主語とbe動詞が入れ替わる、というふうに一部の英語の教科書や英文法書では説明される。ごていねいに2本の矢印が交差した形で図示されることもあり、読者の多くも過去にそうした例を英語の授業で目にしたことがあるだろう。下記のように、主語と助動詞が入れ替わる、と説明される場合もある。

3) You can swim fast. (あなたは速く泳げる。)
    ×
4) Can you swim fast? (あなたは速く泳げますか。)

“入れ替わる”ということは、2つの要素が互いの場所に移動することを意味するだろう。つまり、主語は ↘、 動詞は ↙ というふうに、そこでは2つの移動があることになる。俗にこの2つの移動を“たすき掛け”と呼ぶこともあるようだ。

私は自分の長い英語教師経験でも、上記のように教えたことがない。私は主語と動詞(be動詞、助動詞)の両方が動くとは思っていない。動くのは後者だけだと思っているのだ。以下の2)と4)を見てもらいたい。下線はスペースを取るために入れたものなので、無視してほしい。

1) _ He is a teacher.  (彼は教師です。)
    
2) Is he _ a teacher?  (彼は教師ですか。)

3)__ You can swim fast. (あなたは速く泳げる。)
    
4) Can you __ swim fast? (あなたは速く泳げますか。)

動いているのは、2)では is だけで、 4)では can だけで、それぞれ文頭に移動するだけである。主語は動いていないし、動く必要もないのである。主語はそのままの位置にいるだけで、be動詞や助動詞のほうが移動するだけでよい。こう説明すると、必ず、「結果的には同じことですね」というひとがいるものだ。“たすき掛け”の伝統を守るためであろうか。しかし、同じ結果になるのであれば、どの説明も等価であろうか。以下の例と比較してみよう。
自動車教習所の教官の指示である。運転者が運転席につくようにする場合の通常の指示である。以下A,B,C,D の4人の教官の指示を比べてほしい。

A) 運転席側のドアを開け、運転席に座り、ドアを閉める。ドアロックをする。
B) 助手席側のドアを開け、助手席に座り、ドアを閉める。ドアロックをする。助手席から運転席に移動する。
C) 後ろのドアを開け、バックシートに座り、ドアを閉める。ドアロックをする。バックシートから前の運転席に移動し、運転席に座る。
D) 後ろのドアを開け、窓を全開にしてから、再びドアを閉める。その開いた窓からバックシートにもぐりこみ、窓を閉める。ドアロックをする。バックシートから前の運転席に移動し、運転席に座る。

4人の指示は、「結果的には同じこと」で、運転者は“最終的には”運転席に座り、ドアもロックしてある。“「結果的には同じことですね」派”の人からすれば、毎朝、Dの方法で運転席についてから出勤するのも悪くないかもしれない。Dでは物足りなくて、もっと要素や操作を増やしてE、F、G、H、I、J、K、L、M、N…と、「結果的には同じ」指示を無限につくることもできるだろう。数学でも、科学でも、基本は“論理”である。論理学には「オッカムの剃刀」Ockham's razorという原理がある。14世紀のイギリスの神学者・哲学者であったオッカムが提唱したものであり、必要に応じて以下のように解釈される。

「必要が無いなら多くのものを定立してはならない。」
「少数の論理でよい場合は多数の論理をたててはいけない。」
「必要以上に多くの実体を仮定するべきでない。」
「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである。」


未来時制は存在しない

2009-08-10 17:25:10 | なるほど英文法 

普通の英文法書を見ると、時制という項目の中に、現在時制、過去時制、未来時制 と3つの時制が出ているかもしれない。ふつうのひとは何の疑問もなく3つの時制の存在を受け入れるだろうと思う。というのは、時間というものは、過去、現在、未来を貫く1本の矢のようなものと思っている人が多いからである。そうしたリニアな時間概念じたいが、非常に古色蒼然とした古典力学的世界観に根ざしているようにも思う。

私が「未来時制」というものに疑問を持ったのは、英語の教師になって2,3年してからである。

たいていの文法書では will は 「未来の助動詞」 であるとされている。

そして、その意味は、意志未来 と 単純未来 であると。

私が最初に引っかかったのは、would の説明である。”will の過去形” とはどういうことか。will が未来を表すなら、その過去形は 未来の過去 を表すと言うのか、それとも 過去の未来 を表すというのか。

  1)   It will rain tomorrow.

  2)   He said it would rain the following day.

下線部の would は、過去における未来を表すということになるのか。この疑問に対して、普通の説明は、過去のその時点から見ての未来を表している、となる。しかし、そうすると、would という過去形の中に未来時制が入っているということになるが、どうも時制の観念に一貫性が欠ける印象がぬぐえない。現在時制には動詞の現在形が対応している。I study English every day.  過去時制には、動詞の過去形が対応している。I studied English yesterday. しかし、いわゆる”未来時制”には、動詞に未来形がなく、助動詞で表すだけだ。I will study English tomorrow. 私には、この”動詞に未来形がなく、助動詞で表す”というのが、どうも未来時制の格の低さをあらわしている気がしてならなかった。助動詞なら、他の、能力の助動詞の can や、義務の助動詞の must などと同列で、未来”時制”と呼ぶほどのものではあるまいと。単に、一般のひとの、過去・現在・未来 という素朴な時間観念に迎合しただけのカテゴリーに過ぎないのではないか。仏教でも三世と言って、過去世、現在世、未来世を指すようだが。

そこで、私はこう考えた。 will を”未来”の助動詞と考える必要はないだろう。助動詞には、いろいろな種類があるではないか。 

● can :  能力、 可能    の 助動詞

● may :  許可、 推量  の 助動詞 

● must : 義務、 必然  の 助動詞 

    などなど。

それなら、will は以下のように考えることもできるだろう。

● will :  意志(予定)、 予想   の 助動詞 

"未来"という言葉を使わない点に注意してほしい。こうすれば、上述の、

  2)  He said it would rain the following day.

は、予想の助動詞の過去形で、過去における予想 として納得できる。また、

 3)  I will come next week..  

 4)  I said I would come the next week. 

は、それぞれ

 3)  来週来ます。 ( 意志の助動詞の現在形::現在における意志 )

 4) 翌週来ると言いました。 ( 意志の助動詞の過去形:過去における意志 )

として、すっきり説明できる。

この考えでいくと、いわゆる”未来時制”という言葉も概念も不要になる。

時制は、2つで足りる。”現在時制”と”過去時制”の2つだけで、何ら困らない。”未来時制”は根拠のない不要な虚構であり、時代遅れの飾りだったのだ。

 

ここから先は、ちょっと哲学的な議論になる。

そもそも、”未来”というものは存在しない。客観的に存在するのは、”過去”と”現在”だけである。

いや、待てよ、”過去”は”存在する”と言えるか。

そうだ、たしかに厳密には”存在した”というべきかもしれない。しかし、少なくとも存在したと言えるだけ十分な痕跡、証拠にわれわれは事欠かない。机の上の同窓会のお知らせのハガキは自分の過去の歴史の一部分を指し示していないか。窓から見える築30年の古いマンション、ヘソの下にある昔の盲腸の手術の跡などなど、過去が存在したことを指し示す痕跡の総体を否定することはとてもできないだろう。

それでは、”現在”は存在するか。

現在という時点は、刻々と過去の側へと呑みこまれているが、それでも目の前の落下中の雨のように存在している。テレビ画面の左上の時刻表示を見ている自分はその時間に息をしながら、リアルタイムでその番組を見ていると言えるだろう。犬の頭を撫でている自分は、その手にしている腕時計の示すその時間にその犬と一緒に確かに”存在している”と言えないか。

それでは、”未来”はどうか。 

未来は客観的には、存在しない、とはっきり言えるだろう。未来は存在した瞬間に現在となってしまうのだ。現在になりたての、現在になった瞬間の未来は、もう未来ではないのだ。2か月先の自分の誕生日はいくらカレンダーに印が付いていても存在しているとは言えない。未来は存在していないからこそ未来なのだ。まだ手が届いていないからこそ未来なのだ。たしかにそうなのだが、しかし、われわれはあたかも未来が存在するかのように生活していないか。残りは明日やろうと思って仕事を途中で切り上げるし、25年の住宅ローンは、哲学的議論を超えて、私にのしかかっているではないか。

その通りである。未来は”ある意味で”、存在している。上述した英文法の will の論議をここで繰り返そう。

>それなら、will は以下のように考えることもできるだろう。

>● will :  意志(予定)、 予想  の 助動詞 

”未来”はある意味で、存在していると言えるかもしれない。それは、未来は”私の意志”、”私の予定”、”私の予想”として主観的に存在しているという意味である。その”私”が、たとえ複数で集団的でグローバルなものになっても、それは”われわれの意志”、”われわれの予定”、”われわれの予想”となるだけであって、しょせん1人称複数の主観的なものであり、客観的なものではない。それでも、未来はわれわれの意志、予定、予想のうちに存在すると言えるだろう。

 

 


なぜ英語の配点が高いのか?

2009-08-09 22:30:46 | 勉強法、学習法

英語120分 / 数学60分 / 国語50分 / 理科50分 / 社会50分

英語(筆記)60分 / 英語(リスニング)30分 / 数学 60分 / 国語 60分

英語の時間が他の教科より長いこともあれば、定期考査などで、英語が2科目ということもある。その場合、英語としての実質配点は2倍ということになる。

なぜ英語の配点が高いのか?

生徒だけではない。教師も思う。英語の教師も思うし、英語以外の教師はなおさらであろう。どうして英語だけ配点が高いのかと。そして、ありふれた説明に落ち着く。英語は大事で、今の社会では重要視されているからである、と。たしかにそうも言えるかもしれないが、私は違う理由があると思っている。

まず、私は英語は2倍の配点でちょうどよいと思っている。他教科が60分なら、英語は120分が相当である。それはこういうことである。

120分のうち、半分の60分が英語の力をテストするためである。それでは、残りの60分は何なのか?あえて言おう、30分は日本語の能力をテストするためである。そして、あとの30分は論理的思考力をテストするためである。

まともな英語の教師はわかっているのだ。自分の英語の授業の一部分はほとんど日本語の授業だと。生徒は英語の授業で、国語の授業のとき以上に日本語に向き合っていると。和訳でも、英訳でもそうである。母国語とは違う外国語を学ぶことによって母国語を客観的に学びなおすことが可能になるのである。その生徒の言語能力は、国語のテストよりも英語のテストによるほうがはるかによく測定できるのだ。

それでは、残りの30分の論理的思考力のテストは何か?これは言語能力よりもさらに高度な知性をさす。外国語を通して、母国語以外の文法、論理を通して物事を見、考えることによって客観的かつ論理的な思考が身につくのである。英語の教材の中には非常に優れた内容のものがあり、そういったものに恵まれる場合もある。

大学入試でも、英語の試験に倍の時間を配当し、倍の配点をするのは、大学側がそれによって受験生の英語の能力以上のものを測定できると確信しているからであって、たしかにその確信は正しいのである。

日本という国ではもう1500年以上も前から、学力、知性のテストに外国語を使ってきている歴史がある。外国語?そうである、漢文である。漢文は中国語であって、漢文が読めない、書けない貴族の男子はバカにされ、漢文の素養のない武士は軽蔑されてきた。なぜか?大和言葉や日本語による試験よりも学力、知性のレベルがはっきりわかるからである。外国語を使って計ったほうが頭がいいか悪いかがはっきりわかるから、日本ではずっと漢文でテストしてきたのである。その漢文が明治時代から少しずつ英語に置き換わってきただけである。簡単にいえば、漢文が英語になっただけである。こう説明してもまだわからないひとがいるだろうか。


hose で水をまいた

2009-08-09 13:39:34 | 英語の発音上達法

「hose で水をまいた」

次の4つの選択肢のうち、英語の hose の発音に

(A)いちばん近いものと、

(B)いちばんかけ離れているものを選べ。

やさしい問題かもしれないが、ぜひ2問とも正解をめざしてほしい。

1.ホース
2.ホーズ
3.ホウス
4.ホウズ

(A)いちばん近いもの: ____     

(B)いちばんかけ離れているもの: ____  

    

 1)         hose : ホース、 ホーズ、  ホウス、 ホウズ

 2) バラ rose :   ロース、 ローズ、  ロウス、 ロウズ

 3)  鼻 nose : ノース、  ノーズ、  ノウス、  ノウズ

上の3つははつおんがおなじぱたーんである。いずれもえいごのはつおんにいちばんちかいものはさいごでいちばんかけはなれているものはさいしょのものである。

誤解のないように念を押すが、いちばん近いものと、いちばんかけ離れているものを訊いているだけである。そのカタカナの日本語の発音が、そのまま英語として通じる正しいものというわけではない。確実に言えることは、それぞれの4つの選択肢の中で、最後のものが最も英語に近い発音であり、最初のものが最も英語からかけ離れた発音であるということだ。

hose  の発音は4つのカタカナの中で、「ホウズ」がいちばん英語の原音に近く、「ホース」が英語の hose の発音からいちばんかけ離れている。

ホウズで水をまいた」 と言ったり、書いたりする日本人はまずいないだろう。

にもかかわらず、ホース、ホーズ、ホウス、ホウズ の中で、「ホウズ」がいちばん英語の hose の発音に近いのである。 

そして、ほとんどの日本人が何も疑わずに 書いたり、発音している「ホース」は上記4通りのうち、なんといちばん英語の原音からかけ離れているのである。

これはどういうことなのか。これには何らかの説明が必要である。

このブログでは、発音記号が出せないので、英語の発音の近似値としてカタカナで表せるものは、遠慮なくカタカナで表していくので覚悟してもらいたい。また、発音記号を使わず、カタカナで論じられる範囲に話を限定するつもりである。

 

英語の hose の母音は、二重母音の”オ”である。 2つの異なる母音オとウの組み合わせである。最初のオが強く、次のウは補助的で弱いが、ひと固まりで1音として発音される。これは、長母音の”オー”とはまったく別のものである。

以下の例を見てほしい。ちなみに、左端のカタカナ表記は、いちおう日本語としては正しい表記であり、正しい発音である。右端は英語の原音により近い発音の表記である。

グループA

1.トースト (toast) より英語に近い表記としては、 トウスト

2.コート (coat) :より英語に近い表記としては、 コウト

3.ソープ (soap) :より英語に近い表記としては、 ソウプ

4.ゴール (goal) :より英語に近い表記としては、 ゴウル

5.ボート (boat) :より英語に近い表記としては、 ボウト

 グループB

1.ホール (hole) :より英語に近い表記としては、 ホウル

2.ドーム (dome) :より英語に近い表記としては、 ドウム

3.ジョーク (joke) :より英語に近い表記としては、 ジョウク

4.ホーム (home) :より英語に近い表記としては、 ホウム

. スモーク (smoke) :より英語に近い表記としては、 スモウク

 グループC

1.コールド (cold) :より英語に近い表記としては、 コウルド

2.ホールド (hold) :より英語に近い表記としては、 ホウルド

3.ゴールド (gold) :より英語に近い表記としては、 ゴウルド

  ●辞書で確認してほしいが、上記の単語の母音はすべて二重母音である。ということは、英語の発音としては、「オー」と発音したら間違いで、「」が正しいということだ。 これは英語の発音問題でもよく出題される。

「トースト」や「フリー」の「-」の部分を、長音記号という。

その直前の音の母音を長母音として長く伸ばせという記号である。しかし、もともと日本語には、長音記号「-」で表わされるような長母音というものはほとんど存在しない。ちょっと考えてみてほしい。この長音記号「-」がつく言葉は、ほとんどが外来語、カタカナ語ではないか。

スピード、フリー、オークション、ケーキ、カーナビ、ケーブル、ジャージ、ホーム、シャッター、プール、ストーカー、アース、メーター、サポート、ボール、センター、等々 等々

外来語以外でこの長音記号「-」を使う例は、わずかに以下のような例である。

「しんとした廊下」、「すごい人混み」、「ふーん」「えー」など、一部の擬態・擬音・擬声語、そして強調、感動詞などである。

こういうわけであるから、現代の長音記号「-」を含んだ語の95%以上は外来語、カタカナ語であると考えられる。特にカタカナ語は毎年膨大な数が追加されているので、この比率はさらに高まるだろう。

  外来語、カタカナ語での長音記号「-」の多用

日本語の母音は5個であるが、英語では10個以上ある。諸説あるが、日本語の2倍から6倍の範囲であろう。さらに英語には母音に連なるアール r の音があったりするので、さらに複雑になる。そこで、想像されるのだが、10個以上ある英語の母音& を5個の日本語の母音で表わそうとするのはどだい無理がある。そこで、5つの母音( ア、イ、ウ、エ、オ )のそれぞれに長音記号「-」を加えて長母音バージョン(アー、イー、ウー、エー、オー )を追加し、合計10個の母音を用意して、これらを使ってなんとか日本語化して取り込もうとしたのではなかろうか。

長音記号「-」の多用と私が呼ぶ現象は、「プリンター」のように、その長音記号「-」に対応するはずの長母音が存在しないところに付けてしまうだけでなく、長母音でない母音、主に二重母音であるが、それが長母音に置き換わるかたちでも見られる。それが「トースト」であり、「ケーキ」である。どちらも原音の母音は、二重母音で、それぞれ ウ と イ であり、その二重母音を尊重してカタカナ表記すれば、「トウスト」「ケイキ」となるはずである。toast にしても cake にしても、特にカタカナ表記が難しいものではなく、長音記号「」を使わなくても十分表記できるものなのである。にもかかわらず、「トースト」、「ケーキ」として表記され、定着しているのはなぜか。

 長音記号「」が多用される理由として、以下のような点が考えられる。

1)  原音の二重母音を尊重し、たとえば、cake を「ケイキ」と発音し、表記したとしよう。すると、この「ケイキ」は「景気」、「慶喜」、「契機」、「計器」とも聞こえ、日本語の意味体系に侵入される可能性があるだろう。日本語は同音異義語が多いので、こうした混乱は容易に生じる。しかしこれを「ケーキ」として発音し表記するようにしてしまえば、長音記号の「」の存在が、これが外来語であることを一目瞭然で示すことになり、本来の日本語からはっきり絶縁できるというメリットがあるだろう。他にも「ボート」( boat )を「ボウト」とすると「暴徒」「棒と」と聞こえるし、「ホール」 ( hole )を「ホウル」とすると「放る」 となるなどなど、いくらでも例はあげられる。

外来語の導入は、明治時代以来、今日に至るまで連綿として続いている。カタカナ語の氾濫は日本語の乱れの表れとして嘆く人が多いが、実は日本語は外来語をカタカナ語、それも長音記号「ー」をふんだんに使ったカタカナ語に変換して抗体化して自らを守っていると言えるかもしれない。ちょうど人体の免疫系のように。

2)  もう一つの理由としては、次のような点があげられるかもしれない。二重母音の発音、たとえば、「オウバコウト」より「オーバーコート」のほうが発音が楽で、もともとあまり口を動かさない日本語の話者には発音しやすい。「メイデイ」より「メーデー」のほうが口の動きは少ない。そのために、二重母音は可能な限り長母音化した。たしかに口の筋肉にかかる負担は少ないといえるだろう。

3)  いったん外来語には長音記号「」を使うという流れができると、今度は逆に長音記号「」をできるだけ使い外来語のイメージを強化し、差別化し、舶来崇拝を助長するという結果になり、ますます長音記号「」の多用・濫用に拍車がかかったと考えられる。

以上の3つの理由で、長音記号の「」をふんだんに使ったカタカナ語が濫造されて今日に至っていると考えられる。さて、 hose の後ろの子音が「ズ」でなくて「ス」になったいきさつは、また別に論じたい。


「メイル」 って何ですか?

2009-08-07 14:16:32 | 英語の発音上達法

電子メール、メール便、受信メール、新規メール、チャットメール、未送信メール、送信メール、WEBメール、メール設定・・・・・・・・

「メール」は外来語としてすっかり定着し、最近ではわざわざ「電子メール」と呼ぶひとも少なくなってきた。

この「メール」の発音を英語の mail の発音と比べると、奇妙なことがわかってくる。

日本語の「メール」は、これで何の問題もないカタカナ語である。これを変えろと言うのではない。この「メール」の母音は「エー」の部分であろうが、これはいわゆる長母音と呼ばれるものである。 ただ、「メール」と言うときの日本語の「エー」に対応すべき長母音の [ e: ] は英語には存在しない。じゃあ、どう発音しているのかと言うと、[ meil ] である。カタカナ表記としては、「メイル」がもっとも近い表記になる。 

英語には「エー」 [ e: ] がなく、それに近いものは「エイ」 [ ei ] のみである。

逆に言うと、英語では、「エイ」としてしか発音していないのに、日本語では外来語として機械的にほとんどを「エー」に変換しているのである。

良く似た現象に、英語の「オウ」という母音発音を、すべて「オー」にしてしまう現象がある。しかし、こちらはまだ理解しやすい。なぜならば、英語には「オウ」とは別に「オー」という発音もあるからだ。つまり、英語には「オウ」と「オー」の2つがあるが、日本語では面倒くさいので、すべて一括して「オー」に置き換えるのだ、と。

しかし「エー」「エイ」の場合は、話が違う。英語にはもともと「エイ」しかないのだ。日本語では「エイ」と「エー」の二つがあるのなら、英語と同じ「エイ」をそのまま使って「受信メイル」、「チョコレイトケイキ」、「夏物一掃セイル」としてもよさそうなものである。しかしそうならず、英語の「エイ」の母音は、ほとんど「エー」に置き換えられている。以下の例を見ていただきたい。

cake : ケーキ / ケイキ

Ace : エース / エイス

base : ベース / ベイス

case : ケース  / ケイス

brake  : ブレーキ / ブレイキ

cornflake  :コーンフレーク / コーンフレイク

template  : テンプレート / テンプレイト

spade  : スペード / スペイド

grade  : グレード / グレイド

safe  : セーフ / セイフ

May Day  : メーデー / メイデイ

crater : クレーター / クレイター

 

なぜ二重母音(エイ、オウ)が避けられて、長母音(エー、オー)が好まれるかについては、別の記事で説明したが、要約すると以下の3つの理由が考えられる。

1) 日本語にはほとんど使われない長音記号「-」を外来語に極力使い、外来語の目印にした。

2) 外来語の二重母音(たとえば、オウ、エイ)を尊重してカタカナ語にすると、同音意義語の多い日本語の中で混乱が生じやすい。

3) 二重母音「エイ」「オウ」よりも、長母音「エー」「オー」のほうが、日本人には発音しやすい。

しかし、最近、「エー」に置き換えられるはずの、「エイ」が「エー」にならず、「エイ」のまま通用している例が目につくようになった。以下にいくつか例をあげる。

1.Bay Bridge : ベイ・ブリッジ

2.Greyhound  : グレイハウンド

3.Playboy  : プレイボーイ

4.Playstation  : プレイステーション

5.homestay : ホームステイ

6.carchase  : カーチェイス

7.bagel  : ベイグル

8.cradle  : クレイドル

 

わずかな例であるが、それでもいくつかの規則性を引き出すことができそうである。

●まず、1~4までは合成語の一部に「エイ」の母音が入っている点である。

●しかも、その「エイ」の母音を含む語(下線部)はすべて語尾が子音で終わらず、どれも母音のままである。

●合成語の場合、他の場所にすでに長母音の長音記号「-」が使われていることが多い(3~6)。

●固有名詞、商品名(1~4)ではあまり”ユレ”はないが、その他では、ネットの検索で見ても「エー」と「エイ」の両方の表記が見られる。例:ホームステー/ホームステイ、 ベーグル/ベイグル 等

●技術英語系の場合は、以前から「プリンタ」、「コンピュータ」のように長音記号「ー」を必要最小限にしようとする動きがある。(8)

●合成語でなく、技術英語系でなく、語尾が子音で終わっている外来語の場合は、依然として長音記号「-」が使われていると思っていいだろう。


biscuit と cookie の違い

2009-08-03 00:05:50 | 英語の語源、歴史

「ハリーポッターと炎のゴブレット」の原書の英国版に出てくる biscuits は、米国版では cookies に置き換えられている。ということは、同じものをイギリスでは「ビスケット」と呼び、その同じものをアメリカ(北米)では「クッキー」と呼ぶということである。しかし、日本人のわれわれは何となくビスケットとクッキーは違うもののように思っていたりする。少なくとも日本では両方の名称が混在していながら、混乱には至らないという不思議な状態にある。

どちらの呼び名が古いかと言えば、やはりビスケット(biscuit)だろう。ビスケットの最初期のものとされるものは、ローマ時代に現れたようだが、今日のものの原型はイスラム起源のもので、それが中世のヨーロッパの各国に広まったもののようだ。現在の英語の biscuit のスペルは、フランス語の bis (2回) cuit(焼いた)から来ている。そのフランス語は、さらにさかのぼってラテン語の panis biscoctus(二度焼いたパン)から来ている。panis biscoctus=「二度焼いたパン」というのは、日持ちを良くするために、パンを乾かして水分を減らし、もう一度焼いたものをいう。これがビスケットの始まりである。

以下、いずれも”2回焼いた”の意味である。

● biscotti    中世イタリア語

● zwieback  ドイツ語

● beschuit  オランダ語

● biscotto  イタリア語

● biscuit    フランス語

● biscuit   英語

一方、cookie (クッキー)という名称は、1703年にアメリカで生まれた。生まれたというより、アメリカの地でオランダ語から英語に入った。アメリカに渡ったオランダ人が使っていた「小さなケーキ」を意味するオランダ語の koekje または koekie から、英語に入って cookie となった。ちなみにオランダ語の koke は、英語の cake と起源が同じで、もとはゲルマン語の”丸いもの、丸いかたまり”の意味である。よく誤解されるような英語の cook (焼く、料理する)とは無関係の起源である。"cake"の「丸いかたまり」の意味は、現代の英語にもちゃんと残っていて、「一定の型の固まり」の例として "a cake of soap"「石鹸ひとつ」がある。靴にこびりついた「ひと固まりの泥」も "a cake of mud" と言うのだ。

オランダ語から英語に入ったと書いたが、実は話はもうちょっとややこしく、オランダ語から直接英語に入ったのではなく、スコットランド語を経由している。スコットランド語の "cookie" はスコーンのようなケーキを意味していた。

まとめてみる。

cookie  は18世紀初頭のアメリカの地で、オランダ語からスコットランド語を経由して英語に入った。

cookie は cake と起源が同じであって、そのスペルから多くの人が無意識に連想している cook とはまったく無関係である。

  クッキーに関する最初の文献によれば、クッキーはケーキを焼くときにオーブンの火加減を見るためにケーキの余りを丸めてオーブンに放り込んだもが起こりとされている。最初期のクッキー的な焼き菓子は、7世紀のペルシヤにさかのぼる。小麦粉があっても、砂糖がなくては焼き菓子にならない。当時ヨーロッパ人の知らない砂糖の味を知っていたペルシヤ帝国では、贅沢な焼き菓子や美味しいパンが王宮で消費されていた。当時、砂糖はインド、東南アジアからの貴重な輸入品であった。サトウキビの栽培は、はじめアラビア人によってイタリア,スペインに導入され,古来のハチミツに代わって日常の甘味料となったのは、十字軍遠征後のことといわれる。

ちなみに、英語の sugar の語源は、サンスクリット語の Sharkara → アラビア語/ペルシャ語の shakar → スペイン語の azucar  → 英語の sugar という風に、砂糖という贅沢品が伝播していった流れのままにその呼び名が伝わっている。人工甘味料の「サッカリン」は、ギリシャ語sakkharon(砂糖)を借入したラテン語saccharumの語幹に,化学的製品を表す語尾-inを付けたものである。

さて、中世の時代に小麦粉の焼き菓子はヨーロッパ中に広がり、14世紀の末のパリの市場でも売られていたという。ここで”小麦粉の焼き菓子”という表現を使ったが、クッキーとビスケットという名称の変遷以前にそれらが指す小麦系の焼き菓子の歴史をたどるのが先決と思うからである。実際にはクッキー系の呼び名は18世紀の初頭まで出てくることはなく、ヨーロッパのほとんどの国ではビスケット系の呼び名が支配的だったようである。それらの呼び名が指しているものは、ヨーロッパの国々や言語圏で微妙に違っていたはずだが、その違いがそのまま名称に反映していたわけではなさそうである。

ビスケット系の呼び名で呼ばれていた焼き菓子は、携帯しやすく、日持ちがするという利点から船員用や軍隊用の保存食として大量に生産されるようになった。15世紀半ばに始まる大航海時代の帆船は出航するときには数カ月分、ときには1年分のビスケットを積み込んでいったのである。

さて、小麦粉系の焼き菓子のビスケットは、保存食として航海用、軍隊用として業務用的需要が高まる一方、家庭での嗜好品として、より美味しく洗練され、種類も増えていった。

その他、クラッカー、乾パン、プレッツェル、スコーン、ビスコット、ラスク、パイ、マフィン 等々、硬軟さまざまなものが登場して今日に至る。

本稿の最初に、同じものをイギリスではビスケットと呼び、アメリカ(北米)ではクッキーと呼ぶと書いた。しかし、いろいろ調べてみると、呼び方はたしかにその通りであるとしても、実体のほうは1種類ではなく、一般にビスケットと呼ばれているものと、クッキーと呼びならわされているものとの間には、やはり違いがあると言わざるをえない。アメリカ英語では、権威というか定評のあるメリアム・ウェブスター英語辞典によれば、「クッキー  cookie」とは、「小さくて平たい、もしくはやや盛り上がったケーキ」であり、「ビスケット  biscuit」のほうは、「固くて、パリパリしていて乾燥している焼き菓子の総称であり、アメリカ英語における「クラッカーcracker」や「クッキーcookie」と同様のもの」としている。違いがあっても、イギリス人はその違いに頓着せずにどちらもビスケットと呼んで済ませているのであろう。同じように、アメリカ人やカナダ人は、ビスケットっぽいものを見てもクッキーと呼んで片づけてしまうのだろうと想像される。

以下は、日本人として私なりに立てた区別であるが、おそらく英米人からすると、あまり意味のない区別に違いない。

 

● ビスケット (ハードビスケットとして区分)

・ トップの写真のように、針穴があったり、文字や図柄がついているのが特徴。

・ きめが細かいものが多い。

・ グルテンの少ない小麦粉を使用。

・ 砂糖、油脂の比率が小さい。

・ 薄めに焼かれることが多く、パリッとした食感。

・ それ自体にあまり味付けがされていなく、パンのようにジャムを載せたりすることがある。

・ 2枚のあいだにクリーム等をはさんだものも多い。

 

● クッキー (ソフトビスケットとして区分)

針穴もないし、文字や図柄がついていることもあまりない。

・ グルテンの多い小麦粉を使用。

・ 砂糖、油脂の比率が大きい。

・ きめが粗くて崩れやすく、サクッとした食感。

・ それ自体がすでに甘く味付けがされていて、さらにチョコチップなどが入ることがある。