外国人に次のように訊かれたとしよう。
Where do you come from?
君は、以下のどの答え方で答えるか。
1) Yokohama.
2) From Yokohama.
3) I'm from Yokohama.
4) I come from Yokohama. How about you?
まず、上記の6つの文の情報量はどれもほとんど同じである。違うのは、文のスタイルと長さである。実際、1) がいちばん多く使われ(おそらく80%以上)、次に 2) (10%程度)、 3)(5%程度)、 ときて、4) がいちばん少ないだろう(おそらく2%以下)。
いちばん簡単な文が選ばれるのは、それがいちばん頭を使わないからで、同じ情報を伝えるために必要とされるコスト(思考、発声)が最少だからであろう。
この最少限主義”ミニマリズム”の立場は、「通じればいい」という”サバイバリズム”の立場と表裏一体である。この2つの立場は、相互に支えあいながら外国語学習における1つの方法論、アプローチとなって、外国語学習者につかの間の”安らぎ”と”自信”を与えている。
たしかに、Where do you come from? と訊かれて、何も言わないで黙っているよりは、Yokohama. とでも答えたほうがずっといい。ベター・ザン・ナッシングである。しかしである。英語を何年も勉強しているはずの中高生や大学生、社会人が、Yokohama. くらいしか出てこないようでは、情けなくはないか。
コミュニケーションというものは、単に言語情報のやりとりだけではない。言語情報だけであれば、Yokohama.だけで確かに十分かもしれない。しかし、どんな対人コミュニケーションでも、言語情報以外の情報、つまり、話し手自身についての情報も同時に送っているのである。
はっきり言って、上記の1) の答え方で終わる人物は、それなりにしか見てもらえない。その程度の知的レベル、その程度の教育、 その程度のマナーの人物と見られる。もっとも、相手もその程度かもしれないが。一方、4) の答え方をする人物は、それなりに一目置かれることになる。この話し手自身についての情報の多くは、そのひとの言語スタイルから得られるのであり、同じ言語情報を伝えるのに、どういう表現の仕方をするかが重要なのである。
学校の英語の授業でも、教師が生徒たちに英語で質問して、答えるときには、「単語で答えるのではなくて、主語、動詞のある文のかたちで答えるように」と指示することがある。すると、生徒たちは「面倒くさいな、わかればいいじゃないか」と、ぶつぶつ文句を言うのである。以下の質問文を見てほしい。きみは1,2,3 のどれで答えるか。
● When do you study English?
1 After dinner.
2 I study English after dinner.
3 I usually study English after dinner.
● Which do you like better, tea or coffee?
1 Coffee.
2 I like coffee better.
3 I like coffee better. How about you?
● Do you think it will rain tomorrow?
1 No.
2 No, I don't.
3 I hope it won't.
いつも1 のレベルで答えている人間の知的レベル、人間性のレベルと、3 のレベルとを比べてもらいたい。3 が無理でも、せめて2 のレベルであってほしいものだ。
文のかたちで、フルセンテンスで答えられるひとは、当然、省略した答え方もできるのである。しかし、省略した答え方でいつも済ましているひとは、もはや文が作れなくなる。作れなくなるから、ますます”最小限主義”に安住することになる。そして「通じればいいんだ」とうそぶくことになる。
問題は、文が作れないこと自体にあるのではない。問題はむしろ、きちんとした文のかたちでなくても、何とか通じてしまうことにある。そうして、レベルの低い英語に低迷したままで終わり、上達・洗練へと向かわなくなってしまうことが問題なのである。
母国語の日本語でもそうである。言葉は単なる生存(サバイバル)のための手段であるだけではない。生きるか死ぬかという状況のときはたしかにそれでけっこうである。そうでないときは、きちんと丁寧な言葉を使う、というだけのことだ。言葉はそのひとの品格、知性、価値観の表現でもある。「文は人なり」である。「通じればいい」と開き直っている者に進歩はない。そして心の豊かさも期待できない。