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村上春樹 「ボストンへ」 への失望

2013-05-06 07:33:35 | 現代時評

 

村上春樹 「ボストンへ」 への失望

 

わたしは村上春樹氏とは面識があるが、友人付き合いはない。彼がまだ作家デビューする以前のことだが、彼もわたしも当時フランス哲学に傾倒していて、その関係で話をしたことがあるだけだ。その後、新宿の紀伊国屋の洋書売り場でばったり顔を合わせて、いろいろ話し、ミシェル・フーコーについて話したことを覚えている。インターネット以前、携帯電話以前の遠い時代である。

 

さて、その彼がボストン爆弾テロ事件についてのエッセーをアメリカ人に向けて書いたらしいので、気になって読んでみた(原文の日本語版が見つからなかっので英語版だった)。正直言って失望したと同時に、そこに日本人の典型的な発想を見た。

 

以下は「朝日新聞デジタル」と「ヤフーニュース」からののコピーである。

 

村上春樹さん「ボストンへ」 テロめぐり米誌に寄稿    (朝日デジタル版) 

 

【ニューヨーク=真鍋弘樹】ボストン爆破テロ事件について、作家の村上春樹さんが3日付の米ニューヨーカー誌(デジタル版)に寄稿した。ランナーの一人としてボストンマラソンへの愛を語った上で、この傷を癒やすには、報復を企てるのではなく、誠実に静かに時を積み重ねる必要がある、と語りかけている。

 

 タイトルは「ボストンへ。ランナーを自称する一人の世界市民から」。村上さんは、過去30年で33回、世界中でフルマラソンを走ったなかで、「どれが最も好きかと聞かれた時は答えをためらわない。6回走ったボストンマラソンだ」と表明し、その魅力を記している。

 

 ボストン郊外で3年間、暮らしたことも紹介し、このマラソンの魅力は他の走者やボランティアの応援とサポートだと強調。「爆破で多くの人が肉体的に傷ついたが、さらに多くの人が違ったかたちで傷ついたに違いない」と自身を含めた世界中のランナーが心の傷を受けたことを懸念する。

 

 事件による深い傷をどう癒やすか。文章は、それを問う。1995年の地下鉄サリン事件被害者にインタビューした自著「アンダーグラウンド」にも触れ、「時間の経過は、いくつかの痛みを遠ざけるが、新しい痛みもまた引き起こす」と精神的外傷がいかに人生をねじ曲げるかを説く。

 

 傷を隠そうとしても、また報復を考えても決して救いにはならない、として、「この傷を記憶し、痛みから目をそらさずに誠実に静かに時を積み重ねる必要がある」「私は、毎日走り続けることを通し、傷つき、命を失った人たちを悼む」と表明。ボストンマラソンが傷を癒やし、再び復活することを願う言葉で寄稿は締められている。

 

 

 

【ボストン・テロ、被害者に思い=村上春樹氏が寄稿―米誌  (ヤフーニュース)

 

ニューヨーク時事】作家の村上春樹氏は3日、米誌ニューヨーカー(電子版)に寄稿、先月ボストン・マラソンの会場で起きた爆弾テロを受けて「ランナーを自任する世界の一市民として、自分も傷ついた」などと、テロ被害者らに寄り添う思いをつづった。
 ボストン近郊に計3年間住んだことがあるという村上氏。過去30年間に33回のフルマラソンを走ったが、最も好きなのは6回参加したボストン・マラソンだと指摘。爆弾テロによって「ボストンの人々がいかに打ちひしがれ、落胆したか、離れていても想像できる」と気持ちを込めた。
 また、地下鉄サリン事件を扱った作品「アンダーグラウンド」を執筆した際に被害者らを直接取材した経験を踏まえ、「こうした悲しみ、無念、怒り、絶望が重なった気持ちが消えるのは容易ではない」と強調した。
 その上で、こうしたトラウマの克服には時間がかかるが、「この傷を忘れず、決して痛みから目をそらさず、さらには誠実に、根気強く、静かに、われわれの歴史を積み重ねる必要がある」と呼び掛けた。

 

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あれだけ疑惑のある大きな事件について書くのである。それなのに米国政府の怪しげな公式説明だけを自明なこととしてほぼ受け入れたかたちで書いている。つまり、

 

1)未解明部分もあるが、チェチェン人兄弟の仕業である。(これを言っておけば、米国政府ににらまれることはない) 

2)自分も含め無辜の市民が深く傷ついた。(役者たちの名演技を大いに“称賛”するくらいの皮肉を書いてほしかった) 

3)報復は解決にならない。(イスラム教徒のチェチェン人が先に攻撃したという暗黙の前提)

4)トラウマの克服には時間がかかるが、痛みから目をそらしてはならない。(“被害演出説”の無視、マスメディアに対する懐疑の欠如)

 

実に平凡な、意外性のない、表面的で、退屈な、エッセーである。こう書くわたしは率直過ぎるであろうか。全文を英語で読んでいてもだいたいこうなのである。英語で読む少しは自分の頭で考える人間はこうとるだろう。日本語でも大した違いがあるわけではなかろう。上掲のニュースの要約は決して的外れではない。しかし、このエッセイにはアメリカの大手マスコミにも受け入れられる資格が十分にある。何しろ日本を代表する知名度のある作家が、ボストン爆破事件について、アメリカ政府の公式説明をほとんど受け入れたうえで語ってくれているからである。内容はどうでもいいのである。アメリカの政府の“お話”を前提に語っているかどうかだけが問題なのである。いわゆる著名人が“テロで傷ついた人々”について語れば語るほど、それの原因であったはずの“テロリストによる攻撃”という前提が“既成事実”として一般大衆の脳に浸透していくのである。大歓迎である。アメリカ政府にとっての彼のエッセーの意味はそこにしかない。もし彼がボストン爆破事件についてアメリカ政府の公式説明を疑ったり否定するようなことを語れば、彼は“ペルソナ・ノングラータ”扱いになって今後のアメリカ入国に必ずや支障がでてくるであろう。ノーベル賞もさらに遠のくであろう。まさかその予防線ではあるまいが・・・。

 

昔の若いころの彼だったら、もっととぼけたエスプリやアイロニーをちりばめて書いたのではないかと思う。ボストン爆破事件がでっち上げであることがこれだけネットで暴かれているのを彼が知らないわけがない。そんなことは決してありえない。今の村上君にはどうやらボストン爆破事件の真相がああだこうだは大した問題ではなさそうである。彼にとっての問題は、“傷ついた人々”の“心”のようである。まるで“心”は純粋でニュートラルなもので、政治とは別次元のテーマであって、作家である自分はもっぱらこちらを問題にするのだとでも言っているかのようである。彼のスポーツ観もそうである。マラソンというスポーツは純粋なものなのだから、醜い暴力争いで汚してはならないというわけである。彼の“哲学”にはこうした、“聖域主義”がある。これが“卵の側”の実体である。

 

アメリカの文壇もアカデミズムの世界もアメリカ政府権力へのご機嫌取りが仕切っていることは言うまでもない。村上君はアメリカでの自分の認知度を上げるには多少の妥協は仕方が無いんですよ、と言いたいのかもしれない。

 

はっきり言おう。君にはそんな妥協をする必要は全然ないのだ。妥協が必要なのはよほど能の無い“もの書き”だけだ。いくらそういった縛りがあっても嘘や悪や不正を受け入れない姿勢を貫くことはできるのだ。そうしているひとは実際にいるのだ。そういう縛りがある状況においてこそ、もの書きの表現力が試されるのではないか。あえて言えば、言葉で生きる作家こそ誰よりもそれに長けていなければならないはずだ。剣を取れと言っているのではない。ペンで十分なのである。このブログの別記事で紹介したトレイシー教授の「奇妙な道化:ボストンのカウボーイヒーロー」を見たまえ。いかに政府機関や政府寄りの鵜の目鷹の目の同僚教授たちから突っ込まれないようにしながら、自分の主張を最大限通すためにどんなに文を練り、言葉を選び工夫していることか。読む人が読めばその苦労の痕跡やヒダがかえって味わい深く、読むひとの心に残るのである。アイロニーという、もの書きの最後の武器が見事に使われているのだ。或る意味で、“縛り”によって逆に言葉が洗練され、感性が磨かれるのだ。“縛り”のないところには面白みがない。五七五でなくてまったく自由でいいんですよ、という無定型な俳句のつまらなさを考えてみるがいい。手を使っていいサッカーのくだらなさを想像してみればいい。“縛り”を最初から回避している作品はのっぺりしていてつまらなく、ひとの心に響かない。

 

村上春樹は“被害者に寄り添う”のが信条のようである。純粋で、だれにも文句をつけられない姿勢であるかのようである。日本人は得てしてそういう独り合点の“聖域”に安住したがる。しかし、“被害演出”の“被害者”に寄り添うことはその演出に加担することになるという点に気づいていない。見せかけの“卵の側”に寄り添うことによって、正義の側に立っていると勝手に思っている。君の“聖域主義”のパラダイムではもうとらえられない時代にとっくに入っているのだ。

 

ボストン爆破事件についてのエッセーであるというので、もっとひねりのある、でっちあげやアメリカ政府を当てこすった内容を期待したのだが、とんだお門違いであったようである。彼が老成したのかもしれない。わたしに成長がないのかもしれない。いくら読み進めてもユーモアもなければ、アイロニーも風刺もない。ボストン爆破事件という、まともな知性の持ち主であればどう考えてもウラがありそうなテーマで書きながら、このエッセーには権力との緊張関係が微塵も感じられない。かつて同時期にフーコーを研究した人間がこれほどまでに権力になびいているのを知って複雑な思いである。