「ハリーポッターと炎のゴブレット」の原書の英国版に出てくる biscuits は、米国版では cookies に置き換えられている。ということは、同じものをイギリスでは「ビスケット」と呼び、その同じものをアメリカ(北米)では「クッキー」と呼ぶということである。しかし、日本人のわれわれは何となくビスケットとクッキーは違うもののように思っていたりする。少なくとも日本では両方の名称が混在していながら、混乱には至らないという不思議な状態にある。
どちらの呼び名が古いかと言えば、やはりビスケット(biscuit)だろう。ビスケットの最初期のものとされるものは、ローマ時代に現れたようだが、今日のものの原型はイスラム起源のもので、それが中世のヨーロッパの各国に広まったもののようだ。現在の英語の biscuit のスペルは、フランス語の bis (2回) cuit(焼いた)から来ている。そのフランス語は、さらにさかのぼってラテン語の panis biscoctus(二度焼いたパン)から来ている。panis biscoctus=「二度焼いたパン」というのは、日持ちを良くするために、パンを乾かして水分を減らし、もう一度焼いたものをいう。これがビスケットの始まりである。
以下、いずれも”2回焼いた”の意味である。
● biscotti 中世イタリア語
● zwieback ドイツ語
● beschuit オランダ語
● biscotto イタリア語
● biscuit フランス語
● biscuit 英語
一方、cookie (クッキー)という名称は、1703年にアメリカで生まれた。生まれたというより、アメリカの地でオランダ語から英語に入った。アメリカに渡ったオランダ人が使っていた「小さなケーキ」を意味するオランダ語の koekje または koekie から、英語に入って cookie となった。ちなみにオランダ語の koke は、英語の cake と起源が同じで、もとはゲルマン語の”丸いもの、丸いかたまり”の意味である。よく誤解されるような英語の cook (焼く、料理する)とは無関係の起源である。"cake"の「丸いかたまり」の意味は、現代の英語にもちゃんと残っていて、「一定の型の固まり」の例として "a cake of soap"「石鹸ひとつ」がある。靴にこびりついた「ひと固まりの泥」も "a cake of mud" と言うのだ。
オランダ語から英語に入ったと書いたが、実は話はもうちょっとややこしく、オランダ語から直接英語に入ったのではなく、スコットランド語を経由している。スコットランド語の "cookie" はスコーンのようなケーキを意味していた。
まとめてみる。
cookie は18世紀初頭のアメリカの地で、オランダ語からスコットランド語を経由して英語に入った。
cookie は cake と起源が同じであって、そのスペルから多くの人が無意識に連想している cook とはまったく無関係である。
クッキーに関する最初の文献によれば、クッキーはケーキを焼くときにオーブンの火加減を見るためにケーキの余りを丸めてオーブンに放り込んだもが起こりとされている。最初期のクッキー的な焼き菓子は、7世紀のペルシヤにさかのぼる。小麦粉があっても、砂糖がなくては焼き菓子にならない。当時ヨーロッパ人の知らない砂糖の味を知っていたペルシヤ帝国では、贅沢な焼き菓子や美味しいパンが王宮で消費されていた。当時、砂糖はインド、東南アジアからの貴重な輸入品であった。サトウキビの栽培は、はじめアラビア人によってイタリア,スペインに導入され,古来のハチミツに代わって日常の甘味料となったのは、十字軍遠征後のことといわれる。
ちなみに、英語の sugar の語源は、サンスクリット語の Sharkara → アラビア語/ペルシャ語の shakar → スペイン語の azucar → 英語の sugar という風に、砂糖という贅沢品が伝播していった流れのままにその呼び名が伝わっている。人工甘味料の「サッカリン」は、ギリシャ語sakkharon(砂糖)を借入したラテン語saccharumの語幹に,化学的製品を表す語尾-inを付けたものである。
さて、中世の時代に小麦粉の焼き菓子はヨーロッパ中に広がり、14世紀の末のパリの市場でも売られていたという。ここで”小麦粉の焼き菓子”という表現を使ったが、クッキーとビスケットという名称の変遷以前にそれらが指す小麦系の焼き菓子の歴史をたどるのが先決と思うからである。実際にはクッキー系の呼び名は18世紀の初頭まで出てくることはなく、ヨーロッパのほとんどの国ではビスケット系の呼び名が支配的だったようである。それらの呼び名が指しているものは、ヨーロッパの国々や言語圏で微妙に違っていたはずだが、その違いがそのまま名称に反映していたわけではなさそうである。
ビスケット系の呼び名で呼ばれていた焼き菓子は、携帯しやすく、日持ちがするという利点から船員用や軍隊用の保存食として大量に生産されるようになった。15世紀半ばに始まる大航海時代の帆船は出航するときには数カ月分、ときには1年分のビスケットを積み込んでいったのである。
さて、小麦粉系の焼き菓子のビスケットは、保存食として航海用、軍隊用として業務用的需要が高まる一方、家庭での嗜好品として、より美味しく洗練され、種類も増えていった。
その他、クラッカー、乾パン、プレッツェル、スコーン、ビスコット、ラスク、パイ、マフィン 等々、硬軟さまざまなものが登場して今日に至る。
本稿の最初に、同じものをイギリスではビスケットと呼び、アメリカ(北米)ではクッキーと呼ぶと書いた。しかし、いろいろ調べてみると、呼び方はたしかにその通りであるとしても、実体のほうは1種類ではなく、一般にビスケットと呼ばれているものと、クッキーと呼びならわされているものとの間には、やはり違いがあると言わざるをえない。アメリカ英語では、権威というか定評のあるメリアム・ウェブスター英語辞典によれば、「クッキー cookie」とは、「小さくて平たい、もしくはやや盛り上がったケーキ」であり、「ビスケット biscuit」のほうは、「固くて、パリパリしていて乾燥している焼き菓子の総称であり、アメリカ英語における「クラッカーcracker」や「クッキーcookie」と同様のもの」としている。違いがあっても、イギリス人はその違いに頓着せずにどちらもビスケットと呼んで済ませているのであろう。同じように、アメリカ人やカナダ人は、ビスケットっぽいものを見てもクッキーと呼んで片づけてしまうのだろうと想像される。
以下は、日本人として私なりに立てた区別であるが、おそらく英米人からすると、あまり意味のない区別に違いない。
● ビスケット (ハードビスケットとして区分)
・ トップの写真のように、針穴があったり、文字や図柄がついているのが特徴。
・ きめが細かいものが多い。
・ グルテンの少ない小麦粉を使用。
・ 砂糖、油脂の比率が小さい。
・ 薄めに焼かれることが多く、パリッとした食感。
・ それ自体にあまり味付けがされていなく、パンのようにジャムを載せたりすることがある。
・ 2枚のあいだにクリーム等をはさんだものも多い。
● クッキー (ソフトビスケットとして区分)
・ 針穴もないし、文字や図柄がついていることもあまりない。
・ グルテンの多い小麦粉を使用。
・ 砂糖、油脂の比率が大きい。
・ きめが粗くて崩れやすく、サクッとした食感。
・ それ自体がすでに甘く味付けがされていて、さらにチョコチップなどが入ることがある。