yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

「読書」

2011-02-17 00:22:13 | 独り言
「読書」?「学習」? 朝10分間の使い方


食欲の秋なのか

 秋は本を読んで論理や倫理や理性や感性や思想哲学や・・・あらゆる知識をかみ砕き身につけて心を養う事なのか。それを食欲の秋というのか。とするならば私には秋を語るすべはない。

 私は人生勉強をおろそかにしさぼってきた。今思うと若い頃買った本を片っ端から読んでいれば身につけていればと言う後悔がある。そうしていたら老いて心をひからびさせないですんでいたであろう。生きていく指針が揺れることもなかったであろう。生活が貧しかったという境遇を弁明は出来ない。貧しさの上にも精神的な生活をしていれば咲いたはずである。それが小さな一輪の草花にしてもだ。若かった頃はそれに気づかなかった。野辺にけなげに咲く小さな花を見ようとはしなかった。星を眺めて願い事をするというロマンはなかった。そんな私は何を見、読んだのだろうか。忘れる為の読書をし身につく読書生活をしていなかったと言える。その頃の私は本を沢山買い込んで書く為の資料としたのだ。殆どが積ん読であった。著者は読み手が心の肥やしになることを望んでいたのを忘れ必要なところだけを横着に切り取っていたのだ。書き手は書く時間より読む時間をより多くとり愉しい読書をしているものだと言うことを知ったのは最近見たテレビで小説家の浅田次郎さんが言っていた。私は書いている時に読むと影響されるからと言う理由で読まなかった。読書に楽しさを見いだしていなかったと言うことなのか。最近、南木佳士さんの随筆、小説を全作むさぼるようにして読んだのだが。そんな経験は若い頃はなかった。若い頃は楽しむというより苦しんで読んだ物だ。読んでなかったらみんなから遅れると言う物だった。私は読書の本来の意味を忘れて研究書を読むように小説、戯曲を読んでいたのだ。ロシア文学も登場人物の名前の長さにうんざりしながら苦痛の中で読んだ。ラシーヌの戯曲の一人の台詞の長さにまだ続くのかという気持ちで読んだものだ。シェクスピアーの戯曲をあまり読まなかったもの比喩の多さに辟易しながらであったからだ。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などは字面をおっただけで、菊池寛は愉しく読んだ。チエホフの戯曲には心奪われて読んだが。要するに好きな作家の本は丁寧に読んだが私にとってどうでも言い作家のものは斜めに読んだことになる。その斜め読みは心に何も残してはくれなかった。読んだという記憶だけが残っているだけだ。それらを楽しんで読んでいたら今の生き方がもっと充実し愉しくなっていたであろうと思う。
 遅いか、まだまだこれからと言えるか。今持っているもので生きるしかない。小さな器に盛る料理は幾ら豪勢にしてもそれだけの見栄えしかしない。仕方がない、そのように生きた結果なのだから。
 私はくる者は拒まず去る人は引き留めはしなかった。人の成長に手を貸して自らが成長する路を選んできた。そのことは間違っているとは言えまい。だが、その人のために語った事でその人は傷つき前から消えた人もいる。悪い癖で直接的に話す性格がある。言葉をオブラードに包むことをしなかった。本当のことを言うことがその人の為になると思ったからだが、そのことで傷ついた人がいたことに反省をしなくてはならないのか。私だったらこうする、このように考えた方がいい思うとついつい言ってしまう。言葉はむずかしいものだ。相手を考えて租借した言葉で伝えなくてはならなかったものが、相手の心にひっかかり思いだけが伝わり誤解を招くこと多々あった。あの頃は酷いことを言ったなーと思うこともある。若気の至りだとは言えない。
 先輩から勧められサルトル、ジイド、カミュ、の作品を読んだ。いわゆる実存主義の作品群をである。哲学はデカンショを読んだ。デカルト、カント、ショーペンハウエルである。それらはいかほどの私の人間形成に役立ったというのだろう。ただ読んだだけですべて忘れている。その頃の私は読んで忘れることの大切さを実践していたと言える。普通人より少しだけ読んだ本が多かっただけである。私は読んでえたものを覚えることが苦手で、人の様にすらすらと引用できない。感銘を受けたものですら1行も覚えておらず誰々がこう言った、書いていると言うことは出来ない。だが、忘れていても体の中に少しは残っていて書く上で役立っていることは否めない。
 今も読むのだがそのままを引用することは出来ない。直ぐに忘れるという特質がある。本を読んでも租借しないで体外へ出していると言うことなのだ。
 それでは精神を養うことは出来ない。が、時折これを私が書いたのかと言う驚きがあることは何かの蓄積が存在し手いるのかも知れない。それを降臨と言うことにしているが。
 つまり降臨は読書の産物である気がしている。
 秋、食べるように本を読む、それは腹にたまるのではなく心の肥やしになっているものだと感じる。
 本当の食欲の秋を感じなかった事を今更のように後悔をする。今になってもっと真剣に本を読み生きていたらと言う反省が沸々と心をさいなむのだ。だが、斜め読みも熟読したものもすっかり忘れているが濾過されて心の中に残っている、それを食欲の記憶という事にしている。何をしても何かが残るものらしい。
 老いてよりその感は増しているが・・・。
 何でも美味しく食べられる幸せを感謝しなくてはいけないと・・・。

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