yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

食品問題のウラ 1/6

2011-02-06 19:46:50 | シナリオ あの瞳の輝き永遠に 
食品問題のウラ 1/6

食品問題のウラ 1/6



どうも日本の食品が危ない。添加物が子供の命を奪うのか・・・。

添加物で作れる、即席ラーメンのたれ。あらゆる食品の中に添加物で入り体をむしばむのか。

有機農業も危ないと・・・。日本人はなにを食べればいいのか・・・。

自然環境の前に

2011-02-04 20:57:50 | 独り言
琵琶湖から学ぶ自然環境保護~琵琶湖シリーズvol.2

自然環境の前に

 自然破壊や自然環境を言う前に整備を怠ってはならない。つまり自然のあるべき姿を認識する必要がある。その時代を何時の時代まで戻すかのと言うことである。
だが言葉ではたやすく言うが壊れ破壊していくものを元へ戻すことが本当に可能なのだろうか。今考えていることは壊れ破壊している自然を今の状態で止めると言うことでしかない。万一それが出来るとしても自然恢復は可能なのだろうか。大気圏にあるフロンや二酸化炭素をどのようにしてなくするのかと言う研究は途方もなく広くて考えられないというのだろうか。もうこれ以上二酸化炭素の排出を阻止しなくてはあらゆる動植物の生存は出来ないところまできているという現実。人間は際限もなくあらゆる地球の資源を生活の便利と引き替えに浪費してきた付けがいまの地球と言う水の惑星に襲いかかっている危機なのである。人類の最高の発明と言われる自動車が石油という資源を消費する事により、ジェツト機で地球の時間を短縮させて気候変動の元を作っているのだが、果たしてそれだけであるのか。地球自体が変動期に入っていて狂わせているのではないか。様々な憶測がある。いろいろな研究もなされているのだが真意は実態は調べ始めた統計からは判断が出来ないのだ。このままで行くと地球には大きな試練が待っていると言うことになろう事は推測できるのだが。その地球が百万年か二千万年を過ぎて地球自体が再生され動植物がすむようになるとすれば進化した動植物が息を吹き返す事になるのであろうか。地球に危機が訪れ度に動植物は進化を遂げたようにである。
 今、家庭ゴミの選別をし焼却による大気汚染を防止しようとする動きがあるが、車をエコカーに買い換え、電力の消費を押さえた電化製品に取り替え、企業は二酸化炭素の削減を行い、それらの努力は果たして報いられるのか。だがそこには大きな落とし穴があることに気づかなくてはならない。自然環境を考える人間自体の問題があることを。つまり人間のモラルの問題である。
 私は倉敷水島のコンビナートにすんでいて公害闘争を行った経験がある。水の汚染がやかましく言われ合成中性洗剤が敵の様に言われた時期があった。学校の先生上がりの人たちがやかましくまくし立てていたが彼女達がやったのが廃油の中に苛性ソーダーを入れ炊き石けんを作ると言うものだった。その程度の浅知恵で水が綺麗になると考えていたらしい。新聞やテレビに取り上げられ悦にいっていたが、水は一向に綺麗にならなかった。合成中性洗剤ん゛みずを汚すと同じように作られた石けんも水を汚すことには変わらなかったのだ。この程度の事で綺麗になるはずはなく行政に下水道の完備をなぜ提言しないのかと不思議であったものだ。行政は水の汚れに対してコンクリートの護岸工事をして海へ早く垂れ流すと言う投げやりな解決策を施したのだ。それが余計に水を汚染させていた。それまでの川には草が生えて川面にたれ水草が繁茂して水を浄化していたものをそれが出来ない川にしたことに気づかなかったのだ。それに住民の意識が足りなかった。つまり人間環境が整ってなかったと言うことなのである。何が言いたいのか、つまり自然環境を良くするためには人間環境を良くしないと駄目だと言うことを言いたい訳なのである。川にゴミを捨て、煙草の吸い殻を路に捨て、人は横断歩道でないところを渡り、自転車に乗っている人たちは信号機を無視し、大きな車を一人で乗り回し、ジェツト機に乗って観光にうつつを抜かし、木々を切り倒して山を削り作ったゴルフ場で運動と言いつつ遊興にふけり、それをしている現実はすべて人間環境のなさ故で、そこに大きな公害や二酸化炭素の排出の原点があることを知らない無知な傲岸があるのだ。それは固形石けんを作ったくだんの先生上がりと大差のない行動なのである。
 今よりこれから今の地球を残そうとしたらそんな傲岸はやめなくてはならない。不自由は我慢し耐乏しなくてはならないことなのだが、一向に気づく人がいないのが現状である。その人らは口では環境問題を真しやかに説くのだ。それは煙草の煙が他人に迷惑を及ぼすからやめろと言う理論なのだ。自動車の排気ガス、ジェット機のとつてもなく多い排気ガス、工場の煙突から出る煙に文句が言えない人の弱い者いじめなのだ。煙草は分煙と言うこともあるので節度のある人たちは喫煙所で吸うべきなのだ。声だかに言われる筋合いではない。吸って早く逝きたいのだからほっとけばいいのである。
 人間環境、これは教育の問題ではない。人間の資質の問題なのだ。資質は教育から生まれると言われるがどのように生きれば良いかという哲学の問題なのだ。優しい慈しみがその底辺に流れていなくては生まれないものなのだ。
 更に言う。環境問題のネックは人間環境の貧しさであり自分勝手な行動なのである。それを知らしめる事の不備であると。人間環境が良くならないと自然環境は決して改善されないのだ。
 心がすさんでいては自然も崩壊すると。

書く物によることがある・・・。

2011-02-03 23:59:21 | 独り言
アマゾン第一位作家大集合1/2

ワープロと心中

 ワープロが壊れメーカーに部品がなくなり直せなくなったのが還暦の六十歳の時だった。ワープロを四台叩き潰した時だった。手書きからワープロへ、原稿用紙に文字を書いていると指先が痛くなり痺れて困るしもともと悪筆の私にはワープロは神の手の様に文字を生み出してくれ文体を覚知して変換してくれた。
「そろそろパソコンに変えた方がいいのではありませんか」
 修理に出すと部品がないと断りながら家電の修理係が言った。パソコンは買ってあったがどのように扱えばいいか分からずに埃をかぶっていた。
ーこれを期に書くことは辞めろというのかも知れない、還暦の時にそうおもったー
 人並みにここらでリタイアをするかと書くことを辞めた。新しいパソコンを買ってチャットをしたりホームページを作ったりして遊んだ。むずかしいと思っていたパソコンも意外と簡単であった。遊び人の暇人、時間は幾らでもあったから独学でマスターした。ぶろばぁいだぁーへ真夜中に電話を入れて色々と教わった。いじりすぎてその都度パソコンは故障して修理に出した。買ったときの値段より高くかかった。それが良い勉強になりマスターするのに役立った。本なんか読まなかった。ワードを使って見るとたやすく文章が打てた。ワープロのキーボードと同じであったからだった。だがワードはワープロと違い癖を関知してくれなかった。ワープロ好きが沢山いることに納得した。
 チャットで「朝まで生チャット」との時間を作ったり、作品を朗読したりして楽しんだ。「朝まで生チャット」というのはテーマを決めてチャットのみんなと意見交換をする物だった。その部屋には二、三十人は訪ねてきてくれていた。真剣に発言してくれ良い部屋を運営出来た。アメリカ、オランダ、中国の人たちも参加してくれた。興奮しすぎて鼻血が出て止まらなり八日間入院したのをきっかけにチャットは卒業した。それからブログを立ち上げて今まで書いた小説を更新した。パソコンで書いた物と言ったら自分史を書き続けているだけである。だから作品は一作も書き上げていない。書いた物は途中で完結した物はひとつもない。書いている途中で、書くのを辞めたのだと気づき続きを書かないからなのだ。
 ところが孫が、それも二人も一緒に産まれたものだから何か記念にと思い系図を小説風に書いてしまったのだ。還暦で書かないと誓ったことを反古してしまったのだ。孫達の成長する姿を見ていると私もこれで良いのかと言う反省が産まれまだまだと感じ本を読んだり書くことを再開した。ワープロを自由に使いこなした手がワードを変幻自在に扱うすべてを習得した。それを使わない手はないと書き始めたのだ。パソコンから産まれた小説や戯曲はまだないが随筆は何十編は書いた。自分が随筆と思っているだけでそれは雑文なのだ。思いつきをただ綴っただけなのだ。自分史もまだ四十歳のところで止まっているのだ。これから書き進めなくてはならないとつくづく思っているがなかなか、爾来横着者故何時も途中までと言うことになっている。孫達のはしゃぐ声を聞いていると書かなくてはと思うのだがなかなか手に付かないのだ。駄目な奴なんです。
 ツィツターで少し過激なことを書いたら閉鎖された。本当の事を書くと消去すると言うことは何なんだろう。つぶやき、らちもない事を書いて喜んでいることの方が人間関係を円滑にするのだろうか。そんな つぶやき はいらない、こちらの方から願い下げだ。
 私がブログに沢山の作品を残しているのは紙に残すより場所をとらないから良いと言うことだけである。ワープロで書いているときにはフロッピーに何十枚と入れていた。それがCDへコピーすれば何枚かで終わる、DVDならなお少なくてすむ、画期的な記録保存形態なのである。それを使わない手はないと使っている。今、ワープロのようにワードをつかっている。すっかり自分の物にしているから出来るのである。今考えればローマ字で入力をしていれば良かったと思う。ワープロは最初にカナで入力をし馴れてしまっているから今からでは面倒だと言うことでそれを使って打っている。
 ワープロの良いところ、ワードの良いところそれらを比較したがどちらでもいい故障をせずにあってくれればと思う。
 私が作品を書いていると孫達がきて賑やかに遊んでいるが、私が相手をしないのでパソコンのスイッチを切るのには閉口する。書いていた物がすべてパーになってしまう。何度書き直したことか・・・。
だが、パソコンは素晴らしい。吾が家は新聞を三年前からとっていない、ニュースはすべてパソコンで読むから必要がなくなったからなのだ。今我が家には八台のパソコンがあり一人に一台という計算になる。孫達を含めてのことである。
 ワープロが良かったか、ワードが良いかと言われれば、書くのだったらワープロと答えるであろう。書くだけの機能を持ったワープロが良いと懐かしさを込めて言うだろう。それはワープロで沢山の作品を書いたことに由来するのだ。
 辞書機能を充実させたワープロの新商品が今でも欲しいと思っている。つまり電子辞書とワープロの合体を・・・。

演劇公演

2011-02-02 20:00:38 | 独り言
三谷幸喜・ビートたけし「大家族主義(2)」1/6

 演劇公演

 幕開けと幕締めで演劇の善し悪しは決まるという。
三十分前から客入れをし、開幕五分前に予ベルを鳴らし、五分後に本ベルを1分間鳴らす。鳴り終わると客殿の明かりが落ち、緞帳が上がり舞台が始まる。
 幕が上がる瞬間が一番緊張しますと役者ではなく舞台監督が言った。舞監は舞台の袖で舞台の動きと台本を見比べながら明かりと音の指示を出すのだ。作者の私が私の舞台を客殿から一度も見たことがない。楽屋のモニターで見るのだ。それが習慣になってしまった。
 役者が舞台に入っていく前に、
「楽しんでやってこい」
 と声をかけるのも習慣になっている。演出は客殿から全体の舞台を見詰め客殿の反応を確かめ反省をし次へのステップにするのだ。私はモニターを見ながら台本を書いている最中のことや、演劇を立ち上げる段階を思い出している。全体の本読み、台本をもっての半立ち稽古、本を離しての立ち稽古、その様を思い出しながら次の台本の準備にはいる。モニターの映像は過去の物で新しい台本が頭の中に作られていく。台本が演出の手に渡った瞬間から次の台本にかかっている。幕が上がると全責任と全権が舞監の腕にかかるのだ。幕がおりカーテンコールが終わるまで舞監の緊張は解かれない。作者や演出は唯見ているだけの存在になる。自作を演出していたときにも観客にはならなかった。幕が上がってしまってどうしょうというのだ、「花も嵐も踏み越えて、ままよ三度笠」と開き直るしかなかったのだ。
 私は演劇青年ではなかった。映画少年だったから芝居とか演劇は見たことがなかった。小さな頃母に連れられて女剣劇を見たのが最初であり、その後は見たことがない。東京にいたときには浅草のストリップ劇場の前で呼び込みの口上を真剣に聞いていた。入場する金など持ち合わせていなかったからだ。客の心を惹き見たいと思わせる巧みさに酔いしれていた。それだけで満足であった。
「お兄さんは入らないのかい。口上だけで満足しそんなに真剣に聞いてくれてもこちとら一銭にもなりぁしねえのよ。今日のところは木戸銭はいらねえから見ていきな。何人見るのも一緒てもんだ」
そう言って中へ連れて行ってくれた。スポットライトに照らし出された女の裸体が音楽に乗せられて踊っていた。
「木戸銭を払おうが払うまいが入ったら客だ。真剣に拝みな。観音様は浅草寺だけではねえよ。ここでは生きた観音様が見られるぜ」
後ろで呼び込みのおっさんが言った。観音様に魅せられて信心が芽生え拝みに通った。というのは呼び込みのおっさんの手前のことで、私が好きだったのは踊り子お姉さんと踊り子のお姉さんの出番の間のコントだった。
 コントを見たことが勉強になった。コメディアンさんの真剣さに心うたれ、その人達の悲喜こもごもを知ることになる。楽屋に出入りが出来るようになり、座付き作家さんに台本の書き方を教えて貰い、踊り子のお姉さん達にセロテープで皺を隠す方法を学び、コメディアンさん達に生き方を学んだ。そのコントが演劇青年になるきっかけであった。何処をどう間違ったのか新派の北条秀司さんの雑誌に参加していた。
 新派の劇作をする人を育てるのが目的で作られた雑誌だった。その中にテレビドラマ「判決」を書いていた高橋玄洋さんがいた。彼は北条秀司さん弟子だった。私の台本に泣きが必ず入るのは新派を勉強したからかも知れない。笑いと泣きを学んで泣きが残ったのである。笑いを書くのはむずかしいが泣きは意外と優しいと言うのも原因かも知れない。
 この歳になってその人達を思うと今どうしているのだろうかと。鬼籍の人になっている人が殆どだろうと思う。人前で笑い一人になって泣くそんな人間らしい人生を見事送って終わったとしたら幸せだったと言えよう。明日のことなど考えず今日を今を木戸銭を払って入ってきた客に腹わたまで魅せていた踊り子のお姉さん達、緊張しているお客さんを引っ繰り返りながら腹を抱えて笑わしたコメディアンさん達、煙草を吸い鉛筆を舐めながら藁半紙に文字を綴っていた座付き作家さん、名調子の少しびっこの呼び込みのおっさん、浅草の夜の星を眺めていた人たちであった。
 モニターからは声が届かない。舞台に聞こえるから音を絞っているのだ。舞台からの声が僅かに聞こえてきて進行状態が読み取れる。頭では次の台本を書いているのだが目と耳は舞台へ張り付いていた。
 公演の成功の基準は客の数と拍手の大きさなのだ。
 その拍手をじっと待つ。
「何をもたもたしとんねん。演出の言うた通りにせんかい」
「よっしゃ、そこで決めてくれ。そうやそれでええのや」
「忘れ取るやないか、はよ袖から台詞を入れたれ」
 無関心を装っているがモニターに叫んでいる。
 幕の下りる音がしている。拍手が大きい。
「ええど、幕あげてカーテンコールや。ぎょうさん拍手をもらえ。ここでは目一杯に笑って」

「ガキがないとるさかい、はよ乳のましてえな」ヒモのよっちゃんが踊り子のお姉さんに叫んでいる。
「あほ、あんたがやってえな。今、忙しいいんや、それもでけん甲斐性なしか」踊り子のお姉さんが叫び返している。
 私の頭の中には交錯する二つの演劇があるのか。私には同じに見えた。

環境問題のウソ

2011-02-01 20:56:27 | 独り言
武田邦彦 『現代のコペルニクス』 #4 特別講義 (前編) 1/8

環境問題のウソ

 昨年の夏は猛暑が続き、今年に入って猛烈な寒波が襲ってきた。
 これを地球温暖化という言葉で言い尽くせるのか。
 ゴア氏が地球温暖化を書いてノーベル賞を貰っているが、あまりの間違いが多いことで教材では使うことが出来なくアメリカでは忘れられようとしている。考えれば歴然のことを南極と北極の氷が溶ければ海水が六米上がると言う奇想天外の仮説を掲げている。南極の氷は溶けて海水になれば蒸発して雪となりやがて南極の氷になるのだ。北極の氷は溶けても海水は増えないのだ。研究結果、南極も北極も氷が溶けてはいないという結論が出ている。
 裏のテレビでは中部大学の教授の武田邦彦氏が地球温暖化は二酸化炭素が犯人ではないと盛ん提言をしている。ゴミの分別はゴミを増やし税金を増やすというのである。分別などしなくて燃やす方が税金を使わなくていいというのである。リサイクルは二酸化炭素を三倍出すし、税金を三倍使ってまでやる必要はないというのである。リサイクルは資源を七倍使いゴミを七倍出すというのである。燃やすと出るオキシダントは人体には無害であるとも述べている。分別をして出したペットボトルや古紙が中国に売られていることは大方の国民は知っている。が、日本のリサイクルの率は低くあとは燃やされているというのである。何のために分別をしていたのか、手間暇をかけて分別し一ヶ月に一度の収集の日に出していたのか、武田氏の言うことが正しいならは、これは詐欺であると言いたい。名古屋市は武田氏の提案で市民の分別を止めさせ一括で集めて燃やすのだという。東京都はあまり分別しているとは聞いていない。区によってはやっていたのかもしれないが。これから名古屋市の様に一括で収集するところが増えそうである。ゴミ袋をバキュームカーに投げ入れると袋が破けて汁が作業員に跳ね返るという事がなくなり、燃えないので石油をかけるという事もなくなるし、税金も多少増えてもリサイクルに使うより少なくてすむというのである。
 ゴミを燃やすとオキシダントが出ると言うので各家庭の焼却炉は避難が集中した。ならば煙草はどうか、微量であるがオキシダントは出る。が、愛煙家がオキシダントでなくなったという報道を聞かない。税金を払っているので行政も文句を言わないのだそうだ。そして、禁煙を叫ぶ人たちもそのことに気がつかないのだ。
 温暖化をした方がいいという。北海道あたりで二度くらい上がり米の作育が出来るようになると言う。沖縄はそのままの気候なのだという。海水は少し上がるが東京が海水の流入で困ることはないらしい。ではなぜエコなのか、そこにからくりがあるという。
 日本の場合、自動車関連に原油輸入の七十パーセントを使っていて、十五パーセントは工業用に、農作物、飛行機、家庭という風に消費されるというのだ。一人の海外旅行でその人がスーパーの買い物袋の何十年物の二酸化炭素の排出と同じであると試算している。スーパーの買い物袋は石油精製の折昔は燃やしていた物で今の技術がそれを創ったのである。
 リサイクルという美名の元でその業者に税金が渡っている現状を詳しく語っているのだ。
 このからくりはにわかに信じがたい物であるが、なるほどと納得させられる。
 このことは世界の科学者の九十パーセントが知っているというのである。
 これから地球温暖化の議論が白熱しそうである。
 パーセンテージには私の記憶違いがあるかもしれないが、そんなに開きがないと思う。
 今のように環境環境と叫んで分別をしエコカーに、エコ家電に、エコ住宅にしても地球温暖化は止まらないというが、学者によっては地球寒冷化を予測する人も出ている。その方が人類にとっては恐ろしいことなのだ。人口爆発の今食料がたちまちなくなると言う飢餓の世界になるからだ。
  だが、限りある資源を節約して使う事は人類にとって大切なことであることには違いない。快適な生活をこれからも望むのであればだが。
 日本に、かつてのような人体に悪影響を及ぼす公害病が起こっていないことは画期的な技術革新がなされている証拠なのである。有害物質を燃やして公害患者を多くだしていたが、有害物質を辞去する技術によって産まれた余剰の物で買い物袋とか自動車事故の折の緩和材が産まれているのだ。
 私も長く公害に携わっているが、リサイクルをすることに反対していた。リサイクルをするとゴミは増え、使い捨ての容器はリサイクルをしているのだからと増え続けることは分かっていたから反対したのだ。それが人間という物だからだ。
これからも地球環境を見守りたい、がその前に人間環境を良くしないと地球環境は良くならないことだけは確かなようである。
 武田教授の節の真偽は数年後に皆様の前で明らかになろう。ウソか誠か・・・。それを待ちたい。                                                                                                                                                                                                          
詳しくは武田邦彦氏の「環境問題はなぜウソがまかりとおるのか」を読んで欲しいと思う。