ちょこちょこ帳

ちょこちょこした物やおもしろい物を中心に、気が向いた時に更新していきます。

早いもので……

2016-04-30 19:30:02 | 家族
もうGWですか。
そして、うちは父の命日から1ヶ月が経ちました。

手続きもなんやかんやと大変で、
市役所や年金事務所に行ったり、銀行も何度も、そして父の携帯を解約しに携帯屋さんに行ったり。

そんな中熊本で大地震が……

世の中で地震を好きな人なんて居ないと思うけど、うちの父は地震に対しての危機感が人一倍強く、関東は地震が多い、という理由で、東京への通院を本当に嫌がっていました。

私は父のそういう臆病な所が嫌いでした。
臆病なだけでなく、東京で生活されてる方々に失礼やんか、と。

自分が上京する時に地震が来ないだろうかといつも心配していたので、

「自分が行ってない時に(地震が)くるのはいいんか?」

と、いつも心の中で突っ込んでいました(^o^;)

東北の地震の時も、津波の映像見て具合が悪くなって、病院に連れていったっけ。

生きてたら熊本の地震も怖がってただろうなーと……
防災グッズを用意しろとか、耐震のリフォームはしなくていいのか、とか、口うるさく言ってきてたと思います。

それにしても、九州でこんな大きな被害が出るなんて。

被害に遭われた方々に、心からお見舞い申し上げます。

父が居なくなって、あれこれうるさく言ってくる人が誰も居なくて、
どんなしょうもないおかずでも、お酒の肴にならなくても、誰にも文句言われなくて、ずーっとそんな気楽さを求めてきたけど、いざその気楽さが手に入ったのに、全然満たされないというか、楽しくないというか。

とっても、変な感じです(^_^;)))

ここんとこずーっと、家族以外の方とお出掛けすることがなくって、かなり
フラストレーションが溜まっていたので……久々にお友達に会って、
パンケーキ食べに行って造幣局の通り抜け行って来ました(*^^*)

幸せのパンケーキ(^-^ゞ

本町店で開店前から並んだら、ギリギリスムーズに入店出来ました(^0_0^)


ふわふわの理由は、ホットプレートで温度を絶妙に調節しながら、何度も重ね焼きするそうで。

美味しいんだけど、時間の回転が恐ろしく悪くて……席に着いてからオーダーを聞きにきてくれたのが10分後、ドリンクを持ってきてくれたのがその10分後、パンケーキがやっと運ばれてきたのがさらに20分後くらいで……

後日、休日のお昼に行った友達は、なんと外で五時間並んだらしい( ; ゜Д゜)

通り抜けは最終日だったのですが、
ピークは超えていたもののなかなか綺麗でした。


今年のお花は、牡丹。











ニフレル行って来ましたー

2016-04-14 08:46:17 | お出かけ
かなり時間が経ってしまいましたが、

年金事務所に行くついでに、
エキスポシティのニフレルに行ってきました(^-^ゞ

まずは万博公園でお花見。
桜の木の下で、花見弁当食べながら。






満開で、平日なのでそんなに人混みもなく、気持ち良かったです。

ニフレルも並ばずに入れましたが……


あ、まだ行かれてない方はネタバレになるので読まないようにしてくださいね(笑)









ニフレルというだけあって、どんだけ動物触れるねんやろうか、と私の期待が大きすぎたのか……

不完全燃焼で終わってしまいました。

全然、触れられへんやんっ(@_@)

私の好きなカピバラさんは2頭しかいなくて、すぐ近くで水浴びしてたけど人で見えなかったし……

クジャクみたいなんもおったけど、
子供が手を伸ばそうとすると

係員の方が
「手を触れないでください!
あ!!触らないで!!!」

と、やたら注意してきて(笑)

カピバラも、もちろん触れないし
他の動物も全く……

唯一触れたものといえば、
角質を食べてくれるドクターフィッシュのコーナーだけ(笑)

それも、水槽に入れていいのは指一本だけ、という(笑)(^o^;)

ちんあなご。こうやってみると、長い(^-^ゞ




ミニカバ




水浴び見れなかった(笑)カピさん。


出てから、エキスポシティの中のペットショップに可愛い猫ちゃんとか仔犬とかが居て……その子達と合わせて、やっと動物見たい欲が満たされたような(笑)(^o^;)

もっと触れ合いが出来るように変わったら……また行きたいと思いました……(*^^*)

感謝。

2016-04-06 12:18:46 | 家族
この3ヶ月、面会の為神戸の病院に通い続けましたが、父は結局ICUから出ることなく亡くなりました。

ICUに入る時、受付の方の厳しいチェックを通過しなければ入れないようになっています。
いつも同じ女性が受付におられ、最初はキツい印象でしたが、私達の顔と名前を覚えてもらってからは、とても優しく丁寧に応対して頂きました。

亡くなってから葬儀社の方がお迎えに来た時、受付を通る時に最後の挨拶をしようとしたら、その女性が

「私、知らなくて……すみません。」
と、泣きそうな顔でおっしゃって。
私達がボロボロ泣きながら御礼を言うと、

「毎日お見舞い来て下さってありがとうございました」

と、深々とお辞儀されて……

まさかこの方から御礼を言ってもらえるなんて思いもよらず……嬉しかったです。

担当の看護士は毎日変わるので、私達の頑張りを一番そばで見てくれてた方かもしれません。

そして、お通夜、告別式と、どちらも出席下さった、母方の親戚のおじさん。
母の妹の旦那さんなので父とは血の繋がりがないのですが、
数年前、父と仕事上でトラブルがあり、父とおじさんは絶縁状態にありました。
私もその事情を知っていただけに、
あまりいい印象を持っていませんでした。
恐らく、おじさんからしても、父は最も会いたくない相手だったと思います。

お通夜は母の妹の叔母さんも来てくれたのですが、ちょうど私の病気の最後の治療が終わってから1年後くらいに私と同じ病気になられて、同じような手術を受けていたのですが、それが最近再発してしまったようで、
再度抗がん剤治療を受けている最中で、体調も考慮してお通夜だけ来てくれて。それで充分だったのに、旦那さんは2日間とも来てくれました。
恐らく、告別式は奥さんが行けないから、自分だけでも、と思ってくれたんだと思います。
父は自分から裏切ることは有っても、裏切られたような相手とは二度と会わないし話題に出すのも禁物、というような大変厳しい所が有ったので、
逆の立場だったら絶対行かなかっただろうな、と。
トラブルがあってから、母方の親戚のことを悪く言ったり、法事にも顔を出さなかったりして、嫌悪感丸出しだったので。

そんな父だったのに……と思うと、余計にありがたかったです。

この数日間で、人の優しさとかありがたみとか、今まで気付かなかったような色んな思いが伺い知れて……感謝すると共に、これからは人付き合い、ちゃんとしないとなー、と思いました。

不謹慎を承知で……

2016-04-03 20:39:36 | 家族
こうゆう家族の一大事に、普段まとまりない家族でも一致団結して、力を合わせるものだと思っていましたが……

残念な兄・トオルは想像通り、いや、想像以上に頼りなく、私と姉をストレス地獄に突き落としてくれました。

こんな時に話すような事ではないのですが、私の腹の虫が収まらないので、よろしければお付き合いください(笑)

まず、父の危篤状態の時に遡りますが。
病院に泊まり込むことになり、
疲れとストレスから、余裕が無くなってきていた私達。

いつ食事に行くか、買い出しはどうするかなど、これからの打ち合わせをしているときに知らん顔でスマホをいじり、全く話を聞いてなかったので姉が注意したら、
「僕の知らんとこで勝手に話しといて聞いてないとはなんじゃ!」
みたいな事を言って切れ出すし、
重い荷物も全然持ってくれないし、勝手にコンビニに行ったと思ったら私達の見えない所に隠れてボリボリお菓子を食べて……コンビニや食堂での支払いも、当たり前のように母に払わせて平気な顔をしてるし……

父との面会でも、私達のようにこれが最後と思って「ありがとう」とか今までの不義理を詫びるでもなく、小さい声で
「お父さん……僕がんばるから。」
などと言っていたけど、
後で姉と「あの言葉、全く響かんかったよなぁ(笑)」
「全然心こもってなかったよなぁ(笑)」
と、ボロクソ(笑)

控え室で仮眠を取るときも、トオルの地鳴りのようなイビキで私も姉も全く眠れず、
そのくせに
「控え室のソファじゃ疲れ取れへんから、今日はホテル泊まった方がいいよ」
などと言ってきて……

それやったら、俺ホテル代出すし、くらい言えんか?
と、心の中でツッコミまくりでした(笑)(^o^;)

これまでどこか兄の肩を持っていた姉も、やっと、やっと、私の気持ちが分かってくれて(笑)
ここ数日間で感じたイケてなさと、私がただの意地悪で文句言ってたんではないことにやっと気付いてくれたようで。

そして臨終の時を迎え、父は葬儀場へ安置、私達も数日振りに自宅に帰ってきましたが、ホッとする暇もなく、
父の部屋と仏間の片付け、掃除、あらゆる手続きなどに追われ、走り回っている最中もトオルは自分の部屋にこもり、いつも通りのオタクスタイルを貫いたのです……

あれやって、これやって、と、指図する会話もしたくなくて。
そのコミュニケーション不足が余計に駄目なんだろうけど。

忌引きで会社を休んどいて、普通の土日のように過ごす43歳のおっさん……

で、お通夜の日。私の運転で車で行ったのですが、葬儀場の駐車場がとても停めにくい場所にあり……ペーパーだけど一応免許ありの姉が助手席で左側を見てくれていたので、危なかったら声を掛けてくれると思っていたら、左側の柱にゴリっとやってしまいまして……
緩衝材がつけられていたので柱に傷をつけることは無かったのですが、
やっぱり動揺して落ち込んでいたら、
そこへトオルが、
「もうちょっと右寄りに停めた方がいいんちゃう?後から来た車が停めづらくない?」
と、無免許の分際で意見してきたのです(笑)
しかも、ドライバー目線で!(笑)

おい……トオルよ……あんたが免許持ってないことで私がどれだけ一人で家族を助けてきたか……
こんなお通夜の時にも妹の運転する車に何食わぬ顔で乗って、どんな気持ちよ……そんで、ドライバー目線で忠告してくるって……はぁ(*_*)

そんなこんなでお通夜が終わり、翌日の告別式の時の食事で、我が家の環境を全く知らない親戚の方々が、
「トオルくんさすが長男、しっかりしてるねー」
とか、
「(面会とか)大変やったねー、頑張ったねー」
とか、
「これから男手一人やけど頑張ってね」
などなど、声を掛けて下さったのですが、
トオルは照れながら「はい……」
とか言うだけで、まるで普段我が家を引っ張っていってるかのような素振りを見せて……

「お金のこととかは妹二人に任せっきりで……」
とは言ってたけど、お金のことだけじゃねぇ!
あんたがやってないことぜーーんぶやってるわ!!!

と、叫びたくなるのを必死に押さえました(笑)

で、全て終わって自宅に戻り、
やっと一息ついてからの夕食時に、
「家から近いあの葬儀屋さんに決めてよかったね。一旦荷物取りに帰られたし、色々細かいこと気を配ってくれたし。」
と話していたら、

トオルが

「家の近所で泊まるのが変な感じやったわー」

って……

いやいや、それがお通夜やん!!

感想が、小学生の男子!!

「家の近くにおるのにわざわざ泊まってるの、変な感じやなぁー」
って、小学生の男子がゆうことやし!

小学生の男子が、遠足のとき友達と同じ苗字の表札見つけて、
「これお前の親戚の家~~?」
とか言ってふざける感じの、小学生の男子の発想と同じやん(*_*)(*_*)(*_*)

……もう、お手上げです……




……お付き合いありがとうございました(笑)

こんな私ですが、これからもよろしくお願い致します(^.^)(-.-)(__)




お別れの準備

2016-04-03 06:16:29 | 家族
うちの父はとにかく、
「俺が死んだらどうするんや。お前らだけでやっていけるんか」
が常日頃からの口癖で、それを聞かされる度にうんざりしていました。

その日が来るのはまだ遠いとどこかで思っていたし、その時は何とかなる、と流暢に構えていました。

でも実際は絵に描いたようにバタバタしてしまい、知らないことだらけで……

そんな呑気な私達でも、父がいよいよ危険な状態になってからは、念の為葬儀場の見学と見積りはしておきました。

さすがに何軒も回る余裕はなく、家からも最寄り駅からも徒歩10分圏内の場所のホールに仮予約して。

家族がうんざりするぐらい、「俺が死んだらシリーズ」を連呼してくる父だったので、葬儀は家族葬で、呼ぶのはごく身近な親戚だけでいい、友達も呼ぶなと言われていたので……結果的に誰を呼んだらいいか迷わなくて済みました。

けど、大学時代のお友達の中のお一人とは、年賀状だけでなく年に2、3回贈り物をしあう関係なので、葬儀の前に訃報と家族葬であることを伝えたら……その方も大変動揺されたようで、わざわざ岸和田から通夜に出席して下さいました。
そして、その方が特に仲良かった6名に声を掛け……結局全員来て下さって。

父は病気をしてから、友達からの誘いをことごとく断り続け、すっかり疎遠になっていました。
その断り方も、端で聞いているこちらの気がすくむほど、それはそれは偉そうな物の言い方で……

それでは全員に総スカンくらっても仕方無いな、と思っていました。

父が病院から帰ってきて葬儀場に安置されてからお通夜まで2日間猶予が有ったので、姉と二人で父の写真を整理したのですが、そこで大学時代のお友達の写真を見て、色々分かったことがありました。

どの写真を見ても、父は真ん中に映っており、とても偉そうで(笑)
でもみんな楽しそうで、気のおけない仲間、という感じで……

おそらく父はグループの、リーダー的存在で、ずっと強くて頼もしい印象のままで居たかったのかな、と。

病気で弱った自分、ましてや死に顔なんてかつての仲間に見せたくなかったから「葬式に呼ぶな」と言っていたんだ、と。

その意向を汲んで、呼ばないという選択肢も考えましたが、
お友達の気持ちを考えると、喪中ハガキで知らせるのも酷やな、と。
母と知り合う前からの長いお付き合いの方々だし、そちらの権限も尊重しなければと思いました。

あと、湯灌して下さってから納棺後、見に行ったらとても綺麗にして下さっていて。
ICUで見たあの痛々しい姿からは想像もつかないくらい穏やかな顔に仕上げて下さっていたので、これならお友達にも見てもらえるな、と。

そしてお通夜が始まったのですが、
母の兄夫婦がどうやら降りる駅を一つ間違えてしまい、大遅刻をしたり、母の妹夫婦はさらに遅くて、お焼香の後お寿司をつついてもらいながらお話してたら22時を過ぎてしまいました。

お通夜は寝ずの番をして御線香の火を絶やさぬように……というのが一般的だと思っていましたが、控え室に宿泊できるようになっていて、シャワーもついていたので、10時間以上消えない巻線香にしておけば家族もゆっくり休む事が出来ました。

そして告別式。司会の女性に託していたお手紙は私一人で書いたのですが、一人称の箇所をうまいこと私達、という風に変えて呼んで下さって、良かったです。

いつか嫁いだ時、披露宴はしないにしても手紙で感謝を伝えるつもりが、
お葬式での披露になってしまいました。

火葬場へ向かうとき、ちょうど桜が咲いていて。

精進落としを頂きながら、持参したアルバムを見つつ、親戚の方々が楽しくお喋りして下さって。

お骨上げをする瞬間まで、どこか全て嘘のような気もしていましたが、
割とはっきり残っていたお骨が……
歯並びの悪い歯、焼け残ったステントの金属、指の骨……まさに、父でした。

葬儀場に戻り、初七日法要をしてもらった時は疲れがピークで……
横を見ると母が舟を漕いでいました(笑)

色々ハプニングも有りましたが、滞りなく終わり、一同ホッとしました。

ご報告。

2016-04-02 09:59:09 | 家族
3月中旬頃、父の病院から呼び出しがあり、今後の治療方針についての相談が有る、と。

血圧が低下傾向に有り、脳のCTを撮った所、新たな脳出血を起こしていた、と。
それは前回より広範囲に渡っていて、脳幹まで達しており、瞳孔も開いたまま……つまり、回復の見込みがゼロに等しいと。

脳だけでなく、腸、足、歯茎と、至るところから出血していたので、何とか輸血で命を保ってもらっている状態だったのですが、輸血の血液も献血でまかなっている貴重な資源なので、(もう回復の見込みのない)父に使い続ける訳にも……と医師に告げられました。
家族でよく話し合われて、延命治療をいつ止めるか、という決断をして欲しい、と。

そこまで聞かされても、私達には実感が持てず、ただ途方に暮れていました。

これまでも、ほぼ植物状態に近かったので、なんとなく覚悟はしていましたが、それでも心のどこかで、もう1度喋れるんじゃないか、とか、もう1度何か口から物を食べれるんじゃないか、と、復帰を願っていたのに。

お父さんが、人間としての機能を全て失ってしまった。

そして、これまでは生かそう、生かそうとしてくれる(ように見えた)病院側が、早速死に向けての準備の話をしてきたこと。

病室を出てから、母、姉と3人で泣き崩れました。

翌日、父のいとこのおじさん、おばさんに来てもらったのですが、
昨日とは違う担当医が来て、
「昨日お話聞かれたと思いますが、(延命治療を止めるかどうかの)ご家族の意見、まとまりましたか」
といきなり聞いてきて、愕然としていると、
動揺した母が

「貴重な血液ですし、止めてもらって……」

と、ちゃんとした相談も心の準備も出来てないのに、とんでもない発言をしだして。

慌てて訂正し、兄が出張から戻る土曜までは治療を緩めないでもらうことにしました。

輸血したら何とか血圧が保てて、元々心臓は強い方らしく、人工呼吸、人工透析、輸血を続けることによって、いわゆる植物状態のまま生き続けることはしばらく可能だと。

しばらくと言っても、輸血を止めれば1週間ももたないだろう、とのことでした。

術後はおしっこを出せなかったので、
身体はどんどんどんどんむくみ、
手術前には53キロまで痩せていたのが、現在は94キロ……40キロ近くむくみで重くなっていて。
このままむくみ続ける身体で、意識も無く、脳死状態のまま生き続けることを、本人も望んでいないだろうし、本人の為にもこのまま延命治療を続けるべきではないと……私達は悲しい決断をするしかありませんでした。

けど、父がなるべく苦しまないように、痛がりの怖がりの父が、出来るだけ安らかに逝けるように、お願いしておきました。

輸血を止めてからは、血圧がどんどん下がり、口からは出血が止まらず、あてがわれたガーゼが、取り換えてもすぐ赤く染まって、見た目にも痛々しくて。

いよいよ危険な状態になってからは、
病院の控え室に泊まり込み……その日は何とか耐えてくれて、
翌日近くのホテルから朝イチで病院に着くと、看護士が慌てた様子で、
「今お呼びしようとしてた所です!」と、バタバタしていて。

心電図のモニターを見ると、血圧が20台になっていました。
脈拍も50を切っていました。

私達は必死で呼び掛けをし、
元気な時には言えなかった
「今までありがとう」と、
「ママのこと守るから、安心してな!」
と言った途端、脈拍がゼロになり……

この時の気持ちは、耐えがたいものがありました。

23日、午前8時20分、父は帰らぬ人となりました。

破天荒な性格で、敵が多く、私も何十回、いや、何百回、死んでしまえと思った事か。

でも、その瞬間は、もっともっと生きて欲しかった、と。
1日でも、1分でも、1秒でも長く。
強く思いました。

人間の命の尊さ、儚さ、親が死ぬということの重み、そして自分の愚かさを一気に知ることとなりました。

でも、最期に立ち会えたことがせめてもの救いでした。
お姉ちゃんと、夜に爪切ったら親の死に目に逢えないの迷信信じて、切りたいのに我慢してて。
迷信も一理あるな、と。

私達が病室に入ってから10分も経たない内に、だったので、父が待っててくれたようで。嬉しかったです。

これまで心配して下さった方々、
本当にありがとうございました。
ご心配をお掛けしました。

重苦しくて申し訳ないですが、
葬儀への流れとかはまた後ほど……
読んで頂けると嬉しいです(*^^*)