3月中旬頃、父の病院から呼び出しがあり、今後の治療方針についての相談が有る、と。
血圧が低下傾向に有り、脳のCTを撮った所、新たな脳出血を起こしていた、と。
それは前回より広範囲に渡っていて、脳幹まで達しており、瞳孔も開いたまま……つまり、回復の見込みがゼロに等しいと。
脳だけでなく、腸、足、歯茎と、至るところから出血していたので、何とか輸血で命を保ってもらっている状態だったのですが、輸血の血液も献血でまかなっている貴重な資源なので、(もう回復の見込みのない)父に使い続ける訳にも……と医師に告げられました。
家族でよく話し合われて、延命治療をいつ止めるか、という決断をして欲しい、と。
そこまで聞かされても、私達には実感が持てず、ただ途方に暮れていました。
これまでも、ほぼ植物状態に近かったので、なんとなく覚悟はしていましたが、それでも心のどこかで、もう1度喋れるんじゃないか、とか、もう1度何か口から物を食べれるんじゃないか、と、復帰を願っていたのに。
お父さんが、人間としての機能を全て失ってしまった。
そして、これまでは生かそう、生かそうとしてくれる(ように見えた)病院側が、早速死に向けての準備の話をしてきたこと。
病室を出てから、母、姉と3人で泣き崩れました。
翌日、父のいとこのおじさん、おばさんに来てもらったのですが、
昨日とは違う担当医が来て、
「昨日お話聞かれたと思いますが、(延命治療を止めるかどうかの)ご家族の意見、まとまりましたか」
といきなり聞いてきて、愕然としていると、
動揺した母が
「貴重な血液ですし、止めてもらって……」
と、ちゃんとした相談も心の準備も出来てないのに、とんでもない発言をしだして。
慌てて訂正し、兄が出張から戻る土曜までは治療を緩めないでもらうことにしました。
輸血したら何とか血圧が保てて、元々心臓は強い方らしく、人工呼吸、人工透析、輸血を続けることによって、いわゆる植物状態のまま生き続けることはしばらく可能だと。
しばらくと言っても、輸血を止めれば1週間ももたないだろう、とのことでした。
術後はおしっこを出せなかったので、
身体はどんどんどんどんむくみ、
手術前には53キロまで痩せていたのが、現在は94キロ……40キロ近くむくみで重くなっていて。
このままむくみ続ける身体で、意識も無く、脳死状態のまま生き続けることを、本人も望んでいないだろうし、本人の為にもこのまま延命治療を続けるべきではないと……私達は悲しい決断をするしかありませんでした。
けど、父がなるべく苦しまないように、痛がりの怖がりの父が、出来るだけ安らかに逝けるように、お願いしておきました。
輸血を止めてからは、血圧がどんどん下がり、口からは出血が止まらず、あてがわれたガーゼが、取り換えてもすぐ赤く染まって、見た目にも痛々しくて。
いよいよ危険な状態になってからは、
病院の控え室に泊まり込み……その日は何とか耐えてくれて、
翌日近くのホテルから朝イチで病院に着くと、看護士が慌てた様子で、
「今お呼びしようとしてた所です!」と、バタバタしていて。
心電図のモニターを見ると、血圧が20台になっていました。
脈拍も50を切っていました。
私達は必死で呼び掛けをし、
元気な時には言えなかった
「今までありがとう」と、
「ママのこと守るから、安心してな!」
と言った途端、脈拍がゼロになり……
この時の気持ちは、耐えがたいものがありました。
23日、午前8時20分、父は帰らぬ人となりました。
破天荒な性格で、敵が多く、私も何十回、いや、何百回、死んでしまえと思った事か。
でも、その瞬間は、もっともっと生きて欲しかった、と。
1日でも、1分でも、1秒でも長く。
強く思いました。
人間の命の尊さ、儚さ、親が死ぬということの重み、そして自分の愚かさを一気に知ることとなりました。
でも、最期に立ち会えたことがせめてもの救いでした。
お姉ちゃんと、夜に爪切ったら親の死に目に逢えないの迷信信じて、切りたいのに我慢してて。
迷信も一理あるな、と。
私達が病室に入ってから10分も経たない内に、だったので、父が待っててくれたようで。嬉しかったです。
これまで心配して下さった方々、
本当にありがとうございました。
ご心配をお掛けしました。
重苦しくて申し訳ないですが、
葬儀への流れとかはまた後ほど……
読んで頂けると嬉しいです(*^^*)
血圧が低下傾向に有り、脳のCTを撮った所、新たな脳出血を起こしていた、と。
それは前回より広範囲に渡っていて、脳幹まで達しており、瞳孔も開いたまま……つまり、回復の見込みがゼロに等しいと。
脳だけでなく、腸、足、歯茎と、至るところから出血していたので、何とか輸血で命を保ってもらっている状態だったのですが、輸血の血液も献血でまかなっている貴重な資源なので、(もう回復の見込みのない)父に使い続ける訳にも……と医師に告げられました。
家族でよく話し合われて、延命治療をいつ止めるか、という決断をして欲しい、と。
そこまで聞かされても、私達には実感が持てず、ただ途方に暮れていました。
これまでも、ほぼ植物状態に近かったので、なんとなく覚悟はしていましたが、それでも心のどこかで、もう1度喋れるんじゃないか、とか、もう1度何か口から物を食べれるんじゃないか、と、復帰を願っていたのに。
お父さんが、人間としての機能を全て失ってしまった。
そして、これまでは生かそう、生かそうとしてくれる(ように見えた)病院側が、早速死に向けての準備の話をしてきたこと。
病室を出てから、母、姉と3人で泣き崩れました。
翌日、父のいとこのおじさん、おばさんに来てもらったのですが、
昨日とは違う担当医が来て、
「昨日お話聞かれたと思いますが、(延命治療を止めるかどうかの)ご家族の意見、まとまりましたか」
といきなり聞いてきて、愕然としていると、
動揺した母が
「貴重な血液ですし、止めてもらって……」
と、ちゃんとした相談も心の準備も出来てないのに、とんでもない発言をしだして。
慌てて訂正し、兄が出張から戻る土曜までは治療を緩めないでもらうことにしました。
輸血したら何とか血圧が保てて、元々心臓は強い方らしく、人工呼吸、人工透析、輸血を続けることによって、いわゆる植物状態のまま生き続けることはしばらく可能だと。
しばらくと言っても、輸血を止めれば1週間ももたないだろう、とのことでした。
術後はおしっこを出せなかったので、
身体はどんどんどんどんむくみ、
手術前には53キロまで痩せていたのが、現在は94キロ……40キロ近くむくみで重くなっていて。
このままむくみ続ける身体で、意識も無く、脳死状態のまま生き続けることを、本人も望んでいないだろうし、本人の為にもこのまま延命治療を続けるべきではないと……私達は悲しい決断をするしかありませんでした。
けど、父がなるべく苦しまないように、痛がりの怖がりの父が、出来るだけ安らかに逝けるように、お願いしておきました。
輸血を止めてからは、血圧がどんどん下がり、口からは出血が止まらず、あてがわれたガーゼが、取り換えてもすぐ赤く染まって、見た目にも痛々しくて。
いよいよ危険な状態になってからは、
病院の控え室に泊まり込み……その日は何とか耐えてくれて、
翌日近くのホテルから朝イチで病院に着くと、看護士が慌てた様子で、
「今お呼びしようとしてた所です!」と、バタバタしていて。
心電図のモニターを見ると、血圧が20台になっていました。
脈拍も50を切っていました。
私達は必死で呼び掛けをし、
元気な時には言えなかった
「今までありがとう」と、
「ママのこと守るから、安心してな!」
と言った途端、脈拍がゼロになり……
この時の気持ちは、耐えがたいものがありました。
23日、午前8時20分、父は帰らぬ人となりました。
破天荒な性格で、敵が多く、私も何十回、いや、何百回、死んでしまえと思った事か。
でも、その瞬間は、もっともっと生きて欲しかった、と。
1日でも、1分でも、1秒でも長く。
強く思いました。
人間の命の尊さ、儚さ、親が死ぬということの重み、そして自分の愚かさを一気に知ることとなりました。
でも、最期に立ち会えたことがせめてもの救いでした。
お姉ちゃんと、夜に爪切ったら親の死に目に逢えないの迷信信じて、切りたいのに我慢してて。
迷信も一理あるな、と。
私達が病室に入ってから10分も経たない内に、だったので、父が待っててくれたようで。嬉しかったです。
これまで心配して下さった方々、
本当にありがとうございました。
ご心配をお掛けしました。
重苦しくて申し訳ないですが、
葬儀への流れとかはまた後ほど……
読んで頂けると嬉しいです(*^^*)
今回、お父様の件でいろいろと大変だったとは思いますがお父様も天国から感謝の気持ちで見守ってくれてると思いますよ。
お父様の分も一生懸命に頑張ってください。陰ながら応援しております。
親孝行、したい時には……と頭では分かっていても、全然満足のいく親孝行出来ないままでしたが……これからは父の教えを胸に頑張ります。