西東三鬼
算術の少年しのび泣けり夏
半紙
●
小学6年のころ、受験勉強で算数ができずに
よく泣いたものです。
「しのび泣き」なんてもんじゃなくて
「むせび泣き」でした。
切ない句だなあ。
西東三鬼
算術の少年しのび泣けり夏
半紙
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小学6年のころ、受験勉強で算数ができずに
よく泣いたものです。
「しのび泣き」なんてもんじゃなくて
「むせび泣き」でした。
切ない句だなあ。
若山牧水
遠山のうすむらさきの山の裾雲より出でて麦の穂に消ゆ
半紙
日本近代文学の森へ (155) 志賀直哉『暗夜行路』 42 町の匂い 「前篇第二 二」その2
2020.6.7
彼はうで玉子を食いながら、茶店の主から、前の島が向い島、その間の小さい海が玉の浦だというような事を聴いた。玉の浦に就いては、この千光寺にある玉の岩の頂辺(てっぺん)に昔、光る珠があって、どんな遠くからでも見られ、その光りで町では夜戸外(そと)に出るにも灯りが要らなかったが、ある時、船で沖を通った外国人が、この岩を見て売ってくれといいに来た。町の人々は山の大きな岩を売った処で真逆(まさか)に持っては行かれまいと、承知をすると、外国人は上の光る処だけを刳抜(くりぬ)いて持って行ってしまった。それからは、この町でも、月のない夜は他の土地同様、提灯を持たねば戸外を歩けぬようになったという話である。
「今も、岩の上には醤油樽にニタ廻りもあるおおけえ穴があいとりますがのう。まあ今日(こんち)らで申さば、ダイヤモンドのような物じゃったろういう事です」
彼は町の人々が祖先の間抜だった伝説をそのままいい伝えている所が、何となく暢気で、面白い気がした。
千光寺の茶店で聞いたこんなエピソードも、おもしろい。まさか、実話ではないだろうが、ひょっとすると似たような話があったのかもしれない。なんか、この岩、ぼくが訪れたときにもあったような、なかったような。通りすがりだったので、記憶があいまいだ。
謙作は、これから自分の住む家を探している。
彼は茶店の主から聴いて、先頃死んだ商家の隠居が住んでいたという空家を見に行った。枯葉朽葉の散り敷いたじめじめした細道を入って行くと、大きな岩に抱え込まれたような場所に薄暗く建てられた小さな茶室様の一棟があった。が、それが如何にも荒れはてていて、修繕も容易でないが、それより陰気臭くてとても住む気になれなかった。
彼はまた茶店まで引きかえして、石段を寺の方へ登って行った。大きな自然石、その間に巌丈な松の大木、そして所々に碑文、和歌、俳句などを彫りつけた石が建っている。彼は久しい以前行った事のある山形の先の山寺とか、鋸山の日本寺を憶い起した。開山が長崎の方から来た支那の坊主というだけに岩や木のただずまいから、山門、鐘楼、総(すべ)てが、山寺、日本寺などよりも更に支那臭い感じを与えた。玉の岩というのはその鐘楼の手前にあった。小さい二階家ほどの孤立した―つの石で、それが丁度宝珠の玉の形をしていた。
そういえば、ぼくが訪れたときも、こんな感じだった。しかし、時代が違うので、「碑文、和歌、俳句などを彫りつけた石」がどれほど建っていたかは分からない。寺の雰囲気が「志那臭い」というのも、記憶にない。
鐘楼の所からはほとんど完全に市全体が眺められた。山と海とに挟まれた市はその細い幅とは不釣合に東西に延びていた。家並もぎっしりつまって、直ぐ下にはずんぐりとした烟突が沢山立っている。酢を作る家だ。彼は人家の少しずつ薄らいだ町はずれの海辺を眺めながら、あの辺にいい家でもあればいいがと思った。
この景色は、ほとんど変わっていないのだろう。ただ、烟突はどうだっただろうか。尾道に「酢を作る家」が多いということは知らなかったし、ぼくが行ったころには、そういう家も少なくなっていたのだろうか。そんなことを思いつつ、ちょっと調べてみると、尾道の酢というのは、歴史があるのだということが分かった。(こちら「尾道造酢」参照)
暫くして彼は再び、長い長い石段を根気よくこつこつと町まで降りて行った。その朝、宿の者に買わした下駄は下まで降りると、すっかり鼻緒がゆるんでしまった。
不潔なじめじめした路次から往来へ出る。道幅は狭かったが、店々には割りに大きな家が多く、一体に充実して、道行く人々も生々と活動的で、玉の岩の玉を抜かれた間抜な祖先を持つ人々には見えなかった。
彼はまた町特有な何か臭いがあると思った。酢の臭いだ。最初それと気附かなかったが、「酢」と看板を出した前へ来ると一層これが烈しく鼻をつくので気附いた。路次の不潔な事も特色の―つだった。瓢筑を下げた家の多い事も彼には物珍らしかった。骨董屋、古道具屋、またそれを専門に売る家はもとより、八百屋でも荒物屋でも、駄菓子でも、それから時計屋、唐物屋、印判屋のシヨー・ウィンドウでも、彼は到る所で瓢箪を見かけた。彼は帰って女中から宿の主も丹波行李にいくつかの瓢箪の持主だという事を聴いた。
町の匂いというものは確かにあって、それだけは現地に行かないと分からない。海外旅行というものを一度もしたことのないぼくは、まあ、BSなんかの「世界街歩き」なんかで、けっこう行った気になっているけれど、実は、「匂いを知らない」という点で、何にも知らないのと同じことである。
しかし、時として、映画ではその「匂い」を強烈に感じることがある。ぼくの愛する映画「ベニスに死す」では、まさにこのベニスという町の路次の匂いが全編に溢れていた。それはコレラが蔓延する中での白い消毒液の匂いだったわけで、けっして本当の町の匂いではないけれど。
「路次が不潔だ」ということが強調されているが、その「不潔さ」(から来る匂い)は、やはり生活の匂いに他ならないだろう。
どこへ行っても瓢箪が多いということも指摘しているが、この瓢箪というのは、作るときに水に浸けて中身を腐らせるわけで、その匂いも強烈だという話を聞いたことがある。酢の匂いに、この瓢箪の匂いも混ざっていたのかもしれない。
しかしそれにしても、どうして尾道という町にはこれほどの瓢箪愛好者が多いのだろうか。不思議である。志賀直哉には「清兵衛と瓢箪」という短篇があるが、尾道にかぎらず、日本には瓢箪愛好者が多いのかもしれない。
この後、謙作は4日ほど四国などを旅して住むところを探すが、結局、尾道に戻る。そして、「千光寺の中腹の二度目に見た家」を借りることにした。ぼくが訪れたことのある住居である。
日本近代文学の森へ (154) 志賀直哉『暗夜行路』 41 美しい車窓風景 「前篇第二 二」その1
2020.6.4
謙作を乗せた船は、翌日の朝8時ごろには、紀州の海岸に沿って進み、神戸には午後の3時に着いた。港から俥で三の宮に行き、そこから汽車に乗ったのだった。
塩屋、舞子の海岸は美しかった。夕映を映した夕なぎの海に、岸近く小舟で軽く揺られながら、胡坐(あぐら)をかいて、網をつくろっている船頭がある。白い砂浜の松の根から長く綱を延ばして、もう夜泊(よどまり)の支度をしている漁船がある。謙作は楽しい気持で、これらを眺めていた。そして汽車が進むに従って夜(よ)が近づいた。彼はまた睡むくなった。眼まぐるしい、寝不足続きの生活の後ではいくら眠っても眠足りなかった。彼は食堂へ行って、簡単な食事を済ますと、和服に着かえて空いている座席に長くなった。そして十一時頃ボーイに起され、尾の道で下車した。
美しい描写だ。まるで、彩色写真を見るような古びた風景。こんな車窓風景があったなんて、信じられないくらい。今ではもうそんな風景はどこにもないだろう。それでも、一度この路線を各駅停車で走ってみたいものだ。
JRの路線を乗り潰した鉄ちゃんの長男によれば、車窓風景がもっとも美しかったのは、山口県の岩国駅から由宇駅に向かうあたりの海の景色だったのだそうで、自分の息子にも第二の故郷を、ということで、その名前を由宇とした。鉄ちゃんの極みだが、そのことを聞いて、ぼくら夫婦も家内の両親も、由宇を訪ねたものだった。瀬戸内海は、そんなわけで、ぼくにとってはとても親しみの深いところである。
それに、家内の故郷の高知へ行くには、かつては、宇高連絡船を使ったもので、これもまた瀬戸内海への特別な思いをかきたてる。
そして尾道。旅行をあまりしてこなかったぼくだが、ここへは一度だけ行ったことがある。学校の研修で、広島学院に行ったおりに、立ち寄ったのだった。この時、志賀直哉が住んだ住居も訪れたのだが、その縁側から眺める瀬戸内海の風景と、住居の質素さは、心に深く残っている。もう一度行ってみたいと思いつつ、結局その後は行っていない。
「塩屋」「舞子」と続く地名も美しい。調べてみれば、それは、須磨の海岸から続いているのだった。
旅行案内に出ている宿屋は二軒とも停車場の前にあった。彼はその一軒へ入った。思ったより落ついた家だったが、三味線の音が聴えていたので、彼は番頭に、「なるべく奥の静かな部屋がいい」といった。
二階の静かな部屋に通された。彼は起(た)って、障子を開けて見た。まだ戸が閉めてなく、内からさす電燈の明りが前の忍返(しのびがえ)しを照らした。その彼方(むこう)がちょっとした往来で直ぐ海だった。海といっても、前に大きな島があって、河のように思われた。何十隻という船や荷船が所々にもやっている。そしてその赤黄色い灯の美しく水に映るのが、如何にも賑やかで、何となく東京の真夜中の町を想わせた。
尾道の宿屋の風情、窓の外の光景などが、簡潔に、そして印象深く描かれている。まったくこうした箇所を読むと、志賀直哉というのは、ほんとうにすごい文章家だなあと思い知る。
謙作は、女中に按摩を頼み、やってきた按摩から土地の情報を得る。なるほど、按摩は、そうした一種の観光案内的な役割も果たしていたのだ。
彼は按摩から、西国寺、千光寺、浄土寺、それから、講談本にある拳骨物外(げんこつもつがい)の寺、近い処では柄(とも)の津の仙酔島(せんすいとう)、阿武兎(あぶと)の観音、四国では道後の湯、讃岐の金刀比羅、高松、屋島、浄瑠璃にある志度寺(しどじ)などの話を聴いた。彼は東京からの夜着その他の荷の着くまで一週間ほど、何処か旅してもいいと考えた。
そのうち、海の方から「美しい啼声だか音だか」が聞こえてくる。
海の方で、ピヨロッピヨロッと美しい啼声だか音だかがしている。丁度芝居で使う千鳥の暗声だ。もう人々の寝静まった夜更、黙ってこれを聴いていると何となく、淋しいような快い旅情が起って来た。
「あれは何だい?」
「あの音かえな。ありゃあ、船の万力(せみ)ですが」
翌日十時頃、彼は千光寺という山の上の寺へ行くつもりで宿を出た。その寺は市の中心にあって、一卜眼に全市が見渡せるというので、其処から大体の住むべき位置を決めようと彼は思った。
この音は、鳥の声のようでもあり、何かの音のようでもある。それを「丁度芝居で使う千鳥の啼声だ」とする。歌舞伎をみていると、よくこの「千鳥の啼声」が聞こえてくる。竹製の笛による擬音だ。この笛の音に似ているとすることで、その音が鳥の声のようでもあり何か人工物の立てる音のようでもあることが見事に表現される。その上で、按摩の説明によって「船の万力(せみ)」だということが明らかになる。この「船の万力」というのは、「帆をあげおろしする時に使う小さな滑車」(岩波文庫注)のこと。つまりは人工的な音だったわけだ。
按摩の説明を聞いての謙作の感想は書かれずに、次へと進む文章の呼吸もいい。余韻がある。
翌日、謙作は、千光寺へ行って、そこから尾道の町を見下ろして、どこか住むのにいいところを探そうとする。このあたりの描写は楽しい。尾道を謙作と一緒に散策しているような気分になれる。
漸く千光寺へ登る石段へ出た。それは幅は狭いが、随分長い石段だった。段の中頃に二、三軒の硝子戸を閉め切った茶屋があって、どの家にも軒に千光寺の名所絵葉書を入れた額が下っていた。段を登り切って、左へ折れ、また右へ少し、幅広い石段を登ると、大きな松の枝に被われた掛茶屋があった。彼はその床几に腰を下ろした。
前の島を越して遠く薄雪を頂いた四国の山々が見られた。それから瀬戸海のまだ名を知らぬ大小の島々、そういう広い景色が、彼には如何にも物珍らしく愉快だった。烟突に白く大阪商船の印をつけた汽船が、前の島の静かな岸を背景にして、時々湯気を吐きちょっと間を措(お)いて、ぼーっといやに底力のある汽笛を響かしながら、静かに入って来た。上げ汐の流れに乗った小船が案(おもい)の外の速さでその横を擦れ違いに漕いで行く。そして、幅広い不恰好な渡し船が流れを斜に悠々と漕ぎ上っているのが見られた。しかし彼はこういう見馴ない景色を眺めていると、やがてこれにも見厭き、それがいい景色だけにかえって苦になりそうだというような気がした。
最後の一文「しかし彼はこういう見馴ない景色を眺めていると、やがてこれにも見厭き、それがいい景色だけにかえって苦になりそうだというような気がした。」が気になる。
見慣れない景色というのは最初は新鮮だが、やがて見飽きる。その景色が何の変哲もない景色ならそれでもいいが、「いい景色」だと「かえって苦になりそうだ」というのだ。どういうことが「苦になる」のだろうか。毎日見れば飽きるに決まっているが、それが「いい景色」だと、「飽きる」ということになにか一種の「罪の意識」みたいなものを感じてしまうということだろうか。「罪の意識」というのも大げさだが、毎日「いい景色」を押しつけられて、「どうだいい景色だろう」と言われ続けるような、鬱陶しさを感じるということだろうか。
よく分からないが、なんとなく、分かるような気もする。
美人の奥方を持つ亭主が、なんで浮気をするのかといつも疑問に思うのだが、それはこういうことなのかもしれない、などとふと思ったりする。