会津八一
学規
一 ふかくこの生を愛すべし
一 かへりみて己を知るべし
一 学芸を以て性を養ふべし
一 日々新面目あるべし
半紙
●
新潟にある会津八一記念館のハガキを
ずいぶん前に学校の同僚からいただきました。
彼に頼まれて、これを書いたことがあります。
最近またこのハガキが出てきたので
もう一度書いてみました。
そのハガキは↓です。
会津八一
学規
一 ふかくこの生を愛すべし
一 かへりみて己を知るべし
一 学芸を以て性を養ふべし
一 日々新面目あるべし
半紙
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新潟にある会津八一記念館のハガキを
ずいぶん前に学校の同僚からいただきました。
彼に頼まれて、これを書いたことがあります。
最近またこのハガキが出てきたので
もう一度書いてみました。
そのハガキは↓です。
寒寒結水変作堅氷
流れ来しその水上に風さえていつ結びける氷なるらん
半紙
【題出典】『摩訶止観』五・上
【題意】 寒さ来たって水を結んで変じて堅氷となる(がごとし)
(迷いの故に法性が無明に変じるのは、)寒さが来て水が堅い氷に変化するようなものだ。
【歌の通釈】
流れ来たその水上に風が冴えて、いつ結んだ氷(無明)なのだろう。
【考】
無明は本来悟りであり、本質的に同一であることを、水と氷とによって比喩したのが題の文。その無明の迷いの根源はどこにあるのか、いつから始まったのか。それを川に流れる「氷」が水上でいつ結んだのかという趣向によって詠んだもの。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
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「無明は本来悟りであり、本質的に同一である」というのが「摩訶止観」の教えだということですが、その真意はぼくにははっきりとは分かりません。
しかし、「無明」「悟り(法性)」という正反対のものが、実は本質が同じなのだということは、どこか示唆的です。世俗的なことでいえば、「愛」と「憎しみ」が、あっという間にひっくり返るなんてことがあります。
水がいつの間にか氷となる。それは、本質的な変化ではなく、じつは同じ者の二つの面なのだ、ということでしょうか。
慶雲之端
半紙
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書道教室の12月歌題は「慶雲之端」
「慶雲之端」とは、「めでたい雲の瑞兆。泰平の世の前ぶれ。」の意で
お正月用の、おめでたい言葉です。
この2枚は、師匠から「とても良いです」のお言葉を頂きました。
いつも自信がないので、うれしいです。
名取里美
野葡萄のはや海のいろ空の色
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名取里美さんの最新句集「森の蛍」より
先日撮影した東慶寺の野葡萄の写真と合わせてみました。
数年前に、写真と書のコラボを
「コラ書」と称して、盛んに作っていました。
いつの間にか、途絶えてしまっていましたが
久しぶりに作ってみました。
この「コラ書」は、自分の写真と自分の書を合成したものです。
他人の写真は使わないという規則を自分で作りました。
そういうわけで、「コラ書」用に写真をずいぶんと撮ったものです。
蕪村
易水にねぶか流るる寒さかな
半紙
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易水(えきすい)というのは、中国河北省の西部にある川。
戦国時代、燕の荊軻(けいか)が太子丹のために秦の始皇帝を刺そうとして旅立つにあたり、
易水のほとりで壮行の宴が張られた。そのおりに吟じた詩に
「風蕭蕭トシテ易水寒シ 壮士ヒトタビ去ッテ復還ラズ」というのがある。
この易水の故事をふまえるとともに、芭蕉の「葱白く洗ひたてたるさむさかな」のような
感覚的把握をこれに結びつけたものである。
(「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」頭注による)
ねぶか(根深)は葱(ねぎ)のこと。