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100のエッセイ・第10期・50 「レジェンド」は驚くことばかり

2015-08-24 14:01:56 | 100のエッセイ・第10期

50 「レジェンド」は驚くことばかり

2015.8.24


 

 別役実フェスティバルも、「第1幕」を終え、そのまとめのような感じで『別役実フェスティバル交流プロジェクトNo.1 別役実を読む、聞く、語る』という会が、青年座劇場で行われたので行ってきた。8月20日午後2時からだった。

 3月から始まったこのフェスティバルには10公演があり、ぼくはそのうち7公演を見たわけだが、この「交流プロジェクト」で、「男と女のリーディング」で二人芝居の『受付』が上演されるというのが楽しみだった。この『受付』という芝居は、栄光の演劇部で部員が少なくなるとやってきたもので、2回上演している。プロがそれをやるとどうなるのだろう。あくまで「リーディング」だけど、それでも、どんなセリフまわしで、どんな声で、どんな間で、とワクワクしていた。

 自由席ということなので、早めに着いたぼくは、一番前の上手寄りの端の席に座った。一番前というのは、舞台に近すぎるからたいていの人は敬遠するが、足を伸ばせるし、万一途中でトイレに行きたくなった場合も迷惑をかけないので、結構好きな席なのである。

 開演近くになると、満席状態となり、ぼくの左側にも帽子をかぶった男性が座った。座るとすぐに、ハラリと床にチケットが落ちた。その男性のものだ。ぼくは拾って、落ちましたよ、と言って男性に渡した。男性は、それを受け取りながら、「どうも」とも言わずに、ぼくの顔を見ている。どうしたんだろうと思っていると、「あの、ヤマモトさんですよね。」と言うではないか。びっくりして、その男性の顔を見ると、キンダースペースで『赤い鳥の居る風景』に客演した俳優の白州本樹さんだった。

 白州さんは、以前からキンダーには客演していて、顔も名前もよく知っていたのだが、親しく話したのは、この前の『赤い鳥の居る風景』の打ち上げの時だった。だから、彼も、ぼくの顔と名前を覚えていたのだ。光栄なことである。ぼくの方は、「ヤマモトさんですよね。」と言われて、あ、っと思ったけれど、「白州さん」という名前が即座には出てこなかったのだから。話しているうちに「そうだ、白州さんだ。間違いない。」って思ったけれど、「ヤマモトさんですよね。」と言われて「あ、シラスさんですね。」と返せなかったのが情けない。

 で、開演前の数分に、彼と話したのだが、今日これからやる『受付』を楽しみにしているんですよ、何しろこれ、ぼくは2回も演出してきているんですからなんて自慢したのだが、何か白州さんの反応がおかしい。どうしたんだろうと思って、手元のパンフレットをよく見ると、『受付』ではなくて『部屋』となっている。びっくりして、あれ? 演目が変わったのかなあ、なんて言いながら、なんどもパンフレットを見るのだが、『受付』なんてどこにも書かれていない。そのうち、リーディングが始まった。やっぱり『部屋』であった。

 後で家に帰って、前から家にあるパンフレットをためつすがめつして見てみたが、やっぱり『受付』なんてどこにも書いてなかった。つまり、前売りを申し込んだ5月以来、ぼくは『部屋』と書いてあるのに、それをずっと『受付』と読んでいたことになる。漢字二文字だから勘違いしたのだろう、では、言い訳にもならない。まったくどうしてそんな勘違いをするのか自分でも訳が分からない。

 『部屋』もおもしろかったが、その後に行われた『円熟俳優(レジェンド)たちによるリーディング 「淋しいおさかな」』が、もうほんとうによかった。「レジェンド」が5名。全員80歳以上だということだった。戦後の新劇を背負ってきた錚々たる面々だ。金内喜久夫、久松夕子、鈴木瑞穂、川口敦子、三谷昇。この5名が、別役実の童話を朗読する。一つの話を一人でというのではなく、全員で役柄を決めて朗読するのである。

 声の力をいやというほど感じた。打ちのめされたといってもいい。特に三谷昇の独特の声とセリフ回しは驚異的で、何度も笑ってしまった。声だけで、これだけの表現ができるものなのかと感嘆また感嘆。何十時間でもそこに座って、彼らの朗読を聞いていたかった。このまま終わらなければいいのにと思った。まさに一度きりの至福の時間だった。

 最後に、パネルディスカッションがあった。『部屋』を演じた新澤泉、岩崎正寛、演出家の山下悟、そして鈴木瑞穂。司会はPカンパニーの林次樹。(この人がここ10年程お付き合いのある人の弟さんであることをつい最近知った。これも不思議な縁である。)林さんが、鈴木瑞穂に聞いた。「鈴木さんは、別役の作品は今回初めてだということですが、どうですか、今後別役作品をやってみたいと思われますか?」

 87歳の鈴木瑞穂の言葉に驚愕した。「私は、別役さんの作品に出たことはありませんが、すべての戯曲は読んでおりますし、舞台もほとんど拝見しております。そうですね、やってみたいと思いました。」と言ったのだ。「やってみたい」というのにも驚いたのだが、それ以上に139編もある別役戯曲を「すべて読んだ」ということに驚いた。ぼくなどは、三一書房から出ている別役実の戯曲集を「すべて持っている」ことを自慢の種にしているが、レベルが違う。その道一筋の人ってすごいなあと思った。そして、心からの敬意を抱いた。そして、この「レジェンド」の方々のように歳をとりたいものだとしみじみ思ったのだった。

 さて、お話変わって、それから2日後の22日。今度は、表参道の「ギャラリーコンセプト21」で開催されているCACA現代アート書作家協会の「印展」を見にでかけた。CACAというグループは、書の革新を目指す岡本光平先生が率いる団体で、この7月には赤レンガ倉庫での展覧会に行ったばかりである。今回は、「印」に絞った展覧会であり即売会でもあるので、いくつかの印を買おうとおもって出かけたわけである。

 表参道の駅から歩いて5分ほど行くと、お洒落なギャラリーがあった。さっそくガラスの扉を開けると、ぼくの方を向いて、目を丸くしてびっくりしているきれいな女性がいる。明らかによく知っている顔である。彼女は、「わあ、驚いた。どうして、ここに?」と言う。そう言われても、誰なのか思い出せない。「このギャラリーで、ぼくを知っているきれいな女性」というジャンル(?)で、思い当たる人をぼくの壊れかけた頭で高速スキャンした。3秒後ぐらいに出てきた答えが、「あ、あの赤レンガ倉庫でお会いした、撫子(ナデシコ)さんですよね。」だった。つまり、7月に赤レンガ倉庫で行われたCACAの展覧会に行った折、出品者の一人である撫子さんというきれいな女性の書家からその出品作について詳しくお話を聞いたのだ。こんどまた表参道でも展覧会がありますからと言われて、うかがいます、と答えたような気がするのだ。だから、とっさにした高速スキャンは、そういう「結論」を導き出したというわけだ。

 ところが、そのぼくの言葉を聞いた彼女は、もう、飛び上がらんばかりに驚いて、「何言っているんですか、先生! ○○ですよ。同窓会でも会っているじゃないですか!」と叫んだ。

 その瞬間、一切をぼくは理解した。彼女は、青山高校時代の教え子で、しかも、彼女の高1、高2と2年間も担任したのはほかでもないこのぼくだ。しかも、彼女は、律儀にも毎年今でも年賀状を、それもしばしば家族の写真入りの年賀状をくれているのだ。何が「高速スキャン」だ。まったく「ばっかじゃなかろか」と、彼女は一瞬思ったに違いない。そして「この人、とうとうボケたのか?」って。

 しかし、偶然にもほどがある。こんな小さなギャラリー、しかも「印」の展覧会という極めて特殊な世界。そこで、どうしてバッタリなの? って彼女も驚いただろうし、ぼくも「理解」したあと、ジワジワ驚いた。よく聞いてみると、この展覧会に出品している人と知り合いで、その関係で来たとのこと。彼女がどこか「憤然」とした感じで(ぼくにはどうしてもそう思えた。当然だろう。スマネエ。)会場を去った後、その知り合いの男性と話をしていたら、なんと、その人は、ぼくのよく知っている人の親戚だった、なんてオチまでつく始末で、人の世の、不思議さを実感したのであった。

 というより、このたった3日間に、「とんでもない勘違いをする」「誰だかすぐに忘れてしまう」というぼくという人間の、「不思議さ・バカさ」に、改めて愕然としたのであった。そういう意味では、ぼくも立派な「レジェンド(崩壊寸前円熟人間)」である。

 




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100のエッセイ・第10期・49 後悔してやる!

2015-08-18 16:14:10 | 100のエッセイ・第10期

49 後悔してやる!

2015.8.18


 

 ネットでたまたま見かけた文章っていうのは、ちょっと心に残っても、少し時間がたつと、どこにあったのかもう分からない。だから、気になったらメモでもしておこうといつも思うけど、結局、次から次へと流れ去る言葉のなかに見失ってしまう。

 ある若手の外科医が、鍼灸はほんとうに効くのかと疑問におもって自分で三ヶ月ぐらい鍼灸院に通って「治療」を試みたら、肩凝りや腰痛には効いたけど、風邪には効かなかったというような報告を書いていた。外科医というのはたいてい腰痛持ちだと言っていたのも、そうだろうなあと、かつてお世話になった外科医の勤務ぶりを思い出して、納得したのだが、さらに、その人の自己紹介のようなところに、「ぼくのモットーは、いつ死んでも絶対に後悔するように生きるということです。」というようなことが書かれていて、ひどく心を動かされた。

 「いつ死んでも後悔しないように生きる。」というモットーなら、そこらじゅうに転がっているし、目新しいことではない。けれども、その逆は珍しい。珍しいものは、心をひきつける。

 「いつ死んでも後悔するような生き方」というのは、「死ぬまで何かを目指して頑張っている生き方」ということになるだろう。死ぬ時に「あ、しまった! これはもっと早くからやってるんだった!」と後悔する。「わあ、参った。これで終わりなのか。それなら、せめてあそこには行っておくんだった。」と悔やむ。

 残された家族も、「お父さんも、せめて、あと1年あれば、あれも完成したのにねえ、悔いが残るだろうねえ。」と気の毒がる。部下は「部長も、社長まであとひと息だったのになあ。」と悔しがる。

 そういうすべてが嫌だから、なんかカッコ悪いから、人は「一日一日を一所懸命に生きて、いつ死んでも後悔しないようにしておく。」ことを願うわけである。しかし、考えてみれば、「いつ死んでも後悔しない。」ということは、死ぬ前に、「やりたいことが全部終わっている。」ということだ。死ぬときに「全部やりきったぜ。」と思えることだ。しかし、そんなことは実際にはないだろう。あるとすれば、死を意識した時点で、「これでいいや。」と諦めて、何かすることをやめた場合である。それはなかなかできることではないし、できたとしても、それほど立派なこととも思えない。

 「いつ死んでも後悔しないように生きる」ことを目指すのは、「後悔する」ことが「よくない」「みっともない」というように負のイメージを持っているからだろう。けれども「後悔すること」は、そんなによくないことなのだろうか。

 「我事において後悔せず」というのは宮本武蔵の有名な言葉だが、それは「後悔しないように生きる」ということとはかなり違った思想のように思える。武蔵の場合は、そもそも「後悔する」という意識のジャンルがなかったのではなかろうか。武蔵の思想をきちんと辿ったことはないが、そう思えてならない。武蔵は、「やることはやる、それだけだ。後でグダグダ考えないよ。」というだけのことではないのか。

 それに対して「後悔しないように生きる」というのは、「後悔すること」を恐れているのだ。あるいは、人から「あの人後悔してるよ」って思われたくないのだ。一種の見栄である。

 後悔したっていいのだ。そればかりか、人生を眺めてみれば、後悔することなんてそれこそ山ほどある。後悔の積み重ねが人生であると、気取って言い切ってもいい。井伏鱒二はある漢詩を訳して「さよならだけが人生だ」と書いたが、「後悔だけが人生だ」と言ったっていいくらいなもんだ。

 つまり、人間、何かをしようとしたら、けっして満足のいく結果だけで終わることはない。何もしない一日でも、「ああ、今日は満足じゃ。」などとどこぞの殿様のようなセリフをはいて、床につけるものではない。「あ~あ、やんなっちゃった、あ~あ~おどろいた。」って牧伸二じゃないけど、それがだいたいの日々のぼくらの感慨である。

 それならば、件の外科医の先生のように、思い切って居直って「オレはいつ死んでも後悔してやる!」って言い切ってしまったほうが、よほどすっきりするし、しかも、実情にあっている。

 私事でいえば、書道を初めてまだ8年。いつもぼくの心の片隅に「あ~あ、なんで、もっとはやくからやらなかったんだろう。」という「後悔の念」が住み着いている。これはどうしようもないことだが、その「後悔」をしないようにすることはもうできない。それより、「後悔してなにが悪い」と居直って、進んでいけばいいだけのことなのだ。どっちみち死が「終わり」を持ってくる。その時、思い切って「後悔」してやろう。なんだバカヤロウ! もうちょっと時期を考えろ! って荒井注みたいに言ってやろう。




【付録】


ぼくが昔書いた詩です。「悔恨」とは「後悔」と同じです。ちょっと気取った言い方にすぎません。



  悔恨

ぼくの人生の地層は
幾多の悔恨の
複雑な縞模様でできている
悔恨だけが
ぼくの生きてきた証だとでもいうように

新しい悔恨が
新しい地層をつくる時
古い悔恨の地層は
消えるのではない
むしろ新しい痛みをもって蘇る

そうしてあくことなく
日々に悔恨を重ね
その不思議な痛みによってぼくは
辛うじて今日のぼくの生を支えている

 

 30年以上前の詩ですが、結局、言いたいことは、今と同じみたいです。現実の中で誠実に生きる以上、「悔恨=後悔」を避けることはできません。それは「痛み」を伴うものですがその「痛み」こそ、誠実に生きた「証」だということでしょう。

 ぼくが果たして「誠実に生きている」かどうかはなはだ疑問ですが、「後悔=痛み」を感じていることで誠実に生きているらしいと、辛うじて信じることができる、というわけです。



 

 

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・48 「ご年配の方々」

2015-08-10 12:05:27 | 100のエッセイ・第10期

48 「ご年配の方々」

2015.8.10


 

 大学時代のクラス会を今年はやるけど、8月8日土曜日でどう? って友人のKに聞かれて、いちおう幹事役の一人であるぼくは、ああ、大丈夫だよと気軽に答えたのが、4月ごろの話で、そのまま開催は8月8日と決まった。ずいぶんと先の話だと思っていたのに、あっという間に時は過ぎ、7月に入った頃だったろうか、カレンダーに予定を書き込んでいるときに、ふとその8月8日は、所属している現日会の懇親会が上野精養軒である日であることに気づいた。けれども、懇親会のほうはもう会費を振り込んでしまっているし、クラス会の方も今更日程変更などできるわけがない。これは参ったと思ってそれぞれの予定をよく見ると、クラス会の方は、8月8日(土)午後3時~5時、上野パークサイドホテル、懇親会はの方は、8月8日(土)午後6時~8時、上野精養軒となっている。上野パークサイドホテルと上野精養軒なら歩いて10分もかからない。何だ、両方出席できるじゃないかとホッとした。これが時間まで一緒だとシャレにならない。

 こういうことがずっと前にもあった。もう30年以上も前のことだが、妹が結婚式の日取りについてぼくの都合を聞いてきたことがあった。これもずいぶん先の話だったので、ああ大丈夫だよと安直に返事をしてしまったのだ。ところが結婚式を1、2ヶ月後に控えたころに「驚愕の事実」が発覚した。なんとその結婚式当日は、当時勤務していた青山高校の修学旅行の引率で京都にいる日だったのだ。これは今回のクラス会と懇親会の比ではない。どちらもキャンセルできない重大行事である。たった一人の妹の結婚式に兄が出ないなんて、それこそ死ぬまで恨まれるに違いない。かといって担任をしているクラスの修学旅行に妹の結婚式があるから行かないなんてことは許されるものではない。これはほんとうに窮地に追い込まれた。結局、最優先は結婚式だろうということになり、校長や同行の担任の先生方にお願いして、結婚式の当日は、京都から東京へ行き、式後はトンボ帰りで京都に戻るということで、いちおう事なきを得たのだった。

 しかし、結婚式の日取りについて聞かれたときに、なぜ学校行事の予定表を見なかったのか。修学旅行の日程はそれこそ大書してそこに書かれていたわけで、まったく、なんというか、そういう間抜けさは、もう生まれつきというしかないのである。

 で、この前の土曜日となった。クラス会の前に、もう一度都美術館へ行ってゆっくり見てこようというつもりだったが、あまりに暑いので、そちらは断念して、直接クラス会場の上野パークサイドホテルに向かった。不忍池には大賀蓮がきれいに咲いている。初めて見た。いつから不忍池に大賀蓮が植えられたのだろう。

 クラス会は盛況だった。ぼくらは東京教育大学文学部文学科国語学国文学専攻、昭和43年度入学というクラスで、当初は36人いたのだが、途中で2人退学し、最終的に卒業したのは34人。(ということも今回初めて知った。)すでに2人が亡くなっているので、今は32人が在籍(?)である。そのうち30人の住所が判明している。これは幹事のKが執念で調べ上げたものだった。今回はそのうち21人の出席だっ(二次会で更に1人来たから、合計22人)すごい出席率である。

 希代の大学紛争のただ中を過ごしたぼくらのクラスが、どんな状況で大学時代を送ったのかは、ここで詳しく書いている余裕はないが、とにかく時代に翻弄される日々で、卒業以来二度と会うこともないだろうと思っていた。けれども、卒業して20年ほど経ったころだろうか、Kがとにかく生きているうちに会いたいと言いだし、最初のクラス会が実現した。その時はほんとうに夢かと思った。それから数えて今回は3回目。65歳から68歳(?)ぐらいまでの、高齢者が昔を懐かしんだわけである。

 一次会は5時半に終わり、二次会は5時半から7時半までということだったが、ぼくは三次会があるならそっちへは出るからと言い残して現日会の懇親会へむかった。こちらはこちらでまた大盛会。何しろ現日会創立55周年という記念すべき年なので、そうそうたる来賓もたくさん来られていたし、日頃お世話になっている先生にご挨拶もできたし、やっぱりこっちもキャンセルしないでほんとによかった。

 なんて思っているうちに、携帯に電話が入り、三次会の店が決まったとのこと。懇親会も終わりに近づいていたが、途中で失礼してその店に向かった。上野のビルの中の居酒屋である。店に入ったはいいが、みんな個室になっているので、どこにいるのだか分からない。受付で幹事のKの名前を言ったが、「さあ、お名前はうかがっておりませんので。」という。それはそうだ。予約していたわけではない。かといって個室を片っ端から覗いてあるくわけにもいかない。どうしたものかと困惑していると、奥の方から来た店のオネエサンが「ご年配の方の集まりはあちらでございます。」と指をさす。ああ、そうですかと、その部屋を覗くと、ちゃんと「ご年配の方々」が6人いた。

 しかし、あのオネエサンはえらかった。考えてみれば、これ以上的確かつ礼儀にかなった言い方はない。「お年寄り」「高齢者」「オジイサン、オバアサン」全部ダメだろう。ちゃんとこういう時はこう言いなさいと教育されているのだろうか。見上げたものである。

 三次会は10時まで続いた。さすが三次会だけあって、「ご年配の方々」は、へべれけで、何を言っているのやら、さっぱり分からなかった。まあ、「ご年配」になったら、二次会ぐらいでお開きというのがよろしいようで。

 ぼくは、しかし、快い余韻に浸りながら、上野駅から「上野東京ライン」のグリーン車に乗って、流れ去る都会の夜景を眺めてながらいつのまにか眠っていた。




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100のエッセイ・第10期・47 近所のパン屋さん

2015-08-03 15:50:56 | 100のエッセイ・第10期

47 近所のパン屋さん

 

2015.8.3


 

 このクソ暑いなか、夕食を食べたあと、夫婦そろってウオーキングをしていると言うと、たいていの人は、エライ! とかいうけれど、どういう意味でエライのか、とんと分からない。ほとんど蒸し風呂のような空気の中を泳ぐように歩くからエライのか、還暦をとうに過ぎた夫婦がそろって歩くからエライのか、そうやって歩いてきて汗みずくになりながら、シャワーと水だけで満足してビールの一杯も飲まないからエライのか、はたまた、いい季節ならともかくそんなあんまり誰もやる気にならないような季節に熱中症になるかもしれない危険をも顧みずに歩くからエライのか、分からない。

 エラクなんかないと思う。ただ、それが意外と気持ちいいからやっているだけのことなのだが、他人さまから見ると、「自分はとてもやる気になれない」と思う人が多いから、多くの人がエライなんて思うだけのことだろう。ぼくからすると、この暑いさなかに、人のウジャウジャ集まる花火大会なんかに家族で出かけるヒトのほうがよっぽどエライと思う。

 そんなことを言おうとして書き始めたのではない。このウオーキングをしていると、近所の様子が「定点観測」できるという面白みがあるのだ。それを書こうと思ったわけで、以前もそんなこと書いたことがある

 最近、我が家から歩いて5分ほどのところに、パン屋さんができた。そこは以前は、洋品店だったのだが、やめてしまったその後へ入ったのだ。しかし、洋品店の前は(あるいは前の前?)パン屋さんだったのだ。つまり、そこはなんども店を閉めては、新しい店ができるので、ぼくらの間では(あるいはおそらくこの近所でも)有名なところなのだ。

 だから、洋品店のあとに、また何やら新しい店が出来るらしいということを知って興味津々だった。ウオーキングなどでその前を通りかかっているうちに、だんだんと内装ができはじめ、やがてどうやらパン屋さんらしいぞ、という段になり、店の前におしゃれなウッドデッキなどが出来上がり始めるころにもなれば、そのお店をやるらしい若い夫婦が子どもを連れて、ウッドデッキを作っている職人さんなんかと楽しそうに話なんかしているところを目撃したりすると、ぼくら夫婦は、思わず顔を見合わせて、複雑な目配せをしてしまう。それだけではすまなくて、「ああ、この店も、すぐに潰れちゃうんじゃないかなあ。楽しいのは今だけかもね。」という会話が交わされる時もあるわけである。

 そんなパン屋さんが、つい先頃、とうとうオープンした。朝8時から夕方6時までの営業で、月曜日が定休日らしい。新聞に折り込みチラシが入ってくるわけでもないのに、結構若い人が来ている。せっかくだから買ってみようというので、家内が、食パンとおかずパンを買ってきた。これがおいしい。

 我が家は、朝は食パン、昼もたいてはパンだから、近くの京急デパートの中のアンデルセンか、サンジェルマンかでパンを買う。時には、コンビニのサンドイッチということもあるが、それにしても、これを何年も続けているので、いささか飽きてきている。

 それなら、この新しいパン屋さんで買おう。最近は朝食も8時ごろだから、ちょっと行ってくれば朝から焼きたてのパンも食べられるってものだし、それに第一、そのお店の応援にもなるし、なんて考えて、昨日、つまり日曜日、イトーヨーカドーへの買い物の帰りに昼食用のパンを買いに立ち寄った。いつもなら、ヨーカドーのパン屋で昼食用のパンを買うのに、わざわざその店に寄ったのである。

 ところが、なんと、お店は休みだった。定休日は月曜日とどこかに書いてあったはずなのに、お店の入り口には「本日はすみませんが、臨時にお休みします」とか「今日は、暑いので休みます」とか、そういった張り紙すらない。何にもインフォメーションがなくて、ただ、ドアが開かず、中には誰もいないのである。

 ヨーカドーでパンを買わずに来たのに、今日のお昼、どうしてくれる? って腹がたった。臨時休業ならどこか目立つところに何か書いておいてよ。そうしないとお客さんが離れちゃうよ。それでなくても、ここは、代々廃業続きの店ばかりで、また潰れるんじゃないかとハラハラしているんだ。工事を見に来たあなたたちにに、「やめたほうがいいですよ。ここはヨーカドーのすぐ近くだけど、案外人が通らなくて、はやらない場所なんだ。悪いことはいわない。やめておきなさい。」と何度言いたくなったことか。それでも、あなたたちの、希望にみちた顔をみると、「まれ」でも見ているような気分になって、なんとかうまくいくといいなあと思ったりして、こうやって、今日はここのパンをお昼に食べようと思って、まるで灼熱地獄のような空気をかきわけ、車を近くにおいてやってきたんじゃないの。それなのに……、なんて心の中でブツブツ、ブツブツ。

 結局、昨日は、パンがなかったので、冷凍のパスタをチンして食べた。これはこれでウマイのでいいのだが、それでも、この新しいパン屋さんのパンを食べたかったなあと思いつつ、お店の行く末をしばし案じたのだった。

 

*後日分かったことだが、このパン屋さんの定休日は、日曜日と月曜日だったのだ。どうも、見おとしたらしい。結局悪いのは、ぼくの方だったわけだ。パン屋さんごめんなさい。

 




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100のエッセイ・第10期・46 いい人生

2015-07-28 16:19:54 | 100のエッセイ・第10期

46 いい人生

2015.7.28


 

 3日間にわたる、キンダースペースの『赤い鳥の居る風景』の公演も終わったが、その打ち上げに招かれた。キンダーの役者さん、スタッフさん、客演の役者さんたちで行われる打ち上げに、ぼくが招かれたのは、チラシ、ポスターの字を書いたからだったらしい。チラシにも、スタッフとしてぼくの名前が書いてあった。なんとも光栄なことである。しかし、ぼくは頼まれてチラシの字を書いたわけではない。ぼくがたまたま書いた字を使ってくれたのだ。その経緯は前に書いたとおりである。

 打ち上げは、公演の最終日の翌日(つまり7月27日)、キンダースペースのアトリエで行われた。公演のとき、原田さんに、「ぼくなんかが出てもいいの?」と聞くと、「もちろんですよ。だって、スタッフなんですから。」と言われたので、お祝いに「焼酎」と、「梅ヶ枝餅」(たまたま京急デパートで九州展をやっていたので出来たてを買えた)を携えて、出かけたのだった。

 アトリエ公演でしか見たことのない西川口のアトリエは、大道具がない部屋になっていて、意外に狭い空間である。そこに、テーブルとイスが並んでいた。キンダーの人たちとは顔なじみなので、みんな笑顔で迎えてくれる。テーブルの上には、飲み物や劇団員の手作りの料理が所狭しと並んでいる。

 夕方6時に始まるとのことで、徐々に人が集まってきたが、6時になっても肝心の原田さん、瀬田さんが来ないので、まずは、「第一次乾杯」ということになった。司会の村信さんが、何を思ったか、突然、「では乾杯の音頭を、瀬田さんの恩師である山本さんにお願いします。」という。隅っこのほうで見学できればいいやというくらいのつもりだったぼくは、飛び上がるほどびっくりしてしまったが、びっくりしたまんま、わけもわからないことを言ってとにかく乾杯の音頭をとった。劇団の主宰者原田さんの奥さんである瀬田さんの高校時代の恩師である、ということだけで、ぼくは、今までずいぶん「いい目」を見させてもらったが、考えてみれば、ぼくが「瀬田さんの恩師」であるということは、過去のことで、今の時点でキンダーに何ほどの貢献をしているわけではない。(いちおう賛助会員ではあるけれど。)今回だけは、「チラシの字を書いた」という貢献はあったのかもしれないが、それとても、瀬田さん、原田さんの「粋なはからい」だったのだとぼくは思っている。それなのに、乾杯の音頭をとれるなんて、なんとオレはシアワセな男なのだろうと、感激してしまった。

 ほどなく原田さんも瀬田さんもやってきて、原田さんの音頭で本格的な乾杯が行われたのだが、その後の打ち上げの展開は、またまた驚くべきものだった。

 そもそもぼくは劇団の打ち上げというものに参加したことがなかった。高校の演劇部では、公演の終わるたびに打ち上げはやったけれど、それはたいていジュースを飲んで、ああだこうだとしゃべっているうちに終わってしまうようないいかげんなものだった。キンダーの打ち上げも、最初はそんな感じだった。ところが、はじまって1時間ぐらいたったころ、「それでは、これから○○を始めます。」と言う。この○○が何という言葉だったかどうしても思い出せないのだが、とにかく「儀式」のようなものが始まったのだ。

 「儀式」というとなんかアヤシイ感じがするが、そうではない。原田さんが手に「大入り袋」を山盛りにして持って、立ち上がった。その「大入り袋」をキャストやスタッフのひとりひとりにねぎらいの言葉とともに渡し、みんながその度に拍手をし、そして受け取った人は短くスピーチをする、そういう「儀式」だったのだ。

 ぼくは、そこでも初めの方で名前を呼ばれ、「瀬田は、先生に高校時代、別役実の芝居を教えられ、芝居の道を歩むきっかけを作ってくださいました。今回は、チラシに字を書いてくださいました。ありがとうございました。」といったような内容の謝辞を原田さんがきちんと述べて、大入り袋を手渡された。そこでも、ぼくは感激してしまって、いつものような流暢な(?)スピーチをするどころではなく、言いたいことの十分の一も言えないたどたどしいスピーチをした。今思えば、ぼくは、キンダースペースの皆さんに、少なくとも30分ぐらいは感謝の言葉を述べ続けたかったという気持ちで一杯だけれど、そんなことをしたら会はいつまでも終わらなかったろうから、かえって感激でしゃべれなくなって幸いだったわけだが、とにかく、その後、キンダーの役者、スタッフ、客演の役者、キンダーの若い役者の卵など50人近い人たちのすべてに、原田さんはユーモアたっぷりに、しかもひとりひとりの働きに心からのねぎらいの言葉をかけ、そしてその人たちがみな、またユーモアの中にもそれぞの個性あるれるスピーチをしたのだった。それはいつまでも続いてほしいと思うほど、面白く、愉快で、また刺激的で、「発見」にみちたものだった。

 そうしたやりとりを聞きながら、劇団キンダースペースが、人間関係に対する信じられないほどの細やかな配慮によってこそ維持されているのだということ、だからこそ、小さな劇団だが、今年で30年周年を迎えるほど長く続けることができたのだと深く納得したのだった。

 劇団の維持ということは、人間関係だけではなくて、経済的な面でも実に多くの困難を抱えている。けれども、その困難を乗り越えさせるものは、「演劇」への情熱と愛以外の何ものでもない。ここに集まった人たちは、誰ひとりとして「金もうけ」のために、『赤い鳥の居る風景』という芝居をやろうとしたわけではない。ただただ、いい芝居を作りたい、他の劇団にはできないような別役実の芝居を作ってみせたいという情熱だけで、集まり、稽古をし、舞台に立ち、あるいは裏方の仕事に奔走した。演劇の魅力とは、つまり、そういうところにあるのだとシミジミ思った。これは一時のセンチメンタルな感想ではなく、極めてリアルな実感であえる。

 焼酎を飲みながら、原田さんに、「原田さんも瀬田さんも、いい人生を送っているね。」と言ったら、「まあ、そうですかね。大変ですけどね。」と苦笑いしていた原田さんだったが、打ち上げの最後に、演劇への思いをとめどなく情熱的に語る原田さんをみて、そして「はい、そこで終わり!」との瀬田さんの一言で、恥ずかしそうに笑ってすぐに話を打ち切った原田さんを見て、やっぱり2人はいい人生を送っているなあと思ったのだった。


 



生まれて初めてもらった大入り袋


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