早起きして堀田くんらと待ち合わせ、ロンドン郊外の街Bexley Heathへ。Red Houseを見学に行く。建築はPhilip Webb、室内装飾はWilliam MorrisとEdward Burne-Jonesら、Morrisの友人。新婚のMorrisが1860年からここに五年間住んだ。のちにモリス商会をつくることになる仲間らが集い、住みながらにして室内をキャンパスのようにして生活芸術が徐々に加えられていった。天井には方眼紙のように無数の規則的な穴が開けられていて、ボランティアのガイドの方によれば、天井に装飾パターンを描くときのグリッドとして使われたのだという。志半ばにして家をあとにしたため、空白のまま穴だけが開けられた天井も多い。モリスが離れた後の所有者によって加えられた操作も多いようで、モリス風に見えるものはむしろ後世の付け足しで、壁をはがした向こうにある消えかけた壁画こそがオリジナルだったりする。モリス商会を紹介した展示コーナーでは、19世紀におけるモリスと装飾についての解説が加えられていた。
ふと疑問に思ったのは、ほぼ同時代に活躍した人物であるにも関わらず、同じく装飾デザイナーであったOwen Jonesへの言及が無いことであった。1856年に『装飾の文法』が著され、1861年にモリス商会(の前身)が生まれる。モリスの生没年は1834-1896で、ジョーンズは1809-1974。
『フィガロジャポンNo.373 ロンドン全マップ(2008/10/05)』の特集「ウィリアムモリスを巡る旅」には、「モリスたちがロンドン万国博覧会に気鋭の装飾芸術家集団として参加したのは1862年。若き彼らの才能を、V&Aの前身だった当時の博物館の初代館長が見そめて、大抜擢。さらにはこの大仕事をきっかけとして、モリスは同館収蔵品の相談役となる」とある。「相談役」の件は未確認であるが、モリスらが「第二回」万国博覧会(1862年)に出展したのはたしかである。一方、第一回万国博覧会(1850年)に重要な役割を果たしたジョーンズはこの第二回では中心的な位置にはいなかった。
『Owen Jones』(Carol A. Hrvol Flores, Rizzoli,2006)の著者は「William Morris」と題した章の中で、ジョーンズとモリスの装飾技法的な主張は似通っている部分もあるが、ラスキンとジョーンズの間にあった思想の相違が(イスラムの模様を不純と見るか、その中に法則を見るかといったような)が、その弟子であるモリスにもジョーンズへの直接的な言及を控えさせたのではないかといった示唆をしている。たしかにモリスの装飾は、ジョーンズのそれと比べるとずっとかわいらしく直裁的である。ジョーンズがイスラム文様の中に法則と規則性を見いだし、自然の形態を模倣するなシステムに学べと主張した態度とは違うように思える。
『建築の世紀末』(鈴木博之,晶文社,1977)の「装飾の神話」の章では、19世紀の終わりに「意味が個人の内的世界観に分散していた」装飾に対して取られた二つの方法としてモリスとジョーンズ両者の違いが挙げられている。「様式の成立していた時代の世界観的前提を恢復する」か「新しい世界観に立脚した造型を目指す」か。前者がラスキンとその弟子筋であるモリスであり、後者がジョーンズやその弟子筋のドレッサーだったと。「装飾を当時の現実的な世界観に立脚させようとした人びと」であるジョーンズは、水晶宮•オスラーの店舗•セントパンクラス駅計画案等を通じて、エンジニアたちからも「Mr.Owen Jones is, in the opinion of many, the best iron architect」と共感を得ることになる(『Society of Engineers Transaction for 1865』)。この「開明的な」アプローチは技術との親和性が高かったのである。いわばハイテックの姿勢である。
しかし、モダンデザインの源泉は(ぺヴスナーによれば)、19世紀の工学技術、モリスとアーツ&クラフツ運動、アールヌーヴォーの三者である。オーウェン•ジョーンズが本当に抜け落ちているのか、この3つのカテゴリーのどれかに収まっているのか、『モダン•デザインの源泉』が手元に無いので確認できない。でももし抜けている(あるいは軽く扱われている)のであればそれは、機械のイメージのモダンデザインではなく、システムによってたつ現代の建築にいたる別の物語の源流として、装飾(集合的効果、flatness)と技術(物質、lightness)を統合しようとしたオーウェン•ジョーンズを再評価できるチャンスなのではないか。
ところでスミッソンズの『スミッソンの建築論』(アリソン&ピータースミッソン、岡野真訳、彰国社、1979)を読み返していて、スミッソンズ撮影によるキューガーデンの温室の写真が載せられているのを見つけた。おそらくキャットウォークの上から屋根の鉄骨造を撮ったもので、「繰り返しの技法」を冠した章の中にある。その写真に関係する文章はおそらく、<水晶宮の建設からめばえた、新しい「もうひとつの伝統」 (中略) 全体が何らかの方法をへて「部分から決まってくる」ということである>の部分で、その前段には繰り返しの技法を見たときに「安心感」を覚える理由が分析されている。
1 繰り返される要素が、それらが部分となる全体についての構想に由来しているように思われるとき
2 ただ繰り返されるということだけから、要素が意味を獲得しているように思われるとき、すなわち要素があらかじめ一個体として抽象的に着想され、その後に繰り返されたものでないとき
3 一緒にまとめられた要素が、紋切り型のように見えるとき、すなわち、すべての人によく分かってもらえるとき。同種同属のものが、もっとたくさんあるだろうと人が想像しうるとき
具体例が挙げられていないので理解しきれない理由もあるが、水晶宮(に代表される鉄造建築)から始まるボトムアップのシステムをappreciateする伝統がイギリスにあるというのはそうだなと思う。
ふと疑問に思ったのは、ほぼ同時代に活躍した人物であるにも関わらず、同じく装飾デザイナーであったOwen Jonesへの言及が無いことであった。1856年に『装飾の文法』が著され、1861年にモリス商会(の前身)が生まれる。モリスの生没年は1834-1896で、ジョーンズは1809-1974。
『フィガロジャポンNo.373 ロンドン全マップ(2008/10/05)』の特集「ウィリアムモリスを巡る旅」には、「モリスたちがロンドン万国博覧会に気鋭の装飾芸術家集団として参加したのは1862年。若き彼らの才能を、V&Aの前身だった当時の博物館の初代館長が見そめて、大抜擢。さらにはこの大仕事をきっかけとして、モリスは同館収蔵品の相談役となる」とある。「相談役」の件は未確認であるが、モリスらが「第二回」万国博覧会(1862年)に出展したのはたしかである。一方、第一回万国博覧会(1850年)に重要な役割を果たしたジョーンズはこの第二回では中心的な位置にはいなかった。
『Owen Jones』(Carol A. Hrvol Flores, Rizzoli,2006)の著者は「William Morris」と題した章の中で、ジョーンズとモリスの装飾技法的な主張は似通っている部分もあるが、ラスキンとジョーンズの間にあった思想の相違が(イスラムの模様を不純と見るか、その中に法則を見るかといったような)が、その弟子であるモリスにもジョーンズへの直接的な言及を控えさせたのではないかといった示唆をしている。たしかにモリスの装飾は、ジョーンズのそれと比べるとずっとかわいらしく直裁的である。ジョーンズがイスラム文様の中に法則と規則性を見いだし、自然の形態を模倣するなシステムに学べと主張した態度とは違うように思える。
『建築の世紀末』(鈴木博之,晶文社,1977)の「装飾の神話」の章では、19世紀の終わりに「意味が個人の内的世界観に分散していた」装飾に対して取られた二つの方法としてモリスとジョーンズ両者の違いが挙げられている。「様式の成立していた時代の世界観的前提を恢復する」か「新しい世界観に立脚した造型を目指す」か。前者がラスキンとその弟子筋であるモリスであり、後者がジョーンズやその弟子筋のドレッサーだったと。「装飾を当時の現実的な世界観に立脚させようとした人びと」であるジョーンズは、水晶宮•オスラーの店舗•セントパンクラス駅計画案等を通じて、エンジニアたちからも「Mr.Owen Jones is, in the opinion of many, the best iron architect」と共感を得ることになる(『Society of Engineers Transaction for 1865』)。この「開明的な」アプローチは技術との親和性が高かったのである。いわばハイテックの姿勢である。
しかし、モダンデザインの源泉は(ぺヴスナーによれば)、19世紀の工学技術、モリスとアーツ&クラフツ運動、アールヌーヴォーの三者である。オーウェン•ジョーンズが本当に抜け落ちているのか、この3つのカテゴリーのどれかに収まっているのか、『モダン•デザインの源泉』が手元に無いので確認できない。でももし抜けている(あるいは軽く扱われている)のであればそれは、機械のイメージのモダンデザインではなく、システムによってたつ現代の建築にいたる別の物語の源流として、装飾(集合的効果、flatness)と技術(物質、lightness)を統合しようとしたオーウェン•ジョーンズを再評価できるチャンスなのではないか。
ところでスミッソンズの『スミッソンの建築論』(アリソン&ピータースミッソン、岡野真訳、彰国社、1979)を読み返していて、スミッソンズ撮影によるキューガーデンの温室の写真が載せられているのを見つけた。おそらくキャットウォークの上から屋根の鉄骨造を撮ったもので、「繰り返しの技法」を冠した章の中にある。その写真に関係する文章はおそらく、<水晶宮の建設からめばえた、新しい「もうひとつの伝統」 (中略) 全体が何らかの方法をへて「部分から決まってくる」ということである>の部分で、その前段には繰り返しの技法を見たときに「安心感」を覚える理由が分析されている。
1 繰り返される要素が、それらが部分となる全体についての構想に由来しているように思われるとき
2 ただ繰り返されるということだけから、要素が意味を獲得しているように思われるとき、すなわち要素があらかじめ一個体として抽象的に着想され、その後に繰り返されたものでないとき
3 一緒にまとめられた要素が、紋切り型のように見えるとき、すなわち、すべての人によく分かってもらえるとき。同種同属のものが、もっとたくさんあるだろうと人が想像しうるとき
具体例が挙げられていないので理解しきれない理由もあるが、水晶宮(に代表される鉄造建築)から始まるボトムアップのシステムをappreciateする伝統がイギリスにあるというのはそうだなと思う。
装飾の構成原理に対するオーウェン•ジョーンズの探求をより建築的な構成(繰り返し、集合)の考え方に参照したいと思っているのですが、たしかに本質的に違うものをつなげようとしているのかもしれません。装飾研究家でありながら「ハイテック」な(知られざる)プロジェクトも残している彼のなかではそれらはどう結びついていたのかなとは思ったのですが。
たしかにこのままですとコンテンツの現代的可能性は難しいですね。ご指摘ありがとうございます。