顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

雨引観音…1500年前の古刹とアジサイ

2023年07月02日 | 歴史散歩

通称雨引観音といわれる茨城県桜川市の雨引山楽法寺は、用明2年(587)中国(梁)出身の法輪独守居士によって開かれたと伝わり、国の重要文化財の延命観世音菩薩を本尊とする坂東観音霊場第二十四番札所の真言宗の名刹です。

ここのアジサイは100種5000本、標高409mの雨引山の中腹にあるため、その高低差と歴史のある建造物と相まって見ごたえのある景観を作り出しています。

古来より皇室との結びつきも多く、推古天皇御病気平癒や聖武天皇、光明皇后のご安産祈念に効験あらたかで、嵯峨天皇の世の大旱魃の降雨祈念成就の際は、勅命により山号を雨引山と定めた勅額を賜わり、雨引山楽法寺の山号寺名はこの勅命によるものです。
当時の光明皇后、嵯峨天皇の御宸筆は什宝として今も残っているそうです。


黒門ともよばれるこの薬医門は、かって雨引山観音堂の別当であった楽法寺の表門であり、麓の集落中央に位置していたものを移築したものです。もとは中世にこの地を治めた真壁氏の真壁城の城門が廃城に伴い移転されていました。


黒門からの大石段は磴道(とうどう)とよばれ、文政4年(1821)の施工、145段を称号を唱えながら登ると厄が落ちるといわれてきました。


建長6年(1254)に宗尊親王建立の仁王門は、天和2年(1628)に再建されていますが、鎌倉時代の仏師康慶の彫刻した建立当時の仁王尊を祠っています。本堂と同じ無関堂円哲による豪壮華麗の彫刻が施されています。


鐘楼堂も、仁王門と同じく慶長6年宗尊親王によって建立され天和2年に再建、現在の鐘楼堂は文政13年(1830)に建立されたもので、瓦葺きに替えられた以外は文政当時のものです。


創建当初の本堂の記録は不詳ですが、建長6年(1254)に宗尊親王が執権北条時頼に諭して再建、その後文明6年(1474)には真壁城主真壁久幹、大永6年(1526)には真壁治幹による改築を経て天和2年(1682)現存の大本堂が建立されました。落慶の棟札には笠間藩井上家より藩士20名足軽20名の警固の出役を記してあるそうです。


楽法寺第十世宥円は慶長18年(1613)駿府城にて徳川家康公に謁見し朱印百五十石を賜りました。家康の死後、寛永2年(1625)東照大権現の祠堂を建立、享保12年(1727)第十八世吽教は仏師円哲とともに現存の東照宮を再建し、家康家光両公を合祠しました。


東照宮の写真に写っている孔雀は、境内で飼われているいろんな小動物類の中でも気品が他を圧倒していました。


多宝塔は天平年中(730)、光明皇后よって建立されたのが最初と伝わり、嘉永6年(1853)三重塔を改め多宝塔としました。 上層が円形で下層は正方形、屋根の最上部には鋳鉄製の相輪がつけられています。


御供所の下には城郭を思わせる「切り込み接ぎ」の大石垣があります。文政5年(1822)、尾張の石工を招き構築されました。高さ13m、横幅約70m、御供所下以外の部分を含めると約200mに及ぶ壮大なものです。


なんと推定樹齢1000年のスダジイの巨樹です。 本堂が火災になった際、本尊がこの樹の下に避難し仮の宿としたとの言い伝えから宿椎(やどしい)の名がつけられました。




池に色とりどりのアジサイを浮かべるは「水中華」というそうですが、いま他所の寺社でも披露されているのがよく紹介されています。ここではアヒルなどが華の上で遊んでいました。

もちろん手水舎もアジサイで覆われていました。


車道のない時代の古い参道でしょうか、黒門下にある石段にアジサイが良く似合います。


山の斜面に咲くアジサイに新しい品種があまりないのは、古刹ならではの風情に好感を与えてくれました。


全山がこのロケーションの中、春の桜、秋の紅葉と季節ごとの自然環境が人気を集めています。


訪問した日も平日にもかかわらず、ファインダーの中には常に人物が映り込んでいました。