顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

崎浜横穴墓群…12万年前の牡蛎化石床 

2024年01月16日 | 歴史散歩
霞ケ浦に張り出したかすみがうら市の出島にある崎浜横穴墓群です。



無数の牡蛎殻が積もった化石床の崖に並ぶ横穴が、異様な光景を見せています。

約12万~13万年前のこの一帯は海の中で東京湾の一部となり、真牡蛎が積もるように繁殖していたと思われます。



上記の現地案内版によると…地球の12万年前からの長い歴史の一コマを見ることができます。




約12万~13万年前、古東京湾時代のこの一帯は海の中で、真牡蛎(まがき)の貝殻が潮流によって集積し自然に積もって化石床を作りました。

約2万~3万年前の海退期、大陸にマンモスがいたこの時代は気温が低い氷河期で、海面は今より80メートルも低くなり陸地化しました。

歴史は進み約6千年前には地球が暖かく海水面が高くなり、内陸の奥深くにまで入り江ができる「縄文海進」により、今よりも広い霞ケ浦ができ、ここは浸食されて牡蛎化石の崖ができます。

やがて人類が現れ、水上交通や魚介漁の便がいいこの地方には人が住むようになり大きな古墳も多く見られますが、大化の改新時の「大化の薄葬令」で墳陵の小型簡素化が行われ、前方後円墳の造営から横穴墳墓に変わっていったといわれます。


この横穴墓群は羨道と玄室の間に段差を設けた高壇式という構造です。


玄室も規模の大小があり、設けられた棺床は1床から3床のものが見られます。



牡蠣殻の壁に囲まれた玄室、古墳のように個人一人の墓所ではなく一族が何度も使用したともされ、副葬品はほとんど発見されていないということです。


棺床が無くなり仏像が置かれている横穴墓もあります。右手に錫杖を持つお地蔵さんでしょうか。


この一画には17基の横穴墓が確認されているそうです。

古墳などの造営、埋葬者はほとんど不詳とされていますが、霞ケ浦市立博物館長千葉隆司さんは、この一帯の加茂という地名や霞ケ浦に面した地理的環境から、大和朝廷で薪や水など厨管理に携わり京都の加茂神社との繋がりのある古代氏族の賀茂(加茂・鴨)との関連性を指摘しています。

北東2キロには加茂神社があります。寺伝では寛正元年(1460)加茂孫四郎が東下の際に京都加茂社よりの御分霊を鎮座させたと伝わります。



小さな神社ですが境内はきれいに掃き清められていました。

また北東2.5キロの牛渡牛塚古墳の案内板には、「常陸国府に下向途中にこの地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力尽きてこの地で亡くなり、地元の人が感動して牛塚と名付けた」と書かれています。ここの地名も牛渡になっています。

標高は4mという市内で最も低い場所にあり、直径40m、高さ4mの円墳です。

小さな祠が建っていて、中には石仏が置かれていました。

県内の横穴墓群はこの他にも十五郎横穴墓群(ひたちなか市)、十王前横穴墓群(日立市)など各地にみられますが、いずれも水上交通の好立地で大型古墳が近くにあり、7世紀半ばの古墳時代末期の短い期間の造営によるものです。

写真はひたちなか市の十五郎穴横穴墓群です。那珂川の支流本郷川の台地上にある、彩色装飾で知られる虎塚古墳群の一画に、186基もの膨大な数で残存しています。

大和朝廷から遠く離れていますが、茨城の古墳の数は多く、「茨城県古墳総覧(1959)」によると約3,400、その後の調査で現在では10,000基を超えるともいわれています。その中には舟塚山古墳(石岡市)、富士見塚古墳(かすみがうら市)、三味塚古墳(行方市)などの巨大な前方後円墳もみられます。
これは4世紀から7世紀のころには、大和朝廷の力がこの地方まで広がったことを示しており、支配者の強大な権力の象徴として大型古墳が作られました。しかし7世紀中葉の645年に発令された「大化の薄葬令」で墳墓は小型簡素化されて、新しい形態の横穴墓や方墳などになり、やがて古墳時代の終焉を迎えました。


生島足島神社…朱塗りの明神大社

2024年01月07日 | 歴史散歩
今年ももう7日、今日までは松の内なので正月にふさわしい朱塗りの神社のご紹介です。昨年10月に信濃の旅で立ち寄りました。

長野県上田市にある生島足島(いくしまたるしま)神社は、万物に生命力を与える「生島大神」と、万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られています。
社伝では、建御名方神(たけみなかたのかみ・諏訪大社の祭神)が諏訪の地に下降する際、この地に留まり二柱の大神に米粥を献じられたと伝わり、今でもその儀式が御籠祭として執り行われています。

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。ウィキペディア(Wikipedia)


古くは大同元年(806)に平城天皇の寄進、建治年間(1275~1278)には北条国時が社殿を営繕し、真田昌幸、信之の武将、代々の上田城主も神領を寄進し社殿の修築も行っています。


本殿は神池に囲まれた神島の中の大樹の下に建っています。


神池の中の本殿に神橋を渡ってお参りする…この形式を「出雲式池心宮園」といわれ日本でも最古の形式の一つだそうです。


本殿の扉の奥に内殿の建物があり、本殿が覆屋となっています。この内殿には床がなく、大地そのものがご神体として祀られています。


北面して鎮座する本殿と向かい合わせに建っている摂社の諏訪社は、諏訪神を祭神とし、その本殿は棟札に慶長15年(1610)上田藩主真田信之が建てたと記されています。


両社の間には、諏訪神が本殿に遷座する時のみ開かれる御神橋がかかっています。


東手水舎です、東西に鳥居があるので両方に手水舎があります。


創建に諏訪神社の神様と縁があり、諏訪大社との由緒により、諏訪と同じく、申年と寅年に御柱大祭が行われています。使われた御柱が本社と諏訪神社全体を取り囲むように四方に建てられています。


また、武田家臣団が信玄への忠誠を誓った起請文や信玄が川中島での戦の前に戦勝を祈念した願文、真田昌幸の朱印状など94通の貴重な「生島足島神社文書」が保存されおり国の重要文化財に指定されています。

朱漆塗の社殿の塗装は、近年の塗り替えによるものですが、建設当時もこのように塗装されていたと考えられるそうです。極彩色であまりにもきれいなので古さを感じられませんが、1200年以上もの歴史をもつ古社でした。

西光院(大洗町)…天然記念物「お葉付き銀杏」

2023年12月27日 | 歴史散歩

寺伝によると、応永5年(1398)宥祖上人の開山で寺号を古内山宝性寺西光院と称し京都醍醐寺無量寿院末、文政2年(1819)本堂を建立、除地(藩から年貢を免除された土地)六石余、寺中に蓮華院、功徳院、常福寺の三寺あり、門末併せて五十六ヶ寺を数えたと伝わります。明治の廃仏の難に遭い寺門荒廃、明治9年には大貫小学校の仮校舎にもなりました。

また一説では町内の大貫に城を構えた下総国の豪族千葉氏を壇越として下総国(旭市)の延寿寺を開設した宥祖が開創したという資料もありますが、詳細は不明です。


航空写真で見ても海岸から約800mくらい離れた標高約25mの高台にある城址のような立地です。


山門には葵の門が…水戸徳川家との関係があったようです。


山門から仁王門に向かう坂の参道には石灯篭が並んでいます。


モミジの中に仁王門が浮かび上がります。

仁王門にある迫力十分の仁王像は木彫で、金剛杵を持って口を開いた阿形像、口を閉じ宝棒を持った吽形像が睨みを利かしています。


昭和44年に建立の本堂は、鉄筋コンクリート造りの現代的な建物です。木造の阿弥陀如来立像(本尊)が安置されています。


京都醍醐寺無量寿院末として開山された西光院、無量寿の扁額が架かっています。無量寿とは、寿命が無量である阿弥陀仏のことだそうです。


約100坪の旧本堂は、茅葺だったのを瓦葺にして聖徳太子を祀る太子堂に修築されました。


薬師堂には、水戸藩2代藩主徳川光圀公が眼病の際に祈願して平癒され、後に帰依したと伝わる薬師如来が奉祀されています。


立派な鐘楼が建っていました。除夜の鐘の時期なのでお聞きしたところ、大晦日には撞いていないということでした。



さて境内のイチョウの大木は、稀に葉の上に種子(ギンナン)が付くので「お葉付き銀杏」とよばれ、天然記念物(茨城県指定)になっています。

幹囲(地上1.5m)4.4m、樹高24m、樹齢約400年で古来より海難者の霊をこの樹に招き慰霊、その冥福を祈ったと伝えられています。

県内ではこの「お葉付き銀杏」が天然記念物なっている寺社は、国指定の八幡宮(水戸市)の他、県指定ではこの西光院(大洗町)、照明院(鉾田市)、稲田禅房西念寺(笠間市)が知られています。
(※天然記念物は国指定のほかに、都道府県や市区町村が指定することができるそうです)


しかしこの現象は滅多にみられるものではなく、仙人も数年前に水戸の八幡宮でやっと小さい実を撮影できただけです。種子がふたつ出たため実が大きく育たず、葉は丸まって黄葉しています。


ところで参道の向かい側にある高い石垣…、現代の施工でしょうがまるで城壁のような壮大な石垣にしばし見とれてしまいましが、これは個人の邸宅のものだそうです。


海に面したこの一画は暖かいので、東側の急崖の土手のツワブキ(石蕗)もいちだんと鮮やかな色でした。


この一年間拙いブログをご覧いただき誠にありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えになりますように…


小さな城館ふたつ…高久館と平治館(城里町)

2023年12月13日 | 歴史散歩
近辺のあまり知られていない城の遺構を訪ねてみました。

中世の「城」と「館」と「城館」…どれも敵を防ぎ味方を守るという軍事的防御を目的に築造された遺構は、住まいの比重が高いのが「」、軍事的な防御を強めたのが「」、両方を兼ねたのが「城館」というように使われていますが、明確には定義があるわけではなく、現地に建つ城里町教育委員会の案内版ではどちらも「館」でした。


さて高久館は案内版では永仁元年(1293)に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたと書かれていますが、関谷亀寿著「茨城の古城」では、佐竹氏8代行義の6男で野口城主になった景義の子、義有が嘉元年間(1303∼05)に高久の地頭になり高久氏を名乗り築城したと載っています。

正長元年(1428)3代義本と長子義景は、山入の乱で挙兵するも佐竹宗家側の大山城主大山義道に攻められて落城、やっと5代時義(義行)の代になって旧領に戻ることができました。天文4年(1535)には10代義貞が部垂の乱でまた宗家に叛くも佐竹義篤に攻められ降伏、二度も宗家に逆らいます。その後佐竹氏の支配下に入って天文12年(1543)、佐竹氏が伊達氏に味方し相馬氏と戦った陸奥の関山(白河市)合戦に従軍した際に、義貞と父義時、子宮寿丸の3代が揃って討ち死にし城は廃城になりました。

那珂川の河岸段丘上の標高50m比高30mの台地にあり、三方を切り立った崖に守られた天然の要害です。


1郭跡は、館部落共同墓地になっています。まさしく城址である舘という地名が残っています。


1郭とは堀で遮られた2郭は農地になっています。


2郭北側にある堀跡、この先も大手までは城の一部ですが、農地や宅地で遺構は消滅しています。


ほとんど消滅していますが、大手とされる場所の堀跡です。


3郭南側に天王神社があります。
天王神社は、牛頭天王(ごずてんのう)と素盞嗚命(すさのおのみこと)を祀っているそうですが、仙人の田舎にも神輿が仕舞われている天王さんという神社があったのを思い出しました。

歩いてみると南北約200m、東西約100mの広大な高久館は、「館」というより「城」という規模で、高久一族の滅亡後も佐竹氏の軍事拠点として拡張整備されていたのかもしれません。



もう一つの館は、高久館から約1.5km北にある平治館です。

案内板では元弘2年(1332)当地方を治めていた常陸大掾高幹の世、佐貫氏が初めて築きのち穂高平治が居住した。天正年間徳ヶ原合戦の時は大山氏の出丸城であったと書かれています。

この城に関する詳しい資料が見つかりませんが、鎌倉初期に進出してきた大掾一族の築城というのは高久館と同じで、その後佐竹一族の支配下になり、天正年間(1573~1592)に一族の大山、石塚、小場氏が争った頓化原合戦では大山城主の出城的役割を果たしたということのようです。  

約100m足らずの方形単郭の館は、確かに3方を天然の堀に囲まれてはいますが、防御施設としては物足りず、やはり「館」の分類に入るのでしょうか。


主郭はもと農地だったようですが、現状は一面の草に覆われ、特に奥の色違いの草は、悪名高き引っ付き虫「コセンダングサ」の群生、ズボンにびっしりと付き、入るのを拒んでいます。


北側の低地に下りる道も台地を横切る空堀になっていて、主郭側にはL字型に土塁が築かれています。


南面は高さ20mくらいの崖になっていて下には天然の池があります。 


主郭入り口の西側の道路も、かっては堀として機能していたかもしれません。いまは低地に下りる道路になっています。

あまり知られていないため詳細な歴史は分かりませんが、その分を空想でカバーして、当時の多くても守備数十人規模の館に思いを馳せたひとときでした。

低地の城、平戸館…水陸交通の要衝

2023年11月19日 | 歴史散歩
もともと水戸市平戸町のこの地は、常陸国府から涸沼川を経て陸奥へと通じる古代官道の平津駅家(ひらつのうまや)があった水陸の要衝で、そこを支配下に置くという統治を主とした城館だったので、戦いの防御には適さない低地でも建てたのでしょうか。

農地化で遺構はほとんど壊滅していますが、涸沼川河口の沖積層低地に作られた館は、標高2~3mほどで高低差のほとんどない平地の城でした。(国土地理院地図)

11世紀に書かれたとされる「将門紀」には、平将門が常陸平氏の祖で叔父の平国香を攻めて焼死させ、長男の平貞盛を追って蒜間の江(涸沼)の畔で貞盛と妻を捕らえたという記述があり、また新編常陸国誌には、平国香の長男貞盛の居宅が蒜間の江周辺の平戸の故城にあったと書かれていることから、ここを平貞盛居城跡とする説もあります。

その後この周辺に進出してきた常陸平氏の大掾一族の石川家幹の6男高幹がこの地に配され平戸氏を名乗ったという文献があり、新編常陸国誌にも平戸村に堀之内という所あり、大掾の一族平戸氏の居所なりと出ているそうです。(以上常澄村史)

この平戸氏は本家の大掾氏とともに鎌倉の北条氏から足利氏、大掾氏から水戸城を奪取した江戸氏と、その時々の支配者に臣従して戦火に遭うこともなく、これは戦略上不利な城であったからかもしれません。やがて江戸氏が滅ぼされ佐竹氏の時代になると平戸氏は帰農しますが、水戸藩3代綱條のとき士分に取り立てられました。
天保11年の水戸藩「江水御規式帳」に大番組平戸七郎衛門幹徳 200石とあり、大掾一族の通字「幹」が付いているので、末裔の方でしょうか。


農地の区画整理などで城跡はほぼ形がありませんが、当時は50m四方の方形の曲輪が二つの城館だったと考えられています。残った微高地の一画には吉田神社が建っています。


この地は常陸三宮の吉田神社が南西約8キロのところに鎮座しているので、近在にはその末社が多く存在します。御祭神は日本武尊、城郭の中に八幡宮もあったようなので、水戸藩2代藩主光圀公の寺社改革の際に吉田神社に改められたかもしれません。


鳥居脇にひっそりと建つ平戸館跡の石碑です。実際には南東の位置が1郭とされますが、民有地のため碑を置く場所がなかったようです。


神社東側に土塁の跡がありますが、風化しているとはいえ高さは1mもありません。


1郭北側にも土塁と堀の跡が見られます。


1郭西側の土塁と堀跡です。堀跡の南側には、水戸街道始点の魂消橋から備前堀に沿っての飯沼街道がここを通っています。鹿島神宮を経て上総国飯沼観音に至る旧街道(約90Km)です。


ここは国道51号と県道に挟まれた田園地帯、この一帯は那珂川、涸沼川の恩恵を受けた米どころとしても知られています。


境内には大山阿夫利神社や稲荷神社などの摂社もありました。


ここにも厄介な外来種のオニノゲシ(鬼野芥子)が蔓延っていました。ヨーロッパ原産のキク科ノゲシ属の越年草で世界中に帰化分布していて、我が国でも侵入植物DBに登録されています。

周辺より高い地に堀と土塁や石垣をめぐらした城のイメージとは程遠い城館の跡、こういう立地でも戦闘よりも統治を主とした城館として500年以上存在したことは、巧みな処世術で戦乱の世を生き抜いてきた稀有な例かもしれません。