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『今日の出来心』

シンガーソングライター&作詞家“久保田洋司”の365日書き下ろし公開日記です
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我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ 今日の出来心2013年10月24日(木)

2013年10月24日 13時11分57秒 | Weblog

今朝は、いつも楽しみにかよっている万葉集の講座に行ってきました。

物に寄せて思いを陳べる歌が続いています。

巻十一 2695

我妹子に 逢ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ

訳)あの娘に逢うすべがなくて 駿河の国の富士の高嶺のように 燃え続けていることよ

当時、富士山は今よりも火山活動が活発で、桜島みたいな感じに、煙や時に炎も上げていたそうです。

富士山の噴火として、記録されている最古のものは、781年、奈良朝末期。

ただ、多くの都の人は、火山など見たことがなく、山が煙や炎を吹くなど、どういうことか、よくわからなかったようです。

自分の心の中で燃えているものを、火山に例えるなど、非常に陳腐な常套手段となるわけですが、当初は珍しい、新鮮な表現だったことでしょう。

東国の人々は、富士山を日常的に見ていましたから、東歌に富士山の噴火の歌があってもよさそうですが、ないのだそうです。

普通の山を取り上げるように、この山をぐるっと回って、会いに行くというような歌があるだけ。

噴火の歌は、万葉集に採用されなかっただけで、他に、あったのか、毎日富士山を見て生活している人には当たり前過ぎて、歌にするほどのことではなかったのか。

ここで、先生が話された、テキスト論のお話が、興味深いところでした。

例えば、

万葉集の時代なら、文献が少ない。

その少ない文献のみで、赤人はこういう人、黒人はこういう人、などと決め付けるのはおかしい。

そこには、編者の目というものもあり、

資料に残っているところ以外に、まったく別の面があったかもしれない。

「万葉集における赤人論」とすべき。

同じように、富士山の噴火を扱った東歌がないからといって、

それは、東国の人々には、当たり前のことで、歌にするほどのことではなかった、と言い切ることはできない。

これは、別に、古代のことだけではなくて、僕なども実感があるのは、

ミュージシャンの伝記など、いろいろ読んできますと、近くにいた人たちがあれこれ語るんですが、

同じ場所にいた人でも、ある人は、こうだ、といい、別の人は、違うという。

もし、どちらかだけの意見を聞いた人が「近くにいた人が言うのだから間違いない」と言ってしまえば、そのことが「真実」として伝えられかねない。

それを鵜呑みにはできないわけです。

いわんや噂話をや、です。

富士山の火山活動のことは、先月、YoNaGaのツアーで清水に行ったとき、NaoさんやGakuさんとも話したばかりで、ここにも実感がともないました。

巻十一 2702

明日香川 水行き増さり いや日異に 恋の増さらば ありかつましに

訳)明日香川の水かさが増すように 日増しに恋がつのったら 生きていられないだろう

明日香川は、今と違って当時は、水の量が多く、急流であることが有名だったそう。

巻十一 2696

荒熊の 住むといふ山の 師歯迫山 責めて問ふとも 汝が名は告らじ

訳)荒熊がすむという山の師歯迫山 責め問われても あなたのお名前は口に出しません

師歯迫山は、「責」を引き出すための序ということですが、ならば初瀬山でもいいわけですが、

荒熊がすむという山の師歯迫山という時、その荒熊に、なにかの意味合いも含まれるような気がします。

責め問うとは、誰が何を責めて、問うのか。

当時の婚姻には、母親が力を持っていました。

娘を守るという意味もあり、母親の了解がなければ、女性は男性と結婚できません。

この歌は、どんなに母親から責め問われようとも、あなたの名前は言いません、ということになるとしたら、この荒熊は、母親の責め問う様子を、連想させなくもない。

序というのは、単に序というだけで、そこにあるのではなくて、なんらからの意味合いを持たせているものなんですね。

面白いことが一杯です。

だいぶ長くなりました。

今日は、昼、帰る頃には、雨に。

27日、ライブの日は、なんとか、台風の影響がなくなってほしいものです。

その前日、別のリハーサルがありまして、ギターを3本持ち込みますから、

できれば、26日から、降らないでほしいと、欲張ります。

今日もすっかり夕方。これからの時間も素敵な時間を。

美しい明日へ心をこめて歌っています。

洋司


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