今朝は、いつも楽しみにかよっている万葉集の講座に行ってきました。
物に寄せて思いを陳べる歌が続いています。
巻十一 2695
我妹子に 逢ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ
訳)あの娘に逢うすべがなくて 駿河の国の富士の高嶺のように 燃え続けていることよ
当時、富士山は今よりも火山活動が活発で、桜島みたいな感じに、煙や時に炎も上げていたそうです。
富士山の噴火として、記録されている最古のものは、781年、奈良朝末期。
ただ、多くの都の人は、火山など見たことがなく、山が煙や炎を吹くなど、どういうことか、よくわからなかったようです。
自分の心の中で燃えているものを、火山に例えるなど、非常に陳腐な常套手段となるわけですが、当初は珍しい、新鮮な表現だったことでしょう。
東国の人々は、富士山を日常的に見ていましたから、東歌に富士山の噴火の歌があってもよさそうですが、ないのだそうです。
普通の山を取り上げるように、この山をぐるっと回って、会いに行くというような歌があるだけ。
噴火の歌は、万葉集に採用されなかっただけで、他に、あったのか、毎日富士山を見て生活している人には当たり前過ぎて、歌にするほどのことではなかったのか。
ここで、先生が話された、テキスト論のお話が、興味深いところでした。
例えば、
万葉集の時代なら、文献が少ない。
その少ない文献のみで、赤人はこういう人、黒人はこういう人、などと決め付けるのはおかしい。
そこには、編者の目というものもあり、
資料に残っているところ以外に、まったく別の面があったかもしれない。
「万葉集における赤人論」とすべき。
同じように、富士山の噴火を扱った東歌がないからといって、
それは、東国の人々には、当たり前のことで、歌にするほどのことではなかった、と言い切ることはできない。
これは、別に、古代のことだけではなくて、僕なども実感があるのは、
ミュージシャンの伝記など、いろいろ読んできますと、近くにいた人たちがあれこれ語るんですが、
同じ場所にいた人でも、ある人は、こうだ、といい、別の人は、違うという。
もし、どちらかだけの意見を聞いた人が「近くにいた人が言うのだから間違いない」と言ってしまえば、そのことが「真実」として伝えられかねない。
それを鵜呑みにはできないわけです。
いわんや噂話をや、です。
富士山の火山活動のことは、先月、YoNaGaのツアーで清水に行ったとき、NaoさんやGakuさんとも話したばかりで、ここにも実感がともないました。
巻十一 2702
明日香川 水行き増さり いや日異に 恋の増さらば ありかつましに
訳)明日香川の水かさが増すように 日増しに恋がつのったら 生きていられないだろう
明日香川は、今と違って当時は、水の量が多く、急流であることが有名だったそう。
巻十一 2696
荒熊の 住むといふ山の 師歯迫山 責めて問ふとも 汝が名は告らじ
訳)荒熊がすむという山の師歯迫山 責め問われても あなたのお名前は口に出しません
師歯迫山は、「責」を引き出すための序ということですが、ならば初瀬山でもいいわけですが、
荒熊がすむという山の師歯迫山という時、その荒熊に、なにかの意味合いも含まれるような気がします。
責め問うとは、誰が何を責めて、問うのか。
当時の婚姻には、母親が力を持っていました。
娘を守るという意味もあり、母親の了解がなければ、女性は男性と結婚できません。
この歌は、どんなに母親から責め問われようとも、あなたの名前は言いません、ということになるとしたら、この荒熊は、母親の責め問う様子を、連想させなくもない。
序というのは、単に序というだけで、そこにあるのではなくて、なんらからの意味合いを持たせているものなんですね。
面白いことが一杯です。
だいぶ長くなりました。
今日は、昼、帰る頃には、雨に。
27日、ライブの日は、なんとか、台風の影響がなくなってほしいものです。
その前日、別のリハーサルがありまして、ギターを3本持ち込みますから、
できれば、26日から、降らないでほしいと、欲張ります。
今日もすっかり夕方。これからの時間も素敵な時間を。
美しい明日へ心をこめて歌っています。
洋司