『今日の出来心』

シンガーソングライター&作詞家“久保田洋司”の365日書き下ろし公開日記です
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老木に花の咲かんがごとし。今日の出来心2013年9月24日(火)

2013年09月24日 09時12分44秒 | Weblog

老人のものまね、この道の奥義なり。

老人のものまねは、一番難しい、と。

世阿弥の「風姿花伝」、好きで時々読むんですが、今日は、川瀬一馬校注、現代語訳から、

抜粋で書き写し。

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木こりや、汐汲などの様なわざがいる曲などの老体をうまくまねて演じおゝせると、すぐにあれは上手だと言うものがあるが、それは、誤った批評である。冠、直衣、烏帽子、狩衣などを身にまとった身分の高い老人の姿は、この道を会得したような役者でなければ似合うはずはない。

老人の物まねでも見た目の美しさがなければ、面白みがないわけだが、およそ古い申楽のやり方では、老人の所作といえば、すぐ腰膝をかがめ、体をちぢめる。老人だからといって、そういうことをすれば、形が悪くて見た目に美しさがない。そこで面白みも少ない。

老人の物まねのやり方は、できるだけはしたなくしないで、しとやかに所作をするがよろしい。

つまるところ、老人の物まねは、老木に花が咲くような趣きになることである。

***

もちろん、舞台でのことですから、美しく見えるようにすることが大事で、日常生活のことではないわけですが、僕など、普段、おじいさんを見るのが、好きなもので、なにが好きなのか、考えてみれば、こういうことのような気もするんです。

老木(おいき)に花の咲かんがごとし。

あの、淡い色合いの服装、けっして高級なものでなくても、いつもきれいにしていて、ゆっくり静かに歩き、ふと目をふせたりなどする。

50年前のことも、鮮やかに、まぶたに浮かぶことがある。

聖諦(しょうたい)とは、難しい言葉ですが、仏教の言葉で「聖なる心理」と。

この言葉を、太宰治は、「せいてい」と読んで、自分流に解釈していて面白いんです。

「お伽草紙」の中の「浦島さん」。

「かすかに、琴の音が脚下に聞こえる。日本の琴の音によく似ているが、しかしあれほど強くはなく、もっと柔らかで、はかなく、そうして変に嫋々たる余韻がある。菊の露。薄ごろも。夕空。きぬた。浮寝。きぎす。どれでもない。風流人の浦島にも、何だか見当のつかぬ可憐な、たよりない、けれども陸上では聞く事の出来ない気高い凄(さび)しさが、その底にながれている。

『不思議な曲ですね。あれは、何という曲ですか。』

亀もちょっと耳をすまして聞いて、

『聖諦』と一言、答えた。」

最終的に、三百歳になった浦島さんは、不幸だったのか。

太宰が、絶妙な答えを考えています。これは、是非とも、読んでおきたいところ。

亀が、冒険を「信じる力と、言い直したらどうでしょう」と。

「あの谷の向こう側に確かに美しい花が咲いていると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがって向こう側に渡って行きます」と。

「瘤取り」や「舌切雀」にも、良い感じの「お爺さん」が。

この辺のものを読んでから、僕は、おじいさんファンになったのかも。

さ、長々書いてるうちに、準備して出かける時間。

本日は、10月のライブのための、打ち合わせや、音合わせ。

行ってきます。

素敵な一日になりますように。

美しい明日へ心をこめて歌っています。

洋司