「あなたはカッテキですね」と、教会である方から言われました。カッテキとは、韓国語で大根キムチを意味し、また便利屋のように色々用事に使える人のことを言うそうです。私は何でもできないけど、とりあえず出来る範囲で、やる方がいない場合に、便利に使ってもらえればいいと思って喜んでしています。教会では通常、皆で礼拝や運営のために、奉仕として役割分担しています。ここではそれぞれが自発的に、出来ることを完璧ではなくても担当し、支え合うことで成り立ち、かつ、その人の才能や出来る事に関わらず、たとえ何もしなかったとしても、そのままのお互いを認め合い、助けあうべきところです。私がカッテキなのは、夫の職務柄、誰かが急に予定していた役割が出来ない時、私が代わりにするのが一番頼みやすいということもあります。
教会外では、上を上をと目指して競争し、最高のもの、完璧を求められる社会(会社や組織、芸術界)ですから、その物差しで測れば私の出来ることはその場限りで、誰でもやろうと思えばできるレベルのことです。もし私が、自分の持っている能力、才能や持っている資産、人がどう評価するかで自分の価値を見出そうとするなら、私は無価値な人間でしょう。
一方、人間の比較というのは、誰と比較するかで異なる、主観的な事であります。スポーツ等で競争相手と比較し、相手に負けまいという動機でさらに腕を磨く、頑張ることが悪いこととは言いません。しかし、私にとっては他者と比較することは意味がないと、ある時から悟りました。それ以来、人と自分自身の才能、性格、体型等でもって自分に価値を見出そうとすることを止めました。すると、不必要な落ち込みや、優越感を持つことなく、人をうらやましいとも思うこともなく、とっても自由になり、今のありのままの自分として与えられているものを神様に感謝出来るように徐々に変えられてきたようです。また誰かと比較しなくとも、必要であれば、そのことをする上での能力も、機会も与えられてきました。つまり、私は全てのことは、自分で努力して勝ち取るというより、神様から与えられていること、恵みとして受け取っています。
イエス・キリストは、2千年前の当時、弟子たちと共に生活されて、宣教活動をされていました。弟子たちの間で、だれが一番偉いかという論争があったと聖書は記録しています。そんな弟子たちにたいして、イエス様は「誰でも偉くなりたいと思うならが、人に仕える者となりなさい。」と言われました。そして、神の子であるイエス様は、地上にいる間に徹底的に人々の必要に低くなって仕えられ、最後は人々の罪の代わりにご自分が犠牲になって十字架刑にかかって死なれたほどです。
イエスが十字架で死なれ3日後に復活されてから、弟子たちに現れた時も、まだ他の弟子と比較し、「この人はどうなんですか?」と質問したペテロという弟子がいました。するとイエス様は「それがあなたに、何のかかわりがあるのか? あなたは私に従ってきなさい。」と言われたのです。イエス様はあくまでも、人のことより、自分自身と神さま・イエス様との関係の中で、自分の心を探り、もし主として信じるのならば、周りがどうであれ、「私に従いなさい」と言われておられるようです。そして、私に価値があるかどうかは、私の能力や性格、神の為に奉仕をする(善い行いをする)の有無にあるのではなく、ただイエス様は私が命を得るために、代わりに死んで下さったほどに私に価値を見出して下さり、大切な存在として愛してくれていることから来ていると信じています。そうはいっても、まだまだ私は100%人を意識しないでいられない時もあります。そんな時は、今日の箇所を思い出し、比較することをやめ、私に価値を見出して下さるイエス様に従っていきたいと思うのです。
「ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 」 ヨハネによる福音書21章22節
教会外では、上を上をと目指して競争し、最高のもの、完璧を求められる社会(会社や組織、芸術界)ですから、その物差しで測れば私の出来ることはその場限りで、誰でもやろうと思えばできるレベルのことです。もし私が、自分の持っている能力、才能や持っている資産、人がどう評価するかで自分の価値を見出そうとするなら、私は無価値な人間でしょう。
一方、人間の比較というのは、誰と比較するかで異なる、主観的な事であります。スポーツ等で競争相手と比較し、相手に負けまいという動機でさらに腕を磨く、頑張ることが悪いこととは言いません。しかし、私にとっては他者と比較することは意味がないと、ある時から悟りました。それ以来、人と自分自身の才能、性格、体型等でもって自分に価値を見出そうとすることを止めました。すると、不必要な落ち込みや、優越感を持つことなく、人をうらやましいとも思うこともなく、とっても自由になり、今のありのままの自分として与えられているものを神様に感謝出来るように徐々に変えられてきたようです。また誰かと比較しなくとも、必要であれば、そのことをする上での能力も、機会も与えられてきました。つまり、私は全てのことは、自分で努力して勝ち取るというより、神様から与えられていること、恵みとして受け取っています。
イエス・キリストは、2千年前の当時、弟子たちと共に生活されて、宣教活動をされていました。弟子たちの間で、だれが一番偉いかという論争があったと聖書は記録しています。そんな弟子たちにたいして、イエス様は「誰でも偉くなりたいと思うならが、人に仕える者となりなさい。」と言われました。そして、神の子であるイエス様は、地上にいる間に徹底的に人々の必要に低くなって仕えられ、最後は人々の罪の代わりにご自分が犠牲になって十字架刑にかかって死なれたほどです。
イエスが十字架で死なれ3日後に復活されてから、弟子たちに現れた時も、まだ他の弟子と比較し、「この人はどうなんですか?」と質問したペテロという弟子がいました。するとイエス様は「それがあなたに、何のかかわりがあるのか? あなたは私に従ってきなさい。」と言われたのです。イエス様はあくまでも、人のことより、自分自身と神さま・イエス様との関係の中で、自分の心を探り、もし主として信じるのならば、周りがどうであれ、「私に従いなさい」と言われておられるようです。そして、私に価値があるかどうかは、私の能力や性格、神の為に奉仕をする(善い行いをする)の有無にあるのではなく、ただイエス様は私が命を得るために、代わりに死んで下さったほどに私に価値を見出して下さり、大切な存在として愛してくれていることから来ていると信じています。そうはいっても、まだまだ私は100%人を意識しないでいられない時もあります。そんな時は、今日の箇所を思い出し、比較することをやめ、私に価値を見出して下さるイエス様に従っていきたいと思うのです。
「ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 」 ヨハネによる福音書21章22節