Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

初心に帰る

2019年12月23日 | 日記
 私が開いている聖書勉強会には、クリスチャンだけでなく、キリスト教を信じたいけどまだ信じられない人、求めている人も参加されています。彼らからの質問やコメントは毎回新鮮で、はっとさせられ、気がつかされることが多く、感謝です。聖書を何度も読み、説教で話しを聞いていたりすると、もう知っている、分かっていると勘違いしがちですが、実は私は聖書に関しても、神様の愛や恵に関しても、まだまだ知らなければならないことさえ分かっていない者です。また、目に見えない霊的な恵や祝福を見逃して、具体的活動にばかりに目を向けてしまいがちです。

 今回受けた質問では、「信仰が薄かったキリストの弟子たち、キリストが逮捕された時逃げてしまった弟子たちが、その後なぜ急に大胆に、迫害を恐れず宣教する様な信仰になったのか、信仰のレベルは何によるのか?」でした。それに対して、弟子たちが変えられたのは、キリストが復活した後、聖霊(神の霊)が彼らに与えられたからですと説明しました。すると、「つまり、信仰が薄い・深いというのは、弟子たちの性格(例えばリーダシップがあるとか、冷製沈着)ではなく、聖霊の働きなんですね。」とその方が納得されたのを見て、そうだった、信仰さえも、聖霊が働いて神様から与えられ、強められるのだと自分で説明しながら、再認識させられました。
 
 先日、大学生向けに伝道している友人夫婦からのニュースレターを読んでも、励まされました。彼らが参加した教会開拓者のための修養会にて示されたことを分かち合ってくれたのです。「どうしたら宣教が前進し、教会が成長するのか?」ということ以上に「神は、私たちが何かをしたからではなく、何かをする前から私たちを愛してくださっている」ということに中心が置かれていたことでした。私達夫婦も、2020年の4月から、信徒が現時点で不在(感謝なことに、ヘルプで他教会から礼拝に参加してくださる方々、祈って下さる多くの方々に現在は支えられています)、建物だけあるという教会で、開拓伝道をしていく予定です。宣教の計画、具体的な活動など夫婦で話合ったり、様々な書類を準備したりと、私の頭の中で、くるくるとしなければならないことリストが回っています。しかし、このような事務的な事よりも、何よりも大切なのは、神様は私達が何かをする、しないに関わらず、愛して下さっているのだから、その愛に応答してなすべきことをやる、そして必ずこの教会に信徒を、神様を求めている人々を神様が送って下さると信じていこうと思います。

 教会に人が来るというのは、ビジネスと異なり宣伝したからといって効果があるわけでもなく、またたとえ教会内で何か事業をして人を集められたとしても、それによって確実に人々が信仰につながるわけではありません。しかし、確信の持てることは「神様が」救いを求めている人を送ってくれて、信仰をその人に与えるのも神様の業だということです。この信仰に立って、聖霊の力を注いでいただき、神様の福音が広がることを祈りつつ、示されたことを地道にやっていこうと思います。私が神様に救われたのは、私が何かをしたからではなく、何の働きもなく*1、ふさわしい人間でなはなくとも、恵によって信仰が与えられること*2、全てが神様の恵であることに、いつも初心に帰ろうと気がつかされました。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」 ヨハネの第一の手紙4章10節


*1「 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 」ローマ人への手紙4章4-5節
*2「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」 エペソ人へ手紙2章8節

☆義とする→ 神がその人を正しいとみなしてくれこと、 賜物→プレゼントのこと。