苦しみというと、肉体的なもの、精神的なものとあると思います。そして苦しみは個々の主観的体験であるため、人が他者の苦しみにどれだけ共感し、慰めの言葉をかけられるかには限界があります。そして、当人は自分にしかわからない思い、独りで耐えなければならない状態に孤独を感じてしまうものです。
2004年に公開された映画『パッション』はイエス・キリストが十字架にかけられる最後の12時間を描いた映画で、日本でも話題になり、私はキリストに対する生々しい暴力描写を涙で直視できない程でした。イエスが受けた十字架刑と拷問については、聖書は詳細は記していませんが、この映画で描写されたと同等かそれ以上に残酷であったと言われます。イエスはその肉体的な苦しみだけでなく、精神的苦しみもありました。当時のユダヤの人々から救世主と期待されていたため、それをねたむ支配階級たちの操作により人々からも憎まれ、嘲られ、ご自分の弟子たちからも裏切られ、見捨てられました。そして神に対しても「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」と叫び、一人孤独に十字架上で息を引き取られたことが記されています。神である方が人となって生まれ、およそ人が受けうる全ての苦しみ、痛みを人として経験されたからこそ、イエスは人のいかなる苦しみに同情できる方だと下記の聖書の箇所は語っています。
ある方は何年も続く家族内の問題で苦しみ、いっそ死ねたらと絶望に至ることを繰り返されますが、それでも信仰がその方をなんとか支えています。私はただその方の話を聞き、心を痛めて共に祈り、神様に委ね続ければいつかこの試練を乗り越えられると励ましています。誰も頼る人もいない、皆から責められているように思えてしまう追い詰められた状況を涙ながらに語る中で、突然、その方から驚きの言葉がでてくるのです。
「でも、イエス様は十字架に架かった時、もっと孤独で、虐げられて、苦しかったんだろうなあと思って。。。」。
私はすかさず「そうだよ、だから、人は分かってくれない~さんの痛み・苦しみをイエス様は全てわかってくれて、助けようとして下さる、だから依りすがることが出来る神様なんだよ、そして必ず先の道を示しくださるよ」とそのことを記す下記の聖書のことばと共に伝えました。
キリストの十字架の受難とその意味は、書物や映像ではある程度は理解できるでしょう。しかし、自分自身がある苦しみを通過して初めて、心の底から理解し、慰めが与えられます。またこれが何のための苦しみなのかが自分に迫ってくるのではないかと、その方の発言から思わされました。そして、キリストは死んで終わりではなく、3日後に復活されたこと。これがあるからこそ、今も生きて私たちのために働かれ、動いておられる神だと信じることができます。そして私たちを愛するがゆえに通られたキリストの苦難に感謝し、たとえ今の状況が苦しくても、乗り越えられる力を与えられると信じます。今苦しみを通過している方々に対しても、自分に対してもそれがおこることを。
「この大祭司*は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 ヘブル人への手紙4章15-16節
*「この大祭司」とはイエス・キリストのこと
2004年に公開された映画『パッション』はイエス・キリストが十字架にかけられる最後の12時間を描いた映画で、日本でも話題になり、私はキリストに対する生々しい暴力描写を涙で直視できない程でした。イエスが受けた十字架刑と拷問については、聖書は詳細は記していませんが、この映画で描写されたと同等かそれ以上に残酷であったと言われます。イエスはその肉体的な苦しみだけでなく、精神的苦しみもありました。当時のユダヤの人々から救世主と期待されていたため、それをねたむ支配階級たちの操作により人々からも憎まれ、嘲られ、ご自分の弟子たちからも裏切られ、見捨てられました。そして神に対しても「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」と叫び、一人孤独に十字架上で息を引き取られたことが記されています。神である方が人となって生まれ、およそ人が受けうる全ての苦しみ、痛みを人として経験されたからこそ、イエスは人のいかなる苦しみに同情できる方だと下記の聖書の箇所は語っています。
ある方は何年も続く家族内の問題で苦しみ、いっそ死ねたらと絶望に至ることを繰り返されますが、それでも信仰がその方をなんとか支えています。私はただその方の話を聞き、心を痛めて共に祈り、神様に委ね続ければいつかこの試練を乗り越えられると励ましています。誰も頼る人もいない、皆から責められているように思えてしまう追い詰められた状況を涙ながらに語る中で、突然、その方から驚きの言葉がでてくるのです。
「でも、イエス様は十字架に架かった時、もっと孤独で、虐げられて、苦しかったんだろうなあと思って。。。」。
私はすかさず「そうだよ、だから、人は分かってくれない~さんの痛み・苦しみをイエス様は全てわかってくれて、助けようとして下さる、だから依りすがることが出来る神様なんだよ、そして必ず先の道を示しくださるよ」とそのことを記す下記の聖書のことばと共に伝えました。
キリストの十字架の受難とその意味は、書物や映像ではある程度は理解できるでしょう。しかし、自分自身がある苦しみを通過して初めて、心の底から理解し、慰めが与えられます。またこれが何のための苦しみなのかが自分に迫ってくるのではないかと、その方の発言から思わされました。そして、キリストは死んで終わりではなく、3日後に復活されたこと。これがあるからこそ、今も生きて私たちのために働かれ、動いておられる神だと信じることができます。そして私たちを愛するがゆえに通られたキリストの苦難に感謝し、たとえ今の状況が苦しくても、乗り越えられる力を与えられると信じます。今苦しみを通過している方々に対しても、自分に対してもそれがおこることを。
「この大祭司*は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 ヘブル人への手紙4章15-16節
*「この大祭司」とはイエス・キリストのこと