Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

悲しみの果てに寝る

2023年03月26日 | 日記
 睡眠は言うまでもなく、生きていくうえで重要な活動であり、心の状態を調整する機能があり、それがうまく作動しないと心身に悪影響を与えます。幼児が泣きつかれて、そのまま寝てしまうことがあるように、大人になっても悲
しい思いに打ちひしがれて、そのままベッドに入り、寝るということも必要なことかもしれません。ちなみに私の問題点は、睡眠不足・疲労の有無に関わらず、じっと座っていると、起きていようと努力しても眠くなることです。轟音がするMR検査の最中でも気が付くと寝ている程です。

 イエス様の弟子たちも、ここぞという時に眠ってしまったことが聖書にしるされています。イエス様は十字架にかかる直前、これからご自身に起ころうとする受難を知っておられ、父なる神様に血の汗が出る程もがき苦しんで祈られていました。「この杯をわたしから取り除けてください」と。杯を飲むとは苦しみを受けることの表現です。イエス様の受難は、すべての人の罪を負って、十字架上で死んで陰府に下られたことです。すると、初めから父なる神様と子なるイエス様は一つで、一緒であったのに、イエス様が陰府に下った時は神様とも断絶されてしまうことになります。十字架の肉体的、精神的苦しみ以上に、この父との断絶のほうが、イエス様にとって、私たち人間には計り知れない大きな苦しみと恐れだったかもしれません。

 このイエス様の苦しみの祈りの際中、「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」とイエス様は2-3回弟子たちに言われましたが、彼らは「寝ていた」と記されています。ルカによる福音書には眠ってしまっていた理由が、「悲しみの果てに」と記されています。おそらく、弟子たちは、イエス様がこれから恐ろしいことになる、つまり死ぬかもしれない、自分たちとはもう一緒にいられないということを思うと悲しくて、祈りながらそのまま、眠ってしまったのでしょう。

 私たちも弟子たちのように、起きて祈っていることが出来ない状態があるかもしれません。目の前の状況や人間関係が重圧となって、心が押しつぶされそうになる。もしくは、悪への誘惑が目の前に迫ってくる。しかし、そんな弱い私たちにも「起きて祈っていなさい」とイエス様は何度も祈ることを思い出させてくださる方です。主イエス様は「自分の力で起き上がれ」とは言っていません。私たちを起き上がらせてくださるのは、死に勝利し、復活されたイエス様です。自分の力で立てない、立ち直れない、どうしようもないとあきらめた時、立てるように引き上げてくださるイエス様、死に打ち勝った、復活されたイエス様を思い出し、助けを求めて祈れるのはなんと心強いことでしょうか。また、どのように祈ったらよいかわからなくて、心が悶々としていたとしても、私たちの内側に住む聖霊がかわりに神様に祈りの内容を「とりなしてくださる」*と聖書には記されています。これは、さらなる安心です。自分の心を私以上にわかって下さる方がおられるということ、またその方に信頼して任せてよいことは感謝につきません。

「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」ルカによる福音書22章45-46節

*「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ信徒への手紙8:26

引用:新共同訳聖書