先日、益子教会で月一回の親子ゴスペル教室が開催された時、日本に宣教のため在住しているアメリカ人家族とアジア学院の学生(インドの方々)が参加してくれました。そのため、その日は英語の曲がメインでしたが、その一つは、「Hallelujah、Salvation and Glory」という曲を3パートに分かれてハーモニーで歌いました。すると、歌っている皆が一つになって、会堂が揺れ動くような、非常に力ある賛美となり、喜びにあふれて久しぶりに感動しました。賛美を歌うことでこれほど気持ちが高揚し、「神様が素晴らしい」という歌詞をゴスペルの曲調に乗せて高らかに歌うことができ、ああ、天国での礼拝、賛美(黙示録4章)はもしかしたらこんな感じなのかしらと、ふと思わされました。
これは一時の感覚的なものと言われればそれまでですが、天国はどういうところなのかを考える助けになる体験です。天国というのは将来でなければ存在しないもの、現在においては経験出来ないものと思いがちです。つまり、それはこの体が死んでから行く場所であり、今現在は関係ないところであるとしがちで、聖書に天国がどうであるか詳しく記されていないのもあってイメージが難しい事柄です。イエス様は天の国は祝宴、婚礼の宴会として譬えで表現されていますが、また黙示録では荘厳なる都、新しいエルサレムとして描かれています。またイエス様は、神の国はあなたがたの間にあるとも言われましたし*1、人間が将来与えられる「復活した体」については、もはや婚姻関係もない、つまりこの世の人間関係はなく、皆が「天使のようになる」と言われています*2。これは死んだら天使になるという意味ではなく、「のように」という類比表現であり、また時間的な空間的な制限のない体、天国で生きられる体であろうとイメージすることができます。
目に見えないキリストが私たちと共にいて下さるということは、この地上でだけでなく、天の国でも共にいる状態(それが完全になるのは将来ですが)であることを信じていきたいと願います。聖霊の働きにより心に平安を与えられ、この世の生活にあっても、天の国のことを考え、天の国を部分的でもこの世で味わえる、先取りできる行為につながればと願います。その行為の一つには礼拝であり、兄弟が互いに愛し合うということでしょう。天国での礼拝にちかいものを、普段の礼拝で少しでも神様に捧げられるように、リアリティを持ちたいと願います。すると、それが日常生活の、現実の厳しい局面、困難な状況になった時の励ましとなり、忍耐が与えられるからです。
何事も忍耐するには希望が必要です。その希望とは、天の国における希望であり、それは「将来」だけでなく、「今」も、私はキリストにあって、自分は復活させられて天の父の前にいると、(イエス様は弟子たちに「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:2-4 と約束されました)、もっと信仰で認識できると、明確な希望となるでしょう。今、私はこの地上にいるので、自分が天にキリストとともにいる状態が見えません。下記のみ言葉にあるように、もしかしたらその状態は「キリストと共に神の内に隠されている」から見えないのであって、聖霊の働きで信仰においてこのことを認識し、そしてそれが将来現われることを待ち望んでいきたいと願います。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」 コロサイ信徒への手紙3:1-4
*1 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:21
*2 マタイによる福音書22:29-30イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
これは一時の感覚的なものと言われればそれまでですが、天国はどういうところなのかを考える助けになる体験です。天国というのは将来でなければ存在しないもの、現在においては経験出来ないものと思いがちです。つまり、それはこの体が死んでから行く場所であり、今現在は関係ないところであるとしがちで、聖書に天国がどうであるか詳しく記されていないのもあってイメージが難しい事柄です。イエス様は天の国は祝宴、婚礼の宴会として譬えで表現されていますが、また黙示録では荘厳なる都、新しいエルサレムとして描かれています。またイエス様は、神の国はあなたがたの間にあるとも言われましたし*1、人間が将来与えられる「復活した体」については、もはや婚姻関係もない、つまりこの世の人間関係はなく、皆が「天使のようになる」と言われています*2。これは死んだら天使になるという意味ではなく、「のように」という類比表現であり、また時間的な空間的な制限のない体、天国で生きられる体であろうとイメージすることができます。
目に見えないキリストが私たちと共にいて下さるということは、この地上でだけでなく、天の国でも共にいる状態(それが完全になるのは将来ですが)であることを信じていきたいと願います。聖霊の働きにより心に平安を与えられ、この世の生活にあっても、天の国のことを考え、天の国を部分的でもこの世で味わえる、先取りできる行為につながればと願います。その行為の一つには礼拝であり、兄弟が互いに愛し合うということでしょう。天国での礼拝にちかいものを、普段の礼拝で少しでも神様に捧げられるように、リアリティを持ちたいと願います。すると、それが日常生活の、現実の厳しい局面、困難な状況になった時の励ましとなり、忍耐が与えられるからです。
何事も忍耐するには希望が必要です。その希望とは、天の国における希望であり、それは「将来」だけでなく、「今」も、私はキリストにあって、自分は復活させられて天の父の前にいると、(イエス様は弟子たちに「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:2-4 と約束されました)、もっと信仰で認識できると、明確な希望となるでしょう。今、私はこの地上にいるので、自分が天にキリストとともにいる状態が見えません。下記のみ言葉にあるように、もしかしたらその状態は「キリストと共に神の内に隠されている」から見えないのであって、聖霊の働きで信仰においてこのことを認識し、そしてそれが将来現われることを待ち望んでいきたいと願います。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」 コロサイ信徒への手紙3:1-4
*1 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:21
*2 マタイによる福音書22:29-30イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。