いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

「雑居四合院」の人びと2、小堂胡同の暮らし

2011年05月01日 12時24分43秒 | 北京雑居四合院の人々
王さんのお宅は、こじんまりとした「一進院」。

つまりは四合院が1セットのみ。
さらに奥にもう1セットあれば「二進院」、
合計3セットあれば、「三進院」となる。



王さんの家は、その「北房(南向きの部屋)の「西厢房(西のそば部屋)」にあった。(下の図を参照)





見取り図:小堂胡同?号四合院の見取り図。
うろこ模様はオリジナルの四合院。
その他の部屋は、あとから建て増しされた部分。

トイレに行くには、入り口を出て少し北側にある公共トイレへ行く。

 


部屋の中に入ると、打ちっぱなしのコンクリートの床に家具や自転車が見える。
本来なら空き地であった部分もすべて屋根をつけて囲ってしまっているため、
採光はひどく悪く、昼間でも室内の照明が欠かせない。


入り口に入ったところに練炭ストーブがあり、道具がこぎれいにまとめてあった。





写真:王さんの部屋の練炭ストーブ


 

練炭は、日本の偉大なる発明だという(中国語:蜂窝煤fengwomei) 。
旧満州時代に大陸にも広まったそうだが、北京の冬は今でも練炭ストーブで暖を取るところが多い。
(注:オリンピック前に二環路内での石炭燃焼は禁止になり、現在はすべて天然ガスや深夜電力に変換されている)



「練炭」は石炭の粉を黄土と混ぜて水でこね、型に入れて固めたものである。
丸い筒型、まん中には統一規格でたくさんの穴があいている。
空気の通しをよくして燃え方を均一にするためだという。



私も北京郊外に住み、練炭の取り扱いに苦労した。


一番小さなストーブでもこれを上下に三つ重ねる。
黄土に混ぜてある石炭成分が燃え尽きると、真っ黒だった練炭が赤黄色に変わる。


少しも黒い部分がなくなればもうそれ以上燃えないただの黄土の塊になる。

 

三つ重ねた一番下から燃え尽きたら、
まずは三つすべてを取り出し、一番下の黄色くなった一つを取り出し、残りの二つを下に詰めていく。

次に一番上に新しい練炭を乗せ、三つの穴の位置がぴったり合うように位置をずらす--。
こうしないと下から空気が通らず均一に燃えない。

 

さらに穴に詰まったゴミを鉄棒でつっつ--っとつついて一番下に落としてしまい、だめ押しで通気をよくする。
その上からやかんか、ストーブのふたをきっちり乗せる。

排気は煙突から外に出されるが、うっかり外に漏れると、練炭中毒となり、窒息死する。


 

御年74歳という王さんは、解放前からここに住む。
この四合院の変遷についてお話を聞くうち、
ご本人の人生のさまざまな節目にも話にも及び、
解放前後から今に至るまでの庶民の暮らしの一端が垣間見えて興味深かった。

 

王さんが西単・小堂胡同のこの四合院に住み着いたのは21歳、1951年解放直後のことだった。
故郷は河北省の徐水(北京から西南へ120km)、
13歳の時、母親が亡くなり、肩を落として呆然とする父親とうじゃうじゃいる兄弟だけが残された。



貧乏で不景気な顔を互いに付き合わせるしかない生家に残るよりも、
北京にいる叔母なら面倒を見てくれるのではないかと思い、少年は姉と二人で上京した。



当時汽車が通ってなかったため、北京まであと半分くらいの距離にある高碑店までは少しお金を払い、
運送屋のロバ車の背に乗せて貰った。
そこからは汽車が通っていたので、北京への列車に乗り換えた。


叔母は夫婦で北京西南の広安門で酒蔵を営んでいた。
華北では良く見られる、店先を居酒屋にした「大酒缸(タージウガン=大きな酒甕)」だ。


店に入ると仕込み用の陶器の黒い酒樽の上に丸い木の板をのせてテーブル代わりとし、
自家製の酒とちょっとした酒の肴を出す。

 
肉体労働者が一日の労働の終わりに、
仲間とクダを巻いて一皿の揚げピーナツを肴に50度を越す白酒をぐびぐびと飲み干すような、庶民のための店だ。
恐ろしく長い間風呂にも入らず、服も洗濯したことがないような汗くさい男どもの体臭がギラギラと充満し、
凍った空気に白い息を吐き出す熱気が渦巻くような--。


大抵は大口をたたく血気盛んな野郎どもが、大見得を切って胸をたたきつつ、がなり声を上げているが、
壁には

「莫談国事(政治話はご法度)」

の張り紙。


--政治を語り始めると、熱くなりすぎて刃傷沙汰になるから、という酒屋の昔からの伝統である。

 

13歳の王少年は、最初の数ヶ月何もせずにぶらぶらしていたが、
そのうちやることもなく手持ち無沙汰となり、
何かやらせてくれと言って、表の酒屋の店番を始めた。

親戚の店でもあり、労働環境は悪くなく、20歳前まで機嫌よく勤めた。

 

ここで世の中が変わる。

人民解放軍が北京に入城し、叔母の店は「民族資本」の会社だからといって国営化されたのだ。
国営化とは聞こえもいいが、要するに没収である。

店の番頭以下すべて解散となり、王少年は田舎に帰ることになった。






王さんの家の水道。トイレバスはないが、かろうじて水道だけは通っている。




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「雑居四合院」の人びと1、胡同の長屋暮らし

2011年05月01日 11時06分50秒 | 北京雑居四合院の人々
以下の文章は、


2004年前後、オリンピックを目前に控えた北京で起こった町並み保存運動に関する一連の動きについて、
興味にかきたてられ、書いたものです。



あれから6年がたった今、取り壊されるべき建物は、
とうの昔にブルドーザーになぎ倒されて陰も形もなく、
ひたすらつわものどもが夢の跡の感ですが、
当時の熱気というものがあり、
いくらかそれが伝わってくるものがあれば、
それはそれなりに一つの記録なのではないか、と思っています。



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北京を成す風景といえば、言わずと知れた紫禁城と胡同(フートン=横丁)の存在だろう。

 


灰色一色の煉瓦作り。


黄砂が吹き溜まり、ぺんぺん草の恣(ほしいまま)に繁殖するすすけた屋根瓦。
年に一度、春節にだけ貼りかえられる、
当初は目の覚めるような深紅が攻撃的に視線を占拠としていた春聯(しゅんれん)が、
屋根つきの門構えの両脇で次第に日常生活の中、北国の殺傷力の強い太陽の光に色褪せ、
風雨に破かれ、はたはたと強風に凄涼たる音をなびかせる。

 


鈍く油光りした朽ちかけた頑丈な門が、住人が通るたびにがたりがたりと億劫な蝶番(ちょうつがい)の音を鳴らせる。

 

「胡同(フートン)」が今、急激に姿を消そうとしている。



2008年のオリンピック開催が決定してからは特に街の再開発のピッチに拍車がかかった。
ブルドーザーの轟音とともに胡同は消えつつある。

 
世界中からこれを惜しむ声が広がるが、大きなうねりをとめることはできそうにない。
胡同とともに、人口も大刷新が行われつつある。


長年苦楽を共にした隣近所がばらばらに立ち退き、
古い下町の住民は、市の中心部から数十kmも離れた郊外に追いやられ、
代わりに新たな「勝ち組」となった全国各地の富裕層が住みつきつき始めた。



「大雑院(ターザーユエン)」

 反語的に聞こえるようではあるが、清朝滅亡の前にもすでに貧乏な満州族がいた。

 

本来なら統治者階級として裕福であるべきだ満州族だが、
清朝末期ともなると、人口が増えすぎて兵役にもありつけず、
生活力のなさのため、屋敷や庄園を切り売りして生活する旗人(きじん、八旗に所属する人=満州族を中心とする特権階級)が多かった。

 

その後、清朝が滅亡すると、その没落には拍車がかかる。
数百年と政権の庇護を受けて生活力を失っていた旗人らは、
突然、熾烈な競争社会に放り出されて坂道を転がり落ちるように急迫して行き、
次々と屋敷を漢人に売り払った。

 

時には最初から売り払うのではなく、生活の足しになるように屋敷の間貸しを始めることもあった。
華北の典型的建築スタイルである四合院は、
日当たりが一番いい、気持ちのいい南向きの部屋に主人が住む。


北向きの部屋は、じめじめと湿気が多く、
冬は薄ら寒いため、使用人に住まわせたり、物置にする。
 

そこで貸し出すなら、まずは自分が絶対住みたくない北向きの部屋から貸し出す。
さらに貧窮してくると東向きと西向きも貸し出す。

 
こうして大屋と間借り者が雑居する状態となる。
それがさらに困窮すると屋敷ごと売っ払う。

 

買い取り手は自分が住まずにいっそのこと全部人に貸して家賃を取り、
「大雑院(ターザーユエン=雑居四合院)」となるわけである。

 

共産党政権になってからは、この傾向にさらに拍車がかかる。
全員平等を原則とするため、一人で多くの部屋を占拠することは許されない。
没収されて他の人に分配された。




王さんの場合




 


中国人の友人に、胡同に住む知り合いはいないかと聞き、
紹介してもらったお宅を訪ねる機会を得た。 



尋ねたのは小堂胡同に住む王さん。
西単の高層ビルと現代的なショッピングモールの横に唯一残る胡同集落だ。
北数百メートルの部分も派手に取り壊している最中だった。




写真: 「大雑院」の入り口



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