いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで8、雍正帝の「太子密建の法」

2017年05月23日 16時07分15秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
元々康熙帝の後宮には、親族関係を結びたい有力者の娘を入内させている。
その結果、皇子らの母方の実家はそれぞれ満州族の有力な勢力の利益を代表していた。

例えば、太子・胤礽の生母の実家は、建国初期の功臣・索尼(ソニン)、赫舍里(シェヘリ)氏、
長子・胤褆の生母の兄・明珠(ミンジュ)も飛ぶ鳥を落とす勢いの有力者である。

満州全体が、それぞれの皇子を応援し、当の康熙帝も浮き上がらんばかりの熾烈な謀略合戦を繰り広げた。


その熾烈な謀略戦争「九子奪嫡」の争いを最終的に勝ち残り、多くの謎を残して即位したのが、第四皇子だった雍正帝だ。
即位したはいいものの、ほかの皇子らからは激烈な抵抗が起こり、兄弟らを幽閉したり殺したりせざるを得なくなる。

北アジアのステップやツンドラの民の間では、ごく日常的に当たり前に行われていたことだが、
農耕文化圏内の中原でやらかしたから非難轟々である。

雍正帝は自分が如何に皇帝にふさわしい人物であるかを死ぬまで証明し続けなければならない羽目になった。
そのために昼夜分けぬ猪突猛進ぶりで政務に勤しみ、燃え尽きて在位わずか十三年で崩御する。

いわば過労死のようなものだ。


自らの悲痛な経験を再び繰り返さないため、雍正帝が決めた家法が「太子密建の法」である。

即ち、太子は立てず皇帝が次の後継者の名前を書き箱に入れて乾清宮の「正大光明」の扁額の後ろに隠し、
皇帝が崩御すればこれを開けて次の皇帝を公開するという方法である。


いわば中原モデルと草原モデルの折衷案である。
双方の短所を補い合い、譲れない部分を盛り込んだ苦心の案であっぱれと言わねばならない。

まず塞外の民として、
中原国家のように如何なる阿呆でもとりあえず長子を太子に選び据えるというのでは、どうしても具合が悪いのである。

前述のとおり、清朝の皇帝にはいくつもの顔があり、
中原王朝の皇帝であると同時に、満州族の大エジェン(皇帝)でもあり、モンゴル族をまとめる大ハーンでもある。

それは創始期に皇帝ホンタイジがチンギス・ハーンの直系の子孫に当たるモンゴル・チャハル部のリンダン・ハーンの正式な後継者となり、
その未亡人四人を自らの妻とした時から始まる。

清朝の軍事力の中心は、満州族とモンゴル族を中心とする八旗で維持するべきであり、
この馬上の民にいうことを聞かせ、命を張って戦ってもらうには、
どうしてもぼんくらエジェンではだめなのである。

満州族とモンゴル族の勇猛果敢なる塞外の民としての武力を維持するためには、有能な皇帝が必要となる。



  


古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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