試験の科目の中に「楷書」がある。
いわゆる書道だが、これが現代では考えられないほど、重視されていたようである。
のちの話だが、和珅には大きな特技があった。
それは乾隆帝の筆跡をそっくりに真似て書くことができたのだ。
現代から見れば、それほど重要なことにも思えないが、この時代には、大きな評価ポイントとなった。
例えば、国のブレインである内閣入りするには、「楷書」への評価があった。
内閣のメンバーになるには、まずは翰林院に入らなければならない。
翰林になるには科挙の最終試験である殿試で上位三位に入るか、
優秀者の選抜される「庶常館」に入り、三年後に再び試験を受けて合格するしかない。
実はこの科挙の最終試験である「殿試」の基準が、多分に「楷書」であったのだ。
言ってしまえば、所詮は全員が「進士」なのである。
すさまじい倍率を勝ち抜いてきた秀才らに対して、それ以上に甲乙つけようとしてもそんなに簡単なことではない。
知力ではほぼ同等だとすれば、それ以外の基準が必要だったということか。
明代より科挙の運営については、試験官の派遣など翰林院が仕切るようになった。
その時から楷書への美しさに重きが置かれ、「館閣体」という独特の書体基準が生まれた。
この書体は、永楽年間の翰林だった沈度(しんど)の創設という。
永楽帝はあまたいる書道自慢の翰林の中でも、一途に沈度の筆跡を愛した。
国家行事で記念として金版(純金で文字を書いた豪華版書籍)、
玉冊(玉の板に文字を刻みつけた豪華保存品)を作るときは、必ず沈度の筆跡を用い、
朝廷の標準字体として属国にも配り、その書体を基準とするように命じたという。
特徴は均整が取れていて、墨が黒々とかすれるところがないことだ。
これが標準の「官体」として普及し、清代になるとその模倣にさらに磨きがかかったのである。
翰林の筆跡は一糸乱れぬ統一体となり、「翰林が書いたものは、一目でわかる」といわれるようになる。
その統一美にエクスタシーを感じる審美眼ができてしまうと、
翰林の仲間に入るには、新入りもその一糸乱れぬ「館閣体」に肉薄していないと資格がない、
という標準が生まれたわけである。
こうなると、優秀であってもこのために上に進めない人材が出てくる。
例えば清末の思想家の龔自成(しゅうじせい)は、あふれる才能を持ちながら、
進士から庶吉士になることができなかった。
楷書書きに劣っていたから、と本人は地団駄を踏んで悔しがっている。
そもそも個性あふれる逸材に、印刷したようなしゃちほこばった筆跡を書く人はあまりいないだろう。
強烈に印象に残る癖のある字になるに違いない。
毛沢東の書を見よ。
おもいっきり斜めにつりあがっているではないか。
一目見たら忘れられない強烈な個性である。
科挙の時代なら、それでも懸命に型にはめようと脂汗かいて努力するだろうが、
そうそうきっちり納まるものではない。
ともあれ和珅の時代、字を「型に押し込めるかどうか」は、確実に人の能力を評価する基準の一つになっており、
それが出来るかどうかで、運命も違ってきたようである。
そして和珅はこの分野では、悪くない天賦を持っていたらしい。
北京動物園の中にある清の農事試験場跡。
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いわゆる書道だが、これが現代では考えられないほど、重視されていたようである。
のちの話だが、和珅には大きな特技があった。
それは乾隆帝の筆跡をそっくりに真似て書くことができたのだ。
現代から見れば、それほど重要なことにも思えないが、この時代には、大きな評価ポイントとなった。
例えば、国のブレインである内閣入りするには、「楷書」への評価があった。
内閣のメンバーになるには、まずは翰林院に入らなければならない。
翰林になるには科挙の最終試験である殿試で上位三位に入るか、
優秀者の選抜される「庶常館」に入り、三年後に再び試験を受けて合格するしかない。
実はこの科挙の最終試験である「殿試」の基準が、多分に「楷書」であったのだ。
言ってしまえば、所詮は全員が「進士」なのである。
すさまじい倍率を勝ち抜いてきた秀才らに対して、それ以上に甲乙つけようとしてもそんなに簡単なことではない。
知力ではほぼ同等だとすれば、それ以外の基準が必要だったということか。
明代より科挙の運営については、試験官の派遣など翰林院が仕切るようになった。
その時から楷書への美しさに重きが置かれ、「館閣体」という独特の書体基準が生まれた。
この書体は、永楽年間の翰林だった沈度(しんど)の創設という。
永楽帝はあまたいる書道自慢の翰林の中でも、一途に沈度の筆跡を愛した。
国家行事で記念として金版(純金で文字を書いた豪華版書籍)、
玉冊(玉の板に文字を刻みつけた豪華保存品)を作るときは、必ず沈度の筆跡を用い、
朝廷の標準字体として属国にも配り、その書体を基準とするように命じたという。
特徴は均整が取れていて、墨が黒々とかすれるところがないことだ。
これが標準の「官体」として普及し、清代になるとその模倣にさらに磨きがかかったのである。
翰林の筆跡は一糸乱れぬ統一体となり、「翰林が書いたものは、一目でわかる」といわれるようになる。
その統一美にエクスタシーを感じる審美眼ができてしまうと、
翰林の仲間に入るには、新入りもその一糸乱れぬ「館閣体」に肉薄していないと資格がない、
という標準が生まれたわけである。
こうなると、優秀であってもこのために上に進めない人材が出てくる。
例えば清末の思想家の龔自成(しゅうじせい)は、あふれる才能を持ちながら、
進士から庶吉士になることができなかった。
楷書書きに劣っていたから、と本人は地団駄を踏んで悔しがっている。
そもそも個性あふれる逸材に、印刷したようなしゃちほこばった筆跡を書く人はあまりいないだろう。
強烈に印象に残る癖のある字になるに違いない。
毛沢東の書を見よ。
おもいっきり斜めにつりあがっているではないか。
一目見たら忘れられない強烈な個性である。
科挙の時代なら、それでも懸命に型にはめようと脂汗かいて努力するだろうが、
そうそうきっちり納まるものではない。
ともあれ和珅の時代、字を「型に押し込めるかどうか」は、確実に人の能力を評価する基準の一つになっており、
それが出来るかどうかで、運命も違ってきたようである。
そして和珅はこの分野では、悪くない天賦を持っていたらしい。
北京動物園の中にある清の農事試験場跡。
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