いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで1、農耕民と騎馬民族の後継者選び

2017年05月02日 11時00分01秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
楠木のお話は、一応前回までで終わります。

今日からは新しいシリーズ。
遊牧民族の満州族が統治した清朝の佇まいに思いを馳せた雑文です。

おつきあいくださいー。


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遊牧民に長男相続の伝統はない。

優秀でない長男がリーダーになったがために、他部族に襲われ征服されてしまえば、
女は全員犯されて妾にされ、男は皆殺しにされるか奴隷に落とされる。

死活問題に関わるから、農耕民族のような長子相続は行われない。


これと好対照にあるのが、農耕民族の長子相続だろう。

農耕民にとって必要なのは安定であり、
どんな資質の人間でも長子に生まれたら後継者にすると決めておけば、
争いが起こらないからである。

長子が少々馬鹿でも、周囲にいる長老たちが補助しながらやっていく。

農耕民族である漢民族の王朝として、
長子相続をうまく機能させていた典型的な王朝が明朝といえる。

三代目の永楽帝以後の皇帝は揃いも揃ってろくな資質の皇帝を輩出していない。

こんなひどいリーダーを掲げてどうして政権がさっさとつぶれないのか、不思議に感じるくらいである。

それでも三百年近くも王朝が続いたのは、実は皇帝の役割はあまり大きくはなく、
熾烈な科挙を勝ち抜いた選りすぐりの官僚集団がブレインとしてしっかり政治をサポートしたからである。

皇帝が少々阿呆でも、少々酒色に耽ろうとも、一人でできる贅沢はたかがしれている。

数億人の人口を持つ中国が一人の皇帝の贅沢を養えないほどでもない。
それよりも後継者が変わるたびに争いが起き、数年に渡り政治機能が麻痺してしまったり、
内乱で田畑・都市が荒らされ農産物の収穫が減り、
商売が妨げられて経済がストップしてしまう方がはるかに損失が大きいのである。


明朝は、半ば立憲君主制に移行していたともいえる。
それが巨大な帝国を治めていくために自然にたどり着いたシステムだったのかもしれない。


さて、そこにわずかな人口の少数民族・満州族が乗り込んできた。

長子相続ではなく、最も優秀な子弟を周りが推戴してリーダーにするという方式は、
ほぼすべての遊牧生活を送る民族に見られる。

その理由は前述のとおり、
草原の治安は不安定で常に機敏な決断力を持つリーダーがいない限り、生存を保てないからである。

逆に常に部族同士で襲ったり襲われたりすることは、遊牧生活自体の構造の脆さにもある。

冷害などで家畜が大量に死ぬ、水や草の条件がいい場所に限りがあるためにこれを取り合う、
という部族同士の争いの種が常に存在している。





村の中にある長城のリアルなアップ。

古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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