いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで9、「ハーン」の「皇帝」化

2017年05月26日 08時28分57秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
一方、中原の大帝国を維持するためには、騎馬民族の欠点である後継者争いによる政治機能麻痺は避けねばならない。
儒教思想に凝り固まった科挙上がりの士大夫らが、野蛮だ野蛮だとこれまたうるさく罵るのも、うっとうしい話だ。

そのすべての要素を丸く収めた案が、「太子密建」だった。

中原王朝のように早々と太子を立てて失敗した経験を生かし、今上皇帝の生前に後継者を公開することはやめたのである。
さりとて、兄弟が血みどろの骨肉の争いを繰り広げて政治が機能しなくなることは避けねばならない。

そこで現皇帝が死ねば、指名された皇子以外は誰にも権利がないことにする。
雍正帝が自らの苦い経験を踏まえて編み出した実にうまい案といえよう。


ともかくも雍正帝が血みどろの後継者争いの末に即位した話をしている。

中原モデルと草原モデルの板挟みになり、
多くの兄弟を幽閉したり殺したりせざるを得ず、自らも大きく心に傷を負った雍正帝。

そんなワーカホリックな猛烈熱血オトコが57歳で亡くなり、
その後を継いだのが乾隆帝である。


曽祖父、祖父、父の不安定な即位と比べると、乾隆帝の即位には何の障害もなかった。

まず雍正帝の十人の皇子のうち、雍正末年まで生きていたのは三人しかいない。
弘歴(乾隆帝の名前)は第五皇子ながら、上は3人の兄が夭折、
残るは兄が一人いるだけだったが、あまり優秀とはいえず、父帝からは尊重されていなかった。

これに対して、弘歴は幼い頃から優秀で祖父の康熙帝にも特にかわいがられた。
ライバルらしきライバルがいないまま、小さい頃から後継者となることを約束され、二十五歳という理想的な年齢で即位したのである。

父が制定した「太子密建の法」により初めて即位した皇帝でもある。



最も時代が下るに従い、清朝でも次第に中原型の長子相続の傾向が強くなる。
それは満州族の中原化が進んでいくバロメーターでもある。

清末の咸豊帝(西太后の夫)と恭親王の兄弟など典型的な例だろう。
二人は道光帝の息子として、本来なら平等に後継資格があったはずだが、長子であり「心根がやさしい」咸豊帝の方が後継者に選ばれた。

これはすでに中原入りして二百年を越していた清朝の皇帝にとって
「決断力」や「カリスマ性」はすでに必要でなくなっていたことの現れだろう。

それよりも「慈悲深さ」や「周囲を慮る心」、
つまり官僚群の上に「象徴的に君臨する」、立憲君主制に近い体制での皇帝の役割が求められるようになっていたのだ。

ところが、時代はすでにアヘン戦争以後の列強諸国との乱世に突入していた。
「心根のやさしい」咸豊帝では、まったく物の役にも立たず、
列強諸国に北京に攻め込まれ、熱河の避暑山荘に逃げ込んだ挙句、荒淫で自棄死にしてしまったのは、周知のとおりである。

結局、皇帝に選ばれなかった「騎馬民族的」な機動力を持つ弟の恭親王が北京に残って兄の尻拭いをすべて引き受けた。
やっと中原型支配体制に移行したと思ったら、また乱世が来てしまい、対応できなかった悲劇と言えるだろう。


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以上、満州族という異民族が統治した清朝という王朝の皇帝の位置づけについての雑感でした。

これにてこのシリーズは終了です。




古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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