仕事が急に忙しくなり、いきなり4ヶ月も間が空いてしまいました汗。
時間が空きすぎて、これまでの流れを思い出せない、という方のために、
本シリーズの過去リンクを貼っておきますねー笑
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語1、民族誕生伝説
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語2、モンケテムールと朝鮮
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語3、モンケテムール、明に帰順
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語4、モンケテムールの死と次男ドンシャン
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語5、朝鮮に逃げ込む拉致被害者たち
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語6、女真族使節、紫禁城で大暴れ
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語7、非儒教集団に接する戸惑い
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語8、貿易不均衡
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語9、ドンシャン征伐される
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語10、祖父ジェチャンア
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語11、ワンガオの勢力
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語12、ワンガオ一家とジェチャンア一家の因縁
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ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)が死んだグロ(古勒)城の戦いには、
もう一人、鍵となる人物がいる。
史料に「ニカンワイラン」(尼堪外蘭)と出てくる人物である。
「ニカン」とは、満州語で「漢人、南人、南蛮」の意、
「ワイラン」は、漢語の「外郎」、秘書という意味だという。
つまりは「漢人の秘書」の意であり、名前というよりは、通称または官名のようでもある。
この人物は建州女真部の出身であり、明朝の開いた交易市場である撫順にほど近いところにトゥルン(図倫)城を建て、
そこの城主をしていた。
明の交易拠点ちかくに城をかまえることからもわかるように、
明との関係を重視、最優先にした人物のようである。
史書には、ニカンワイランが
明の遼東総兵・李成梁に自ら進んで贈り物をし、
最も多い時には、一回に馬五十頭、高麗人参数百斤、貂皮(ミンクの毛皮)数十枚、鹿の角という規模だった、とある。
どうやら酋長の家系でもない身分の低い庶民の出から、漢人に取り入ることにより、
急速に勢力を拡大させた「成り上がり者」であったらしい。
グロ(古勒)城の戦いの際、アタイとアハイ兄弟の征伐を決めた李成梁は、
まずは撫順城に向かい、ニカンワイランを呼び出した。
アタイ兄弟の動きを事前に察知し、明側に密告していたのはニカンワイランだと言われており、
それなら道案内をせよ、と命じたのである。
こうして明の官軍がグロ(古勒)城を幾重にも取り囲み、攻防戦が始まったのであるが、
難攻不落の城がなかなか落ちず、戦局が膠着状態となった時、
ニカンワイランが進み出て、城内に向かって、こう叫んだという。
「城主を殺した者を次の城主にしてやる」
この言葉が、戦いの流れを一気に変えることとなる。
城内の兵士らが動揺を始め、ある兵士が城主のアタイを殺し、城門を開け放ったのである。
しかし明軍は約束を守らないどころか、
城内にいた女子供老人の非戦闘員に至るまで、二千二百人全員を皆殺しにしたのである。
ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)は、
どうやらこのどさくさに紛れて、いっしょくたに殺されたということらしいのだ。
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遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮へ向かうまでの道
ぽちっと、押していただけると、
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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語1、民族誕生伝説
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語2、モンケテムールと朝鮮
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語3、モンケテムール、明に帰順
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語4、モンケテムールの死と次男ドンシャン
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語5、朝鮮に逃げ込む拉致被害者たち
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語6、女真族使節、紫禁城で大暴れ
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語7、非儒教集団に接する戸惑い
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語8、貿易不均衡
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語9、ドンシャン征伐される
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語10、祖父ジェチャンア
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語11、ワンガオの勢力
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語12、ワンガオ一家とジェチャンア一家の因縁
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ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)が死んだグロ(古勒)城の戦いには、
もう一人、鍵となる人物がいる。
史料に「ニカンワイラン」(尼堪外蘭)と出てくる人物である。
「ニカン」とは、満州語で「漢人、南人、南蛮」の意、
「ワイラン」は、漢語の「外郎」、秘書という意味だという。
つまりは「漢人の秘書」の意であり、名前というよりは、通称または官名のようでもある。
この人物は建州女真部の出身であり、明朝の開いた交易市場である撫順にほど近いところにトゥルン(図倫)城を建て、
そこの城主をしていた。
明の交易拠点ちかくに城をかまえることからもわかるように、
明との関係を重視、最優先にした人物のようである。
史書には、ニカンワイランが
明の遼東総兵・李成梁に自ら進んで贈り物をし、
最も多い時には、一回に馬五十頭、高麗人参数百斤、貂皮(ミンクの毛皮)数十枚、鹿の角という規模だった、とある。
どうやら酋長の家系でもない身分の低い庶民の出から、漢人に取り入ることにより、
急速に勢力を拡大させた「成り上がり者」であったらしい。
グロ(古勒)城の戦いの際、アタイとアハイ兄弟の征伐を決めた李成梁は、
まずは撫順城に向かい、ニカンワイランを呼び出した。
アタイ兄弟の動きを事前に察知し、明側に密告していたのはニカンワイランだと言われており、
それなら道案内をせよ、と命じたのである。
こうして明の官軍がグロ(古勒)城を幾重にも取り囲み、攻防戦が始まったのであるが、
難攻不落の城がなかなか落ちず、戦局が膠着状態となった時、
ニカンワイランが進み出て、城内に向かって、こう叫んだという。
「城主を殺した者を次の城主にしてやる」
この言葉が、戦いの流れを一気に変えることとなる。
城内の兵士らが動揺を始め、ある兵士が城主のアタイを殺し、城門を開け放ったのである。
しかし明軍は約束を守らないどころか、
城内にいた女子供老人の非戦闘員に至るまで、二千二百人全員を皆殺しにしたのである。
ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)は、
どうやらこのどさくさに紛れて、いっしょくたに殺されたということらしいのだ。
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遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮へ向かうまでの道
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