いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清の東陵3、東陵の旗人は、実は皆、包衣 

2016年04月03日 16時27分59秒 | 北京郊外・清の東陵
あんてぃーく倶楽部 による清の東陵への遠足、続きです。

前回までの二十三太王の花会の話は、風水壁(陵区を囲っている塀。民間人の立ち入りを禁止)の外、
つまりは、漢族の「外界」の話である。

風水壁の内側には、広大な陵区に旗人だけの別世界が広がっていた。


清代、東陵には他の陵区と同じく、5つの機関が設けられている。

  内務府: 日常の掃除と見張り。
  礼部:  祭事の儀式を執り行い、それに伴う準備作業を受け持つ。
  兵部:  陵墓の周辺の警護を担う。
  工部:  陵墓の建物やインフラの修繕、維持を担う。
  緑営:  陵区の外の警護を担う。漢人の傭兵部隊。

清末、光緒末年の記録では、
東陵内務府に1100人、兵部1200人、礼部1600人、工部4-500人、緑営3157人、合計8500人ほどが、登録されている。
緑営が漢人の傭兵部隊であるほか、残りの人員は全員、旗属ということになる。

東稜の設立当初から新しい陵墓ができるたびに順次、紫禁城や各王府から東稜に派遣された人々と言われる。
兵部帰属の旗人は、正当な満洲八旗の人々が多いが、
それ以外の内務府や礼部の人員は、旗人ではあるが、包衣の人々が中心だという。

包衣に関しては、
   清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路

の中の「十五子)胤[ネ寓]の場合」と「十七子・胤礼の場合」を参照にされたし。
(めっさ長い記事です。康熙帝の20人以上いる皇子らの軌跡を延々と書き連ねているので、
 途中はとばして、後ろの方にある記述にたどりついてください。)


つまりは、漢人の家内奴隷である。

清の東陵に派遣されてきた八旗の人々は、
八旗は八旗でも、実はその中でももっとも身分の低い「包衣(満州語:ボオイ)の人々だった、という話。




 

 康熙帝・景陵
 
 
 


 


 

 康熙帝・景陵の隆恩殿(本殿)を西側から見た図。
 五彩はだいぶはがれていますが、こういうさびれた感じもなかなかよい・・・。


「包衣」とは、元々は満洲にいた頃、定期的に行っていた「人さらい」活動で拉致してきた漢人か、
戦争捕虜を各家庭に分配した人々である。

まだ東北の原野にいた頃の満洲族の史料を見ていると、
定期的に「奴隷狩り」のために出動している様子が伺える。

狩りや放牧を誇りとする騎馬民族は、農業を一段下の職業と見て嫌悪し、自ら手を染めたがらない。
しかし農業の生産力の高さ、安定は魅力的なので、
万里の長城を超えたり、鴨緑江を渡ったりして、定期的に漢族や朝鮮族をさらってくる伝統(?)があったようだ。

そのうちに満州族が天下を取り、奴隷もろとも北京に出て来ると、
主人筋の生活の向上に合わせて奴隷らの待遇も上がり、被支配階級である民間の漢人と比べると、一段高い特権階級となって行った。
また権力の近くにいるから、実入りのよい、富を蓄積できる地位につける機会も多くなる。

前述の「紅楼夢」の作者・曹雪芹の家は包衣から出世した代表的な例といえるし、
乾隆帝の晩年、寵愛を受けた和[王申]の舅の英廉は、包衣出身の高官である。
貧乏旗人だった和[王申]をむしろ英廉の方が見込んで、娘の婿がねとしてスカウトした形だ。



このように包衣は、中国の社会全体で見ると、対外的には統治集団の中にあり、出世のチャンスも多く転がっているが、
八旗集団の中では、やはりあくまでも「家内奴隷」の身分である。

その立場からご主人様が死ねば、その墓守りもこの集団の中から人が派遣された。
東陵の墓守り旗人らは、紫禁城や各王府の内務府から派遣されていた。
--内務府は、各家庭の諸々を取り仕切る部署。奴隷の所属もここになる。

包衣は先祖由来の漢姓を個人的に伝えることは許されたが、
公けの場では、あくまでも満姓――つまりは、主人家の姓を名乗ることしか許されなかった。

そこで現在の東稜の墓守り旗人の後裔の人々の中には、特殊な現象が見られる。
それは自身を正規の旗人だと代々伝承し、包衣という漢人出身の奴隷階級だったという事実がまったく伝承されていないという点である。

社会記憶と利益ニーズ影響下の族群認同——清東陵・守陵人を例として(中国語)
・・・・には、2008年ごろに現地の墓守り人の後裔という村民に聞き取り調査をした様子が紹介されているが、
ほとんどの村民が、包衣という階級の存在さえ知らず、どうやらご先祖様からそういう伝承は聞かされていないようだ。

景区のある村民70歳は、自らを正黄旗所属、今の姓は金、清代の姓はアイシンギョロだったと胸を張る。
――つまりは、清朝滅亡後は、主人家の姓をそのままつけたわけである。
清代もそうするように強制されていたわけだから、もちろん間違いではない。

奴隷階級だった、というあまり名誉ではない要素は、
子孫には恣意的に伝えていないらしいことが見て取れる。
「集体失憶(集団記憶喪失)」、――と上文では言う(笑)。

 

 本殿の後ろに陵墓の土饅頭に続く宮殿があるのだが、
 景陵のそれは、未開放。

 うらめしく、外から眺めるだけです。
 道理で観光客も少ないわけだ・・・。


 


 

 景陵の入口では、記念写真用のお馬さんも待機。

 足が短くて、ずんぐりむっくり、がちむちな典型的なモンゴル馬ですなあ。



東陵に派遣された包衣の人々。
当初はいくら奴隷身分とはいえ、行かなくていい同僚もいるわけで、やはり都から何日の行程もかかるような田舎に追いやられる身としては、
「左遷」か、「都落ち」のような気分にもなり、忸怩たる思いだったろうことは想像に難くない。
しかし来てみれば、これはこれでなかなか気楽な生活である。
生涯、俸禄を保証され、出費も少なければ、仕事も少ない――。


現地では、
「窮八旗、富内府、挨打受罵是礼部」
(貧乏八旗、豊かな内府、ぶたれて罵られるは礼部)
という言葉があるそうだ。

つまり防衛の担い手であり、正規の満洲八旗出身者(包衣ではなく)が務めていた兵部の勤めは、
俸禄だけを見ると、内務府勤務者より高いのだが、俸禄以外の収入はなく、結果的に貧乏。

これに対して、内務府の職員は俸禄こそ兵部の八旗兵より低いが、都の皇族と接触する機会が多いので、
お祝儀などの臨時収入が多く、実はけっこう実入りがよかった――。

礼部は、実際の儀式の執り行いや準備と言った現場を担当するので、
現場での行儀作法、事前の手配に不行き届きがある、と常に叱り飛ばされてばかりでなかなか苦しい宮仕え――。

・・・という意味であるらしい。


前文によると、村民の沈婆さん83歳は、祖父は裕陵の門番だった、
気楽なお勤めなので、毎食おかずは四皿、三食とも酒を飲み、雑穀は口にしなかった、と証言している。

この時代の華北の農民といえば、ヒエやアワ、韃靼(だったん)ソバなどの雑穀が多かったわけだが、
八旗の俸禄には白米の現物支給もあり、南方から運んでくる銀シャリしか口にしなかったというわけである。
陵墓の周辺だけ、周囲の農村とは隔絶された生活があったという一端を垣間見ることができる。

そんな恵まれた生活を200年以上も送ってきた東陵の旗人たちだが、
清朝滅亡後は、反満の機運が社会に充満し、満州族出身だったということを隠して漢姓を名乗ることになる。

中華人民共和国の成立当時、戸籍調査で自らを満州族と名乗りを上げる住民はわずか20%しかおらず、
元皇族の一人が、堂々と満族を名乗ろうと呼びかけたにも関わらず、名乗りを上げる人は少なかったという。

しかし少数民族に対する優遇政策が次々と打ち出されると
(大学受験の際、点数での優遇、一人っ子政策の中、少数民族は2人まで生んでもよい、など)
徐々に満族で戸籍を登録する人が増えて来るようになる。


  

  西太后の陵墓・定東陵へき道

  
  



  んまああ!
  野放図に成長してしまった松だこと!
  
  いくら支えを当てても、おっつかないくらい自由に育ってしまった感じがすごすぎる!

  


  ええ。記念撮影したくなるのもわかりますよ。
  わたしだって、こんなに自由に生きれるなら、生きたいもの・・・・。

  こんな偏った成長の仕方したら、いつか体を支えきれなくなる、とか、なーーんにも後先のこと考えず、生きれるなら・・・。  

  



  

  ゴミ箱もこの溶け込み様!
  さすが世界遺産!


村民らのなだれを打ったような満州族への「集団移籍」に決定的となったのが、1984年頃に起きた少数民族郷の申請に伴う動きだった。
1984年、東陵満族郷が成立したが、その際、申請のためには住人の一定比率以上の少数民族比率が求められた。
満族戸籍の比率が、ある一定以上の比率に達しないと、申請の資格さえ満たせない。
そこで地元の政府が、住民に戸籍の満族への変更を奨励したというのである。

実際、大部分の住民に関しては、あながち虚偽でもない。
旗人だった住民らは、清朝滅亡後も多くがその地に残って生活しており、
ただ外から入ってきた漢族との通婚が盛んになった。

清代は、満漢間の通婚はあまり多くなかった。
西陵でもそうだが、陵区は元いた周辺の漢人住民を他地へ移転させ、
「風水壁」という壁で周囲を囲み、その内と外とでは、完全に隔離された二つの世界が存在していた。
普段から互いの交流は多くなく、自然と通婚も多くはなかった。

しかし清朝が滅亡してすでに70年近くが経っていた80年代は、もちろん圧倒的多数の漢族との通婚が進んでいた。

住民のほとんどが、どこかしらたどれば、満族のご先祖様にたどりつくことも事実だった。
例えば、四人の祖父母のうち、誰か一人でも満族がいれば、これを機に満族に戸籍を変更する、と言った具合。
この結果、今では「満族郷」と名のつく郷の住民80%以上が、満族戸籍になっている、ということになった。


しかし中には、さらにいい加減な例もある。

例えば、裕陵の神道のほとりにある復興村。
裕陵からの距離はわずか2㎞しかないが、この村が成立したのは実は1930年代。
日本軍の占領時代、住民の集中管理のために東陵の後龍山地区から移転させられて来た、純粋な漢族の村である。
しかし今では「復興満族村」と名乗っており、住民の戸籍は80%が満族という。

・・・・もうこうなると、少し説明に苦しむ。

さらに1999年、東陵を世界文化遺産に申請するため、地元政府が復興村の周囲を昔風の囲いで囲む計画を立てた。
東陵周辺の八旗村は、裕陵の内務府、礼部--という風に、衙門(がもん、役所の建物)を中心に、
その所属職員とその家族が周辺に暮らし、その地域を壁で囲い、門を立てて出入りを制限させていた。

しかし清朝滅亡後は、次第に取り壊され、90年代のこの時点では、ほとんどの村で現存していなかった。
復興村に白羽の矢が立った理由は、景観地区の中心からやや離れており、工事物資の運搬に便利、
観光業の邪魔にならない、という極めて実質的なもの。

今でも多くの人が、村を囲む塀を見に訪れるという・・・。


・・・しかし現地の人たちは皆、知っている・・・。
――それが「じあーだ」(仮的、にせもの)だということを・・・(笑)。


  

  西太后の陵墓・定東陵

  
  


  

  西太后の陵墓であることを書いた石碑。

  真ん中の文字が、点とまるがついているから満州語だと思う。・・・たぶん。
  ということは、一番右がモンゴル語ですかいな。

  一番が満州語じゃないんだー。 
  それとも、真ん中が最も重要だから、真ん中が満州語でええんかいな??



  石碑が乗ったカメを贔屓(bi4xi4)=ひいき というそうだが、その語源をちゃんと押さえていなかった。
  前から気になっていたので、いいかげんまじめに調べてみた(笑)。

  Wikipedia によると、
  
  「中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。
   重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。

   日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、
   その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。

   「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもの。
   「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表したものである。

   「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった。
   また「ひき」の音は、中国語で力んだ時のさまを表す擬音語に由来する。」

  ですってー。


  


  贔屓さんの巨大なあたま(笑)。

 
  

  贔屓さんのお尻(笑)。


 
  以下は、西太后の石碑の贔屓さんが泳いでいる海の石彫刻の四つ端に刻まれた四つのレリーフ。
  なんかの意味があるそうだが、聞き忘れた。

  そのうち、判明したら、補充しまーす。
  
  

  

  

  




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2 コメント

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そろそろ (~弥勒~)
2016-04-11 23:05:48
いいですね、東稜。
そして、そろそろいかがでしょうか?
成宗「ドルゴン」の墓は。
井上祐美子が「東海青」というドルゴンの本を書いてます。
この中では墓がどうなったかは書いてないので興味があって!
よろしくお願いします。

ところで、自分で調べてなくて申し訳ない質問ですが、
「三太子」、「四太子」などという表現は「金国」では使
っていますが、他の時代では使ってますか?使ってな
いとしたら「満族」の使いかなと、ふと思いまして。
返信する
弥勒さんへ (いーちんたん)
2016-04-21 00:14:49
お返事が遅くなってすみません・・・。

帰国が重なり、ばたばたしており、
おちついてパソコンに向かう時間が取れずに今日になってしまいました・・。

>成宗「ドルゴン」の墓は。

いやあー。そうなんですよねー。
前回のコメントでドルゴンとおっしゃったので、
なんとなく気になって調べては見ました・・・。

ドルゴンの墓は当初、東直門に作られましたが、
死後に順治帝の命で暴かれて死体も鞭打たれた上、
墓は完全に取り壊されて残っていません。

その後、ひ孫の乾隆帝により名誉回復となり、
「叡親王」家は復活、清末まで代々続きますが、
元々、ドルゴンに息子はおらず、継いだのも弟の子供。

その叡親王家の墓は、北京郊外に散在しているそうですが・・・・。
ドルゴン自身の墓は、死体も暴かれ、残っていないようです。

>「三太子」、「四太子」などという表現は「金国」では使
っていますが、他の時代では使ってますか?使ってな
いとしたら「満族」の使いかなと、ふと思いまして。

あー。たぶんほかの時代も使っていると思いますー。

・・・というか、多分に口語的なので、
時代劇に出てくるとしたら、それは現代中国語として、ということだと思います。
返信する

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