明朝に帰順を勧められる一方で、朝鮮には強く引き止められ、モンケ・テムールは決断を迫られた。
朝鮮に渡ってからすでに二十年以上の時間が流れており、それなりに安逸な生活を過ごせた。
しかしこのままでは、永遠に故郷である満州の地に戻ることはできない。
また明朝は大国であるだけに外敵が来たときの保護、天災で食糧難となった時の援助なども大規模なものが期待できる。
しかし明が成立し、皇帝が二代も替わっているのに、
挨拶の使者を送りもせず、朝鮮に二十年もいた自分を明の皇帝が信用してくれるかどうか。
さらに大国の政局は複雑なため、立ち回りを間違えて皇帝や重要人物の機嫌でも損ねた日には、命が飛ぶ危険性もある。
朝鮮側の妨害も壮絶であった。
この勢いでは、明から正式に冊封される前に兵を向けられ、殺される可能性さえある。
明ははるか遠くにある一方、朝鮮の首都から慶源までは、三日で大軍が到着する。
朝鮮が先に自分を殺し、既成事実を作ってしまえば、あとからどうにでも明に申し開きをすることできる。
進退極まり、迷っているところに、それを察したかのように再び明側から使者の王教化がやってきた。
曰く、明の朝廷から官職を授けるから迎えにきたという。
つまりは明朝の護衛団に守られて北京に入り、
そのまま正式な中央官僚としての身分が与えられるということである。
明の正式な軍隊に守られているモンケ・テムールを道中で襲うほどの荒唐無稽なことを朝鮮側がするわけはなく、
そうやって去っていったモンケ・テムールのを襲うのは、憚られる。
朝廷の正式な官僚となれば、これを害することは
明の朝廷そのものに刃向かうこととなり、朝鮮も手を出せなくなる。
--ここまでの安全保障を目の前に用意した明朝に対して、
モンケ・テムールは初めて明の臣下となり、故郷に帰ることを決心したのである。
一方、朝鮮側には使者を出し、明には従わぬことにした、と偽りの報告をする。
朝鮮王はこの言葉を信じ、国境の警備を緩めた。
明の永楽帝からも援護射撃が入る。
朝鮮王がモンケ・テムールを入朝させないように妨害していると知り、
永楽帝は怒り、朝鮮からの使者を叱責する。
曰く、モンケ・テムールは皇后の親戚であり、
北京に呼ぶのは皇后の望んだこと、骨肉の間柄で会いたいと思うのは、人の倫なり、と。
この皇后の件については、後述する。
朝鮮王は、永楽帝直々の叱責を伝える使者の言葉を聞くと震え上がり、
モンケ・テムールを北京まで送り届けるための護衛団を派遣した。
ところが護衛団が慶源に到着すると、
モンケ・テムールと明の使節団の一行は、すでに国境を越えて北京に向かったあとだったのである。
朝鮮王はその報告を聞き、青ざめるが、後の祭りである。
こうしてモンケ・テムールは、明の正式な官職を授かった。
永楽帝より建州衛指揮使を任命され、正式な印信(公印)を賜ったのである。
その後は明に忠実な臣下として、幾度にもわたり、朝貢で首都北京を訪れた。
永楽十一年から宣徳八年(一四一三から一四三三まで)の二十一年間の間に自ら入京すること七回に及んだ。
明朝側も周辺国の朝貢に対する礼節どおりに毎回宴席を以て迎え、各種の下賜品を授けた。
女真族側は特産品を上納するほか、戦役があった際には兵士を出し、明の軍事に貢献したのである。
明側が女真族を傘下に入れたい大きな理由もここにあった。
永楽二十年(一四二二)三月、永楽帝は大軍を率い、モンゴル北元の和寧王アルタイ(阿魯台)を撃つ。
このときモンケ・テムールは、一族の荘丁を率いて従軍した。
一連の活躍を評価し、永楽帝は次々とモンケ・テムールの位を上げていく。
最終的に宣徳八年(一四三三)には、右都督まで昇進した。
モンケ・テムールは、同時に朝鮮との関係も維持する。
前述のとおり、朝鮮から出兵された場合、数日のうちに到着するほどの近距離に存在する大きな政権なのだ。
敵に回すわけにはいかない。
幾度も使者を派遣し、貢ぎ物を献上することで、機嫌を損ねて侵略されることがないようにした。
それでも隣接する二つの勢力が完全に平和を維持することは、難しかった。
永楽八年(一四一0)、朝鮮王は吉州察理使の趙涓に命じ、
大興安嶺のいくつかの女真部族(ウチウハ、ウリャンハ、ウデゥリ)を討つように命じた。
その命を受けて、趙涓は女真族の部族民の数百人を殺した。
数百人といえば、大興安嶺ではかなりの人数である。
生産性が低く、極寒の土地でなかなか人口が増えない厳しい環境である。
詳しくは後述するが、ヌルハチが軍を起こした時もわずか三十人だったといわれる。
女真人自身の人口がなかなか増えないために、漢人や朝鮮人を奴隷として誘拐することが、日常的に行われてきた。
その上、厳しい生活環境の中、ひどい処遇でこき使うため、
持続的な戦力とならないままに数年で使い殺してしまうことがほとんどであったろう。
朝鮮王が女真族を襲撃させたのも、どうやらそれが理由だったらしい。
自国民の誘拐が続くので、業を煮やしたのである。
というわけで朝鮮側に数百人の民を殺され、住居を焼かれるのは、大きな痛手であった。
モンケ・テムールの傘下に属する指揮(官職名)も二人殺された。
モンケ・テムールは怒り、弟のシュリ(虚里)とほかの若衆に命じ、朝鮮の慶源府を襲わせた。
つまりは、かつて自分たちが与えられていた居住地である。
どうやら朝鮮にとって、鴨緑江を挟んで東北とにらみ合っていた慶源(現在の北朝鮮・会寧)の地は、
女真族を始めとしたツングース系少数民族対策の最前線だったらしい。
この時の襲撃では、人畜を奪い、大きな打撃を与えたため、朝鮮の朝廷から慶源府に援軍がかけつけるほどの騒ぎになった。
一方モンケ・テムールは、明のモンゴル討伐軍に参加したために
モンゴルからの復讐を受けることも心配しなければならなかった。
それまでの居住地はモンゴル人の馬路(騎馬での通り道)に近く、危険だと称し、
永楽二十一年(一四二三)、明の朝廷に申し出、慶源への移住を許可されている。
つまり再び朝鮮時代の居住地に戻ったのである。
この際、朝鮮側とどういう話し合いになったかは定かではないが、
宗主国である明朝が許可したのだから、朝鮮としては従うしかなかったのだろう。
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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
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