いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清の東陵4、西太后の翡翠のスイカと孫殿英

2016年04月04日 16時40分53秒 | 北京郊外・清の東陵
あんてぃーく倶楽部 による清の東陵への遠足、続きです。


後に詳しく書きたいと思うが、西太后の墓は、1928年、軍閥の孫殿英の部隊により、大規模な盗掘の被害に遭う。
その時に盗まれた物の中で、最も世間の話題になったのが、
「翡翠(ヒスイ)のスイカ」一対と言われる。

1928年、軍閥の孫殿英が、白昼堂々と爆薬でぶっ飛ばして東稜を盗掘したというニュースが世間に知れ渡った時、
(ここまで堂々とやると、果たして盗掘というのでしょうか・・・)
あの翡翠(ヒスイ)のスイカはどうなった、と騒然となったという・・・。

それは西太后が最も愛したと言われる対になった翡翠のスイカの置き物。

・・・故宮博物館の宝物として有名な、白菜の翡翠の置き物のスイカ版である。
石の色の違いで皮の緑、果肉の赤と種の黒が表現されていると思われる。

…「思われる」と表現するのは、結局、誰も見たことがないからだ。
西太后が亡くなった時に棺桶の中に一緒に入れられ、埋葬されたと言われる。
だから孫殿英の盗掘と聞き、世間の人々が一番に気になったのが、その存在だったのである。

結局、誰も目にしたことがないので、そんなものは、噂だけで実際には存在しなかったのではないか、とも言われるようになったが、
確かな記録がある。

西太后に寵愛されて富貴の極みまで上り詰めた宦官の李蓮英に、甥がいる。
宦官は子孫を残せないので、甥などを養子にもらって跡目を継がせるのが一般的だが、
この甥・李成武は、叔父の李蓮英とともに、西太后の葬式を執り仕切り、葬儀にも参列した。

特に西太后から最も信頼を受けた身として、宝物の極秘の埋葬を受け持ち、李成武は後にそれを詳しく随筆集『愛月軒筆記』に記した。
そこには、すべての副葬品とその価値が一つ一つ、詳しく羅列されている。


この『愛月軒筆記』はやがて北京の骨董市場で写本が出回るようになり、
孫殿英もそれを目にし、その目録の目も眩むような豪華さに突き動かされて盗掘を敢行したのではないか、とも言われている。


ところで科学的に見て、所謂ビルマ翡翠でスイカの色の組み合わせがあり得るのか、というと、
どうも有り得ないということらしい。


そもそも「翡翠」という二文字は、中国では春秋戦国時代より使われては来たが、
それは所謂、硬度の高いビルマ翡翠ではなく、硬度の低い軟玉を指していた。

--所謂、ビルマ翡翠を指して「翡翠」と表現した最初の例は、康熙54年(1715)からだが、西太后は特に翡翠を愛したと言われる。


伝統的中国の審美眼からすると、玉のしっとりと潤いを感じさせる肌の質感が好まれ、
ビルマ翡翠のような冷たいあっけらかんとした輝きは、下品だとしてあまり好まれて来なかった。
その「美」に対する好みが、時代とともに、変わって来たということなのだろうか。


 

 西太后の陵墓・定東陵


 


 

 お堀に水がちゃんと張ってあります。
 康熙帝の景陵には、なかったけど・・・・。

 西太后といえば、「放生」が有名。
 功徳を積むために、捕らわれた生き物を放ってやる、というあれですね。

 自分の誕生日には、市場という市場から、魚を買い上げさせ、川に放流してあげたとか・・・。


 


 


西太后の「スイカ」は、ビルマ翡翠ではなく、「碧璽(へきじ、Bi4xi3、トルマリン)」だったのではないか、と言われている。

義和団の乱後の八ヶ国連合軍の侵攻を受けて西太后が西安に逃げた翌年の1902年から本人が亡くなる1908年までの間の6年間、
西太后は、ほとんど毎年のように宮廷造弁処の官僚をアメリカのサンディエゴに派遣し、
数トンにも及ぶさまざまな色のトルマリンを買い付けさせていたという。

す、数トンですか・・・・。
見事な爆買い・・・。

特にピンクのトルマリンの占める割合が大きかったという。


  

出典
このトルマリンなどは、あと少しでスイカじゃん、と思ってしまう・・・。


サンディエゴ郡ヒマラヤ鉱山から採れるトルマリンのほとんどが、ティファニー社の鑑定を経て
次から次へと中国に輸出されて行った。

1911年に清朝が滅亡するまで、累計輸入量は120トンにも及んだという・・・。

・・・あ、あまりの単位に、想像も尽きませんが・・・・。
120トンって、じゃがいもじゃないんだから、って感じです・・・・。


清朝皇室という大口顧客を失ったヒマラヤ鉱山は、あえなく連鎖倒産・・・。
それ以後、トルマリンが採掘されないまま、月日が過ぎ、
最近になってようやく小規模な採掘が再開されたという・・・・。

トルマリンの歴史と知識


によると、

「1500年代にブラジルのどこかで、スペインの征服者は、明るく輝く宝石をエメラルドと混同しました。
科学者連中が1800年代の異なる鉱物種としてトルマリンを認識するまで、彼の混乱は続きました。」

「なぜ人々がそう簡単にトルマリンを他の宝石で混同するのか理解するのは簡単です:
トルマリンの見事な色の範囲と一致する宝石は非常に少ないからです。
豊富なレッドからパステルピンクとピーチ色、強烈なエメラルドグリーンから鮮やかなイエローと濃いブルーと、
この宝石の色の範囲の幅は、他の追随を許しません。

人々は、おそらく何世紀にもわたって宝石としてトルマリンを使用してきましたが、現代鉱物学の発展まで、
その彩色法に基づいていくつかの他の石(ルビー、サファイア、エメラルドなど)と同一視しました。」


・・・とトルマリンには、さまざまな宝石との混同が世界的に続いてきた歴史があるそうだから
中国で「翡翠」と呼ばれたのも、ごく自然な混同だったのかもしれない。

それにしても清朝の滅亡により、はるか海の向こうのアメリカ大陸の鉱山が連鎖倒産とは・・・、
現代でも笑えない話ですな。


西太后の定東陵








1928年の孫殿英の白昼堂々のハッパを使ったド派手盗掘は、世間を騒然とさせた。

世間の批判の高まりに突き動かされるように、蒋介石は特別軍事法廷を設立せざるを得なくなる。
しかし孫殿英は、罪を逃れるため、戦利品の中から逸品を選び出して、各重要人物に賄賂として贈り始めた。
蒋介石には九龍宝剣を送り、もう一本は軍政部長の何応欽に、「翡翠スイカ」は宋子文に贈った。
また蒋介石の妻・宋美齢には西太后の口の中に入れられていたという、最も価値の高いかの「夜明珠」を贈った。

これにより、この事件はうやむやにされてしまう・・・・。
うううー。
目が点だ・・・・。

翡翠スイカを宋子文に贈ったというのは、元・国民党軍統局北方区の区長・文強が
1979年の回想録で、1943年に太行山で孫殿英と交わした会話から来ている。
「西太后の枕は、翡翠スイカだった。それを宋子文に贈った。」

なんと翡翠スイカは、枕だったのだという。
枕サイズのトルマリンですか・・・・。

そ、それは確かにすごい圧巻でしょうな・・・。

もちろん宋子文は、贈られたとは認めないだろうし、
翡翠スイカは2つあったはずだから、もう一つがどこに行ったのか、誰も知らない。




















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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
墓荒らし・・・ (炎クリ)
2016-04-15 08:30:13
おはようです。(*⌒ー⌒*)ゞ

何処の国も、政権とか実力者が交代すると、
偉大な方のお墓には高価なものがあると、
あのピラミッドでさえも掘り尽くされているといいますね?

太閤さんおお墓も、真っ先に徳川が調査の名目で、
盗んでぶち壊して荒らして行ったそうですよ。
いつもありがとうです。(^_-)-☆ぽち!
返信する
炎のクリエイターさんへ (いーちんたん)
2016-04-21 00:19:12
お返事が遅くなってすみません・・・。
帰国したり、東京に行ったり、とバタバタしておりました・・・。

変わらずいつもコメントをいただき、
とても癒されています。
ありがとうございます・・・。

>何処の国も、政権とか実力者が交代すると、
偉大な方のお墓には高価なものがあると、
あのピラミッドでさえも掘り尽くされているといいますね?

偉い人というのは、なぜ盗掘されるとわかっていて、
財宝を埋めるんでしょうねえー?
返信する

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