いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで3、ヌルハチ以後も後継者決定は実力主義

2017年05月08日 15時02分41秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
清朝が征服王朝として独自の後継者選びシステムを完成させるまでの軌跡を追ってみよう。

時代を清朝の創始者ヌルハチの子供たちまで遡って見る。

ヌルハチは満州族をまとめた創始者であるから、
実力による台頭であることはいうまでもないこととして、
その息子たちは、複雑な要素が多く絡み合うさまざまな背景を持っていた。

ヌルハチが勢力を広げていく過程で軍事同盟、征服による服従の証などさまざまな形で
各部族から有力者の娘がヌルハチに嫁ぎ、それぞれに子供を産んだ。

その中で後継者候補に名前が挙がったのは、兄弟の中でも能力が優れているか、
あるいは生母の実家の軍事力が強力でその力が部族の発展に不可欠な者だ。

最終的にヌルハチの後継者になったホンタイジは第八皇子、まったく長子でもなんでもない。
この人の場合は、生母の勢力背景のためではなく、自身の緻密な謀略によりその地位を手に入れた。


次にホンタイジの息子、順治帝も長男ではない。


順治帝が八歳の幼少にも関わらず選ばれたのは、
生母の孝庄皇太后ボルジギット氏の背後にあるモンゴルホルチン部との提携を期待されたことが大きい。

ボルジギット姓はチンギスハーンの直系の末裔のみに与えられる姓である。
モンゴルではチンギス・ハーンの直系でなければ、民衆がリーダーとして認めない心理があったらしい。

またホルチン部は最初期の頃にヌルハチと同盟関係になり、その軍事力に大いに依存するところがあったため、
ホルチンの血を引く皇帝を立てることは、大きな意味を持っていた。

が、順治帝は何分幼く非力すぎる。
皇帝の叔父として当時皇室で最も実力のあったドルゴンは母子にとっての脅威だった。


夫の弟であるドルゴンに嫁ぐのは、騎馬民族の中では広く行われてきた習慣でもある。
父親が死ねば後継者となる息子は自分の生母以外のすべての父の女たちを娶る。

兄が死に、弟が位を引き継ぐ場合も同じである。
よって騎馬民族的要素が色濃く残る満州族の中で、孝庄皇太后ボルジギット氏の再婚はあながち不自然な選択でもなかった。

この結婚は我が子の安全を確保するための策だったが、
少年時代継父であるドルゴンにいびられた順治帝は、情緒的に不安定な青年に成長する。

ドルゴンが死に、親政できるようになっても、弟の嫁さんを横取り挙句にその弟を殺したり、母親が決めた皇后を何度も廃したり、
かんしゃくを起こしては出家すると寺に駆け込んでみたり、奇行が目立つ。


結局若くして天然痘で亡くなった。





古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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