いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清の西陵43、「経済感覚の鬼」

2016年05月22日 17時56分44秒 | 北京郊外・清の西陵
前述のとおり、北京の北の関所である居庸関、独石口、喜峰口、古北口などは、
周囲をすべて八旗軍の駐屯所で固め、鉄の守りになっている。

これに対して西の関所・紫荊関の西側は山西省。
漢人の民間人が住む地帯が続き、八旗軍の駐屯地はないことは言うまでもない。

また北京の西南方向には、北側ほどの緻密な八旗軍の駐屯がない。
北に比べると、紫荊関を破られた時は、丸裸の状態なのが、雍正帝としては気になり始めたのではないだろうか。


雍正帝の治世13年は、康熙末年、すでに破たんに近かった財政の立て直しのために費やされた。
各省の財政はほとんど赤字に陥り、中央からの補填が必要な状態となっていたのである。

康熙帝は、その治世の間中、一年の半分くらい、北京以外のあちこちに動き回って過ごすという生活を続けて死んで行った。
北方のモンゴル各部を廻り、清朝の最新鋭武器と圧倒的兵力で軍事演習をして見せ、
モンゴル王公らの腰を抜かさせたり。
ガルダン討伐のために自ら出征して大軍を指揮して、ゴビ砂漠を横断したり。
江南にまで出かけては、漢族の士大夫らと交流を持ったり。

そのような「外交」、「軍事」の成果は、目覚ましいものがあったが、
その統治の晩年には、どうしても内政の方のほころびが目立つようになっていた。

雍正帝がしなければならなかったのが、その財政の立て直しであり、
汚職官僚をばしばしと摘発したり、地方の官僚らと濃厚な奏文のやり取りをし、口汚く罵って叱咤したり、
汚職を未然に防ぐための制度を作ったり、ということに忙殺された。

そういう「経済感覚の鬼」のような雍正帝だからこそ、陵墓建設と軍事的効果の一石二鳥を狙ったのではないか、と思うと、
なるほど、と納得できる。


 

 泰陵

 土饅頭を取り囲む回廊にて。

 下から生えてきた松が、壁の側面から通路に侵入している。
 すごい生命力。

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清の西陵42、青海も清朝が直接統治

2016年05月19日 22時12分07秒 | 北京郊外・清の西陵
雍正帝が即位の正当性を巡って、喧々諤々の激しい兄弟喧嘩で取り込んでいるところに、青海で問題が発生した。

雍正元年(1723)、青海ホシュート部のロブサン・ダンジンが、
ホシュート部の他のタイジ(副格的リーダーの称号の一つ)との紛争をめぐって、
ジュンガルに援軍を求めたという知らせが入った。


前述のとおり、清朝廷が最も警戒するのが、
ジュンガル部が青海、ひいてはチベットに関わってくることである。

これを機に雍正帝は再び大軍を派遣。
青海を制圧すると、青海も清朝の直接統治とし、旗に編成、兵士の末端に至るまで八旗軍の佐領に組み入れた。

これによりチベットと青海まで清朝の直接軍政下に入ったのである。


雍正帝の陵墓の建設の前後の西北戦線は、
シルクロードの入り口、トルファンやハミとなっていた。

そこで侵入してきたジュンガル軍と一進一退の攻防を繰り広げていたのである。

康熙年間のウランブトンの戦いは、
当時、ジュンガルがモンゴル高原を占領していたために、
真北からそのまま真っ直ぐ南下してきたから、敵はウランブトン――つまり北京の真北からやってきた。

しかし今、前線は西にある。
そこでふと不安になったのが、北京の西側の防衛だったのではないか、ということになる。


 

 泰陵


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清の西陵41、青海のホシュート部にとってチベットとは

2016年05月16日 23時48分10秒 | 北京郊外・清の西陵
青海のホシュート部にとって、チベットというのは、
永遠にじゃんじゃん財宝が出て来る、打ち出の小槌のような存在であったかと思われる。

だからこそ、それをジュンガルが奪いに来た時には、
なりふり構わず、清朝の皇帝に泣きついて、ジュンガルの侵略の非を訴えた−−。

一方、清朝にとって、遥か遠くの地の果てにあるチベットを手中に納めようと納めなかろうと、
税収という点からいえば、あまりこだわりはない。

豊かさで言えば、それこそ目も眩まんばかりの富を生み出す
中原や江南の世界有数の生産基地を手中に納めているわけだから、チベットなどにはあまり興味はない。


困るのは、チベットの持つ仏教の精神リーダーとしての影響力である。

ジュンガル部はただでさえ、軍事的に強大な力を持っているのに、
さらにダライ・ラマやパンチェン・ラマと言った、全モンゴル人が崇拝してやまないカリスマをその手中に把握され、
影響を及ぼされた日には、清朝の屋台骨さえ崩れかねない。


事実、康熙帝を悩ませたガルダン・ハーンは、チベットの高僧ウェンサ・トルクの転生として、
チベットでパンチェン・ラマとダライ・ラマ5世に師事したという経歴をもつがため、
生涯に渡ってチベット宗教界高層の支持と擁護を受け続けた。

そのために康熙帝も、ガルダン・ハーンの扱いには神経を尖らせずにおられなかった。


それが清朝廷のチベット出兵の動機であり、
ジュンガルを追い出した後は、その主権をホシュート部に返さず、
自らが直接管理するという形にした理由もそこにある。


しかしホシュート部のロブサン・ダンジンは次第に不満を深めて行った。




 木の根本を見ると、遥か下に見える!
 よくぞここまで伸びてきたもの!


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清の西陵40、青海とチベット

2016年05月14日 22時16分52秒 | 北京郊外・清の西陵
次に雍正帝が即位直後のごたごたでてんやわんやになっている時、
今度は青海が不穏になり出した。

これまでチベットを支配していたホシュート部は、
元々の根拠地は青海の草原である。


青海は崑崙山脈の南、チベットの北側にある。


現代でも青海省からチベットを目指すとわかるが、
青海というのは、もう見事なくらいになああーんにもないところである。

人もまばら。
見渡す限りの石ころの不毛の大地か、草原か。

標高が3000m以上あるため寒冷地で、さらに雨もあまり降らず、なかなか自然の厳しい土地だ。
この環境下で農業は厳しく、遊牧にしても北のジュンガルよりもさらに厳しい。
緯度は低いが、標高が高いために気温が低いからだ。

同じ遊牧をするにしても、家畜も人間も厳しいのだろうと、現地では実感できる。


ところがそんな青海省の省都の西寧からチベット高原へ南下して行き、
高山病に苦しみながら高い山を登り切って、さらに南の方に下がって行くと、
急に畑らしい農作地帯が見えて来て、ラサの喧噪が現れる。

つまり青海と比べて、チベットは豊かなのだ。
農業もできるから食糧の生産性も高く、人口も多い。

労働をしないラマ僧という有閑階級を食わせて学問を発展させたり、
食べ物を生産しない職人という階級を養って、美しい工芸品や生活雑貨を作らせられる余裕がある。
さらにはヒマラヤを超えてインドというさらなる一大文明圏とも交易が持てる・・・。

厳しい土地で日々を生き抜く青海の剽悍なる遊牧民が、
財宝とこれからも未来永劫に無尽蔵に取り立てられる豊かな税収を目の前にして、
命がけで征服しに行くことは、ごく自然な流れだろうし、
四方を断崖絶壁に囲まれて敵の襲来が少ないチベットの民が、征服されてしまう方が多いだろうことも容易に想像がつく。


 

 泰陵の土饅頭の周囲の城壁。
 下から勢いよく松が伸びてきています。


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清の西陵39、雍正年間にチベット直接支配

2016年05月11日 23時37分13秒 | 北京郊外・清の西陵
このように北からの敵の攻撃に対しては、康熙帝がかなり強固に仕上げたと言っていいだろう。

ところが雍正帝の時代になると、戦線は主に西に移る。


雍正帝の即位前後、ジュンガルがチベットに侵攻、
ジュンガル軍8000人に対し、清朝は全土から30万人もの大軍を動員して、これを阻止した。

北路はジュンガルを、中路はウルムチを、南路はチベット高原を目指した。


その際に件(くだん)の雍正帝の最大のライバルだった14皇子・胤[ネ題]が、
撫遠将軍として西寧駐留となったのである。


30万人という途方もない規模が目前に迫り、ジュンガルのツェワン・アラプタンは、
戦わずして、軍隊をさっさと引き揚げさせた。

ジュンガルが侵攻する前、チベットはモンゴルのホシュート部の支配を70年近く受けていたが、
これ以後、チベットは初めて清朝の直接支配を受けることとなる。
康熙帝が崩御した年、康熙61年(1722)のことである−−。


ところでホシュート部も「4オイラト」の部族の一つとして、ジュンガルとは同じオイラト部の一部族である。
ジュンガルとも互いに複雑に婚姻関係がある。

ジュンガルのガルダン・ハーンの母は、ホシュート部の長グシ・ハーンの娘、
次のハーンとなったガルダン・ハーンの異母弟のツェワン・アラプタンは、ホシュート部のラサン・ハーンの姉を妻とし、
自分の娘ボロトゥクをラサン・ハーンの長男ガルダン・ダンサンに嫁がせた――、
と言った調子である。

時には敵、時には親戚のずぶずぶの関係である(笑)。






 泰陵の土饅頭の上。
 荘厳な松の木が生い茂っている。


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清の西陵38、承徳などの行宮群と周囲の八旗軍駐屯

2016年05月08日 13時28分14秒 | 北京郊外・清の西陵
清朝の統治層が本気で肝を冷やす事件だったと言っていい。
そんな経緯も受けて、木蘭囲場での活動、その周辺への八旗兵の入植には、さらに一層力が入るようになったのである。

毎年、春の訪れとともに、北京から
王公大臣ら、八旗軍、皇帝一家、後宮の妃ら、皇子皇孫、宦官宮女に至るまで
数万人が木蘭囲場に向けて移動した。

移動中、身分が下の人たちは蒙古包(ゲル、天幕)を立てて野営するが、
皇帝とその家族らのためには、北京から木蘭囲場までの間の450劼隆屬烹横吋所の行宮が建設された。

そうした行宮の周辺には、八旗兵が常駐する村が配置されるようになる。


21ヶ所の行宮の一ヶ所であった承徳では、
康熙42年(1703)、行宮をさらに発展させ、広大な敷地に築山や池、川の中に宮殿が点在する「避暑山荘」の建設が始まった。

その周囲には、皇族、大臣らもこぞって屋敷を建設。
さらに毎年やってくるモンゴル王公らのために、ラマ教の寺院も建てられ、チベットやモンゴルからラマ僧らが呼び寄せられ、常駐するようになる。
承徳はちょっとした街に発展、周囲にはさらに八旗の駐屯軍が配備された。


このように北京から木蘭囲場までの間は、
大げさにいえば、もう足の踏み場もないほどに八旗兵で埋め尽くされたことになる。

北京の北部の各重要関所である居庸関、古北口、喜峰口、独石口もその地帯の中にすっぽりを入っていることは、いうまでもない。

居庸関の場合も、内も外も八旗兵の駐屯地で埋め尽くされ、
しかも居庸関まで、とてもではないが、道中の絨毯爆撃のような幾重にも張り巡らされた防衛線を突破できるものではない。


今でも北京から承徳までの道中を地図で見ると、
「なんとか満族村」、「なんとか旗郷」と言った名前で埋め尽くされている。




北京の東北郊外から承徳にかけての地図。
満族の地名で埋め尽くされている。


 

 泰陵。

 土饅頭を取り囲む城壁と土饅頭。
 この下に雍正帝が眠る。


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清の西陵37、ウランブトンの戦いで首都に肉薄

2016年05月06日 13時28分14秒 | 北京郊外・清の西陵
ガルダン・ハーンが撤退を承知しないため、両者の関係が次第に悪化。
ついに康熙帝自らが、出陣してガルダン・ハーンとの戦いに臨むという事態に発展した。

康熙29年(1690)、ガルダン率いるジュンガル軍が、モンゴル高原から不毛の地・ゴビ砂漠を縦断し、
木蘭囲場の少し北、北京から直線距離でわずか700里しか離れていないウランブトンに現れた。


そこで清軍と激突するのだが、
ガルダンはなんと、帝政ロシアあたりから買い入れたのか、西洋の最新鋭の大砲を引きずって砂漠を超えて来ており、
そのすさまじいばかりの威力に康熙帝の叔父、生母の弟である「国舅」の[にんべん+冬]国鋼が、
一瞬で大砲に吹っ飛ばされて壮絶な最期を遂げたという。


清側の犠牲は大きく、ガルダンはそのまま一気に北京まで攻め入ると息巻いた。
実際、ウランブトンから北京までは目と鼻の先、
間一髪と言うところまで肉薄したのである。


これを迎え撃つ清側の覚悟も悲壮、
各牛禄(ニル)から鉄砲手を8人駆り出したと言われる。

ニルは八旗の最低単位、一組10人と言うから、その中から8人も出すと言うのは、
「ほとんど傾国」・・・・と記録にも言う。

北京城の城門は固く閉ざされ、城内の米価が三両も上がる騒ぎとなった。


幸いにも、清軍のこのような悲壮な防衛力の厚さに
さすがにガルダンも無理だと観念したのか、和議を申し入れに来て、
そのどさくさにさっさとゴビ砂漠の北へ引き揚げて行った。


 
 
 泰陵。

 土饅頭を取り囲む城壁と土饅頭。
 この下に雍正帝が眠る。


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清の西陵36、ハルハ部の大南下

2016年05月04日 13時28分14秒 | 北京郊外・清の西陵
これに加えて康熙帝は、モンゴル王公らとの親交をさらに深めるため、
康熙20年(1681)には、北京の東北、北京とゴビ砂漠との間の森林地帯に「木蘭囲場」という狩り場を作った。

春先から晩秋に至るまでの実に半年もの間、ここでモンゴル王公らと
日がな狩りやら、キャンプやら、宴会やら、ラマ教の法会やらに明け暮れるのである。
その中には、康熙帝の娘(皇女)を嫁がせた相手の「婿」王公もいたりして、
その皇女が生んだ息子が、将来はこの祭典に参加するような手はずになっていた−−。

虎、鹿を中心とした動物が捕れたという。


そんな中、康熙27年(1688)に西北モンゴル、オイラートのジュンガル部のガルダン・ハーンが東に移動して
漠北(ゴビ砂漠の北側。現在の外モンゴル)のハルハ部を襲撃するという事件が起きた。

泡を食ったハルハ部の人々数十万人が、死の恐れも伴うゴビ砂漠の縦断をものともせずに大挙して南下、
康熙帝に保護を求めるという所謂「ハルハ部の大南下」があった。


元々、漠南と漠北のモンゴル諸部は、親戚関係のようなもの。
漠南にたどりついたハルハ部の人々は、康熙帝に助けを求めた。

康熙帝はハルハの人々を受け入れ、避難物資と牧草地を与えた上、
ガルダン・ハーンにモンゴル高原を明け渡し、元いた天山北路に戻るように求めた。




 

 泰陵。

 祠の後ろにつながる土饅頭のまわりは、丸くレンガの壁で囲まれており、
 その壁の上をぐるりと一周することができる。

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清の西陵35、北部の関所の往来激し

2016年05月02日 12時07分22秒 | 北京郊外・清の西陵
北京の最も重要な関所は、前述のとおり、
「居庸関(きょようかん)」と「紫荊関(しけいかん)」なのだが、
居庸関の方に関しては、康熙帝がかなり周囲を固めまくっている。

清初期の最重要課題は、漠南のモンゴル諸部との親交を深めることだったかと思われる。


それまで中原王朝の歴史の中でずっと中原王朝を悩ませて来たモンゴル族を筆頭とする騎馬民族との間に
満州族という第三勢力である自分たちが入り、
中原の人々が再びその襲撃に怯えて暮らさなくてもよくすることが、
満州族の最大の存在意義だということには、深い自覚があったかと思われる。


漠南とは、文字通り、ゴビ砂漠の南、現在の内モンゴルのあたりを示すが、
つまりは北京の北に広がる草原地帯である。


漠南のモンゴル諸部と北京との行き来には、
北京の北側の各関所をじゃんじゃん往来しながら、盛んに往来した。


明代に作られた万里の長城の要所である各重要関所の居庸関、古北口、喜峰口、独石口も
八旗の関係者が盛んに行き来した。



  


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清の西陵34、康熙帝を門の外に閉め出す

2016年04月30日 11時52分58秒 | 北京郊外・清の西陵
清の統治時代になると、
紫荊関には、兵営が置かれる。

康熙帝は、モンゴル諸部族との連携を強めるため、
その生涯に何度も草原へ足を運んでいる。

・・・というか、一年のうちかなりの時間を北京の外で過ごしていると言っても過言ではなく、
まさに「遊牧民の正統なハーンの継承者を自称するマンジ(満州)の皇帝」にふさわしい生活パターンであった。
ほとんど毎年、草原のモンゴル諸部を訪ねるか、承徳まで諸部のリーダーたちを呼ぶ寄せるか。

ガルダンとの戦いでは、自ら軍隊の指揮を執りもした。



康熙42年(1703)の西巡の旅では、紫荊関を通って西側へ行くルートを取った。

皇帝一行が紫荊関に到着した時には、すでに夜も暮れており、
紫荊関の城門は閉じられていた。

城門を何度叩いても、中にいる兵士は門を開けず、
一行はやむなく外で野宿したという。

翌日、康熙帝は「よき心がけ」と兵士をほめ、
「天子閲武」
の四字を残したという。

今では石碑に刻され、山の中腹に置かれているとか。


・・・・今回は残念ながら、紫荊関まで足を延ばせなかったが、
次回はぜひとも訪ねたいものである。


  

  泰陵

  近すぎて、文字の判別不能。。。(汗)


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清の西陵33、ゆっくりとモンゴル諸部を制圧(西陵の地図つき)

2016年04月28日 00時03分24秒 | 北京郊外・清の西陵
さて。
清代になると、紫荊関は「内地」となる。


満州族は、モンゴル族を味方につけることができたからこそ、
中原の主となることができたわけだが、最初から最後まで北方勢力を完全に掌握していたわけではない。

建国当初、同盟関係にあったのは、「漠南」(ゴビ砂漠の南側)と呼ばれる現在の内モンゴルのモンゴル諸部族(ホルチン部など)のみ。


次に康熙帝の時代になり、ジュンガル(オイラート・モンゴル)のガルダン・ハーンに攻められて
「漠北」(ゴビ砂漠の北、現在のモンゴル共和国、モンゴル高原、外モンゴル)のハルハ部が難民となって、漠南になだれ込み、
康熙帝がこれを保護、ハルハ部も清朝の傘下に入った。

シルクロードエリアにあたる天山山脈の南北にいたオイラート・モンゴルまで掌握するのは、
乾隆年間もようやく終わりかけた頃。


実に統治の半分くらいの時間をかけて、ゆっくりゆっくりと少しずつ傘下に収めている。


つまり雍正年間のこの頃、清朝はまだオイラト・モンゴルとの戦争の真っただ中にあり、
紫荊関の戦略的な重要性は、まったく下がっていなかったのである。




またまたお恥ずかしながら、手書きの地図。
 西陵のすぐ西側に紫荊関がある。


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清の西陵32、チンギス・ハーンとエセン・ハーンの場合

2016年04月27日 22時49分20秒 | 北京郊外・清の西陵
またもう少し後の時代には、次のような例もある。

金朝の大安元年(1209、南宋の嘉慶2年)、モンゴルのチンギス・ハーンは、居庸関を北から攻めたが、
金朝がこれを固く守り、破ることができなかった。


そこでモンゴル軍は、一部の兵力を割き、
西側から回り込んで、紫荊関を攻撃、金軍を破って
易州、啄(さんずい)州(たくしゅう、易州の東、三国志の桃園の契りで有名な地)の二州を占領、
そこから中都(今の北京)を攻め落とし、ついでに居庸関も挟み撃ちにして攻め落とした。

さらに返す刃で大軍を率いて紫荊関を西に出ると、山西の太原、代州も攻め落とした・・・・。

これで北京周辺を完全制圧したのである。



もう一つ、明代の有名な土木の戦役がある。

明の正統14年(1449)、オイラト・モンゴルのエセン・ハーンが
土木で明王朝の皇帝(英宗、正統帝)を捕虜にするという前代未聞の事件(土木の変)が起きた。

エセン・ハーンは勢いに乗り、そのまま人質の皇帝を連れて大軍を率いて南下、
万里の長城のすぐそばまで迫った。

しかし居庸関を攻めてみたものの、守りが固くてなかなか攻め落とせない。

そこで同じようにまた西側に回り込んで紫荊関を攻め、明側が敗れた。
オイラトの大軍は、そのまま駆けに駆けてあっという間に
良郷(北京の郊外・房山。今では地下鉄も伸びている。つまりは北京城のすぐ目の前)
まで迫った。

明の兵部尚書・于謙は、紫荊関まで自らも軍を指揮して出征、
エセンの弟ボーロを殺し、ようやくオイラト軍を撃退させて、辛くも北京を守り抜いた。



  

  泰陵


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清の西陵31、後漢の烏桓との戦いでは

2016年04月26日 22時09分25秒 | 北京郊外・清の西陵
北京という都市は、もともと草原地帯と農耕地帯の境界線にあり、
農耕民族が騎馬民族から生活を守るための最前線の城塞として築かれ、発展してきた。


そのため戦火が絶えることはなく、古来より記録に残るだけでも
紫荊関で起こった戦役は140回ほどもある。


その中の代表的なものをいくつか挙げよう。



後漢の洪武帝時代・建武21年(西暦45年)、烏桓(うがん)と匈奴、鮮卑族の連合軍が侵入。
 
 今では匈奴はモンゴル族の祖先、鮮卑もトルコ系といわれるが、
 どうもこの頃は、モンゴル系もトルコ系も皆、顔はツングース、言語もアルタイ語で
 あまり分化していなかったようなので、とりあえずは北方のアルタイ系の諸民族、っていうくくりでいい感じですな。



 代郡(現在の山西省代県)から東の地域では、特に烏桓の被害がひどく、
 「民がことごとく逃亡し、国境は人っ子一人みかけることもなし」
 という悲惨な状況になったという。


 名将・馬援(ばえん)が指揮を執り、紫荊関で烏桓の撃退に成功した。



  

  泰陵
 
  満州語、モンゴル語、漢字での表記が見える。
  「世宗憲皇帝之陵」。

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清の西陵30、燕代からある紫荊関

2016年04月25日 13時29分46秒 | 北京郊外・清の西陵
紫荊関は元々、春秋戦国時代の燕の時代から万里の頂上の一環として作られた関所である。


燕の下都の西北の守りの壁となった。


秦・漢代の名は「上谷関」、後漢では「五阮関」、
宋・金代は「金坡関」と呼ばれた。

元代以後は「紫荊関」の名で通る。


現存する紫荊関とその周辺の万里の長城は、
明代を通じて何度も補強・増強を繰り返された末の偉容である。

周辺の頂上の見張り台は330台、
紫荊関は「九門九関」、2000人近い兵士が城中していた。



  

  泰陵


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清の西陵29、紫荊関は北京の喉(紫荊関の地図つき)

2016年04月24日 19時10分38秒 | 北京郊外・清の西陵
西陵は紫荊関の麓、山中から出てきてすぐの平野部に広がる。


北京は、北に燕山山脈が東西に横たわり、
西には、太行山脈が南北に連なって、山西との境となっている。

北から北京に抜けるため、燕山山脈の山中の最も重要な関所が「居庸関(八達嶺)」。
西側から北京に抜けようと思うと、太行山脈の山中の最も重要な関所が「紫荊関」である。
さらにその少し南側にあるのが、同じく太行山脈の山中の「倒馬関」。

この三関が、北京の「内三関」と呼ばれる。


このように紫荊関は古来より戦略の要所となっており、
ここが破られると、もう北京までは丸裸。
だだっ広い平野が続くので、北京まで馬で一気に駆け抜け、落とされてしまう。


紫荊関が破られれば、もう北京を破られるのも時間の問題となる。



北京界隈が燕と呼ばれた遥か昔より、戦いの勝敗を決める重要拠点となってきた。

「山西」、「山東」の「山」とは、太行山脈を指すが、
その山中には、古来より「古太行八径」と呼ばれる山中を抜ける八本の道があった。
紫荊関は、その七本目「蒲陰径」上にある。


紫荊関の重要性は、

「居庸関が破られても、北京が破られた例は十中三しかないが、
 紫荊関が破られて、そのまま北京城まで破られた例は十中七。」

と言われるほどだという。


明末清初の著名な思想家・顧炎武は、『天下郡国利病書』の中で、
「居庸関は吾が背なり、紫荊関は吾が喉なり」
と言った。

 

 下手な手書きの地図で恐縮。
 自分なりに相関図をまとめてみた(笑)。


・・・・今、過去記事を見返していたら、

カテゴリー『河北・蔚県と暖泉』シリーズにも、相関地図があることを発見。

暖泉1・「蔚県800城」の一つ


そのほかにも、紫荊関を超えた西側にある宿場町・城塞都市として発展した
『河北・蔚県と暖泉』シリーズも合わせて読んでみてくださいー。


シリーズ第一話・蔚県1・宦官王振の故郷
この記事からずっと上に順番に遡って見てくださいー。



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