いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語10、明の使者・王教化ふたたび

2018年02月21日 09時24分24秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
進退極まり、迷っているところに、それを察したかのように再び明側から使者の王教化がやってきた。

曰く、明の朝廷から官職を授けるから迎えにきたという。

つまりは明朝の護衛団に守られて北京に入り、
そのまま正式な中央官僚としての身分が与えられるということである。

明の正式な軍隊に守られているモンケ・テムールを
道中で襲うほどの荒唐無稽なことを朝鮮側がするわけはなく、
そうやって去っていったモンケ・テムールの部落を襲うのは、憚られる。

朝廷の正式な官僚となれば、これを害することは
明の朝廷そのものに刃向かうこととなり、朝鮮も手を出せなくなる。


ここまでの安全保障を目の前に用意した明朝に対して、
モンケ・テムールは初めて明の臣下となり、故郷に帰ることを決心したのである。


一方、朝鮮側には使者を出し、明には従わぬことにした、と偽りの報告をする。
朝鮮王はこの言葉を信じ、国境の警備を緩めさせた。

明の永楽帝からも援護射撃が入る。
朝鮮王がモンケ・テムールを入朝させないように妨害していると知り、
永楽帝は怒り、朝鮮からの使者を叱責する。

曰く、モンケ・テムールは皇后の親戚であり、
北京に呼ぶのは皇后の望んだこと、骨肉の間柄で会いたいと思うのは、人の倫なり、と。


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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている


  
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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語9、明と朝鮮のはざまで

2018年02月18日 09時17分04秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語

明朝に帰順を誘われる一方で、朝鮮には強く引き止められ、モンケ・テムールは決断を迫られる。

朝鮮に渡ってからすでに二十年以上の時間が流れており、それなりに安逸な生活を過ごせた。
しかしこのままでは、永遠に故郷である満州の地に戻ることはできない。

また明朝は大国であるだけに外敵が来たときの保護、天災で食糧難となった時の援助なども
大規模なものが期待できる。

しかし明が成立し、皇帝が二代も替わっているのに、
挨拶の使者を送りもせず、朝鮮に二十年もいた自分を明の皇帝が信用してくれるかどうか。

また大国の政局は複雑なため、
立ち回りを間違えて皇帝や重要人物の機嫌でも損ねた日には、命も飛ぶ危険性もある。


さらに朝鮮側の妨害も壮絶であった。
この勢いでは、明から正式に冊封される前に兵を向けられ、殺される可能性さえある。

明ははるか遠くにあり、朝鮮からは三日で大軍を到着させることができるのだ。

朝鮮が先に殺し、既成事実を作ってから、
あとからどうにでも明に申し開きをすることは、それほど難しいことではなかった。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語8、朝鮮側の懐柔

2018年02月11日 18時53分55秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
朝鮮としては、明朝を宗主国として仰いでいる以上、
女真族らを呼び戻す使者に真っ向うから抗議するわけに行かない。

そこでまずはモンケ・テムール側には、懐柔作戦に出た。

この時期に奇しくも、慶源などの地の軍万戸を管理する印信を授与し、
清心丸、蘇元丸、木綿布、白寧布を下賜している。
 
清心丸、蘇元丸はともに漢方薬、今でも北朝鮮の特産品である。

清心丸は朝鮮人参を主成分としており、解熱に効く。
生産性の低い時代には、高価なものだったのだろう。

これで交易することにより、さまざまな物と交換できたのだろうと思われる
価値の高い経済商品というわけだ。
 

一方、朝鮮国王の李芳遠は、明朝の朝廷にも使者を出し、
「モンケ・テムールは戦乱を避け、一家を挙げて朝鮮の慶源に住み着くこと二十年、
 朝鮮の朝廷に仕え、倭寇の撃退に功あり、万戸に封じられ、久しい」ため、

これまでどおりにしてほしいと請うた。



朝鮮に引き止められ、明朝に帰順を誘われ、
モンケ・テムールは決断を迫られた。


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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語7、永楽帝が呼び戻しに

2018年02月06日 10時31分40秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語

明初の永楽年間に入ると、情勢がやや変化してくる。

永楽帝は首都を北京におくことにより、
それまで南方に置かれていた帝国の重心を大きく北に傾けることになる。
 
自らも幾度にも渡り、モンゴルに遠征した永楽帝は、北方の防衛を何よりも重視しており、
東北地方もできるならモンゴル族以外の、モンゴルの勢力下にない部族らに住んでほしいという事情があった。
 

そこで戦乱で東北から離れてしまった女真族を呼び戻す動きが始まる。
 
永楽三年(一四〇四)、使者の王可仁を朝鮮領域内の女真族居地区に派遣し、
勅令を読み上げさせて帰順を勧めた。

朝鮮は明朝に臣下の礼を取っているから、もちろんこれを阻止するわけにはいかない。
 
使者の持ってきた勅令は、
天下が平和になり、明が中原を治めるようになったことを知らせる、
という内容だった。
 

しかし東北が「緩衝地帯」であるのは、朝鮮に取っても同じである。
朝鮮王としては当然、女真族を自分たちの支配下に置きたいと思う。

思えば歴史上、朝鮮半島の王朝は何度にもわたり、中国の王朝から攻撃を受けてきた。
モンゴルによる支配も受けた。

災いの多くは、北からやってきたのである。

その際、通り道となる東北の原住民が、
敵側について道先案内役となり、率先して協力し一緒に朝鮮を攻めるのか、
朝鮮の表玄関となって防御の役割を果たしてくれるのかでは、
天と地とも差があるのだ。


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ヌルハチの先祖が葬られている


  
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東アジアの兵器革命―十六世紀中国に渡った日本の鉄砲
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吉川弘文館


目次を見て、ちょっと鳥肌たっています。

日本の戦国時代の戦法と鉄砲技術が、
朝鮮出兵を機に朝鮮・明朝に伝わっていき、
大陸の兵器革命を引き起こした、という内容。

日本の鉄砲隊の戦法が、第一次大戦くらいまでは、
世界の戦場でも充分に通じるくらい先進的だったという話は、
どこかで読んだことがあったが。。。

時間をみつけて、本格的にかぶりついて読みたい。
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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語6、モンケテムール、朝鮮の配下に入る

2018年02月01日 12時09分10秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
モンケ・テムールは、先に入植していた女真族らに倣い、
高麗王に朝貢し、臣下の礼を取ることでその身の安全を保証された。

その後、現地の都指揮使・李成桂の行政管理下に入った。


ところがこの李成桂がのちに高麗から独立し、李氏朝鮮を打ち立てることとなる。

モンケ・テムールは李成桂の独立戦争に参戦し、一族の壮丁を率いて従軍したという。


このように李氏朝鮮の創立にも直接関わり、モンケ・テムールは朝鮮との関係を深める。
自らも何度も入朝して朝鮮国王に朝貢の礼を取った。

例えば、李朝の甲申二年(明の永楽二年、一四〇四)、
モンケ・テムールは、弟、養子、妻の弟を筆頭に十数人を率いて朝鮮に朝貢し、
そのまま弟、養子、妻の弟は王都の侍衛として残された。

侍衛は王の近辺を守るエリート集団であるとともに、
重要な辺境勢力の子弟を人質に取るという意味もある。

また政権の中心で国の一員としてのアイデンティティを強烈に植えつけて返す
といういくつかの目的を同時に担った方法でもあったのだろう。


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3億人の中国農民工 食いつめものブルース
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日経BP社


今、読んでいます。
安徽省や河南省からの出稼ぎの人たちとガチでお友達になり、
その人生を追いかけていくって。。。。

中国在住の日本人はまたおれども、
こんなことができる人は、めったにおりません。

文章の説得力がちがう。
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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語5、モンケテムール、朝鮮へ避難

2018年01月29日 18時49分12秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
モンケ・テムールが登場するのは、元代の末期である。

東北地方も元朝の五つの「万戸府」を行政単位として、支配下に置かれていた。

ところが元朝が崩壊し、順帝が大都(北京)を放り出して「北帰」すると、
東北地方を治める勢力がなくなり、地域全体が空白の無政府状態と化した。

曲がりなりにもあったパワーのヒエラルヒーによる抑止力のたがが外れ、
互いに戦争を仕掛け、人間、家畜を奪い合う大混乱状態となった。
 

故郷のかかる惨状に悲鳴を上げ、
モンケ・テムールは、一族郎党を引き連れて朝鮮の領域内に移住した。

現在の北朝鮮の会寧にあたるところ、鴨緑江を超えたすぐ対岸である。

当時は高麗の支配下に置かれており、中央政権の行政がまだ機能していたため、
東北ほどの無政府状態ではなかったということだろう。

少なくとも夜寝ているうちに何者かに急襲され、起きたら妻はなぶりものにされて連れ去られ、
子供たちは奴隷に売られ、家畜すべてがなくなっていた、
というような悪夢は起こらなくて済む程度の秩序は保証されていたのである。


わずかの距離だが、今でも国境となるくらい広い川幅を持つ鴨緑江が天然の要塞となり、
勢力圏を区切っていた。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている

石碑。
満州語、モンゴル語、漢語の碑文。


 


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語4、いじましい漢字の当て字

2018年01月25日 21時26分45秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
興味深いのは、天下を取った後の清朝が、自らの先祖を記すときの扱いである。

中原の主人となったからには、
あらゆる書物を少なくとも漢語に翻訳して公開する必要があるわけだが、
その時の固有名詞の漢字の使い方に微妙な民族意識、自尊心が表れていて興味深い。
 
例えば「モンケ・テムール」の「モンケ」の漢語表記である。
モンゴル帝国のハーン、モンケ・ハーンの場合は「蒙哥」であるし、
朝鮮の書物に記録された女真族「モンケ・テムール」の場合は、「猛哥」である。

「テムール」も一般的には「貼木爾」の字が当てられるのがポピュラーだった。
ところが、「蒙哥貼木爾」の漢字を使うと、ビジュアル的にあまりにモンゴル的なためなのか、
清朝の史書には「孟特穆(モントムー)」と書かれている。


まったくなじみのない漢字の組み合わせを使うことにより、
そのモンゴル色を消そうという苦しい試みが伺われて、いじましい。

統治者としてのプライドを表現しようとする微笑ましい現象だ。


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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語3、文書はモンゴル語で

2018年01月23日 19時36分48秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ヌルハチ以前、モンゴルと満州がどういう関係にあったかといえば、
満州族の重要な特徴として文書はすべてモンゴル語で書かれていたということがある。

十二世紀に女真族によって創設された金王朝は、
漢字と契丹文字を参考にして女真文字を作ったが、
これはどうやらあまり合理的な文字ではなかったようである。

使いにくいことに加えて金の滅亡後、女真族は東北の原野のみで暮らす原始的な民族に逆戻りし、
それぞれの部落で自給自足を基本とした生活を送り出したため、
文字も大して必要はなくなってしまった。

元来、文字とは社会が複雑化してきたときに初めて必要となるものである。
私有財産・土地・不動産の複雑な取引きが始まれば、
これを証明する契約書が必要となり、そのために文字にあらわす必需性が出てくる。

広大な領土を統一された法律で治めるためには、
その命令を伝達するために行政文書を書く必要性が生まれ、
過去の過ちを繰り返さないための反省材料としては、歴史を記すことも重要となってくる。


ところが、大興安嶺の原野に戻り、
限られた狭い地域の中で部族同士が大規模に連帯することもなく暮らすようになった女真族には、
単純な社会構造のために契約書も必要なく、
活動範囲が狭いために行政文書の流通も必要なくなり、文字が廃れてしまったのである。

それでも何か文字に残さなければならないものが発生すると、モンゴル語を使うようになったのである。


日本で正式な文書が多く漢語で書かれたこと、朝鮮でも漢語で書かれていたことと似た現象だろうか。

それは行政に関することを中心として、
モンゴル語ではすでに豊富な語彙と表現方法が確立されており、満州語にはそれがなかったこと、
満州語の表記方法が確立されておらず、そのまま表記するには不都合だったことがあったのだろう。


つまりモンゴルは、満州族にとって先進文化を持つ民族だったのである。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語2、モンゴル的名前

2018年01月20日 19時36分48秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
清朝の始祖ヌルハチの祖先の由来が現実味を帯びてくるのは、
ヌルハチの六代前の始祖と位置づけられるモンケ・テムールからである。

かささぎが運んできた赤い実と仙女の間に生まれたとされる
始祖プクリ・ヨンシュン(布庫里雍順)からは何代のちのことなのか、
はっきりということができぬらしい。

このあたりもかなりいい加減な起源伝説とわかってしまう笑。

 

ところでこのモンケ・テムール。

名前を聞いただけでも如何にもモンゴル風である。
時代は元代である。

「モンケ」といえば、
モンゴル帝国の第四代ハーン、チンギス・ハーンの末子トゥルイの長男と同名。

「テムール」は、
中央アジアを席巻した自称モンゴル帝国の末裔の「ティムール」と同名という、
贅沢な組み合わせである。


ちなみに元朝最後の皇帝、北京を捨てて北に回帰した「順帝」の名前も「トゴン・テムール」。
「テムール」はモンゴル的には極めてポピュラーな名前である。


モンゴル人が一番の先進民族だった時代なだけに、
それにあやかる響きの名前をつけたということらしい。

現代でも先進民族であるキリスト教諸国風なリサ、マリア、
といった名前がはやるのと同じことといえるだろうか。
 

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語1、民族誕生伝説

2018年01月17日 16時01分11秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
今日から新しいシリーズを始めたいと思います。

清朝の創始者ヌルハチの満州の原野にいた頃の話です。


**************************************

どの民族にも、民族誕生伝説というものがある。
アイデンティティーの拠り所として起源・誕生伝説が必要となるのだろう。

--ヌルハチから興った清朝にも、それがある。

しかしその誕生伝説は王朝としての体制が整ってきてから、慌てて作ったことを思わせるような、
いかにも後から取ってつけたようなものだ。

恐らく大規模な統治集団になってから、
起源伝説もないようでは体裁が悪いというので、短時間の間に急に作り上げた物語なのだろう。


いわく、三人の仙女が長白山の天池に水浴みに来たところ、
カササギが赤い実をくわえてやってきた。

三人姉妹のうちの末っ子の仙女が、その赤い実を食べてしまった。

するとおなかがどすんと重くなり、妊娠したことがわかった。


・・・・このあたり、いかにも慌ててつくった疎漏さが窺える笑。
どすんと重くなっただけで、なぜ年端も行かぬ少女が妊娠とわかるねん、とつっこみたくなる笑。

恐らくこれを聞いた清代の人も誰もあまり重視せず、
軽く受け流してしまうくらい重きを置かれなかったために、
さらに詳しく掘り下げて表現する必要がなかったのだろう。

作った方も聞く方もみえみえのフィクションをしたり顔に納得した振りをするための舞台装置だったのだろうか・・・・。


体が重くて飛べない、と末っ子がいうと姉二人は、
あなたを待っておられないから身二つになったら、飛んできなさい、
と言い残し飛び去っていった。

のちに三仙女は子供を産み落とし、
その子は生まれた瞬間から言葉を話すことができ、すぐに大人になった。

・・・・さらに手抜き感たっぷり。
ディテールすべてすっとばしですねー。


・・・・・と、甚だあやしい民族誕生伝説である。


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ツイッターを始めました

2018年01月16日 16時20分14秒 | 日記
久しぶりにブログを更新します笑。

昨年は北京からの撤退があり、バタバタしていてなかなか更新ができる状況ではなく、
しばらくご無沙汰しておりました。


日本に帰り、中国ではアクセスできなかったFB、Youtube、ツイッターなどが見られるようになり、
ようやく遅まきながら世界基準の(中国基準ではなく笑)SNSへの参加も始めました笑。


ええー。

ツイッターを始めました。




ブログにアップするほど本格的に書く気力がない時笑、
ちょこっとつぶやくには、いい媒体かなあ、と思いました。

見る側も同様に「がっつり読むほどは気力がない」時笑、
さくっと目を通していただくには、ちょうどいいかなあ、と実感しています。

フォローのアクセスのタグは画面左側でーす。
さくっと読んでいただけたら嬉しいです。



***********************************
お気に入りの本紹介:

福島香織女史の本の中でも好きな一冊です。
女性たちの運命が情緒的に描かれています。

現代中国悪女列伝 (文春新書 946)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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いよいよ『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』が出版されました。

2018年01月16日 16時11分11秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
 

初の翻訳作品『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』が、いよいよ出版されることとなりました。

 

あらすじとしては、康熙帝の帝師・陳廷敬を主人公とした歴史小説です。

私利私欲の亡者となり、蓄財に血眼になる他の官僚らをよそに、ひたすら清廉、率直をつらぬき、

その正直さ、率直さが、時には皇帝のご機嫌を損ねることがあっても、最後には皇帝の厚い信頼を勝ち取った人のお話です。

 

歴史小説ですが、軽快な会話に泣きあり、笑いあり。

気軽に読んでもらいたいなああ、と思っています。

 

「『紫禁城の月』と陳廷敬」の連載も合わせてお読みください。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
 本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!

    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる 
    3、陳家興隆の歴史的背景
    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
    5、わずか19歳で進士に
     6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
    7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院 
    8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
    9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院
    10、陳廷敬以後の『皇城相府』
    11、王岐山と陳廷敬
    12、王岐山と張英
    13、「号」に込められた意味
    14、隠居返上
    15、康熙帝、『湯座り』を勧める
    16、李光地にも『湯座り』を勧める
    17、李光地の病が湯治で完治
    18、陳廷敬、病に伏す
           19、陳廷敬の見送りには
           20、『紫芸[阝千]』
           21、高士奇の生い立ち
    22、高士奇、南書房に入る
    23、軍機処の前に南書房あり
    24、高士奇、起居注官に任命される
    25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺
    26、康熙帝が高士奇を寵愛した理由
    27、高士奇と金の豆粒
    28、高士奇の蓄財が悪評に
           29、康熙帝、西渓山荘に滞在す
   

 

『紫禁城の月』雑感とメディア動向

  2016.9.11.  『紫禁城の月』雑感、G20でも同じことが……
  2016.9.26.  『現代ビジネス』のコラム下に『紫禁城の月』を紹介

  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、日本語訳版を日本語勉強中のご子息にプレゼント
  2016.11.2.  『芸術新潮』2016年11月号に『紫禁城の月』の書評が載りました
  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、偽物に閉口

     2017.6.20.        『紫禁城の月』がフジテレビ ホウドウキョク鴨ちゃんねるで取り上げられました

過去記事も早見表を作っています。

   カテゴリー別 記事の早アクセス表

   各カテゴリーの内容紹介、見出しをまとめました。

 

*なお、本記事は、毎日、先頭に来るように更新しています。

 他の記事も2番目の記事として、更新を続けています。後ろを見てくださーい。

 

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『紫禁城の月』がフジテレビ ホウドウキョク鴨ちゃんねるで取り上げられました

2017年06月20日 23時35分54秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
2017年6月17日にフジテレビ「ホウドウキョク」で
『紫禁城の月」が取り上げられました。


中国ベストセラー小説に学ぶ処世術…翻訳家・東紫苑さん





自分の二重あごにばかり目が行き、なかなか番組鑑賞に集中できませんでしたが、
それはともかく(笑)、

作品の世界観、現代とのつながりを詳細かつ細やかな映像で再現してくださり、
圧巻です。
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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで9、「ハーン」の「皇帝」化

2017年05月26日 08時28分57秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
一方、中原の大帝国を維持するためには、騎馬民族の欠点である後継者争いによる政治機能麻痺は避けねばならない。
儒教思想に凝り固まった科挙上がりの士大夫らが、野蛮だ野蛮だとこれまたうるさく罵るのも、うっとうしい話だ。

そのすべての要素を丸く収めた案が、「太子密建」だった。

中原王朝のように早々と太子を立てて失敗した経験を生かし、今上皇帝の生前に後継者を公開することはやめたのである。
さりとて、兄弟が血みどろの骨肉の争いを繰り広げて政治が機能しなくなることは避けねばならない。

そこで現皇帝が死ねば、指名された皇子以外は誰にも権利がないことにする。
雍正帝が自らの苦い経験を踏まえて編み出した実にうまい案といえよう。


ともかくも雍正帝が血みどろの後継者争いの末に即位した話をしている。

中原モデルと草原モデルの板挟みになり、
多くの兄弟を幽閉したり殺したりせざるを得ず、自らも大きく心に傷を負った雍正帝。

そんなワーカホリックな猛烈熱血オトコが57歳で亡くなり、
その後を継いだのが乾隆帝である。


曽祖父、祖父、父の不安定な即位と比べると、乾隆帝の即位には何の障害もなかった。

まず雍正帝の十人の皇子のうち、雍正末年まで生きていたのは三人しかいない。
弘歴(乾隆帝の名前)は第五皇子ながら、上は3人の兄が夭折、
残るは兄が一人いるだけだったが、あまり優秀とはいえず、父帝からは尊重されていなかった。

これに対して、弘歴は幼い頃から優秀で祖父の康熙帝にも特にかわいがられた。
ライバルらしきライバルがいないまま、小さい頃から後継者となることを約束され、二十五歳という理想的な年齢で即位したのである。

父が制定した「太子密建の法」により初めて即位した皇帝でもある。



最も時代が下るに従い、清朝でも次第に中原型の長子相続の傾向が強くなる。
それは満州族の中原化が進んでいくバロメーターでもある。

清末の咸豊帝(西太后の夫)と恭親王の兄弟など典型的な例だろう。
二人は道光帝の息子として、本来なら平等に後継資格があったはずだが、長子であり「心根がやさしい」咸豊帝の方が後継者に選ばれた。

これはすでに中原入りして二百年を越していた清朝の皇帝にとって
「決断力」や「カリスマ性」はすでに必要でなくなっていたことの現れだろう。

それよりも「慈悲深さ」や「周囲を慮る心」、
つまり官僚群の上に「象徴的に君臨する」、立憲君主制に近い体制での皇帝の役割が求められるようになっていたのだ。

ところが、時代はすでにアヘン戦争以後の列強諸国との乱世に突入していた。
「心根のやさしい」咸豊帝では、まったく物の役にも立たず、
列強諸国に北京に攻め込まれ、熱河の避暑山荘に逃げ込んだ挙句、荒淫で自棄死にしてしまったのは、周知のとおりである。

結局、皇帝に選ばれなかった「騎馬民族的」な機動力を持つ弟の恭親王が北京に残って兄の尻拭いをすべて引き受けた。
やっと中原型支配体制に移行したと思ったら、また乱世が来てしまい、対応できなかった悲劇と言えるだろう。


************************************


以上、満州族という異民族が統治した清朝という王朝の皇帝の位置づけについての雑感でした。

これにてこのシリーズは終了です。




古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで8、雍正帝の「太子密建の法」

2017年05月23日 16時07分15秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
元々康熙帝の後宮には、親族関係を結びたい有力者の娘を入内させている。
その結果、皇子らの母方の実家はそれぞれ満州族の有力な勢力の利益を代表していた。

例えば、太子・胤礽の生母の実家は、建国初期の功臣・索尼(ソニン)、赫舍里(シェヘリ)氏、
長子・胤褆の生母の兄・明珠(ミンジュ)も飛ぶ鳥を落とす勢いの有力者である。

満州全体が、それぞれの皇子を応援し、当の康熙帝も浮き上がらんばかりの熾烈な謀略合戦を繰り広げた。


その熾烈な謀略戦争「九子奪嫡」の争いを最終的に勝ち残り、多くの謎を残して即位したのが、第四皇子だった雍正帝だ。
即位したはいいものの、ほかの皇子らからは激烈な抵抗が起こり、兄弟らを幽閉したり殺したりせざるを得なくなる。

北アジアのステップやツンドラの民の間では、ごく日常的に当たり前に行われていたことだが、
農耕文化圏内の中原でやらかしたから非難轟々である。

雍正帝は自分が如何に皇帝にふさわしい人物であるかを死ぬまで証明し続けなければならない羽目になった。
そのために昼夜分けぬ猪突猛進ぶりで政務に勤しみ、燃え尽きて在位わずか十三年で崩御する。

いわば過労死のようなものだ。


自らの悲痛な経験を再び繰り返さないため、雍正帝が決めた家法が「太子密建の法」である。

即ち、太子は立てず皇帝が次の後継者の名前を書き箱に入れて乾清宮の「正大光明」の扁額の後ろに隠し、
皇帝が崩御すればこれを開けて次の皇帝を公開するという方法である。


いわば中原モデルと草原モデルの折衷案である。
双方の短所を補い合い、譲れない部分を盛り込んだ苦心の案であっぱれと言わねばならない。

まず塞外の民として、
中原国家のように如何なる阿呆でもとりあえず長子を太子に選び据えるというのでは、どうしても具合が悪いのである。

前述のとおり、清朝の皇帝にはいくつもの顔があり、
中原王朝の皇帝であると同時に、満州族の大エジェン(皇帝)でもあり、モンゴル族をまとめる大ハーンでもある。

それは創始期に皇帝ホンタイジがチンギス・ハーンの直系の子孫に当たるモンゴル・チャハル部のリンダン・ハーンの正式な後継者となり、
その未亡人四人を自らの妻とした時から始まる。

清朝の軍事力の中心は、満州族とモンゴル族を中心とする八旗で維持するべきであり、
この馬上の民にいうことを聞かせ、命を張って戦ってもらうには、
どうしてもぼんくらエジェンではだめなのである。

満州族とモンゴル族の勇猛果敢なる塞外の民としての武力を維持するためには、有能な皇帝が必要となる。



  


古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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