いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

陳廷敬と皇城相府18、陳廷敬の両親

2016年08月29日 07時30分08秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
さて。
ようやく陳廷敬本人の生い立ちの話ができるところまでたどり着いた(笑)。

陳廷敬は明の崇禎11年(1638)生まれ、父・陳昌期の8男4女の中の長子である。
父・陳昌期は生涯に二妻三妾を娶った。
 

父の一人目の妻・李氏は、陽城県白巷里の人。
現地の素封家の娘だったが、子も産まぬままに早逝した。
 
二人目の妻・張氏が、陳廷敬の生母である。
陳廷敬を筆頭に六男三女を生む。
陳昌期の子供の3/4は張氏の出による。

9人も子供が生まれていれば、いくらほかに妾がいても
もう「私ももうお産は勘弁してほしいから、替わりにお勤めしてちょうだい」という域というものである(笑)。

絆の深い夫婦だったのではないか、と想像することができる。
 

張氏は沁水県(やや西に位置する附近の県)の出身。
明の万暦年間の進士・張之屏の孫娘、挙人・直隷威県の知県・張洪翼の娘。

また母方では、明の万暦年間の高官・王国光の孫娘にも当たる。
(陽城の城壁を建てた人物として、過去記事に登場したとおり)
陽城界隈の有力家系の流れを存分に汲み、自身も高い教養を身につけた女性である。

 

このように同じレベルの家柄同士で通婚がなされ、
女性も高い教養をもち、子弟の教育に貢献していたことも窺える。

また完全なお見合い結婚というか、ほとんど本人の好き嫌いのわがままは通らぬほどの政略結婚でもあったろうが、
9人も子供を成すのだから、それなりに心の通い合った結婚だったのではないだろうか。



皇城相府



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陳廷敬と皇城相府17、「徽商」と「晋商」のちがい

2016年08月27日 14時00分05秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
そもそも山西は昔から科挙合格者数の上位には、入っていない。

まずは、以下の各省の進士/状元の順位表を見てほしい。

明代、各省の進士の地理分布
 
  順位 省 進士数
  1 浙江 3697
  2 江西 3114
  3 江蘇 2977
  4 福建 2374
  5 山東 1763
  6 河南 1729
  7 河北 1621
  8 四川 1369
  9 山西 1194
  10 安徽 1169
  11 湖北 1009
  12 陕西 870
  13 広東 857
  14 湖南 481
  15 広西 207
  16 雲南 122
  17 甘粛 119
  18 貴州 32
  19 遼東 23


明代の状元(首位)分布表(トップ五)

 順位 省 状元数
 1 江西 20
 2 浙江 18
 3 江蘇 17
 4 福建 10
 5 安徽 6


清代の各省の進士の地理分布

  順位 省 進士数
  1 江蘇 2949
  2 浙江 2808
  3 河北 2674
  4 江西 2270
  5 山東 1919
  6 河南 1721
  7 山西 1420
  8 福建 1371
  9 湖北 1247
  10 安徽 1119
  11 陕西 1043
  12 広東 1011
  13 四川 753
  14 湖南 714
  15 雲南 694
  16 貴州 607
  17 広西 568
  18 甘粛 289
  19 遼東 186


清代の状元(首位)分布表(トップ五)

 順位 省 状元数
 1 江蘇 27
 2 浙江 20
 3 安徽 7
 4 山東 5
 5 河北/福建 3


明代の山西省の順位は19省中9位。
清代は7位。

状元の数はもちろんトップ5には入っていない。


前述の「豊かな地域ほど、進士輩出数が多い」の法則で行けば、
どうもあべこべな結果でもある。


山西は安徽省の「徽商(安徽商人、新安商人)」と並んで、「晋商(山西商人)」輩出の地として、
昔から豪商を多く出すことで有名な地である。
(潮商と並び、「三大商幇」というそうな)



その豊かな経済力から言えば、もう少し科挙合格者を出していてもいいようなものである。



両者の業務形態の違いから、その差が生じると言われる。

「徽商(安徽商人、新安商人)」は、元々は安徽の南部・徽州の山中を出身とするが、
商売の活躍の舞台はそこではなく、揚州が中心だった。

徽州は山が多く、耕せる土地が少なくて生産性の低い土地柄だったため、
二男、三男坊が都会に丁稚奉公に出る、いわゆる「丁稚小僧大量供給地」だったのである。

故郷に帰っても居場所など残されていない彼らが、必死になって働き、地位を築いて行ったのが、
揚州の「塩商(塩の専売特許業者)」の業界の中だった。


明清代、塩は政府の専売である。
塩には高い税金がかけられた。

日本のように海に囲まれているわけでもなく、岩塩が取れる場所も限られている・・・。
庶民が自力でなかなか塩を手に入れられないことに目をつけたと言える。

人体を保つためになくてはならない食品なだけに税金を徴収しやすかったのである。


徽商は、その利権に食い込むことにより、豪商として頭角を現すが、
政府の特権を使った商売だけに、「政商」の側面が強く、権力闘争の影響も受けやすかった。

そこで自身の家からも政府高官を輩出し、内と外の両方で呼応しつつ、商売を進めて行かなければ、危機に対応できない。

このため、何をおいても一族の中から科挙合格者を出し、中央政府の中枢に食い込ませることが重要だったのである。
一族の中で最も優秀な子は、商売は継がせずに受験勉強に専念させた。


・・・・実は、「晋商(山西商人)」の場合、これと反対なのである。
一族の中で最も優秀な子には、商売を覚えさせ、どうも商売の勘所が悪い子にだけ余興のつもりで科挙を受験させた。


晋商の商売は、辺境貿易が中心である。
地理的にモンゴルやロシア、東北に近い山西は、異民族相手の商売で財を成した。


辺境の地は、いわば無法地帯である。
いつ何時、不測の事態が起こるかわからない環境で、臨機応変にその場その場で判断を下し、
危機を乗り越える必要がある。

それには、ぼんくら息子では到底、対処することができない。
だからこそ、もっとも優秀な人材を商いに投じたのである。

逆にいえば、辺境貿易は政権中枢の権力争いの影響は、あまり受けない。
したがって科挙に全精力を集中させ、政府高官をどうしても輩出させなければならない、という必要性がなかったのである。


反対に徽商にとっては、「利権の確保」こそ最も重要であり、
中央での政治活動により、その利権をいったん手に入れることさえできれば、
あとは大名商売。

商売の方は、少々のぼんくらが経営していても、大した才覚がない経営者でも順調に事が運んだのだろう。



・・・・という背景もあり、
康熙年間以後になると、江南からの進士合格者がぐっと増え、山西出身者は、次第に減っていくのである。

陳廷敬と陽城周辺の士太夫の中から、大量の科挙合格者が出たのは、
ある特殊な時代背景の一時的な現象だったともいえるのかもしれない。





皇城相府



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陳廷敬と皇城相府16、人材大豊作、「十鳳斉鳴」と「「十鳳重鳴」

2016年08月25日 14時00分05秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
清初、政権を取ったばかりの政権は、広大な国土を治めるための人材を欲していた。
明の滅亡により、官僚の雇用制度は、いったんはごわさんになったわけだから、
新たに官僚を雇い入れる必要が生じたのである。

清の順治2年(1645)、清の入関後、初めての科挙が実施される。

・・・「入関」は、満州族が東北の大地から山海関を超えて南下したこと。
つまり万里の長城を超えて中原に侵入し、中華世界の主になったことを示す。


この年は、人材の著しい不足により、明代は一度の進士合格者数を200-300人としていたものを
一気に400人採用した。

さらに本来は4年に一度しか実施しない科挙試験を
順治15年と16年には、2年連続で実施。
慢性的な人材不足を補おうとしたのである。


以上のように、政権側は人材を喉の渇きを癒すかのように、求めて止まなかったが、
肝心の人材の宝庫であった江南の士太夫らが、腰を上げない。
科挙をボイコットすることにより、無言の抵抗を続けていたのである。


そのような「鬼の居ぬ間に洗濯」ができた影響もあってか、清初の山西は進士・挙人の「大豊作」(爆)の潮流を迎える。

特に陽城では、順治3年(1646)の会試では同時に10人が進士に及第、
「十鳳斉鳴」と言われた。

さらに順治8年(1651)の郷試で同時に10人が挙人に及第、
「十鳳重鳴」と言われた。


また陳廷敬が進士に及第した順治14年(1657)の会試では、
山西から一気に8人も及第し、世間を騒然とさせた。

『大清相国』の中でも、山西からの進士合格者が多すぎて、
主試験管だった衛向書が不正を疑われる、という場面が出てくる。

それほど山西の科挙人材「大豊作」がしばらく続いたのである。




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陳廷敬と皇城相府15、陳家興隆の歴史的背景

2016年08月23日 01時04分53秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
南方人の清朝への抵抗意識、という背景も陳廷敬とそれに続く一族の後裔が多く科挙に及第し、
活躍する場を与えられたこととも、深い関係がある。

というのは、前述のような経緯のために、
本来は教養高い、科挙の合格者を多く輩出していた江南から皆、出仕を見合わせていたことがある。


長江デルタの流域に当たる江蘇、浙江などの地域は、
明代より全国で最も多く科挙の合格者を輩出してきた地域である。


中国全土でも最も手工業が発達しており、気候も温暖だ。
工業生産、農業生産ともに申し分のない高い生産性を誇る上、水運により東西南北すべての地域との交通の便もいい――。
まさに全国で最も豊かで経済的に裕福な土地である。


それは現代でも変わらない。
現在でも大学入試での平均点数が最も高く、競争が激しいのが、この2省である。

またたとえば、こんなところにも現れる。
日本政府が観光ビザを発行する限定地域である。

つまりそれは日本に来ても単純労働のために違法滞在をする可能性のないくらい経済的に豊かな人々、ということを意味する。
それが北京戸籍、上海戸籍、広州戸籍、深せん戸籍の所有者などのいわゆる「第一線都市」と言われる大都会の本戸籍の持ち主のほか、
省全体を指定されているのが、江蘇省戸籍、浙江省戸籍である。

この2省の人々だけ、たとえ農村の人でも関係なく、観光ビザを発行する・・・。

これが他の地域であれば、たとえば、北京を例に見ると、
北京から少し郊外になる「河北省」と住所のつくところに住む人には、上記の観光ビザは発行されないのである。

そのへんの感覚は、北京に住んでみれば、一目瞭然である。
北京の中心部の摩天楼は、先進国と変わらないほどの大都会だが、
そこからごく70-80㎞ほど郊外に走ると、そこにはもう100年も前にタイムスリップしたかのような別世界が広がっている。
確かに北京市内と河北を同じ扱いにすると、大変なことになる、と納得が行く・・・。


以上のような例を見ても、この2省が全国の中でいかに特殊な扱いを受けているかがわかる。
都会だけでなく、農村の隅々に至るまで豊かな、ごく稀な地域なのだ。



閑話休題。
とにかく本来なら、最も人材を多く抱え、政府に貢献するはずの江南以南地域では
この時期、なおも清朝に対する抵抗心が根強く、
反乱を起こさないまでも、積極的に仕官しようという風潮になかった。

このため敢えて科挙も受験しないことで静かな抵抗をしていたのである。


・・・・そのような「ライバル不在」現象も、
本来は科挙合格者輩出地としては、あまり有名ではなかった山西から、
この清初という特殊な時期に多くの合格者を出した背景の一つだったかもしれない。




皇城相府




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陳廷敬と皇城相府14、陳家が満州族を支持した理由

2016年08月20日 22時57分00秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
しばらく翻訳小説の校正、通訳のお仕事など、諸用が重なり、更新できずにおりました。
ようやく時間ができたので、続きをアップしていきたいと思いますー。


****************************************************


これまで見てきたように、陳家は明末の動乱で農民軍から甚大な被害を受けてきた経緯がある。
その農民軍の中から首都を陥落させた李自成軍に対し、明の仇を取ることを大義名分にして勝ったのが、清軍であった。
そしてその結果、社会の秩序が回復され、世の中が落ち着いて平和が再び訪れた。

このため、沢州界隈の人々は、平和を取り戻してくれた新しい政権を支持しようという積極的な心理があったかと思われる。


実は満洲族が紫禁城の主となってからも、山西では政権転覆の反乱が起きたことがあった。

順治6年(1649)、大同総兵・姜[王襄]が清朝に対して反乱を起こした。
これに対して、陽城県の張斗光が呼応して一揆軍を起こし、一時期、沢州をも占領した。

張斗光は陳家にも帰順を勧める使者を派遣したが、
陳廷敬の父・陳昌期は、その場で書状を破り捨てて使者の罵り、断固として拒絶の意を表明した。
農民の烏合の衆への不信、さらには成立して間もない清政府への信頼が窺い知れる。


帰順を拒否された張斗光は案の定、まもなく数千人の軍隊を率いて陳家に襲いかかった。
この時には、河山楼、堅牢な周囲の城壁などの一連の防衛体制が完成して久しかったため、
陳昌期は自信を持って一族郎党を指揮し、敢然とこの攻撃を受けて立ったのである。

3日後、清軍が北からまもなく到着すると聞き、農民軍は包囲を解いて去って行った。


満州族が紫禁城に入ってまだ間もなかったこの頃、すべての人々が清朝を支持していたわけではなかった。

特に南方では、服従を潔しとしない風潮が色濃く残っていた。
明を転覆させた農民軍は、陕西省から興り、四川を占領し、山西などを蹂躙して首都の北京へ向かって行った。

つまり農民軍が通過して行った土地は、その激しい略奪の対象となり、甚大な被害を受けた。
・・・・それを成敗してくれたのが清軍―――、という図式である。
このため「悪者から解放してくれたいい人たち」として、満州族の政権を歓迎する気分があったかとおもわれる。

・・・・しかし南方は元から農民軍の被害がなく、
いきなり清軍が攻めてきて激しい市街戦の末にこれを攻め落としたので、清軍に対する心象が著しく悪かった。







城壁の上に上がる階段






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陳廷敬と皇城相府13、城壁で身を守る

2016年07月31日 15時06分37秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城


皇城相府


陕西の農民軍は、陽城に留まることはなく、
そのままイナゴの大群のように去って行った。

その後、王嘉胤の部下だった李自成の軍が首都の北京まで登り詰め、
一時期、紫禁城を占領はしたものの、清軍に取って替わられたのは、周知のとおりである。



陳昌言は考えていた・・・。

大急ぎで『河山楼』を作ったおかげで、人間の命だけは、取りとめたものの、
家財を奪われ、食糧、家畜を守ることができなかったことを・・・。

また老母を伴い、堅牢な城壁に守られた県城の中で暮らした経験から城壁の重要さを痛感した。


幸い、中道庄は大きくもなく、家々は密集しており、村人たちは皆、同族同士である。
そこで陳家の兄弟は、一族の長老たちに相談した。

この際だから、思い切って村を城壁で強固に守ってはどうか、と。
皆で出せるだけの資金を出し合い、建設費用に充てようと提案したのである。

ところが、思わぬことにいざ私財をなげうてということになると、反対する者も多かった。
そこはやはり人情というものだろう。
金が絡んでくると、人というのは世知辛いものである・・・。


やむを得ず、陳家は自分の家族の範囲内だけで城壁を建築しようとした。

しかし陳家の家屋の一部には、権利関係に問題があった・・・。

すでに陳家の家屋が建てられているにも関わらず、
東西端の土地の権利をまだ取得できず、買い取ることができていなかったのである。

持ち主が、貸すのはよいが、売り渡すのは嫌だと何世代にも渡って拒否し続けていたからである。

城壁を建てるに当たり、その土地の権利を完全に買い取るために大金を積んだ。
大工事をする以上、ここで買い取るしかなかった。

・・こうしてようやく土地の権利問題の不備をなくし、工事の準備が整った。


内城の城壁は、崇禎6年(1633年)に工事が始まった。
巨額を投じ、七ヶ月で完成させた。
名付けて『闘築居』。
――戦いながら生活、の意である。

山の斜面を利用して南北に展開させ、東西は河と谷の隔絶を利用した。
外界との出入りは西と北に二ヶ所、門はすべて鉄で覆って火攻め対策も抜かりない。

城壁工事に使ったレンガは合計3000万個、
山深い場所への資材の運搬、周囲で絶えない戦闘、略奪を思えば、そのスピードは奇跡的だったと言える。



堅牢な城壁が完成し、陳家の一族はようやく枕を高くして眠ることができるようになった。



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陳廷敬と皇城相府12、陳昌期、家に残って『河山楼』を完成させる

2016年07月29日 15時06分37秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
こうして賊は立ち去り、陳昌期を含め、陳家では一人の犠牲者も出すことなく、
危機を乗り切ったが、楼から出て見ると、その惨状は目を覆わんばかりであった。

近隣の郭峪も含め、村中が放火され、家財道具を持ち去られ、
その狼藉の跡は、とても生活できるような状態ではなかった。

やむを得ず、兄の陳昌言は年老いた母と一族郎党を率い、陽城の県城に一時期、移り住んだのである。


陽城の県城は当時、堅牢な城壁を備えていた。
それは明の万暦6年(1578)、潤城中庄出身の当時の吏部尚書・王国光(陳廷敬の妻・王氏はその玄孫)が、
先頭に立って寄付を集めて建設したものだった。


こうして見ると、陽城の付近というのは、
確かに明代の頃から多くの中央官僚、尚書(=大臣)クラスの高官を輩出し、
その人たちが中心になって、故郷の建設に貢献していることがわかる。

・・・・このように県城に住めば、官兵が守ってくれるし、
堅牢な城壁もあるため、いくらか安心して暮らせるという判断だったのである。



ところが陳昌期は、家族とは行動をともにせず、
一人、中道庄に残り、『河山楼』の内装や後続工事の指揮を続けた。

次の賊の襲来がいつ来るとも知れぬため、工事は昼夜を徹して急がれ、10月には完成した。


楼の中には槍、銃、弓矢、投石用の石、火薬などが充分に備えられ、
地下室には井戸のほかにも、各種石臼などの長期生活のための調理器具も持ち込み、
煙の排気口も巧妙に作られた。


三階以上の階の床はすべて木を組み、楼の構造への負担を軽減させた。
さらには地下室から村の外に抜けられるように地下道を掘った。

・・・・こうしてあらゆる事態を想定して、『河山楼』の防衛力は、さらに高められたのである。
 

楼の竣工した10月、再び賊兵が立て続けに樊渓河の両岸を襲った。

翌年の5月までに周辺の村落は度重なる襲撃を受け、その魔の手から逃れられたところはどこもなかった。

『郭峪村志』の収められる石碑の碑文によると、
斬殺、焼殺、首吊り自殺、井戸に身を投じた自殺、子供の餓死は千人を下らず、
幸いにも生きながらえた者も、ほとんどは体に障害を残す身になったという。


金目の物はすべて持ち去られ、驢馬の体の飾りつけでさえすべて持ち去られ、
家畜は食べ尽くされた。

それでも『河山楼』の中に立てこもった人々だけでも無事に生きながらえることができ、現地の復興の中核となった。





皇城相府。 城壁の上から。


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陳廷敬と皇城相府11、陳昌期の命拾い

2016年07月27日 15時06分37秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
  

  皇城相府『河山楼』。




実は、包囲二日目の夜、このまま籠城が無事に行くのか、行く先に不安を覚えた陳昌期(若き日の陳廷敬の父)は、
楼から抜け出し、包囲を突破して澤州府に救援を求めに行こうとしたことがあった。

賊軍が寝静まったのを見計らい、夜の闇に紛れて屋上から縄を伝って下に降りようとしたのだが、
腕力が足りず、降りる途中で手がすべって地面に落下した。


…無理もない。
生まれた時から、科挙への合格のみを目指し、
箸と毛筆より重いものなど手に持つこともないまま、成人した書生である…。

気持ちだけが先立ち、肉体が伴わないことを自覚していなかったのである・・・。



陳昌期はそのまま気を失ったようで、屋上から見守っていた兄の陳昌言がいくら待っても
下からはうんともすんとも動向が聞こえない。

これは大変なことになったと兄の陳昌言は恐怖で凍りつき、頭の中が真っ白になった。


弟は落下して死んでしまったのだろうか・・・。

もし生きていれば、何としてでも助け上げて手当てせねばならぬし、
たとえ死んだとしても、このまま夜が明ければ、大変なことになる。

死体を賊に見つかれば、切り刻まれるのか、どんな壮絶な屈辱を受けるのか、想像もつかない。


弟を行かせようとしたことを後悔し、
パニックの中で目まぐるしく次の方策を考えた。

一階の入り口を開けるわけには行かなかった。
重厚な石門は、動かしただけで大きな音を立てずにはおかない。
付近で寝ている賊に気付かれることは必至だ。

そこで壮丁(=下僕)の李忠に五両の銀を与えるからと約束して、
縄を伝って下に降りてもらった。

・・・・前述のとおり、この当時、使用人の給料が1ヶ月1両程度だった。
5両といえば5ヶ月分、現代でいえば、100-200万円といったところか(笑)。
命がけの仕事を引き受けてくれたわけである・・・・。


李忠が無事に下に降りると、
さらに上から竹籠を下ろし、陳昌期の身柄を籠の中に入れて引っ張り上げさせた・・・・。

・・・・こうして生きているのか、死んでいるのか、とにもかくにもどうにか陳昌期の肉体を確保することができた。

陳昌期が意識を取り戻したのは、1-2日を過ぎた時だった。
信じられないことに、体はどこも異常はなく、骨も折れておらず、頭もはっきりしていた。
わずかに額に血痕が残るのみだった。

・・・・結局、救援要請には行かずじまいである。


縄から手を滑らせて下に落ちた陳昌期24歳は、
まったく無傷のまま、無事に生きながらえた。
 


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陳廷敬と皇城相府10、『河山楼』に籠城

2016年07月25日 15時06分37秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
『河山楼』の工事は、崇禎5年(1632年)の正月明けに始まった。
写真を見てわかるとおり、地上6階建ての細長い塔である。
敵の襲来があれば、ここに立て籠もろうとした。


陳氏兄弟は一族郎党の者を動員し、大工を招き、
石3000個、レンガ30万個を使ってわずか6ヶ月で完成させた。

何しろ、蜂起軍の襲来が刻々と伝えられる中での工事である。
作る方も自分と家族の命がかかっているから必死の突貫工事となる。


入口の門は火攻めにも対抗できるように石で作り、後ろには頑丈な閂(かんぬき)を作った。
屋上には敵攻撃のための壁を備える。



  

  『河山楼』




構造工事の終わった矢先の7月、内装工事を始める吉日を占っていると、
突然、賊の襲来が知らされた。

そこで慌ただしく、石、矢、食糧、石炭、金目のものを運び入れ、
夜はぴたりと門を閉じて守備に入った。
立て籠もりの間の食糧はすべて陳家が提供、楼の中には老若男女約800人が入った。


陳家は製鉄工房を営むため、屋敷の中だけでなく、
近隣の村内も従業員や下請け業者、関連業者と言った内輪の人々だったかと思われる。

まもなく賊が襲来、辺り一面が赤い装束の色で真っ赤に染まったという。


・・・・明末の李自成を中心とした陕西軍には歴史上、特に衣装の特徴的な名前はついていない。
漢末の乱『黄巾の乱』、元末の乱「紅巾の乱」のようには・・・。

しかし陽城界隈を徘徊していた頃は、確かに赤装束で固めていたようである。



蜂起軍は、郭峪の一鎮だけでも1万人ほどもいたかと思われる。

敷地内に乱入してくると、金目の物を奪って回ったが、
楼に入ることができないため、腹いせに屋敷に放火を始めた。


近づけば、上から矢や石の投下で攻撃されたため、賊は楼に近づくことができずにいた。
あまりの腹立たしさに飢え死に、焼け死に、渇き死ににでもしてやらねば気が済まぬとばかり
賊は楼を包囲し始めた。
しばらく包囲して、兵糧攻めにしてやろうとしたのである。

しかしそういう籠城戦を当初から想定していた陳兄弟は、
工事の最初から楼内に井戸を掘っており、数日の包囲程度ではびくともしなかった。

敵に居座られれば、今後何が起こるか予測不可能である。
楼の外の村の家々の被害も拡大するだろう。

敵の希望をくじくため、陳兄弟は井戸から汲んだ水を敵に示した。
それを見た賊は、いくら囲んでも水が豊富にあることを知って観念。
 
わずか5日で包囲をあきらめ、立ち去った。



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陳廷敬と皇城相府9、山むこうの砥洎城に刺激を受ける

2016年07月23日 19時48分18秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
陽城周辺は、飢えた蜂起軍の大群の襲撃に怯えていた。

実は陽城周辺では、崇禎年間以前にも、農民反乱軍の襲撃を受けたことがある。
明の正徳7年(1512)、河北覇州の劉六、劉七の農民蜂起軍が、
皇城と山一つを隔てた西隣の白巷里に侵入したのだ。


それが現在の潤城鎮の上、中、下の三庄だが、当時は製鉄業で栄えていた。


村民が「大きな鉄釜で道を塞ぎ、屋根に上って瓦を投げつけ」て敵を撃退したという。
その当時、皇城、郭峪は潤城に比べ、人口も少なく、経済的にも豊かにではなかったために、襲われることはなかった。



明末になり、皇城相府のある郭峪村、中道庄村の経済、文化が発展し、
樊渓河のほとりには、豪商、政府高官の豪邸が軒を連ねるようになったため、
当然、農民軍の略奪の対象となった。


崇禎4年(1631年)秋、潤城屯城の出身、
明末に刑部右侍郎で免職になって故郷に帰っていた張慎言は、
一族郎党の者たちと団結し、屯城に「同閣」と名付けた防衛土木工事を展開した。

「同閣」には、身を隠すことのできる地下蔵も掘れば、上から敵を攻撃できる城壁と防護壁もあった。
別名「砥洎城」。

ここは今回の旅で回っているので、のちにレポートしたい。






砥洎城が完成したことにより、農民蜂起軍への備えが万全となった。

山一つ隔てたところに住む陳昌言、朕昌期兄弟には、それが大いに刺激になった。


蜂起軍が、手前の潤城などから順番に攻略している、という情報が、日々伝えられて来る・・・。

さらに山奥にある中道庄村でも、その被害の甚大さを伝え聞き、
危機感を強めて自らの防衛も始めたことがわかる。



---こうして『河山楼』の建設が始まったのである。


  

  

  遠くに『河山楼』が見える。


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陳廷敬と皇城相府8、陽城が狙われた理由

2016年07月21日 19時48分18秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城


皇城相府




王嘉胤を失った後も、陕西の蜂起軍は、王自用が新たな首領に推戴され、「紫金梁」と号した。
各地の農民蜂起軍とも連合し、36営20万人にも膨れ上がったのである。
・・・これが、陽城に押し寄せた農民軍の規模・・・。

略奪なしに、この群衆を養えるわけがない・・・。


 
不完全な統計によると、崇禎5年(1632年)、
「紫金梁」とその軍隊が陽城県内を襲撃すること12度に渡ったことが判明している。
10月一ヶ月だけでも皇城、郭峪に4回侵入、崇禎6年(1633年)の前半5ヶ月は7回も侵入した。
 

そもそも農民蜂起軍は、なぜ頻繁に陽城にやってきたのだろうか。

 1、陽城は沁河のほとりにあり、沁河は東南に流れて鄭州近くで黄河に合流する。
   つまりは黄河の支流の一つの流域に沿った地区ということになる。
   
   
  太行、中条、太岳の三山が交わるところにあり、
  山深く、谷が入り込んでいて身を隠すにはちょうどよい。

  しかもここから中原を俯瞰することができ、
  山西から河南の中原地帯に入ろうとする軍隊には、ちょうどよい根拠地になる。

  出ていけば中原を攻めることができ、
  負ければ退去して山の中に潜伏して体制を立て直すことができる。
  このため古来より激戦地となってきた。

 2、陽城は古来より経済的に豊かだった。
  特に北部の北留、潤城の二鎮は沁河流域で最も栄えた石炭と鉄鋼の里、商業と貿易の重鎮だった。

  澤州と西部の河東諸県を結ぶ交通の要所にもあったため、
  周囲はこの豊かな土地を取ろうと虎視眈々としていた。




そもそも鄭州に近い、河をたどっていけば、鄭州に出る、という位置関係が、
すでに安寧でいられない運命を決定づけている(笑)。


鄭州は、古来より各勢力が激突する激戦地である。
西の勢力が、勢いを拡大させようとすれば、
黄河の川底に沿って東に出ようとするのが、最も自然だろう。

北にいけば、次第に寒冷になり、乾燥した土地でロクな食べ物はない。
西に行っても砂漠ばかりで、大した収穫にはならない。
南に行くには、山だらけで前に進めない。
東は豊かで食べ物もお金もたくさんあるし、行きやすい。

・・・となるからだ。


中国大陸は、黄河と長江という二大大河が山を削りながら西から東に流れ、
その過程で東の方にどんどんと削った土砂を河口に溜めて平らな土地を作り続けたことで出来上がっている。

東にいけばいくほど、土地が平らになり、流域の栄養分を蓄えながら流れてくるので、土地も肥沃、
海に近いから、貿易も漁業もできる、と経済活動の種が山ほどある。
人口も多ければ、生産性も高く、経済的にも豊かだ。

食えなくなって反乱を起こした人々が、東に向かおうとするのは、自然の流れである。



西の勢力が東に出る場合、もっとも歩きやすい、平らな場所というのは、河原になる。
山をえっちらおっちらと越えて行くよりも、勾配の少ない河原を行くのが最も安易に決まっている。

そして山がなくなり、ぱっと平原が開けるのが、鄭州である。
そこから東には、広大な中原平野が広がる。
気候も温暖、圧倒的な食糧の生産力を誇る、中国大陸でもっとも豊かな土地と言っていいだろう。

今も河南省の一省だけで人口は一億人。
中国首位である。


鄭州は王朝交替のたびに、激しい戦火にさらされてきたため、
これだけ古い歴史を持つ都市であるにもかかわらず、古跡がほとんどない。
残し得なかった宿命があると言える・・・。



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陳廷敬と皇城相府7、王嘉胤を殺した二人の末路

2016年07月19日 19時06分52秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
前回で紹介した過去記事のとおり、明代の身分制度は固定されており、通婚もほぼ同戸籍内で行われた。


「逃亡兵だった」という王嘉胤の経歴を見れば、王嘉胤が「軍戸」出身だったことがわかるが、
ほとんど賎民扱いの軍戸に、ほかの階層から嫁いできたいと思う女性はほとんどいない。
したがって王嘉胤の妻もほぼ「軍戸」家庭出身だった可能性が高いわけである。

その妻の弟が、これまた軍人としてどこかの部隊に所属しており、
それが偶然にも曹文詔の部隊だった・・・・。


張立位にしてみれば、自分のまったく意図せぬところで、
自分の所属する部隊が討伐する対象が、なんと自分の姉婿だった、ということになる。


そこで張立位は、自分が王嘉胤の妻の弟であることを上司に告げ、
王嘉胤軍に身を投じる振りをして、隙を見つけて王嘉胤を殺すことができる、と献策した。
その案が採用された。


こうして張立位は曹文詔から派遣されて王嘉胤のそばに行き、王嘉胤に「帳前指揮」に任じられたのである。
何しろ妻の弟である・・・。
相手に気を許すには、当然の成り行きと言えよう。


ほどなくして王嘉胤は、泥酔しているところを
帳幕の中に忍び込んだ張立位と同族の王国忠の二人に寝首をかかれて殺される。
享年40歳過ぎ。

蜂起軍は、そのまま部下の王自用が仲間から推戴されて率いることとなる。
  

・・・・さて。
このように道徳もモラルもへったくれもない、
犬畜生な行動をとった後、この二人がどうなったか、という結末も興味深いので、見ておきたい。



王嘉胤の妻の弟・張立位は、王嘉胤を殺した功で崇禎帝に左衛協副将に取り立てられた。
その後も明軍のために将軍として、戦いを率い、
満州族との戦いで山西の殺虎口の戦役で重傷を負い、そのまま戦死した。

・・・・死後、明の朝廷から「龍虎将軍」の追贈されている。


一方、王国忠の方といえば、
王嘉胤を殺した功で「蒲州協副将」に任命された。


しかし後に李自成軍との戦いで敗れ、明の朝廷に免職される。


「王」姓のとおり、彼は王嘉胤と同族である。
いとこと言わぬまでも、はとこか、曽祖父あたりまでたどれば、同じ血だったくらい近い仲だったのだろう。

その王嘉胤を殺して、自分だけ出世したという経緯では、
原籍の府谷には戻ることはできない。


・・・やむなく綏德(陕西省北部)に客住した。

しかしまもなく李自成の将軍・李過の部隊が、綏德を陥落させた。
李自成は、かつての主人だった王嘉胤を殺した犯人の一人、
蜂起軍の叛徒・王国忠を探し出すよう、李過に命じていた。


王国忠はじきに見つけ出され、その場で制裁として殺された・・・・。



 


皇城相府の城壁の上からの眺め


以上が、陽城襲撃前後の内輪もめの顛末である・・・。




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陳廷敬と皇城相府6、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる

2016年07月17日 09時31分17秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
そんななか、いよいよ時代は明末の動乱の時代に差しかかる。
皇城相府が現在のような要塞都市の様相を呈するようになったのは、
この時代のことである。

時代は明の最後の年号・崇禎年間。
主役は、陳廷敬の父の代、陳昌言(陳廷敬の叔父)と陳昌期(陳廷敬の父)兄弟である。

前述の陳修の代からは、陳三楽、陳経済・・・と三世代下った時代に当たる。


陳経済の長男・陳昌言はその後、崇禎7年(1634)の科挙に及第して進士となり、
直隷楽亭知県、監察御史、巡按山東、提督江南学政等の重要官職を歴任することになるが、
それはこの農民軍の襲撃が終わり、一段落した後のことである。


  

  皇城相府、正門。この頑丈な鉄鋲のでかさをご覧あれ。飾りではなく、実戦のやる気マンマンのものものしさじゃ。





明の崇禎5年(1632)、明末の動乱が始まり、王嘉胤の農民蜂起軍が陽城に迫った。
王嘉胤は元々、辺境の守兵だったが、逃亡して故郷の陕西省府谷県に帰ってきた人物である。



明代の辺境守兵が如何に過酷な状態にあり、如何に逃亡兵が多かったかは、過去記事を参考にされたし。

 楡林24・明代の戸籍制度
 楡林25・軍戸は賎民と紙一重
 楡林26・軍戸の苦悩
 楡林27・守城と屯田
 楡林28・耕牛の不足
 楡林29・負のスパイラル
 楡林30・遠隔地の支給



『水滸伝』など無法者たちの正義を訴える物語は、
宋代の話という設定ではあるものの、実際には明代に書かれている。

それは当時の社会で軍戸から逃亡してお尋ね者になり、表社会に出れなくなってしまった人間の数が、
如何に多かったかを示していることは、どこかですでに触れたとおりである。
逃亡兵から王朝転覆の狼煙が上がったことは、避けられない流れだったことがわかる。


王嘉胤は逃亡して故郷である陕西省府谷県に戻っていたが、飢饉で食うに困り、崇禎元年(1628)、仲間とともに蜂起した。
---いわゆる李自成の乱の始まりである。


王嘉胤が最も初期に蜂起した人物であり、
後に頭角を現す高迎祥、李自成、張献忠、王自用等は皆、元々は王嘉胤の部下から身を起こした。
そして当然、皆、陕西の同郷である。

蜂起軍はまたたく間に広がり、陕西、甘粛、寧夏、山西で3万人を超える勢力に膨れ上がった。
その勢いは留まるところを知らず、明の兵部尚書・洪承畴の率いる明の主力軍を破ったこともあった。


崇禎四年(1631年)、蜂起軍は明の官軍・延綏東路孤山総兵・曹文詔の圧倒的な兵力に囲まれたため、
押し出されるように陽城一帯に侵入した。

ところがここで当の王嘉胤が身内に殺されるという出来事が起こる。
明末清初の王嘉胤の同族、同郷の残した記録によると、
王嘉胤を殺したのは、妻の弟・張立位と同族の兄弟・王国忠だった。


曹文詔が山西陽城県で王嘉胤の蜂起軍と激戦を繰り広げたが、蜂起軍の士気は高く、
王嘉胤の指揮にも抜かりがなかったため、明軍は連戦連敗を余儀なくされた。


そんな中、王嘉胤の妻の弟・張立位が、偶然にも曹文詔の元で兵士になっていたのである。




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陳廷敬と皇城相府5、村人を抱き込んだ家族経営

2016年07月15日 21時33分41秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城

陳[王玉]の息子の一人・陳天祐がついに明の嘉靖23年(1544)、進士に及第し、
高級官僚の世界に進出する。
陕西按察副使などの官職を歴任した。

こうなると、車輪の両輪のような相乗効果を生む。
一族から高級官僚が出ると、余計な搾取を受けなくて済み、
働いた分だけ純利益となり、社会的な信用ができて仕事も多く舞い込んでくる。


他の競合他社が搾取され、信用ないために注文を取れない中でますます商売が楽になり、利益が上がる。
余裕ができた分だけ、さらに子弟の教育も充実させることができる。

自分の子供だけでなく、一族郎党のやや遠い関係の子弟であっても、
とにかく教育し、将来合格者を出す確率を上げていくことができる---。


陳天祐の三代後の陳所知も明の万暦13年(1585)、挙人に及第し、虞城知県などを歴任する。


  

  皇城相府の正門。立派であると同時に軍事的に強固な作り。




陳廷敬の直系は、陳[王玉]の弟にあたる。
七代前の始祖・陳秀には、三人の息子がいた。
長男・陳[王玉]、次男・陳[王向]、三男・陳[王共]である。

陳廷敬の血筋は、三男・陳[王共]から来る。
一族から陳天祐が進士となり、中央官僚となって活躍すると同時に、
一族の残りの者は、せっせせっせと家業に精を出したわけである。

陳[王共]の息子・陳修は、仕途はせずに、実家で鍛冶屋の営みに勤しんだ。
陳家と周囲の村人たちとの関係を示す逸話が伝わっている。


陳修は金銭へのこだわりが少なく、村人が生活に困っていると、
惜しみなく援助の手を差し伸べた。

ある年、旱魃がひどく、村が凶作に喘いだ時は100両を寄付して村人の救済に当てたという。

100両がどれくらいのお金かと言えば・・・・。
清末の記録を見ると、都会で住み込みの使用人として働いた時の給料が1年12両ほどだったという。
1ヶ月1両、・・・ということは今の価値なら20-40万円くらいですかね。

100両は2000-4000万円くらい、てゆうことになる。

・・・・現代の例で考えても、地震や津波などの災害が起きた時、
企業が数千万円の寄付をすることは普通に見られるから、まあ標準的と言ったところだろうか(笑)。

それを小さな村という単位で行えば、中間搾取も起こらなくて済むし、
目に見える形で進行すれば、効果は絶大だろう・・・・。


陳家の暮らす村・中道庄村に貧しい家庭があった。
劉東と妻の張氏、二人の息子・劉一と劉二がいた。

・・・まさに絵に描いたような庶民の名前ですな。
太郎と次郎、みたいな。。。
どこの庶民も発想は同じだああ。

ある時、劉東が突然病に倒れて急死した。
残された張氏は子供二人を抱えて、女の細腕で黄土高原の痩せた土地を耕し、
体力の限界を超えたために、重病にかかった。

そのことを聞き知った陳修は、この親子に食糧と現金を与えた。
張氏は感謝し、その借金の念書を書いたが、まもなく力尽きてなくなった。

残された子供たちは、母親の葬儀が出せず、途方に暮れていたが、
そこに陳修がやってきて、葬儀代を出してやったばかりでなく、母親がかつて書いた借金の念書を二人の目の前で破り捨てた。

やがて二人の遺児は成長して、嫁を迎える年齢になったが、
あまりの貧しさのために、嫁の来手のあてがまったく立たなかった。

すると、陳修は二人に提案した。
自分の鍛冶屋で働くといい、自らの労働で稼いだお金で嫁をもらう支度をしなさい、と。
こうして二人は陳家の鍛冶屋で労働に精を出し、三年かけて貯めたお金でそれぞれに家を建て、
嫁を取ることができたという。


・・・つまりは、日本の中小企業の社長さんにもたまには見ることのできる、
従業員の家族の生活もろとも面倒を見て、ファミリーのようにしてしまう、というやり方ですな。

日本では、それほど珍しくないやり方かもしれないが、
当時の中国では、あまり一般的ではなかったかと思われる。

そんなことも陳家が興隆した理由の一つなのかもしれない、と考えさせられる逸話だ。




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陳廷敬と皇城相府4、一族から官僚を出すことの意味

2016年07月13日 21時18分03秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
少し小金が貯まれば、
下級役人になる程度のことなら、「買官」することができる。


重要なポストには、科挙への及第が必須である。
旨みの強いポストにつくには、さらにいくらか金を積む場合もあるが、それもとても庶民が用意できるような額ではない。

しかし下級役人でもよいから官職につくことができれば、
子弟を教育するだけの生活の余裕ができ、何よりも搾取されずに済む。

・・・・これが最も重要なことかもしれない。



そもそもなぜ猫も杓子も官僚になろうとするかと言えば、
一族の中に庇護してくれる官僚を一人も出していなければ、あらゆる場面で「やられ放題」だからである。


せっかく商売を起こしても、役人がただ飯を喰らいに来る、
何かと名目や言いがかりをつけて、余計なお金を上納させられる、
他人とトラブルになった時に白黒に関係なく、しょっ引かれる、
・・・・と言ったことが日常的に起こる。


朝から晩まで骨も砕けんばかりに働いたところで
役人に甘い汁を吸い取られるばかりで一向にお金は残らない、商売も大きくできない、ということになる。


---ところがこれが、一族から一人でも役人を出したとなると、途端にがらりと状況が違ってくる。
身内に役人がいるということは、こちら側にも「搾取のカード」、「反撃のカード」があることを意味するからだ。


仮に言われもない理由でお金を巻き上げれば、こちらも身内の役人が奔走し、
ターゲットに何か不正理由をでっち上げて(大抵はでっち上げではない。ほとんどの役人は叩けば埃だらけなのだから)、
弾劾することもできるのである。


このため役人同士は、利害関係がない限り、互いに恨みを買わないよう、かばい合うものである。


・・・こうして役人を一人出しただけでも、勤勉に働いた労働がお金に変わり、蓄えに変わる。
出さなければ、ざあざあと手から零れ落ち、他人の懐を満たすだけとなるのだ。



七代前の先祖・陳林が炭鉱夫や開墾労働者で蓄え、鍛冶屋として開業すると、
息子・陳秀を下級役人にすることができた。


陕西省漢中府西郷県の典史(警察署長のようなもの)である。


さらにその子・陳[王玉]は直隷省大名府滑県の典史となった。
同じ警察署長でも辺境の陕西省ではなく、直隷省、首都に近いので、父親の代よりややマシなところに赴任したことになる(笑)。




皇城相府の正面玄関。



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