いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

いよいよ『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』が出版されました。

2016年12月03日 23時51分29秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
 

初の翻訳作品『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』が、いよいよ出版されることとなりました。

 

あらすじとしては、康熙帝の帝師・陳廷敬を主人公とした歴史小説です。

私利私欲の亡者となり、蓄財に血眼になる他の官僚らをよそに、ひたすら清廉、率直をつらぬき、

その正直さ、率直さが、時には皇帝のご機嫌を損ねることがあっても、最後には皇帝の厚い信頼を勝ち取った人のお話です。

 

歴史小説ですが、軽快な会話に泣きあり、笑いあり。

気軽に読んでもらいたいなああ、と思っています。

 

「『紫禁城の月』と陳廷敬」の連載も合わせてお読みください。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
 本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!

    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる
    3、陳家興隆の歴史的背景
    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
    5、わずか19歳で進士に
     6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
    7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院 
    8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
    9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院
    10、陳廷敬以後の『皇城相府』
    11、王岐山と陳廷敬
    12、王岐山と張英
    13、「号」に込められた意味

    14、隠居返上

    15、康熙帝、『湯座り』を勧める

    16、李光地にも『湯座り』を勧める

 

『紫禁城の月』雑感とメディア動向

  2016.9.11.  『紫禁城の月』雑感、G20でも同じことが……
  2016.9.26.  『現代ビジネス』のコラム下に『紫禁城の月』を紹介

  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、日本語訳版を日本語勉強中のご子息にプレゼント
  2016.11.2.  『芸術新潮』2016年11月号に『紫禁城の月』の書評が載りました
  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、偽物に閉口

 

過去記事も早見表を作っています。

   カテゴリー別 記事の早アクセス表

   各カテゴリーの内容紹介、見出しをまとめました。

 

*なお、本記事は、毎日、先頭に来るように更新しています。

 他の記事も2番目の記事として、更新を続けています。後ろを見てくださーい。

 

また中国在住の方で入手されたい方がいらっしゃれば、10月下旬、私が日本から現物を抱えて帰ってきます。

日本の定価で直接お渡しするか、中国国内で郵送すること、可能でーす。

個人的にメッセージをくださーい。

 

本日、東方書店さんが、ツイッターで紹介くださったということです。

東方書店ツイッター

ありがたいです!

 

なかなか手に入らない、というお声をいただきました。下記のメディア総研HPにて、取扱店が紹介されています。ご参照くださいー。

http://www.mediasoken-publish.net/news/hp0001/index.php?No=37&CNo=1

 

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和[王申]少年物語55、咸安宮官学近くの「七司三院」とは

2016年12月03日 23時31分56秒 | 和珅少年物語
家庭では両親に先立たれ、継母の支配する家で居心地悪い生活を送っていた和珅だが、
学校教育は当時の中堅の名門校、(ふりがな;かんあんきゅう)官学に入ることができた。

政治の中枢で働く多くの満州族官僚を輩出している学校だ。

乾隆十六年(一七五一)、これまでの後宮の北側から咸安宮は、紫禁城の西華門に移転する
。それは、これまで「内務府包衣」子弟のための学校であったのが、一般八旗子弟にまで拡大されたことと関係があるらしい。

包衣というのは、歴代皇帝一家の奴隷であるだけにもうすでに空気のような存在になっており、
気を使わない「内輪」の人間である。

だからこそ内廷の奥深くに設立もさせたのである。

ところが、一般旗人まで通うようになってくると、
「よそ者」がうろうろするのは、どうにも居心地悪さがあったのではないか。
太后の誕生日は口実に過ぎない。


移転先は、紫禁城の西側の入り口、西華門から入ってすぐの場所である。
一般旗人子弟を受け入れるようになっても、咸安宮官学は、まだ内務府の管轄下に置かれており、
紫禁城の中の学校という異例の扱いには変わりがない。

西華門界隈は、内務府の役所が集中する地区だ。

内務府は皇帝一家の生活一切を面倒見る機関、日本で言えば「宮内庁」に当たり、この辺りには「」が集まる。

「七司」の筆頭は「広儲司」、皇帝個人に属する財産を扱う。
大事なお宝を保管する倉庫のため、七司の中でこの機関だけが紫禁城内に置かれている。
場所は、ちょうど咸安宮官学の校舎の北辺りだ。

下属機関に

銀庫(言わずと知れた、現金を扱う倉庫)、
皮庫(毛皮も高価な財産)、瓷庫(陶磁器倉庫)、
緞庫(高級布地の倉庫)、
衣庫、
茶庫

が置かれる。

残りの

「都虞司(内務府所属の武官などの人事を決定する機関)」、
「掌礼司(宮廷における各種儀式を主催)」、

「会計司(内務府の出納、荘園の地代管理)」、
「営造司(宮殿の土木工事)」、

「慶豊司(牛、羊、蓄牧を扱う)」、
「慎行司(包衣や宦官の刑事事件処理)

は、すべて西華門外、紫禁城の外にある。

西華門を出てお堀に沿って南北に走る南北長街にこれらの官公庁が密集する(中南海と紫禁城の間の通り)。

その他「三院」は、「上駟院(御用馬を管理)」だけは、紫禁城内にある。
これはやはりいざ敵に囲まれた時、近くに馬もいないのでは、戦闘力にならないからだろうか。

「武備院(機械製造)」、「奉宸院(景山などの離宮の土木管理)」は、やはり西華門外に集中する。

西華門に入ると、門と同じ並びの北側の一列の宮殿が内務府の衙門(役所)が置かれるところである。

そこから、東に進んでいくと、この辺り一帯は、すべて内務府関係の役所が立ち並ぶ。
明代は宦官機構がずらりと並んでいたのを、清代には内務府がすべて受け継いだのである。


元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。




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和[王申]少年物語54、怪僧との出会いありか?

2016年12月02日 20時09分33秒 | 和珅少年物語
伍弥泰はモンゴル人なので、幕僚として抱えるのは、科挙的素養を身につけた漢人もいたかもしれないが、
生活習慣もアイデンティティーも違うため、それだけでは不十分である。

ラマ僧の幕僚は、漢文化とは違った知恵と方向付けを与えてくれ、それが少数文化を持つ強みにもなっていただろう。
 
和珅の思春期は、両親に死なれ、継母の支配下という複雑な家庭環境の中で、鬱屈と暮らしていた。
そんな中で継母の実家から時々派遣されてきたラマ僧とこの青年が出会う。

和珅兄弟のチベット語の教養は、そんな中から啓発されたのではないか。

啓発されたのは、語学だけではなく、
ラマ教がもたらすインド的、チベット的、モンゴル的な文化的薫陶すべてにわたっていた。

ラマ僧の凛とした心態のあり方は、青年を心服させるに十分であったろう。

敵意に満ちた周囲で暮らす和珅は、強い心を、戦う勇気を必要としていた。

長期にわたる修行からそれを獲得していた僧の姿は、和珅が目指す姿であった。
 
そんなラマ僧の姿の中に、和珅はあまり接することのなかった父親の姿を見、自分がなりたい理想の像をみつけた。

チベット語は、その憧れの人が持つ教養であり、自然と興味が湧いてくる。
本来なら出世のためには、儒教的素養の方が役に立つ。

満州族の科挙にもチベット語はない。出世に役に立たずとも、入れあげずにはいられない。

和珅も異端児だったのである。



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和[王申]少年物語53、怪僧の幕僚の存在ありか?

2016年12月01日 21時12分05秒 | 和珅少年物語
和[王申]の時代、北京の北方のモンゴルの地でなされていたラマ寺の修行とは、そういう性質のものであった。

モンゴル人として生まれた男子の少なくとも相当数の人材が、この修行に投入されるという状況にあった。
もちろん、通常のラマ寺では、読経を覚えたら学問はしないところも多いが、
一方に大学問寺も相当存在し、数千人規模の人材が日々このような修行に明け暮れていた実情が浮かび上がる。

和珅の継母の父伍弥泰は、中央で活躍する政治家として、
そんな中でも異色の才能を持った優秀なラマ僧を抱えていたに違いない。

モンゴル人の中でも出世頭の伍弥泰にとって、
自分の民族の中の最も優秀な人材をブレーンとして抱えることは、自然の成り行きである。

当時のモンゴル社会においては、
それはとりもなおさず、ラマ寺で修行して学問を修めた僧以外にはあり得ない。

草原には、ラマ寺以外に学問をできる場所とてないからである。


和珅の継母の父、伍弥泰がブレーンとして、ラマ僧を顧問に抱えていたとしたら、
それは大きな寺の組織の中で出世するようなタイプではない。

反骨精神や開拓精神が強く、集団の中ではうまく人間関係を泳ぎきっていくことができないが、
あふれる才能をもてあましている。
そんな異色の存在を一本釣りする。

伍弥泰自身が大舞台で向こうを張る貫禄と人間的魅力で、
異端児を信服させ、魅了する主従関係だったのではないか。

十九歳のパクパが、三十八歳のフビライ・ハーンと互いに尊敬しあう関係にあったように。


一方、漢文化には儒教という成熟した思想体系が根付いている。
その集大成が科挙制度であり、漢人なら少々の小金ができると、猫も杓子もすべて科挙受験を目差し、
小さい頃から論語の暗記から入って延々と学問修行を続けていくのである。

受験勉強の枠の中でうまく才能を発揮できた人材は、首尾よく中央の官僚となって国事に従事していく。
制度の枠の中に自分をうまくはめ込むことができなかった優秀ながら、
異端の豪快なる人材にも才能発揮の場は残されており、所謂「幕僚」になる道があった。

つまりは政治家の私設顧問団に加わることである。
一人の官僚が政界を泳ぎきっていくために自腹で抱えるブレーン、シンクタンクである。

彼らは、任地での地方政治にアドバイスを与えたり、
皇帝に出す奏文の下書きをして、皇帝の逆鱗に触れず、うまくご機嫌を伺えるような名文を書くことで才能を発揮した。

大金持ちにはなれないが、十分に社会的にも体面を保ち、家族を養うことができる程度の収入はもらえたのである。



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和[王申]少年物語52、中原とは異質な数学的思考回路

2016年11月30日 21時51分50秒 | 和珅少年物語
よく知られているように、ゼロを用いた十進法表記など、
現在でも使われる数学的論理はインドで確立し、世界に広まった。

ところが、本来インド哲学の要素をたっぷりと受け継いでいる仏教は、哲学的要素がと共に広がらなかった。
その唯一の例外がラマ教である。

インド哲学の伝統を受け、本格的な哲学の訓練を重要視し、
「数学的」思考回路を鍛え上げるカリキュラムを持っていた。
 
それは和珅ら、満州族が接するもう一つの大きな体系、
科挙を頂点とする儒教の教えとはまったく違う体系の学問である。

北京で中原の主人となって以来、満州族は漢文化の受容に努めてきた。
そんな儒教文化と対極をなす、もう一つの巨大な文化体系が、モンゴル人を通して、一端をなしていたといえる。
 
少し社会的地位のあるモンゴル旗人やモンゴル王公が家に雇い入れたラマ僧は、
そんな抽象哲学で才能を発揮した優れた対論家であっただろう。

政界で泳ぎ切るためにどうしたらいいか、
自分の決定や進む方向に迷いが生じたとき、こういう哲学理論に精通したラマ僧らのアドバイスを仰いだことだろう。


ラマ教の学問寺で修行する内容は、竜樹(ナーガールジュナ)の空の思想、大乗仏教の思想である。
極めて高度な抽象的理論の集成は、極めて「数学的」でさえあった。

昨今、インドのIT企業の活躍のせいで、インドの数学的素養に世界の注目が集まっている。
現在、世界のソフトウェア企業のランキング百位の半数がインド企業であるというが、
その強さを知るため、さまざまな分析がなされている。

インドでの数学教育法を見ると、モンゴルのラマ寺で行われている修行法に酷似した点を見ることができる。

まずは大量の暗記を基礎として重視する点である。
九九を十歳ごろまでには、三十x三十まで暗記するという。

つまりは日本人が八十一パターンしか暗記しないところを、九百パターン暗記することになる。
それだけなら東洋にもそろばんによる暗算の伝統があり、インドのみの強さとすることはできないが、
その後の数学の教育法にも差があるという。

日本の教育では、できるだけ少ない計算例から「やり方」を抽出しようとするが、
インドでは大量の計算例から「論理」や「背景」をつかめるように指導する。

よって日本人は「やり方」を忘れてしまうと問題が解けなくなるが、
インド人はやり方を忘れても、一から考えて答えを出すことができるという。


この方法は、ラマ寺での学習方法にも共通する。

まずは経典を大量に暗記することに相当の時間と力量をかける。

この段階では、経典の内容で何を言っているのか、斟酌せずにひたすら暗記する。
通常は八歳前後で寺に入門し、十年ほどかけてこの工程を進めていく。

その後、「タクサル(対論)」で相手のいるディベートを繰り返し、理論を深く掘り下げていくのである。


---このようなインド哲学の伝統は、中原に伝えられた仏教、
ひいては日本に伝えられた仏教でも重視されることなく、
読経はすれども、意味を深く掘り下げるための大量の修行は受容されなかった。



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和[王申]少年物語51、ラマ教はナーガールジュナの空の思想の訓練

2016年11月29日 16時07分55秒 | 和珅少年物語
ラマ教の学問寺で修行する内容は、竜樹(、
日本でもおなじみの『般若経』である。

なんだ、そういうことか、と思うかもしれないが、
その方法論は似ても似つかぬほどの大きな差がある。

中原や日本ではこのお経を暗誦し、読経することに重きを置き、
これを哲学的に解剖することはあまりしない。

インドでは仏教に限らず、あらゆる宗教で抽象的な哲学理論が戦わされた。
『般若経』の中で最も有名な言葉は「色即是空、空即是色」であることは、
日本でも良く知られるところである。

「色」はこの世のあらゆる存在するもの、「空」は自性が欠如していることをいう。
ナーガールジュナの哲学では、この原理をあらゆる面から、微に入り細に入り説明していく。

「あらゆるものの自性は、原因であれ、条件であれ、その合体であれ、どこにもないのだから、空である」
「眼は自性として空であり、物体もまた同じく空である」
「条件として生起しているから、思惟の対象も自性が空であり、思惟もまた自性が空である」


延々と続くこのような抽象論を理解し、あらゆる事例に当てはめて考え、自
分のものにするには、相当の年数がかかる。

最初は暗誦するだけで数年かかり、それからゆっくりとその内容を消化し、議論に使いこなしていく。
 
インド哲学は、多分に数学的である。
例えば、ナーガールジュナが唱える最も初歩的な言い回しに
「これがある故に、かれがある。これがない故に、かれがない。」
があるが、

これを代数と数学方式であらわすと、
「もしPならばQであり、もしPでなければQでない。」
(P->Q) & (-P->-Q)

と言い換えることができる。

ラマ寺で毎日「タクサル(討論)」で戦わされたテーマは、
こういったナーガールジュナの著作を中心とした抽象的な題材だったと思われる。



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和[王申]少年物語22、討論訓練「タクサル」

2016年11月28日 09時57分38秒 | 和珅少年物語
チベット仏教では、論理学的な討論を重んじることが、大きな特長となっているという。

戦前に内モンゴルのラマ寺を取材した『蒙古学問寺』(長尾雅人著)を見ると、
今から半世紀ほど前の内モンゴルではかなり大規模な学問寺が点在していたことを知ることができる。

ラマ寺には崇祀寺と学問寺の二種類があり、
崇祀寺にいるラマは、ただ日常の労役と勤行だけで日々を終わる。

つまりは法会で読経するための幾パターンかのお経をチベット語でそらんじることはできるが、
そのお経の意味を学問的にも大して理解せず、口にするのみ、ということである。

それ以外には寺での自分の役割である掃除または炊事といった義務をこなし、
一生を無為徒食で過ごす。

が、モンゴルには包頭郊外の五当召、シリンゴルのベイズ廟のように、
大規模な学問寺が少なからずあったという。

そこでは論理的にかなり高度な内容の学問に日々精進し、一生学僧として切磋琢磨した。

標準的な学問寺として、一般的には、顕教学部、密教学部、時輪学部、医学部がある。
その学問の基本的な形としては、最初の十年ほどは徹底的に経典を暗記し、
その後これを理論付けするために昇華させてゆくというものである。

覚えた経典が自分のものとなっているか否かは、絶えず討論という形で確認される。

討論の訓練を「タクサル」という。

四人から十人で円陣を組んで座り、一人が問者となって中央に立ち、質問を投げかける。
問われた者は静かに答えるが、
問者はこれに対して、肩を怒らせ、数珠を振り上げ、衣を引き上げ、恫喝するかのごとき身振りを見せる。

この訓練を毎日、数時間ずつ行うという。


作者も以前にチベットで図らずもこの風景に出くわした。
ある寺で数百人の僧侶たちの袈裟で境内が真っ赤に染まっていた。

チベットの有力な宗派ゲルク派の袈裟は赤だからである。
そして遥か向こう側から轟音のようなぐわわわん、と地に響く音が聞こえてくる。

近づいて見ると、それが僧侶たちのわめき声の大合唱なのである。
わめいている者は、さながら野球のピッチャーのような助走をつけ、
叫びながら相手に球でも投げつけるように踊りかかる。

すると、相手も歌舞伎の見得きりのように阿修羅のごとき威嚇の表情で、
上体を前にのめらせ、片方の腕を後ろに反らせて、相手の顔数センチの所まで迫る。

どうやらこれが「タクサル」の作法らしい。
これを野外で数百人が同時にやっているのであるから、圧巻だ。

どうやらこれが日課として行われるらしい。
この討論に参加するには、まずは経典を暗記し、教義を理解しなければならない。

自分の中でしっかりと理論を消化していなければ、相手にそこを突かれて負けてしまう。
このような訓練で日々論理的思考を鍛えているため、チベット仏教の高僧には優れた対論家が多いという。





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和[王申]少年物語21、パクパの倫鋒、切れ味鋭し

2016年11月27日 16時11分06秒 | 和珅少年物語
モンゴル帝国は、成立時から仏教一辺倒であったわけではない。
チンギス・ハーンは道教の長春真人(ふりがな=ちょうしゅんしんじん)を大いに優遇し
、西アジアまで出向かわせたりしている。

フビライ・ハーンも道教と仏教を戦わせる公開対論の場を持たせた。

テーマは道教側が書いた『老子化胡経』についてである。
老子が西域からインドに入り、異民族を教化し、その弟子で当たるのが釈迦という内容の本である。

もちろん荒唐無稽な内容であるが、その反芻にも系統や順序、反論の手順というものがある。
この論説の根拠が『史記』にある、という道士に対して

パクパは、あなたの『史記』には「化胡」(胡=野蛮人を感化させる)と言う言葉はあるのか、と聞いた。
道士はないと答えた。

パクパは、それならば老子は何の経典を伝えているかと尋ねた。
道士は『道徳経』があると答えた。

パクパは『道徳経』以外にあるかと聞き、道士はないと答えた。

パクパは、それならば『道徳経』に「化胡」と言う言葉はあるか、と聞いた。
道士はないと答えた。

『史記』にもなく『道徳経』にもないものが、偽妄であることは明白であろう、と答えた。
道士は屈服して頭を垂れた。


対論はパクパの圧勝だったと言われる。
相手の自己矛盾するところを一つ一つ指摘し、正当性をつぶしていく。
まさに現代のディベート術にも通じる見事な職人芸である。

チベット仏教では論理的な推理と対論を重視するため、
幼い頃からその訓練で鍛え上げてきたパクパの前では、論戦の習慣がない道士は、
まったく歯がたたなかったわけである。

チベット仏教の大きな特徴は、このインド仏教末期を受け継いだ、論戦による修行にある。
これはパクパの時代、元朝初期から、和珅の清朝中期まで変わらない一貫した特長である。


そこには、儒教を中心とした科挙の学問体系とはまったく違う論理世界が広がっていたといえる。






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和[王申]少年物語20、パクパ登場

2016年11月26日 15時18分21秒 | 和珅少年物語
チンギス・ハーンの孫、ゴダン・ハーンが病床で受けた治療は
そういうシステムの最高峰に立ったものであった。

サキャ・バンディタは、当時チベット一の学僧と言われていた人物であるから、
彼がハーンの前で施したこれらの真髄は、チベット仏教というシステムが持つ最高峰のパフォーマンスだったことになる。

このとき、病気を完治させたことが、チベット仏教をモンゴルの国教にする大きなきっかけであったといわれる。

ハーンがここで受け入れたのは、単なる一つの宗教ではなく、一つの総合文化としてのシステムである。
物の考え方から、病気の治し方、若者の教育システムまでをすべて含めた体系を受け入れたことを意味したのである。


モンゴル帝国がチベット仏教を受け入れたのは、サキャ・パンディタの招聘からと言われる。
他のチベット仏教の指導者が、得体の知れないモンゴルに行くことに萎縮している中で、
サキャ・パンディタがモンゴルの地に向かい、布教に尽力し、この地で入寂した。

このとき、チベットから二人の幼い甥を連れている。
僧は結婚できないため、甥が一番近しい子孫ということになるのだ。

十歳のパクパと六歳のチャクガナドルジェである。
中でもパクパは聡明な青年に育ち、時の権力者となっていたフビライ・ハーンの宮廷に呼ばれた。

若き天才の誕生である。
この時、フビライ三十八歳、パクパ十九歳である。

フビライはパクパを国師として、仏教の最高指導者に命じる。
年若き僧を国師、ハーンをも説教する立場にするというのは、パクパに相当の魅力がなければあり得ない。

パクパはその後「パクパ文字」を創作した人としても有名である。
若いながらも相当の凄みを感じさせる青年だったに違いない。

また、その後のチベットにおける活仏制度の教育方法として、
若くても人々に尊敬の念を抱かせるようにするための、数々のノウハウがあり、
サキャ・パンディタはそれを若い甥に施していたに違いない。





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和[王申]少年物語19、精神と肉体の相互治療としてのチベット医学

2016年11月25日 22時22分03秒 | 和珅少年物語
精神と肉体を同時に治療していく、というチベット医学の発想は、
現代の医療制度から見ても興味深いものがある。

現代の日本でも、多くの老人が大した病気もないのに毎日近所の診療所に行き、
待合室で何時間も互いに体のどこが悪いのか、延々と語り合う。

診療の番が回ってきても、どこが悪いということもなく、医者も笑ってビタミン剤などを処方する。
ご老人たちに必要なのは、まさに精神と肉体の両方の治療ではないのか。

ところが現代の医学制度では、精神を病んでいる人は、精神分析医へ、
肉体を病んでいる人はその専門医へ、と分けて受け入れる。

まったく、時代が下ったからといって、すべてが先進的とは言いがたい例ではないだろうか。

また精神分析医の制度にしても、問題点はある。

私事ながら、作者の高校の同級生に心理学を研究する友人がいる。
以前に彼女が笑いながら話したところによると、
ある夫婦は二人とも精神分析医としてある病院に勤めている。

患者の話は本来は他言してはならないが、夫婦でもあり同じ病院内のことでもあり妻は家に帰ると、
夫に自分の患者の話を最初から終わりまですべて吐き出して聞かせるという。

つまり夫は医者二人分のキャパシティの情報を注ぎ込まれるわけで、
夫は寿命が縮んでいるのではないか、と彼女は冗談交じりにいう。

他人の悩み事を受け止めるというのは、
その人の持つドグマのようにどろどろとした精神的な澱を受け止めることでもあり、
聞き手も大きなダメージを受ける。

これを癒すには相当の精神力が必要となり、分析医も心を病むケースが多いと聞く。


チベット医学のいう精神面と肉体面を同時に治療する、という定義は、
系統だった修行のカリキュラムにより、まずは僧自身が揺るがない強い精神を持つことから始められるわけである

。哲学的な真理に徹底的に触れ、これを暗記し、駆使して討論で鍛え上げる。
肉体的な修行、苦行を通して、如何なるケースにも動揺しない強い精神と肉体を作り上げる。

その上で医学も身につけるということである。





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和[王申]少年物語18、医学としてのラマ教

2016年11月24日 22時18分24秒 | 和珅少年物語
ラマ教は医学に力を入れる宗教である。
通常ラマ寺における学問修行は、顕教、密教、と同列で医学部がある。

チベット医学の特徴は、精神面と肉体面を分けることなく同時に治療していく点にある。
つまり病人が持つ精神的な不安を、僧として修行した真理と包容力で和らげ、
かつ専門的な肉体の治療も行うということである。

病人からじっくりと生活全体の話を聞き、骨相からその人格、性格や精神状態などを推し量り、
家族や交友、仕事の話も聞きつつ、精神的な不安や生活習慣のどこかに異常なところがあり、
病の原因になっている部分はないか、と探りながら、治療を進めていく。

まずは本人の一番の悩みがどこにあるかを見抜く。
酒の飲みすぎで病気に影響している場合は、なぜ大量の酒をあおるのか、
その精神的不安の根源を探ろうとする。

その根源に合った仏教経典の真理があれば、
それを中心に語り、相手の心の患部にずばりと入って突き立てる。

優れた僧は、相手のレベルに合わせて心に響く話をすることができる。
教養が高くない人間に難しい理論を説いてもまったく琴線にはひっかからないだろう。

何を言ってるんだこの人は、と話の意味も分からないようでは困る。
逆に精神境地が高い人にあまり幼稚なことを説いても馬鹿にされるだけである。
優れた僧とは、相手のレベルを瞬時に見抜き、どんなレベルにある相手にも、
その境地段階に合った言葉をかけることができる人をいう。




  元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。




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和[王申]少年物語17、 ゴダン・ハーンとサキャ・バンディタ

2016年11月23日 01時26分26秒 | 和珅少年物語
この頃、草原ではモンゴル帝国が勃興しつつあった。
ナーランダ僧院がなくなるのと時を前後して、モンゴルは西夏を滅ぼす。

モンゴルの武将らが最初にラマ教に触れたのは、西夏の宮廷においてであったらしい。
西夏の宮廷では多くのラマ教の高僧が活躍し、国王の上師となっていた。

モンゴルは西夏を滅ぼすことにより、彼らと接しラマ教に興味を持つようになる。
モンゴルに行ったチベット最初の高僧はサキャ派の第三祖サキャ・パンディタである。

チンギス・ハーンの孫ゴダン・ハーンがサキャ・パンディタに宛てた親書はかなりドスの利いたものである。
尊師をぜひモンゴルに招請したいが、もし高齢を理由に来ないのであれば、わが国の決まりにより、大勢の軍を派遣することになるだろう。
そうなれば多くの衆生の命を損なうことになるとは思わないか、という。本人が来なければ、チベットを武力で征服するという脅しである。

モンゴル人がラマ教を信仰するようになったのは、
チンギス・ハーンの孫、ゴダン・ハーンが高僧サキャ・バンディタをモンゴルに招聘した時に本格的に始まるという。

チンギス・ハーンの軍隊は、西夏を滅ぼし、チベットにも手を伸ばそうとしていた。
モンゴル側ではラマ教各派の高僧に働きかけ、モンゴルに招聘しようとしたが、皆腰が引けて誰も行こうとしない。

こんな高原の天然の要塞に攻め入ってくることもないだろうと高をくくっていた部分もあるだろう。
ゴダン・ハーンの脅しの効いた文書ももちろん行きたくなくても行くべき、と思わせた理由ではあろう。

お前が来なければ、チベットに血の雨が降るというのであるから。
当時、サキャ・バンディタはすでに高齢であった。

若い頃からチベット全土を回り、各寺院の高僧を訪ねたり、説法に参加したりして、
その学問はチベット一という評判を取る高僧である。

だからこそモンゴルにまでその名声が及び、招聘されることになったのである。
サキャ・パンディタがモンゴルに行く決心をしたのも、
自らも積極的に仏法でモンゴルのトップを感化したいという積極的な意志があったからに違いない。

こうしてサキャ・バンディタはゴダン・ハーンの元に行く。
ゴダン・ハーンはこのとき病床にあり、彼は医術でハーンの病気を回復させたという。

  

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和[王申]少年物語16、モンゴルとラマ教

2016年11月22日 11時11分26秒 | 和珅少年物語
チベットのラマ教は、インド断末魔の仏教を化石のように保存しているという。
仏教はインドで五世紀ごろから下り坂になり、十二世紀前後にはインドから絶たれる。

イスラム軍の侵攻により、ナーランダ僧院が破壊されなくなったのは、その象徴とも言える。
唐代には三蔵法師も留学したことのある仏教哲学の名門学府である。

これらの人材が丸ごとヒマラヤ山を越えて、チベットへやってきた。
仏教の最高レベルの人材がチベットへ流入したのである。

一二〇四年、イスラム軍がナーランダ僧院を攻め滅ぼした時、
最後の主座カチェ・パンチェンは請われてチベットに入る。

弟子九十人を率いてヒマラヤ山脈を越え、チベットの綽浦寺に入ったという。
インド仏教の最高結集であるナーランダ僧院が丸ごとチベットに移されたといってもいい。

日本の真言密教は空海たった一人で持ち帰り、今に至るまでその体系が伝わっている。
それを百人近い最高精鋭の僧団がそのままチベット入りしたことを思えば、
インド仏教末期の形状をかなり濃厚に伝えていることが想像できるだろう。

チベットに伝えられたのは密教であるが、日本に伝えられた密教とはかなりの時代差がある。
中原に密教が伝わったのは七世紀、これが空海や最澄により日本に伝えられた。

チベットに定着したのは、十世紀以降であるから、三百年以上の差がある。
その後チベットの土着信仰ボン教と融合することにより、独特の発展を遂げた。

チベット仏教のことを俗に「ラマ教」というが、「ラマ」はチベット語で「上人」を意味し、
サンスクリット語の「グル(師匠)」に当たる。
ヒンズー教では師匠は絶対無条件に従い、尊敬する存在として扱う。

末期仏教は、多分にヒンズー教化しており、
チベット仏教のこの俗称は、チベットに流入した末期仏教が同じような姿勢と考え方を持っていたことを、
化石のように保存しているといえる。


  

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和[王申]少年物語15、夏の承徳

2016年11月21日 09時07分42秒 | 和珅少年物語
何度も前後してややこしくて申し訳ないが、再び『和[王申]少年物語』に戻ります。

過去記事については、以下のリンクをご参照ください。


 国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。


記事の一覧表:

    
    1、乾隆帝の初恋の相手に瓜二つ
    2、満州貴族としてはそこそこの家柄
    3、咸安宮官学へ
    4、包衣階級の成立と明代の宦官
5、アイシンギョロ家と功臣らの関係
6、咸安宮官学の教師陣は全員翰林
7、ウラの満州語教師
8、咸安宮官学、旗人社会の随一の名門校に
9、八旗官学と世職幼学
10、世職幼学から咸安宮官学に上がれる可能性
11、康熙帝の公主たちのモンゴル生活
12、北京住まいのモンゴル王公の暮らし
13、和[王申]のチベット語
14、和[王申]の影に怪僧の影あり?


*******************************************************

清朝では、モンゴル族との関係が深まるにつれ、
伝統的に信仰していたシャーマニズムと共にチベット仏教も信奉するようになる。

特に乾隆帝の時代になってからは、その動きに拍車がかかり、承徳を中心に盛んに寺院が建てられ始めた。 


北京から東北へ150キロ、承徳という町がある。
熱河とも言われる地方だが、康熙帝の時代から「避暑山荘」の建設が始まった。

避暑山荘は、清朝の「陪(ばい)都(と)」ともいえる役割を担った。
遊牧民が夏と冬の牧草地を変えるように、
騎馬民族が作り上げた国家には首都のほかに「陪都」があり、冬と夏で宮廷が移動する。

特に乾隆帝はほぼ毎年夏の約五カ月間をこの承徳で過ごし、
残りの時間もやれ江南だ、瀋陽だ、東陵だ、と動き回り、紫禁城ではろくに時間を過ごしていない

乾隆帝自体も相当に遊牧的行動様式の人だ。

承徳はまさに清朝の「夏の都」といえる。
それは北京が暑いから本当に「避暑」に訪れていたのではなく、
ここで行われるさまざまな行事を通してモンゴルの諸部族との交流を深め、国境の平和を保つ目的があった。

承徳は遊牧民族との外交のための街として作られた。
モンゴル族がチベット仏教(ラマ教)を信奉しているため、
承徳の避暑山荘の周りには「外八廟」と言われる大小のラマ教寺院が作られ、信仰心厚いモンゴル人らを喜ばせた。

皇帝の承徳滞在に合わせ、チベットから高僧が呼ばれ、
時にはパンチェン・ラマと言った最高層の高僧までが訪れ、これらの寺院で法会を開いた。

モンゴル王公らにとってこういう普段ではめったに触れることの出来ない最高レベルの宗教行事に参加できることも
承徳滞在の楽しみの一つだったに違いない。

夏の間、延々とこれらの行事を続けることで、モンゴル族らは皇帝のためなら命がけで戦おう、
という忠誠心を新たにして草原に帰っていくのである。



  

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『紫禁城の月』と陳廷敬29、康熙帝、西渓山荘に滞在す

2016年11月20日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
その後、康熙帝は再び高士奇に不利な評判を耳にする。

すると今度は、高士奇にもう少し用心するように注意を促すと同時に、身辺の者たちにこういって牽制したという。
「諸臣らが秀才(科挙の中間段階の資格)として上京して来た時は皆、徒歩で綿の服を着てやってきた。

 それが一夜にして進士に及第して官位を得れば、豪華な布地で囲んだ馬車に四頭立ての馬を用意し、
 御者八人に守らせて行進するのだから、その財力はどこから来るというのか? 
 
 詳しく追究せねばなるまいの」


康熙帝のこのような「法は衆を責めず」
(たとえ法律に違反していても、民衆が広く行っていれば認めるしかないこと。
 日本風に言えば、赤信号、皆で渡れば怖くない?? ちょっと違うか……)
の詭弁は明らかに道理が通っていない。

高士奇のことをいうおまえたちも、俸禄のほかにびた一文も受け取っていないと堂々と言えるのか? 
同じ穴の貉が何をいう……と。

皇帝がそれを言い出したら終わりやないか、と思ってしまうが(汗)。
どうやら高士奇の違法犯罪の事実を庇うことが目的のようだから、
高士奇の蓄財を責めなかったのは当然と言えよう。



そんな狂おしい蓄財意欲により貯め込んだ富を注ぎ込んで作られたのが、
故郷の銭塘(杭州)「西渓山荘」であり、三度目の南巡の際にここに康熙帝を迎える。


「西渓山荘」は、杭州の西郊外に広がる西渓湿地の中にある。
水路が網の目のように張り巡らされ、古来より多くの文人墨客が庵を結んだり、別荘地を建てたりしてきた場所である。

俗に「大隠は市に隠れ、小隠は野に隠れる」というらしい。

--つまり隠者でも大物は人里離れた山の中などには住まず、
他の文人らが訪ねてくることのできる都会からちょうどいいくらいの距離にある郊外に住む、という意味だ。

その意味で「西渓山荘」は銭塘(杭州)の城内から遠すぎず、距離感も憎い限りだ。


現在「西渓山荘」が史料を元に復元されている。

このシリーズの最期に紹介する写真のとおりである。


高士奇がその後、平湖に完全移住してしまったこともあり、
どうやら山荘は早々に朽ち果ててしまったようで、跡形も残っていなかったらしい。

ほぼ完全にゼロから復元したもののようである。


新築ながら、江南の庭園スタイルが存分に反映されており、往年の華やかさが充分に伝わってくるではないか。


この時の康熙帝の山荘滞在の様子は『紫禁城の月』の中でも詳しく描かれており、ここでは述べないこととする。

皇帝を我が家に迎える――。
それは高士奇の人生で最も輝かしい瞬間だっただろう。


*********************************************

以上、高士奇のシリーズはここで一旦、終了とします。

実は高士奇のこの後の人生についても文章は用意してあるのですが、
『紫禁城の月』の発売からまだ三ヶ月も経っていない時点でネタバレになる内容は、よろしくないのであります(笑)。

また時機を見計らい、順次記事を投入していきたいと思います。





杭州の西渓山荘

自分でもぜひ行きたいのですが、まだ行けていないのでネット上から写真を拝借しました。

朱国魁さんの掲示板書き込み

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