いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

定州6・貢院、大部屋試験会場

2016年06月29日 10時41分34秒 | 河北・定州府
  





魁閣号舎の中は、みごとな大部屋でござる。


定州貢院の創建は、乾隆四年(公元1739年)。

定州の貢院ができるまで、受験生らは真定府まで応試に行っていたという。
真定府は現在の正定県、定州と石家庄の間、南隣の府ですな。

しかし当時は、道路が整備されていないなど、交通が不便で往来は困難を極めた。
そこで当時の知州・王大年が、現地の有力者に呼びかけ、数十人の寄付を得て、
定州貢院の建設が実現したとのこと。


宮崎市定の『科挙』に試験の手順が詳細に紹介されているが、
それを踏まえて、少し当時の様子を想像してみたい(笑)。


朝四時、暗いうちから点呼が始まる。

受験生らは、「考藍」(試験用のかご・後ろに写真あり)の中に文房具、簡単な携帯食、
--そして多くは尿瓶を持って、身体/荷物検査を受けた。

試験は夜明け過ぎから、最終は日が暮れて文字が見えなくなるまで、となるが、
その間に席を離れてよいのは、1回のみ。
外に出て簡単な食事をとり、用足しをしてよいことになっている。

しかしその際には、受験用紙を預け、書けたところまで捺印してもらったり、と
煩雑な手続きがあるため、ほとんどの受験生は、小便なら尿瓶を携帯して席を立つ煩わしさを避けた。


検査員の衙役(がえき)は、何か不正を発見すれば銀三両を褒賞としてもらえたため、
荷物検査は、苛烈をきわめたという。

マントウ、にくまんの餡の中まで、箸でつついて調べたらしい・・・・。

そんな作業をするため、入場の列は遅々として進まず、
全員が席につく頃には、夜も明け始める頃。


これは府での千人以下の試験だからこれで済むが、
省府での郷試や首都での会試となると、数万人規模となる。


たとえば、現在も南京で参観することのできる江南貢院は、
江蘇省、安徽省の二省の受験生を一度に集めるため、2万644部屋を備えた。
したがって全員の検査を終えて、部屋に収容するだけのために丸々1日をかける。

収容作業の日はただ独房の中で過ごし、一夜明けて翌日の朝からようやく試験が始まるというのだから、
すさまじーー。




なぜか、かわいらしい色の小さな机。
これは聞いたわけではないが、恐らく以前は幼稚園になっていたのかいな、と想像する。
こういう歴史的な建造物を学校として利用することは、よく行われている。




これが「考藍」ですなー。





出たあー。カンニングチョッキー!





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定州5・貢院、魁閣号舎と魁星像

2016年06月28日 00時27分22秒 | 河北・定州府
  


  


  


  


ところで省府にある郷試の会場、首都北京の会試の会場となる貢院は皆、個室部屋仕様になっている。
個室と言っても屋根はあるが、一面は外に露出したままの、半分野外状態。

試験が二泊三日の長きに及ぶため、ふとんやら煮炊きの道具まで持ち込んでの半分キャンプ状態である。


しかし府レベルの貢院での試験は、試験が1日で終わることもあり、夜を越さなくてもよいため、大部屋仕様だったようだ。
個室は与えられず、巨大なホールに数百人、千人と収容して、一斉に受験する。

そのための会場が、この巨大な建築だったとのこと。


余談ながら、定州は直隷省の所属となり、直隷省の省府は京師(北京)なので、
定州の貢院で童試に及第すれば、次の会試の会場は北京の貢院になる・・・。



 


正面に足を踏ん張ってかまえるのは、魁星像。
ゆえにこの建物は、「魁閣号舎」というのだそうな。

創建当時はなかったが、道光14年(1834)の大修理の際に付け足されたもの。



魁星(かいせい)を日本語の辞書で検索すると、

1 北斗七星を柄杓(ひしゃく)になぞらえたとき、水をくむ部分の先端にある第1星。
2 進士の試験に第1位の成績で及第した者。

と出てくる。


北斗七星の先端の星だった理由は、「北極星扱い」だったのでしょうかねー。
空の中で一番中心にあって動かないのは北極星ですが、単独で存在するから目印になりにくく、やや見つけにくい。

その近くにある北斗七星、
--その中でも最も中心に近くて、位置が変化しないひしゃくの先端の星が、
「世界は俺様を中心にまわっている」というまさに中華思想を体現する象徴になったのかと思われる(笑)。


したがって将来、宰相となりて国を動かす、宇宙を動かす可能性のある進士の首位は「魁星」なり--。


・・・・とゆうロジックなのかと思われる。


その存在を道教的発想で擬人化したのが、魁星像。


魁星像の特徴は以下のとおり:

 1、右手: 大きな筆を持つ。「朱筆」。
  皇帝が首位の名前を朱筆で印をつけることを象徴。
  = 状元

 2、左手: 墨を入れる升(ます)を持つ。

 3、右脚は、金鸡独立,脚の下に鰲(オオガメ)の足を踏みつける。
  「鰲頭を独占する」を意味する。

  --由来は、進士の首位・状元のみが、合格者発表の際、
    宮殿の前にある鰲(オオガメ)の石像の上に立つことができることより。


 4、左脚は、後ろに曲げられている。
  曲げた様子から「魁」の字の払いを表現。
  

魁星は、科挙を受験する受験生の守り神となり、
受験前には、多くの受験生が合格祈願のお参りに来たという・・・。


写真でば、遠めにあまりわかりませんが。。。
手に升を持っているのは、わかりますな・・・。


後ろ足の様子は、いろいろ服を着せられすぎていて、ようわからん・・・。
布、巻きつけすぎ・・・(汗)

こちらでは、神様の像や仏像に、余計な服を着せることがよくあり、
オリジナルの姿がまったくわからず、残念なことがよくありますが。。。。。

これもどうやらその類のようですな。。。



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定州4・貢院、府試と院試

2016年06月27日 08時42分18秒 | 河北・定州府
  



  


次に向かった場所は、定州貢院。


科挙の中でも童試を行った場所です。

ここで科挙の各段階の試験を簡単におさらいしておきますー。


童試:

 第一段階: 県試。 本籍の地元の県で受験する。
 第二段階: 府試。 県試を突破したら、県の上の行政機関である府城に赴いて受験する。
 第三段階: 院試。 府試に合格したら、同じく府の貢院において受験。

郷試: 省都で受験。

会試: 北京で受験。

殿試: 北京で受験。



・・・ということになりますが、この貢院でどの段階の試験が実施されたかというと、
府試と院試だったそうな。







清代には、各府にあった貢院ながら、今でも完全な様式を保ったまま、保存されている場所は少なく、
科挙の場を実際に見ることのできる、貴重な場所。

見ることができて、とても嬉しかったのですー。



乾隆4年(1789)創建。

府試は知府により采配され、院試は学政により采配された。

学政は、管轄地域内の科挙試験の採点の最終基準となる。
そのために読書人らの尊敬を集めることのできる学識豊かな人材が抜擢されるのが常であったという。

科挙の答案は、現代でいうところの小論文である。
採点の優劣には、どうしても個人の好みが出るというもの。

そこで新たな学政が決まると、その人の過去に書いた文章などが
あの手この手で掘り出され、あっという間に写本が現地の読書人の間に流布し、
その人の文章の好み、癖、傾向などが研究し尽くされたという。

その好みに迎合するような文章を書いた方が、
合格しやすいということなのである。


いやはや。壮絶なるは受験勉強なりー!

 
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定州3・開元寺塔、今は鉄筋コンクリート

2016年06月26日 17時21分42秒 | 河北・定州府
 
 

 最初の階段を上がってすぐに表れる、やや西洋の教会を思わせるドーム。


 


ところで、開元寺塔は今、世界遺産への登録を申請中だという。
しかし1986年に行ったという修復工事は、当時の現代文明への崇拝からなのか、
完全に鉄筋コンクリートで固める現代工法なのだそう。

建築のことがあまりよくわからない私でも、
どうも無機質できれいすぎるなあ、と古代の息吹きのいの字も感じなかったのは、
そのせいかいな、と妙に納得してしまった・・・。


まあそれでもそのおかげで、今は倒壊の心配もせず、
突然の地震の襲撃におびえることもなく、安心して階段を踏みしめられたのですが・・・・。

ちなみに急な階段の連続だったこの塔登りのおかげで、
その後なんと一週間も下半身の筋肉痛でほとんど歩行できない状態になりんしたー!
体力不足が情けないのですが、きっと鍛えられたと思いますー!


 

 回廊の天井部分。


 

 窓から見える外の風景。



 

 各階に残る仏画。これは古いオリジナルなんでしょうね。


 



 

 天井の造作はどうもコンクリートの現代建築のような気がしますなあ。


 


 


 


 

 見学者が手で触れる場所は、ガラスで保護していました。

 


 

 おおー。 

 石碑の文字は、清華大学建築学科の教授・羅哲文先生の名前が!

 国民党が重慶にいた頃から、梁思成の元で弟子として、働いてきた人ですね。

 京都と奈良をアメリカの空襲から守ったのが、梁思成だったという事実を
 80年代の「奈良シルクロード博」のシンポジウムに招かれていた羅哲文先生が初めて明かし、
 日本側に事実が明らかになったとか・・・。

 
 梁思成本人はすでに亡くなって何年も経った後で・・・。



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定州2・開元寺塔、昔もドミノ倒しあり

2016年06月25日 17時21分42秒 | 河北・定州府
 

・・・とはいえ、仏舎利を納めるためだけに、55年もかけて塔を建てたわけではなさそうだ。

宋代、ここは遼との戦いの最前線。
定州の北は、契丹の遼と国境を接していた。

史料に
「天下十八道の中、惟(ただ)河北が最も重し」
「河北三十六州軍、惟(ただ)河北が最も重し」
ともいう。

塔は敵の動向を見張るための絶交の物見台となった。
このため「瞭敵塔」ともいう。




開元寺塔はすでに1000年もの間、その場所にそびえ立っており、
十数回の地震をも乗り越え、その姿を現在に残す。

ただ残念なことに、清の光绪十年(1884年)六月の地震で
塔体の東北部が、上から下までごっそりと崩れ落ちた。



 

 光緒年間に東北部分が上から下までみごとに崩れ落ちたままの写真。



1986年に本格的な修復を行い、現在に至るそう。


 

 最初の入口。



ところで宋代以来、塔は人々の遊覧の場として、常に多くの人を惹きつけてきたため、
歴史的に何度か「ドミノ倒し」の圧死事件が起きている。

明の穆宗・隆慶二年(1568年)正月十六日。
人々が塔に押し寄せていたところ、州守(調べたが、出てこない。。。恐らく州知事とか?)がやってくると誰かがデマを流し、
パニックとなった群衆が押し合いへし合い、階段でドミノ倒しが起き、圧死者二百三十七人を出した。


清の乾隆三十八年(1773年)五月五日、村民が大勢塔に登っているところへ、
州牧(州長官)が塔の入り口を封鎖したとのデマを誰かが流し、
パニックとなった民衆が出口に殺到。
圧死者三百人余り。


・・・・・圧死者200-300人って・・・。

私らが行った日は、そのほかの見学者はほとんどおらず、
もちろん2-300人も圧死できるような状態ではありませんでした。

今でこそ、塔から見渡せるだけでも高層ビルやマンションが立ち並び、
高いところへ登ることなど珍しくないのでしょうが、
昔の人の高所に対するあこがれというのは、現代人の想像を超えていたのでしょうなああ・・・。


 

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定州1・開元寺塔、天竺より仏舎利を持ち帰る

2016年06月24日 13時06分50秒 | 河北・定州府
さて。和[王申]の話の途中、突然なのですが、
先日、あんてぃーく倶楽部の遠足で行った河北定州の記事を差し挟みたいと思います。

忙しかった諸々の作業がようやく一段落ついたので、
やっと整理する時間もできました・・・。


さる5月末に河北省定州へのツアーがあり、参加いたしました。
マニアックかつ貴重な場所に連れて行ってくださる、あんてぃーく倶楽部主催者様、
いつもありがとうございますー!



ええー。

では場所から確認ですねー。

 

北京から石家庄に向かう高速鉄道の路線にあります。
高速鉄道で2時間ほど。
便利になりました。

こんなところに街中にいろいろな古跡がコンパクトにまとまった町があるとは、
まったく知りませんでしたー。
つれてきてもらったおかげです・・・。



歴史的には、


春秋時代、斉の宰相・管仲が戎狄に備えてこの地に城を築いた。
その後、戦国時代の紀元前414年に中山国の首都・于顧となったことが、最初の大きな軌跡のようです。
中山国は、北方の少数民族・白狄族の作った国だそうな。

漢代は景帝がBC3年、皇子・劉勝を中山靖王に封じ、以後世襲で17代、329年続く。

北魏の天興3年(400)、「天下平定」の意をこめて「定州」の名を初めてつける。

宋代は北方戦線の最前線だったため、重要都市として、優れた武将を多く赴任させたという。











まず最初に向かったのは、町のシンボル、開元寺の塔。


塔が建てられたのは宋代ながら、

お寺はすでにかなり前の時代からあったとのこと。

開元寺の前身となる七帝寺は、北魏の太和年間(491年)の建立。
隋の開皇16年には、七帝寺を正解寺と改名。
唐の天即年間(904—907年)に正解寺を開元寺と改名。


塔の創建は、宋の真宗・咸平四年(1001年)。


宋の初年、開元寺の僧・会能が天竺に仏典を探す旅に出かけ、
仏舎利を手に入れて持ち帰ったことより、その仏舎利を納める仏塔を建立したものである。


完成は宋の仁宗・至和二年(1055年)。
あしかけ55年がかかった。


 

 塔の遠景




 




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和[王申]少年物語14、明の宦官機構がそのまま内務府に移行

2016年06月23日 11時28分24秒 | 和珅少年物語
宦官が担当していた仕事は、
そのままほとんど包衣が担当することとなった。   

これまで明朝で宦官が司っていた二十四衙門は、「内務府」に組織され、
職員はほとんどを包衣出身者で固めた。

役所のあった場所も、まったく同じ紫禁城の西南角、咸安宮付近の一角である。
宦官が出て行き、包衣が代わりに入ってきた。


皇帝一家の生活に直接関わる日常生活を「七司三院」が扱う。
食べ物、着る物の調達、予算の調達などを行った。

着る物は江南に「蘇州織造」などの皇室直轄機関に作らせる。


明代には、まさに宦官が管理していた機関である。
織物を作るだけではなく、民情を探り、皇帝に密書を書くスパイの役割を果たしていた。
このようなあまり表沙汰にできないような隠密行動は、数世代前から馴染んでいる包衣に任せるのが安心できたのである。

『紅楼夢』の作者、曹雪芹の家族は包衣出身で何代にも渡り織造を勤めたことで知られる。

曹雪芹については、以下の過去ログも参考に・・・。

 清の西陵14、雍正帝の兄弟の末路⑩、十五子)胤[ネ寓]の場合、その二、李煦のいとこ
 清の西陵15、雍正帝の兄弟の末路⑫、十五子・胤[ネ寓]の場合、その四、実は曹雪芹の親戚
 清の西陵16、雍正帝の兄弟の末路⑬、十五子・胤[ネ寓]の場合、その五、李曹家と皇位争いのもう一つの関係

このほか、大きな予算が動くポストである河道監督(黄河などの治水を見る)、税関などは、包衣で押さえることが多かった。

 

 元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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和[王申]少年物語13、 9万人の宦官を1/10までリストラ

2016年06月21日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
――第一、言葉も習慣も違うのに、気持ち悪いわ。
もしかしたら、それが一番の理由だったかもしれない。
 
紫禁城に残っていた、九万人もの明の宦官を無用と感じた由縁である。
 

清初、京師(北京)に入城したばかりの満州族は、
漢人とはまったく別世界の異星人と言ってよく、両者の文化の違いはあまりにも大きかった。

言葉も違えば、生活習慣や服装、食べるものも違う、体臭でさえもまったく違った匂いがしただろう。

このため順治初年、満人と漢人のトラブルが耐えない。
当初は京師城内に満漢が雑居していたのが、その後漢人の居住を禁止せざるを得なかったのも、
生活習慣の違うもの同士が隣り合わせに住むと、いらぬ争いごとが耐えないからである。

同じように八旗軍が駐屯した全国の地方都市でも別個に「満城」を作り、雑居しないことを基本方針として貫いたのである。
 
それと同じように、いくら宦官らが
――ご奉仕させていただきます。
とかしこまったって、満州人側では非常に居心地が悪い。

腹心として使ってやってください、と言われても、
当時の満人は漢人にすぐに心を開けるものではない。

満人にとって、彼らは生殖能力を失った特殊な集団である前に、
漢語しか解さず、漢人の服を着て、漢人のものを食べる、ただの漢人でしかない。

数代前から半ば「満化」している包衣らの気安さとはわけが違う。



こうして清朝は、後宮で女性たちの身の回りの世話をする部分のみを残し、後の宦官はすべてお引取り願った。

明代には九万人いた宦官を九千人、十分の一に削減したのである。



 
   
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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和[王申]少年物語12 明代の宦官の活躍ぶり

2016年06月20日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
明代から紫禁城に残っていた宦官らは、
政権が変わっても自分たちが必要とされる仕事の需要には変わりがないので、当然使ってもらえるものと思っていた。

主人が変わっても、普通の人間ではできない大事な役目。
――後宮の皇后様、お妃様たちの身の回りの世話をするのは、生殖能力をもたない彼らしか適さない。

これは確かに最もである。
しかし後宮の女性はいくらもいないから、九万人も必要はない。

明代の宦官の活用は、中国史上でも最大だったと思われる。
官公庁のあやゆる事務仕事、軍事監督、秘密警察に至るまであらゆる任務を担っていた。
そんな仕事のためになんで去勢が必要やねん、と言いたくなるくらい・・。


その理由:

 1、子孫を増やせないため、一人でできる贅沢、手に入れる権利は知れていること。
 2、特定の一族が権力を独占する心配がなく、皇帝ご一家御用向きの大切な事業を任せるには安心。

皇室直轄の織造局、炭鉱などの管理も宦官がやっていた。
そのほか大切な買い付け、隠密のご用達は、すべて宦官が責任を持ち、皇帝と秘密を共有していた。


しかし新たに紫禁城の主になった満州族は、
――うーむ。そういうことは、すべて包衣で済むではないか。

素直にそう感じたらしい。


実際、これまで皇帝個人の家庭向きの買い物、家事はすべて包衣集団がまかなって来た。

彼らには生殖機能はあるが、同じ一家の包衣の男女が結婚して子供を産み、
その子供もまた包衣になるだけのことである。

財産分散の問題は存在しない。


 
 
 
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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和[王申]少年物語11 包衣階級の成立

2016年06月19日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
和[王申]の母校、咸安宮官学は、雍正帝が行った一連の教育改革の一環として建てられた。
当初は満州族の学校ではなく、内務府「包衣」の子弟のための学校として発足したことは前述のとおりである。

「包衣」について、何度も出てきているが、しつこいながら(笑)改めて総括しようと思う。

満州語の「ボーイアハ」、家の奴僕を指す。
多くは、満州族が北京入りする前、満州の地で漢人の戦争捕虜や普通の農民を奴隷にした者たちである。

彼らはそのまま代々仕え、「内務府包衣」は、その中でも皇帝一家に仕える人々をいう。
奴隷とは言え、人間数十年もともに暮らしていれば、他人にはない信頼関係も生まれてくる。

主人である満州族が奴隷の漢人の言葉を覚えるわけはないので、
そこは当然、長く仕えるうちに包衣の方が満州語を覚えるようになってくる。


覚えなければ罰せられるわけではないが、覚えれば主人と精神的に深い会話をすることができ、かわいがってもらえる。
覚えた方が生きるのが楽であれば、人間は自然に努力するようになるものである。


言葉だけでなく、思考回路や生活習慣まで次第に満州に合わせるようになる。
漢人でありながら満州族の言葉と文化を深く理解し、漢語も忘れていない者どもの集団、
---それが「包衣」集団を形成する。

明との戦争が次第に拡大してくると、彼らは自然と「橋渡し役」となった。
新たに捕虜となった漢人に対する通訳、降伏条件の交渉などの通訳を務めるのは、
満州の武将らに昔から仕えているこれら包衣らであったろう。



清の首脳部が紫禁城に入ったとき、明王朝の宦官が九万人も残っていた。
外地に赴任していた宦官らも多かったので、全員が紫禁城にいたわけではないが、この異様な巨大集団を見て、清の朝廷は困った。

――この連中をどうしよう・・・・と。




元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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和[王申]少年物語10 咸安宮官学へ

2016年06月17日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
十歳を過ぎた頃、和[王申]は弟の和琳と共に、(かんあんきゅう)官学に入学する。
雍正帝が、雍正六年(一七二八)に建てた高級官僚子弟のための学校である。

場所は皇城の中の西華門、
当初は内務府に勤務する高官の子弟たちに
満州語、漢語、モンゴル語、騎射、火器(火薬を使った武器)の扱い方などを教えた。
 

創立当時の学生は内務府三旗の子弟に限られていた。
内務府は皇帝一家の個人的な用向きをこなす官庁であり、今で言う宮内庁のような役所である。

「内務府三旗」付けとは、つまりは包衣籍(漢人を中心とした奴隷籍)の子弟のみ、ということになる。
皇帝直属の「上三旗(正黄旗、鑲黄旗、正白旗)」に属する奴隷籍の人は内務府の管理扱いになる。


雍正六年に咸安宮(かんあんきゅう)官学が創立された当初は、
この内務府三旗の包衣子弟の中から優秀な学生を選んで入学させた。


和[王申]の一家は満州正紅旗に属し、包衣籍ではないから、この時点では入学資格はない。
包衣は奴隷なので、身分はもちろん一般の満州族より低い。

後に和[王申]を貶め、包衣籍の「賎民」出身という伝承が広がったが、
それはこの出身校が元々、包衣子弟対象から始まったことを根拠としている。

もう一つには、和[王申]が後に包衣籍出身の高官・英廉の元に入り婿したこととも関係があるとも思われる。


 

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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和[王申]少年物語9 劉全の少年時代

2016年06月15日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
和[王申]兄弟は、複雑な家庭環境の中で、疎んじられた存在だった。
使用人らも利に聡い、立ち回りのうまい人間なら、和[王申]兄弟に肩入れしようとは思わないはずだ。

そんな中、劉全は小さい頃から、和[王申]と強い信頼関係で結ばれた下僕だったという。

劉全自身がかなりの嫌われ者で「同類相憐れむ」存在だったのではないだろうか。
・・・・と勝手に妄想を膨らませてみた(笑)。


人とのコミュニケーションのとり方が不器用で、すぐ他人とトラブルを起こし、
特に主人格の人間にうまく取り入ることができず、いつも逆らっては罰せられていた少年。

それがエスカレートすると、
ますます自己防衛のために鋭い刃物のような目を爛々とさせたような、手のつけられない暴れ者になっていく。

同じ奴僕である劉全の父親がいくら殴っても言うことを聞かせられない、
すべての人間につかみかかるような輩だった--。

そうでも解釈せねば、説明がつかぬように思えた‥‥。



和[王申]はそんな生き方の下手な劉全に自分に相通じるものを見出したことだろう。

こうして和[王申]兄弟と劉全は、少年時代から互いに助け合い、かばい合いながら成長していく。

 
 

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。正面看板。




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和[王申]少年物語8 家奴の劉全との出会い

2016年06月13日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
ここに、和[王申]兄弟にとって生涯協力者となる青年が登場する。
家奴(かぬ)の劉全(りゅうぜん)である。

のちに和[王申]が権力の座につくと、和[王申]の汚れ仕事を一手に引き受け、
八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍をする。

和[王申]に官職を世話してもらうときの賄賂、訴訟で勝つための賄賂など、さまざまな贈賄の窓口は、すべて劉全である。
和[王申]が出資して経営する質屋、高利貸し屋、鉱山、不動産、荘園などの経営もすべて劉全が采配する。
---和[王申]家の執事になるような人物である。
 
これだけの大立ち回りは、やくざの親分のように荒くれ者どもを取りまとめるような才覚がなければ勤まらない。
 
「家奴」は、主人に身柄を拘束された奴隷の身分ではあるが、それだけに主人との絆は深い。

元々は満州族が漢族の農民を拉致して奴隷にしたり、
戦争捕虜を各兵士に奴隷として分け与えたことが起源となり、その後代々満州族の各家庭に仕えてきた人々を指してそういう。

満州語の音を取り「包衣(ボーイ=家奴)」とも言い、このブログでも度々、登場してきた。

包衣に関しては、
  清の西陵14、雍正帝の兄弟の末路⑩、十五子)胤[ネ寓]の場合、その二、李煦のいとこ
  清の西陵15、雍正帝の兄弟の末路⑪、十五子・胤[ネ寓]の場合、その三、王氏と李煦の関係
  清の西陵19、雍正帝の兄弟の末路⑯、十七子・胤礼の場合、母は包衣の宮女出身
  清の西陵20、雍正帝の兄弟の末路⑰ 十七子・胤礼の場合、明代の宦官と清代の包衣

  包衣だった墓守りたちの集団記憶喪失 (清の東陵8・あんてぃーく倶楽部)

を参考にされたし。

上記では、家奴の中でも特に皇帝一家の家奴のことを説明しているが、それ以外にも各家庭にもそれぞれ家奴がいたということである。


本来は社会の中でもっとも身分が低い集団でありながら、時には特権階級の満州族にあやかり、大きな権力を手にした。

家の中でもっとも軽んじられた和[王申]兄弟と一蓮托生の契りを結んだ劉全というのは、普通の青年ではなかったように思える。
和[王申]と弟の和琳は、先妻の遺児という複雑な立場にあった。
一家の采配を握っている後妻にとっては、目の上のたんこぶだろう。

もちろん家奴の立場で奉公する主人を選べるはずはないだろうが、
強い絆があったからこそ、出世しても運命を共にせんと主人から寵愛を受けたと想像できる。

実際、和[王申]には異母兄弟がいたはずだが、史料を見てもとんとその軌跡は伝わらない。
つまりは自分が出世しても、同母弟の和琳以外は、一切目をかけず、放置した
--甚だしきは、暗に迫害したかと思われる。

もしこの継母が少し心の広い人物で、自分の子もなさぬ仲の先妻の子も同じように育てる力量があったとしたら、
未来の軍機大臣、和珅は誕生していなかっただろう。

和[王申]のスピード出世は、内に秘めた燃え盛るような怨念を駆動させることにより実現している。
不自由のない、伸び伸びとした少年時代を過ごしたなら、そのような強い爆発力のあるエネルギーは沸いてこなかったのではないか。



元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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和[王申]少年物語7 父が福建で客死

2016年06月11日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
和[王申]の父は、武官として外地勤務が多く、年に数回も帰ってこれない。
その留守の間は、天下の吏部尚書・伍弥泰()(オミタイ)の娘である継母が家を采配していた。

その後この継母が男児を生んだため、わが子かわいさも手伝い、和[王申]兄弟への扱いは、余計に悪くなったに違いない。

悪いことに和[王申]九歳の年、父親が勤務先の福建で客死した。
さらなる不幸の追い討ちである。

それまではなさぬ仲の継母が家を預かっているとはいえ、父親の副都統としての俸禄は潤沢なものだったから、
和[王申]兄弟もあまり不自由はしなかっただろう。


それが父親の死後は、いくらかある荘園の小作代だけが収入となり、家計は悪化して行く。

継母は実家が吏部尚書まで務めた高官なので、時には実家に援助を求めることもできたろうが、それにも限りがある。
恐らく自分の娘直系の血縁者が不自由なく暮らす程度の援助はしたとしても、
「なさぬ仲」の和[王申]兄弟は、どうしても後回しになって行ったことだろう。
着るものも異母兄弟より粗末なものを与えられ、食べるものも差をつけられたに違いない。

そうなると、使われる召使いも和[王申]兄弟の担当になれば待遇が悪くなり、屋敷の中でも馬鹿にされて軽んじられる。
この幼い主人二人が、使用人からも軽んじられるようになり、異母兄弟からはいじめられる、というのは当然の流れである。

そんな状況を考えると、和[王申]は小さい頃かなりお金にひもじい思いをしたことが想像できる。
権力を握ってからの異常な金銭欲はこの幼児体験から来ているのではないだろうか。

これに対して、弟の和琳は天真爛漫なものである。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
と、泣きべそをかいていれば、基本的には兄が解決してくれる・・・・。

このために兄弟二人はまったく違う性格に育つ。

和[王申]が出世してからの軌跡を追っていくと、
兄があれだけ悪しざまに書かれ、恥も外聞もなく、富の収集に血眼になっているのに対し、
弟の方は、兄の七光りを受けて出世もさせてもらうし、豊かな立場につきつつも、
何か淡々と任務をこなしている。

兄とは違う印象--。

和琳は外部からの風当たりを兄が一身に引き受けてくれたために、心優しい穏やかな青年に育ったらしいのだ。
 
  

  元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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和[王申]少年物語6 継母との折り合いから

2016年06月09日 22時44分23秒 | 和珅少年物語
以上のように、和[王申]は満州貴族としてはかなり裕福で地位の高い家に生まれたと言えるだろう。
家柄は決して悪くない。

「小さい頃貧乏した」という話が広く伝わったのは、如何なる理由によるものか。
金銭への異常な執着心があったのは事実であり、
それが幼児体験が関係あるに違いない、という解釈らしい。

これには一理ある。

実は、和[王申]の家柄と父親の社会的地位は決して悪くなかったのだが、
両親を早くになくすという不幸があった。

和[王申]の生母は、河庫道員・嘉謨(ジャモ)の娘、
これまた家柄としては申し分ない。

河庫道員は四品の中堅ポストだが、実入りが多い。

清代、大河の治水には毎年八百万両という莫大な予算がかけられていた。
治水に関わる官職は何でも予算が豊富だったのである。

土木工事が絡むと関係者が潤うのは、現代も変わらない。

そんなエリート家庭同士の結婚だった和[王申]の両親であるが、
不幸にも生母は弟の和琳(満州名ヘリエン)を生むときに産後の肥立ちが悪くて他界する。

その後、父親は後添えとして吏部尚書・伍弥泰(オミタイ)の娘を輿入れさせた。

尚書といえば大臣クラス、今度はさらに家柄のいい所の娘をもらったのである。

最初の結婚のときより男も出世しているので、さらに条件が上がったのだろう。
若いまだ駆け出しの武官の頃は無冠で戦場を駆け回り、継いだ三等軽車都尉(さんとうけいしゃとい)も大した爵位でもない。
少し出世した後で取る嫁の実家の地位が違うのは、自然である。

---これが和[王申]兄弟にとっては、不幸の始まりだった。
後妻が低い家柄の女性なら、本妻の子供にも一目置いてくれようが、
さらに高い家柄の家から来たのだから、ろくな扱いはしなかっただろう。


史書にそんな事実は書いていないが、和[王申]の偏った性格を見れば、その幼児体験は大体想像がつくというものである。


 


 元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。




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