いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

いよいよ『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』が出版されました。

2016年10月01日 07時42分11秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
 

ただ今、連載を続けている陳廷敬に関する話ですが、

初の翻訳作品『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』が、いよいよ出版されることとなりました。

 

康熙帝の帝師・陳廷敬を主人公とした歴史小説です。

私利私欲の亡者となり、蓄財に血眼になる他の官僚らをよそに、ひたすら清廉、率直をつらぬき、

その正直さ、率直さが、時には皇帝のご機嫌を損ねることがあっても、最後には皇帝の厚い信頼を勝ち取った人のお話です。

 

歴史小説ですが、軽快な会話に泣きあり、笑いあり。

気軽に読んでもらいたいなああ、と思っています。

 

『陳廷敬と皇城相府』の連載も合わせてお読みください。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
 本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!

    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる 
    3、陳家興隆の歴史的背景
    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
    5、わずか19歳で進士に
     6、内城『斗築可居』 宗祠
     7、内城 容山公府と世徳院
    8、内城 御史府
     9、河山楼と麒麟院
    10、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂
    11、G20でも同じことが・・・・
    12、東花園と康熙帝の政務場所『内府』、そして『小姐院』
    『紫禁城の月』の時代背景の理解に
    13、陳廷敬以後の『皇城相府』
    14、皇城村の立役者
    15、王岐山と陳廷敬その一  

 

過去記事も早見表を作っています。

   カテゴリー別 記事の早アクセス表

   各カテゴリーの内容紹介、見出しをまとめました。

 

*なお、本記事は、毎日、先頭に来るように更新しています。

 他の記事も2番目の記事として、更新を続けています。後ろを見てくださーい。

 

また中国在住の方で入手されたい方がいらっしゃれば、10月下旬、私が日本から現物を抱えて帰ってきます。

日本の定価で直接お渡しするか、中国国内で郵送すること、可能でーす。

個人的にメッセージをくださーい。

 

本日、東方書店さんが、ツイッターで紹介くださったということです。

東方書店ツイッター

ありがたいです!

 

なかなか手に入らない、というお声をいただきました。下記のメディア総研HPにて、取扱店が紹介されています。ご参照くださいー。

http://www.mediasoken-publish.net/news/hp0001/index.php?No=37&CNo=1

またアマゾンでも来週には、入荷されるそうです。お待ちください(汗)。

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『紫禁城の月』と陳廷敬16、王岐山と陳廷敬その二、大トラ退治

2016年10月01日 07時42分00秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
王岐山の激しい汚職官僚の逮捕劇を受け、マスコミではよくこんな言葉が紙面に躍った。
「ついにこれは大トラだ」
「ただのハエばかりつかまえて、ごまかすな」

すっかり流行語になっているトラとハエだが、実は陳廷敬も「大トラ」狩りにも関わったことがある。
 


--康熙年間、錚々たる名臣が内閣に名を連ねたが、大臣同士の派閥が乱立、派閥闘争は熾烈を極めた。

その中で保和殿大学士・索額図(ソンゴトゥ)と武英殿大学士・明珠(ミンジュ)の間の闘争が特に激烈を極め、
互いにそれぞれの利益網を形成し、牽制し合い、狂ったように汚職に勤しんだ。

二人の権勢を前にしては、官界の上も下も誰も声を上げる勇気のある者はいなかった。


……どちらの「大トラ」をどうするのか、については、本書を読んでのお楽しみ……。
ここでは詳しくは述べないとして・・・・。

すでに読まれてから、本ブログをご覧になっている方は、「ああ、この場面ね」とわかるでしょうし……。


 

この当時、陳廷敬はまだ文渊閣大学士のポストには昇級しておらず、
官位は二人には及ばなかったが、孤高を守り抜き、どちらの派閥にも属さなかった。


これについて、馬甫平氏は次のように言う。
「陳廷敬が大トラ打倒に加担したかどうかは、史料上には記載されていません。
 しかし本人の言動を通して、どういう立場を表明していたのか、推測することができます。
 それを皇帝の前で行った、ある講義の中で示唆しています」

--作者・王躍文は『大清相国』(日本名『紫禁城の月』)の中でこのくだりを極めて繊細な筆遣いで描写している。

 

このエピソードは、現代の「トラ狩り」にも大いに通じるものがある。

2014年7月29日、新華社は中央政治局の元常務委員、中央政法委員会の元書記・周永康に対して、
厳重な紀律違反の疑いにより、中央紀律委員会による立件審査を決定した、というニュースを発表した。

周永康は元々、中央最高決定層の核心メンバーであり、
中国政界で絶大な影響力を誇り、中国全土に利益ネットワークを擁する人物である。


さらには長年守られてきた「刑不上常委」(懲罰は常務委員に及ばず)、
「退休即安全」(引退すればそれ以上は追究しない)の慣習がある。



東紫苑記:

「刑不上常委」については、
つい最近、友人の福島香織嬢からご自身の最新著書をいただき、そこに説明があるので、引用したい……。



「中国きょうさんとうは有史以来、常に党内権力闘争を続けている。
 最大の権力闘争は文化大革命の背景でもあった毛沢東vs.劉少奇、林彪であり、
 改革開放後は、鄧小平vs.胡耀邦、趙紫陽およびその周辺の複雑な権力闘争のおかげで
 学生の民主化運動が激化し、あわやきょうさんとう体制が崩壊という事態にまでなった。

 この苦い経験を反省して鄧小平は、二度と党内を完全に分断するような、 
 指導者同士が息の根を止め合うような激しい権力闘争が起きないように
 集団指導体制という寡占独裁による合議システムを取り入れ、
 『刑不上常委』(政治局常務委員は刑事上の罪に問われない)という暗黙のルールを作った。

 『刑不上常委』とは、『刑不上大夫』という古典の言葉が元になっている。
 大夫とは周から春秋時代の貴族・特権階級に相当する地位であり、
 彼らは知識人として賢く礼を知っているので、たとえ罪を犯したとしても刑事罰に問われなかった。

 同様に、きょうさんとう貴族の政治局常務委員も、 
 党員としての礼節と智慧を持っているので、罪に問われない、というわけだ。」
 (『中国バブル崩壊の全内幕』宝島社、p185)



--周永康事件を調査する難度は、想像を絶するものがあった。
メディアの報道によると、周永康事件の捜査の過程中、王岐山は中央紀律委員会を率いて、
下から上に至るまで、海外から内地に至るまで「五大戦役」を戦い抜いたという。


  1、李春城、郭永祥等の「四川軍」直系の摘発。
  2、蒋潔敏、王永春を代表とする「石油派閥」の摘発。
  3、李東生等の公安系統官僚の摘発。
  4、冀文林、李華林を代表とする「秘書派閥」の摘発。
  5、周永康事件に関わる多数の親族メンバーの摘発。


最終的に中央紀律委員会が撤収した時、周永康は立件審査され、
「刑不上常委」(懲罰は常務委員に及ばず)の慣習が、完全に打ち砕かれたのである。


中国の古い諺に「打鉄還需自身硬」(鉄を打つには、それ自身が堅くなければ、打つこともできない)
という言葉がある。


陳廷敬はその点を完璧に全うした、と王躍文は言う。
「汚職を摘発すると同時に、道徳的に潔癖なまでに自身はクリーンで居続ける。
 だからこそ、汚職摘発の面で果敢に相手を取り締まることができるのです」



中国バブル崩壊の全内幕
宮崎 正弘,石 平,福島 香織
宝島社
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『紫禁城の月』と陳廷敬15、王岐山と陳廷敬その一

2016年09月30日 08時59分19秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
さて。
本日から、皇城相府からいったん離れて、少し違う話をしたいと思う。
また資料が整った段階で皇城相府に戻ることになるとは思うが・・・。

本日から『紫禁城の月』関連の新しいシリーズ。

************************************************

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』は、王岐山が部下らに強烈に薦めたことで、中国においてベスト・セラーとなった。

王岐山といえばこの数年、しゅうきんぺい政権の元で汚職摘発に大ナタを振るい、
「トラからハエまで」――大物も小物もいっしょくたに汚職官僚を次々と逮捕するために、
自ら先頭に立っている紀律委員会の書記である。

人に恨まれる役を敢えて買って出た結果、すでに幾度も暗殺の憂き目に遭いながら、その任務を遂行し続けている。

そんな自らの立場に重ね合わせ、「官たるもの、こうありたい」、
そして部下たちにも「おまえたちもこうあれ」という意味を込め、
自分と部下らを奮い立たせるための理想とした書……、ということになる。



……とは、聞いていたが、具体的にどういうことなのか、
そのあたりの事情がわかるSohu(中国語のポータルサイト)の記事があったので、
以下に本記事を中心に数回にわたり、中国のメディアにおける王岐山と『紫禁城の月』の関係を探ってみたいと思う。


ネタバレになる部分や、登場人物が錯綜する部分もあるので、私なりに順序も整理しつつ、まとめてみた。

本国における本書の意義、影響力を知るために少しでも助けになれば、と願う次第である。

王岐山の崇拝する汚職摘発の名臣:大清相国・陳廷敬(2014.12.19)









王岐山は元々、歴史専攻の出であり、若かりし日に西北大学歴史系(学科)を卒業、
陕西省歴史博物館の職員をしていたこともある。

歴史は興亡の鑑(かがみ)、官僚としての評価と名声について、
歴史を学んだ者ほどよくわかっている人間はいないだろう。



2007年末、王岐山が北京市市長から異動になった時、
別れの際に同僚たちにすでに王躍文の歴史小説『大清相国』(日本語題名『紫禁城の月』)を勧めていた。

小説であるため、フィクションはもちろんあるものの、
主人公であり、康熙年間の文淵閣大学士だった陳廷敬が、
権勢の絶頂にある大臣らを向こうに回し、幾人もの汚職官僚を摘発した。
「廉政(清廉な政治)史」上、欠かすことのできない人物であることは確かなのである。


文学作品の登場人物、歴史上の出来事への趣向は、
内面深くに沈むその人の理想を垣間見ることのできるヒントになる。

 
数年前に陳廷敬の巡視の物語を人に勧め、
今回は張英の故居を訪れた(東紫苑記: 張英も本書の登場人物ですな…詳しくは後述)・・・。

王岐山の注目する歴史上の名臣は、汚職を果敢に摘発する有能な人材であるとともに、
自身も勤勉かつ清廉の代表的人物だったことがわかる。

この2つの側面が、まさに王岐山の汚職摘発の方針に沿うものなのである。


北京市長から異動になる時、王岐山は同僚らに『大清相国』を推薦した・・・。
本書では陳廷敬が地方行政を巡察するくだりに大きな部分が割かれている。


陳廷敬のキャリアを総括すると、「吏治(官僚機構の管理)」に従事していた時間が極めて長いことがわかる。
吏部(人事、官僚の紀律管理を担う省庁)尚書(=大臣)を二回担い、
監察、弾劾、提案を職務とする都察院では、その責任者である左都御史を二回も務めた。

中国最古の監察機構である「御史台」は、後漢から始まり、その長官は「御史大夫」と称されたが、
明清代になると、「都察院制度」に改革された。


都察院では適切な御史を選抜し、皇帝が欽点(指名)、
皇帝の命を受けて地方及び各部門の監察を行うことになる。
一旦、官僚の汚職・違法行為が発覚すれば、御史には直接、皇帝に上奏して弾劾する権限がある。

全国の監察業務を統率し、各省の主政務官僚を監督することが、陳廷敬の職務の重点であったのだ。



--山西省陳廷敬研究会の副会長であり、晋城地方志弁公室に長年在籍していた研究員・馬甫平氏は、こう言う。
「陳廷敬は明末に生まれ、清初に生きた人です。
 当時、山西は『程朱理学』の影響を非常に強く受けていた地域であり、必然に陳廷敬もその影響を受けました。

 理学は数百年の発展を経て、理論上はすでに完璧な体系を整えていました。
 そこで理学思想の実践を強調する理学家が増えるようになりました。

 陳廷敬も同様です。
 理学では個人の道徳観念を強調します。
 つまりは官界で清廉に振る舞うこと、汚職官僚に対して、敢然と挑むことを強調しました。」



陳廷敬を語る上で、「理学」との出会いは、多くの資料に出て来る。
「理学」―― 別名:宋明理学、道学、宋学、程朱理学、性理学、朱子学、陽明学ともいう。

宋代の程顥・程頤(二程子)、朱熹が発展させた思想である。
自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、
自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。



--特に陳廷敬の生涯に三度の帰郷のうち、
最初の帰郷である康熙元年(1662)、母親の病気を受けての長期滞在では、
明代の理学大家・薛[王宣]の著作を手に入れ、深くその思想に傾倒した。

京師(北京)に帰るのも忘れて、長く山西に滞在しすぎた、ともいわれるほどである。




本書の中では、陳廷敬が二度、地方に出向いて、
現地の官僚と知恵比べの末、監察を遂行していく様子が描かれている。

……どの地方に、何を調べにいくかの詳細については、本書に譲るとして、ここでは詳しくは述べない。
 



ただ史実として、陳廷敬が次のような奏文を提出している事実がある。
題名は《請厳督撫之責成疏》
--総督・巡撫職の責任の厳格化の要請

「総督」は数省の経済と軍事の最高責任者(正二品)、
「巡撫」は各省の民政の最高責任者(従二品)、
官位としては総督の方が上ながら、巡撫とは直接の主従関係にはなく、それぞれが直接皇帝の采配に従う。


つまり本奏文は、地方高官の監督をきつくしろ、と言っている。
「吏治(官吏の管理)の要(かなめ)は、地方総督、巡撫等の高官の監督と責任追究の強化である。」
「上官が清廉であれば、官吏(現地で採用した下級役人)は自然と不正を働く勇気がなくなるというもの。
 上官が清廉でなければ、官吏が清廉であろうとしても、逆にそれもかなわぬ。」

当時の都察院では、必要な場合、特に御史を他の政府部門に駐留させるか、
または地方各省を巡視し、汚職官僚の摘発を行っていた。




---これは、現在の中央巡視制度と類似する部分がある。

 
2002年11月、「党の紀律検査体制の改革と整備、巡視制度の構築と整備」
が党の十六大報告に書き込まれた。

2003年8月、中央紀律委員会、中央組織部巡視組が正式に発足、
その後、中央巡視組は通常5年以内、つまり政府からの任期1回以内に31の省区市の巡視を行うことになる。

 

2012年、王岐山が中央紀律委員会書記に就任後、巡視制度には重大な変革がもたらされた。
巡視組では3つの「不固定」の試行を始めたのである。


  一、巡視組長の「不固定」: 
     中央紀律委員会では独自の巡視組長の候補リストを作り、
     組長はもはや「鉄帽子」(永遠に安泰・固定された職位)ではなくなり、
     毎回、そのたびごとに授権する制度に変えられた。


     中国行政体制改革研究会の副会長・汪玉凱は、
     これにより「人情の牌(パイ)」を打って物事を解決しようとする、
     巡視を受ける側の機関にとっては、「根回しが極めて難しくなる」と評論した。


   --つまり、監察を受ける前に、こっそりと責任者である巡視組長を接待したり、
   賄賂を贈ったり、人情に訴えたり、弱みをつかんで脅したり(ハニートラップで証拠の動画を取るなど)して、
   監察に手心を加えてもらうとか、見て見ぬ振りをしてもらう、ということができなくなる、という意味である。


   監察に来る巡視組長は、候補者リストの中の誰かに指名されるが、
   それが事前にわからないため、事前に手を打ちようがない、ということである。


  二、巡視の地区と機関の「不固定」: 
     巡視組が「一級沈む」(現任地における行状ではなく、前任地まで遡って調査する)。
     つまり監察対象となる指導者が過去にトップを務めたことのある地方に出向き、過去の行状を調査するのである。

     さらには銀行、住宅と都市と農村建設等の部門とも協力し合い、指導者の個人情報を抜き打ち検査し、報告する。


  三、巡視組と巡視対象の関係の「不固定」: 
     内部事情に詳しい関係者によると、
     王岐山は巡視組に対し、巡視方式の革新を宣言、「明察」(公然とした調査)をするとともに、
     「暗訪」(覆面調査)もしなければならない、と叱咤激励したという。




以上の巡視制度の改革は、腐敗の粛清を直接強化した。
2年もたたぬうち、中央紀律委員会では省区市(省、自治区、直轄市の総称)31ケ所への常規巡視を終え、
雲南省委員会の元書記・白恩培、湖北省の元副省長・陳柏槐等の多くの省・部(中央省庁)レベルの幹部を逮捕した。
すべては巡視中に問題がみつかったことが逮捕のきっかけになった例である。

 
2014年1月、王岐山は十八回中央紀律委員会三次全会で発表した作業報告の中で
「組織制度と方式方法の革新、専項(=特定項目)巡視の模索」を打ち出した。

「専項(=特定項目)巡視」の考えを提唱して2ヶ月以内に、
巡視組は科学技術部、復旦大学、中粮グループという3つの機関に対して、専項(=特定項目)巡視を遂行した。

2014年7月、一汽グループ(自動車製造の大型国営企業)に対する専項(=特定項目)巡視の中で、
一汽グループの元副総経理・安徳武の汚職事件、
一汽大衆(フォルクスワーゲン社との合弁会社=国営企業)の副総経理・李武の汚職事件等を取り締まった。


2014年11月18日、王岐山は中央巡視工作動員部署会で次のように指摘している。
即ち、専項(=特定項目)巡視の要は、「専」にある。
ある特定の事、人、下属機関、プロジェクト、専門予算のついたプロジェクトに対して、
ターゲットを絞って巡視することにある、と。



……これを『大清相国』の描写に当てはめると、
陳廷敬が山東、雲南の軍政長官を取り締まったことは、
すべてある種の「専項(=特定項目)巡視」として捉えることができる、と本書の著者・王躍文はいう。


現在、中央巡視組は、文化部(日本の文部省に当たる)、
中石化(=中国石油化工集団公司、大型国営企業)等の13の機関に対して、
今年の第三ラウンド目の巡視を行っており、巡視方式は、すべて専項(=特定項目)巡視の方式だという。



東紫苑記: 

……とおわかりだろうが、
本記事は陳廷敬(後半は張英も)の足跡と王岐山の足跡を交互に比べながら、文章の構成をしている。

それが個人を賞賛する記事であるか否かは、ここではおいておいて、
つまり中国の読者は、目の前で進む汚職摘発を400年前の出来事との共通性を踏まえながら、読み進めている……。
歴史小説でありながら、まるで現代の現象を見るかのようにとらえつつ……。



紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 上巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所
  
紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 下巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所
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『紫禁城の月』と陳廷敬14、皇城村の立役者

2016年09月25日 19時48分44秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

皇城相府には、立役者がいる。

80年代から30年に渡り、村のために奮闘してきた村の党委員会書記・張家勝氏である。

張氏の家系は元々、村の出身ではなかった。
祖父が河南から息子と孫を連れて移り住んできたという家の出身だ。

地元で高校を卒業する頃にちょうど80年代の改革開放の黎明期に重なった。

張氏は建設業に従事し、塗装の技術を習得すると、その後は独立し、
近隣の村々の家を一軒一軒営業して回り、塗装の仕事を取ってきた。
――村で最初の「万元戸」の誕生である。


その後、その人望と実力を買われ、まずは村の民兵連長に選ばれた。
1984年には、さらに村の委員会主任に選ばれ、皇城村数百戸を率いる立場になった。


当時の皇城村は人口700人余り、平均年収はわずか一人600元ほど。
張氏はどうしたら、村を豊かにできるか、と考えた結果、
すでに山西省のあちこちで採掘が始まっていた石炭に目をつけたのだった。

自分たちも炭鉱を開坑しようではないか、と、許認可の取得、地質調査、坑道の掘削に奔走した。
その結果、数年後には、年間生産量30万トンの炭鉱が安定稼働するようになる。
もちろん雇用などの面で村人を最優先に考慮した。
こうして村人の平均年収は一気に4000元を超えるようになった。



これは皇城村だけに限らず、山西省全体で起きていた現象である。

中国で「煤老板(メイラオバン、炭鉱経営者)」といえば、山西人のこと。
田舎者の成り上がり者の代名詞である。

それだけ石炭は山西に富をもたらした。

ただ皇城村の違うところは、経営に積極的に乗り出したのが、「村」という行政単位であり、
村の官僚が村人の権益を代表して経営に当たったことである。

こうして皇城村は、晋城界隈でトップ収入の村「首富村」に躍り出た。



1995年、張氏は村支部書記に就任。

この時には、村の炭鉱の年間採掘量は135万トンにまで拡大、順調そのものだった。

しかし張氏の頭にあったのは、「掘り尽くしたら、その後はどうすればいい?」ということ。
しかも村の美しい田園風景は、失われてしまった。
炭鉱により村の景観が一変したのである。



そこで注目したのが、村が出した清代の高官・陳廷敬とその屋敷であった。

張氏はこの遺産をプロデュースすることに力を入れ始めた。
1997年12月、陽城県委員会、県政府が主催し、全国の有名学者を皇城村に招待。
それまでほとんどその存在が注目されていなかった陳廷敬に関するシンポジウム『清代名相・陳廷敬学術研討会』の開催にこぎつけた。



その後、1998年から2003年までの間、村は石炭の採掘で蓄積したなけなしの資金を皇城相府の修繕に投入していく。
かけた経費は前後して合計1億元余り。

観光地として対外開放しつつ、徐々に進めて行った。



その中でも分岐点となったのが、ドラマ『康熙王朝』のロケ地としての誘致であった。

1999年冬、張氏は知り合いから50集のドラマ『康熙王朝』制作の話を耳にする。
そこで早速、プロデューサーへの接触を試み、皇城相府での撮影を売り込んだ。

制作側の条件は、受け入れ側も撮影のための資金を提供するというものだった。
その額280万元余り。

当時、村の蓄積をすべてひっくり返しても、それだけの資金を用意することはできないほどの大金だった。

当然、村の幹部以下、反対意見が多かった。
張氏はそれを一人一人説得して回り、ついに村民代表大会で可決させる。

最終的には、自己資金だけでは足りず、銀行からも借金をしてまで用意したものである。


調べてみると、『康熙王朝』の第16集に登場するというので、動画で確認してみた。

なるほど、康熙帝を出迎える大仰な行列や調度品のセットなど、確かにかなり大がかりである。
その一部を負担したり、室内の装飾を整えたりする費用に充てられたということだろうか。



280万元の大博打はどうなったか・・・。
壮絶、大当たりしたのである。

2001年に『康熙王朝』の放映が始まると、中国全土から皇城相府に観光客がどっと押し寄せた。

この年の観光収入は1500万元。
1999年の50倍にも当たる。
2008年の入場者数は60万人、観光収入は1億元にも迫った。


その後、村ではさらなる多角経営に乗り出し、今では製薬のほか、電気自動車分野にまで進出、
総資産12億元、従業員数4000人を超えるグループ企業を作り上げた。

2008年、村人の平均年収は3,1万元に達し、山西省の村単位では首位となった。
村民の80%の家庭にはインターネット、自家用車があり、98%が洋風の一戸建ての自宅を持ち、
医療保険・年金の適用率100%、という中国の農村部では驚異的な生活レベルを実現している。


そんな「村おこし」と呼ぶには、あまりにもスケールのでかい・・・・興しに興したり、という張家勝氏だが、
残念なことに2015年12月、交通事故で亡くなった。享年59歳。


















この光景には、大うけである(爆)。

この二人は、銅像のコスプレ。


中国の観光地を回ったことがある人には、わかるだろうが、
中国には、この手の銅像があちこちにおいてある。

昔の手作業を模したもの、昔の装束を着た人、人力車・・・。
皆、いっしょに並んだり、上にまたがったり、ぶら下がったり、
・・・かなり荒っぽいことをして、記念写真をする。


荒っぽいことをされるのは、最初から想定内だから、・・・だから銅製なのである!!
少々のことをされても、びくともしないくらい頑丈なもの!

それくらいの耐久性がないと、中国人の観光客相手には、ご奉仕できないというものである。


・・・そして、この二人は、それをパロディった、生きた人間の銅像コスプレ。

いやああ。シュールすぎて渋いわああ。
訝しげに覗き込んでいる兄ちゃんの表情も秀逸でっす(爆)。













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『紫禁城の月』と陳廷敬13、陳廷敬以後の『皇城相府』

2016年09月24日 11時15分29秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

最後に皇城相府のその後の物語を紹介したいと思う。


・・・・そもそも『皇城』とは、清代でいえば紫禁城のもう一つ外をぐるりと囲む城壁のこと、
その中は紫禁城と同様に一般人が立ち入ることのできない『禁地』である。

地方の田舎町にそのような名前がついているとは、どういうことなのか。
いくら陳廷敬が帝師だったからと言って、あまりにも僭越なのではないか、と考えるのが自然である。




次のような俗説もある。

即ち、陳廷敬が母を北京に呼び寄せたいと願ったが、
年を取っての移住を億劫に思う母が同意してくれなかったため、故郷に『小北京』を作り、孝行した・・・・。

しかし陳廷敬の建てた『外城』の創建時期は康熙42年(1703)、
母・張氏が亡くなったのは康熙17年(1678)と遥か前である。
その当時、陳廷敬はまだ翰林院掌院学士・兼・礼部侍郎という二品官でしかない。

あまり偉そうなことをやらかすことができるような高官でもなかったのである・・・・。



真相は、陳廷敬の死後、村人が『小北京』として、
屋敷を自慢に思う気持ちから、確かに雅称として『皇城』と名付けたかった・・・。

しかしいくらなんでも僭越に当たり、お縄になること必須なので、仕方なく『黄城』と呼んでいた。
その後、清末になり、政権の力が弱まると、次第に『皇城』と名乗るようになった・・・ということらしい。



陳家は、乾隆年間に挙人を二人輩出した後は、衰退してゆく。

前述のとおり、山西は元々、科挙の合格者を多く出す地域というわけでもなく、
官界は南方勢が中心となっていく。


清末民初には、皇城相府全体がうらぶれていった。

さらに新中国成立後は、政治運動の中で、
ご多聞に漏れず、この壮大な資本主義の遺産も打倒の対象となり、
陳氏の後裔の人々も身を縮めて生きることとなる。

・・・・特に文化大革命になると、破壊の嵐が吹き荒れた。

康熙帝の真筆『点翰堂』の扁額は、引きずりおろされてかち割られ、
陳廷敬の肖像画は跡形もなくどこかへ消えてしまい、陳廷敬の墓も暴かれた。



80年代になっても、まだ農家の石炭置き場、ブタ小屋の横に置かれているものがあった。
――それは今、皇城相府の入り口の『午亭山村』の左右に置かれている対聯。康熙帝の真筆。

  春帰喬木濃蔭茂  
  秋到黄花晩節香

    春風が吹き、喬木が高く濃く茂る。
    秋霜が降り、菊の花が咲いて、その晩節が香る。


・・・・康熙帝が陳廷敬の死の一年前、康熙50年(1711)に贈ったと言われる。



かつての栄光と文化の薫陶高い屋敷は、石炭と養豚の農村の一家屋となり果てていた・・・。
中国全土で見られた光景である。


90年代初めでも、皇城相府の『点翰堂』の建物は、まだ牛舎。
中庭を鶏がコッコと駆け回っていた。























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『紫禁城の月』の時代背景の理解に

2016年09月22日 07時58分39秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』にまつわる連載が続いていますが、
本書の理解の参考になるのではないか、と思われる本ブログの過去記事を紹介したいと思いますー。


1、河北・定州2、貢院
 
 本書では、科挙受験の描写が詳しく登場しますが、
 地方の貢院がそのまま保存されている貴重な場所です。

 本書の本体の表紙に採用された貢院の写真もここで撮影しましたー。

 本書の中でもたびたび登場する「考藍」(受験生が試験場に持ち込む食糧や文物四宝を入れる竹籠)、
 カンニング・チョッキ(!!)、当時の受験生の実際の試験答案、答案を学政が採点した後の様子、
 史書の中の科挙合格者のページ(ずらりと見事に浙江、江南、江西の長江デルタ地帯の出身者が上位を占める!)
 などの実物があります。

 本書に出てくる科挙受験シーンを読む時、その光景を想像するための一助になれば、と思いますー。


2、清代、轎(かご)のお話

 これはこのシリーズ全体を読んでいただきたいですねー。
 本書を訳している途中、轎の話がよく登場するので、それを踏まえて調べ始めたものなので。

 特に「1、正陽門前の大渋滞」は、陳廷敬が毎日、出仕する時の様子を連想できるものかと思います。
 実際に引用している王士禎は、陳廷敬と完全に同時代の人。

 陳廷敬と詩才を争ったといわれる人物です。
 同じ漢族の科挙出身の進士キャリア組でもありますし。

 つまり、出勤の風景は、よく似たようなものだったと思われます。

  
3、清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路

 本書の後半に出てくる康熙帝の太子と康熙帝の微妙な関係・・・。
 康熙帝の皇子らによるガチンコの後継者争いを踏まえた内容ですな・・・。

 その30人近くいた康熙帝の息子たちは、最終的にどうなったのか・・・・。
 その気になるところを一挙にまとめてみましたー。


4、和[王申]少年物語

 まだ連載途中ですが、和[王申]の生い立ちの時代背景を探るシリーズ。
 和[王申]は、本書よりやや時代の下った、乾隆帝(康熙帝の孫)の時代の人ですが、
 それでも清朝という時代の理解には、いくらかは役に立つのではないか、と思われます。

 満州族の中堅世襲家系の若者、満州族の通婚関係など。。。





『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』  上下巻 メディア総合研究所








山西晋城・皇城相府。陳廷敬の生家。
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『紫禁城の月』と陳廷敬12、東花園と康熙帝の政務場所『内府』、そして『小姐院』

2016年09月20日 21時29分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

『点翰堂』から東を見ると、みごとな石刻のアーチ門が見えたので、
思わず誘われるように、そちらの方向にふらふらと向かう。


地図でいう『東花園』になりますな。




  


  





  




  
















北京の遺跡では、めったに見られないようなゴージャス、彫刻てんこ盛りな石刻を見て、
テンション上がりまくりでっす。




次に再び、『点翰堂』に戻り、さらに奥を進んで行く。

次の建物は、『内府』と呼ばれるエリア。

康熙帝の滞在時の生活空間となったところである。














北側の建物は、展示場になっている。
陳廷敬直筆の書状が残っている。






  




康熙帝の肖像画が、かかっているが、ここがかつては、大臣と政務の相談をする場所だったという。
康熙帝が去ってからも、そのままの状態で保存した。













次に、西の方にある『小姐院』に向かう。









  


『小姐院』は、陳家の未婚女性たちが暮らした場所である。
男性たちの目に触れないようにするために、ここから出ることは許されなかった。

正面の二階建ての建物に令嬢たちが住まい、東西の平屋には、女中たちが控えていたという。

女性たちのしつけを表すいくつかの表現がある。


  行不揺頭: 歩くときに頭を揺らさない。
  笑不露歯: 笑うときに歯を見せない。
  立不依門: 立つときに門にもたれかからない。
  座不顕膝: 座ったときに膝を見せない。


・・・本当のお嬢様というのは、立ち振る舞いも美しかったのだろう・・・・。


そのほかにも、将来、息子の科挙受験の勉強を見たり、夫と教養高い話のやり取りもできるよう、
男性と同じ儒教の古典の教養も教育された。























女性たちの刺繍



  









『小姐院』の南側には、庭園が広がる。

屋敷の外には一歩も出られない女性たちにとって、ここが唯一、散歩できる場所だったのだろう。











陳廷敬の孫にあたる陳静淵という女性がいた。
陳廷敬の長男・陳豫朋の長女である。

士大夫の家に生まれ、幼い頃から儒教的古典の薫陶を受けて育ち、
長じてからは、父親同士が友人関係にあった衛封沛の元に嫁いだ。

夫は科挙の初期段階に合格して貢生の資格を持ち、
二人の間には、息子が一人生まれた。

ところが、不幸にも夫はまもなく早逝。
やむなく息子を連れて実家に戻ってきた。



『小姐院』は未婚の若い娘が住む場所、
そのほかの各屋敷も、それぞれの家族が暮らしており、その家の男性がいるわけである。

このため、当時の習慣では、出戻った女性が他の家族と長く同じ屋根の下に住むことは好ましくないとされた。


・・・そのようなわけで、陳静淵が住まいにしたのは、止園の中の書堂であった。
(『止園』などの庭園は、残念ながら、カメラのトラブルで撮影していません)(号泣)


帰ってきてからも、憂いと病いに苛まれて、床に臥すことが多く、
結局、幼い息子をおいて、わずか23歳でこの世を去ってしまったのである。


まさに牢獄の中で過ごすかのように、限られた人間としか接触することが許されず、
移動の自由もなかった当時の女性というのは、生きる張り合いのようなものが、見いだせない人も多かったのだろうか。


いつも不思議に思っていたのは、康熙帝や乾隆帝の娘たち、---公主らの短命さである。

衣食足り、栄養不足には断じて思えないし、適切な医療が行けられなかったわけでもないだろうに、
なぜこんなに若くて死ぬねん、という疑問である。


康熙帝の成人した公主8人のうち、9女(20歳)、10女(26歳)、13女(23歳)、15女(19歳)の半分が若死に。
乾隆帝の成人した公主6人のうち、4女(23歳)、7女(20歳)、9女(23歳)、養女(26歳)、と実に4人が若死に。


その理由は、陳静淵と同じだったのかもしれない。
社会との関わりが持てず、生きる意味を見いだせなくなったことか。。。。

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『紫禁城の月』と陳廷敬11、G20でも同じことが・・・・

2016年09月19日 11時04分49秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

数日前、中国の杭州で幕を閉じたG20。
中国政府が威信をかけた国際首脳会議の開催に、戒厳令さながらの規制が敷かれたことが話題になったばかりである。

そんなG20関連のニュースを読んでいて、
「お!」
と目に留まった記事があった。


数日前のダイヤモンド・オンラインの記事
「中国がG20で見せた、世界で孤立したくないという本音」
の冒頭にこんな一段が出てくるのである。


「杭州サミット期間は西湖の畔にもほとんど市民が見えなかったでしょう。
杭州市民は約1週間の有給休暇をもらっていたの。杭州の戸籍を持っていれば、
 全国どこの観光スポットに行っても入場券が無料になるというサービス付きだった。

ただ、ルックスが比較的良い市民、
 特に党や政府関係の職場で働いている人間は半ば強制的に西湖の畔を散歩するように命じられたわ。
 私もその一人」

 杭州市人民政府で働く女性幹部が私にこう語った。



こ、こんなシーン、確か『紫禁城の月』にもあったような・・・・(下巻310頁)。


・・・・つまり、来客のために「俳優」の如く、エキストラを用意し、さも自発的に散歩しているように西湖の畔を歩かせる・・・・。
しかも見目麗しさが動員の選別基準とされている・・・・。


今も昔も、官僚がやることは変わっていないということか。。。
そしていつの時代もそれに振り回される庶民の悲哀は同じ・・・。

ご自身も官僚としての経験のある作者・王老師の作品の醍醐味は、ここにあると言える。
そしてこれは、日本人作家には、なかなか描けない内容だ。
肌感覚、実体験の違いは、どうしようもない・・・。

本書は今から400年も前の1600年代の「歴史小説」ではあるが、それだけのものとして読むのは、大変もったいない!

今の中国や中国の人々の考え方を理解する上でも役に立つ、中国的エピソードが満載なのである。


中国は科挙による完全な実力主義の官僚登用が確立した宋代の時点で、史学的には「近代」に突入した、と言われる。
一定の試験を経て選抜された巨大な官僚群による、皇帝の元での「合議制」。
そしてその官僚を中央から派遣して地方を治める「中央集権」。
・・・その基本的な体制が、今でもあまり変わりがないのである。

 


 

紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 上巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所

  

紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 下巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所







皇城相府

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『紫禁城の月』と陳廷敬10、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂

2016年09月17日 18時18分16秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

内城を後にする前に、『屯兵洞』を見ておこうということになった。

そこで山の手の方に上る場所を探す。


  



  





内城の山の中腹にある『屯兵洞』に到着。


ここは戦乱期、家丁(下僕)らを寝泊りさせるための宿舎。
合計5階建て、125部屋を供える。

いやあああ。

なかなかの迫力。

戦う本気度が伝わってきますな。


部屋同士は、つながっているものもあれば、いないものもある。
また上下階は、中で行き来できるようになっており、そのまま室内から、城壁の最前線に出ることもできる。

最上階は、山の手の城壁の中に作られており、
城外に向けて、狭間(さま、防護用の銃口を突き出す穴)が開けられているそうな。


東側の城壁は、山の中腹にあり、敵がもし裏山から攻めてきて、
山の頂上から石や弓矢を降らせてきた場合は、非常に不利になる。

そのため、山側の城壁には、瓦屋根がついた構造になっていたという。
石や矢が降ってきても、直接戦う兵士に当たることがないように・・・・・・。

もちろん、平和な時代が続くうちに、それはもはや必要なくなり、朽ち果てた後は、再建することはもうなかったのか、
今はもうすっかりその姿はない。。。。



   


   
   



ここでいったん、内城から出る。


内城と外城の間の通路を歩いていると、演目を終了させた役者の皆さんのお帰りに出くわした。








実は、朝9時だかに、入り口の駐車場前の広場で、
「康熙帝のお成り」を再現した「皇帝行列」の演目が催されていた。

それがみたい気もしたが、この日は、午後からも回る場所が目白押し、ゆっくりばかりもしてはいられない、ということで、
泣く泣くあきらめたのであった。

またこの演目が終われば、観光客がどっと城内に入ってきて、一気に芋を洗うような大混雑になるだろうことが予測された。
したがって「鬼のいぬ間に洗濯」とばかりに、行列の出し物の大音響を遥か遠くに聞きつつ、
我々は、見物に明け暮れていたわけである。


よくよく写真を見ていただければわかるが、行列の官吏の服を着ているのは、ほとんどおばさんである(笑)。
重要な、皇帝の役などのみに、プロの役者さんを呼んでいる。

官帽を目深にかぶり、衣装をぶかぶかに着て体型をごまかしている。
働き盛りの男性は皆、都会に出稼ぎに出ており、中高年女性の方が集まりやすいということなのだろうか。
とにかく、地域の雇用に貢献しているようで、けっこうなことかと思う(笑)。


  


  


道中の門構え一つとっても、どれも贅を凝らした彫刻が施してあり、ため息が出るわいな。


内城の北側を出たところで、外城の北側に少しだけ入る。












陳廷敬の功績の一つである、通貨制度の整備について、人形を使ったモチーフが展示されている。

このあたりの経緯については、『紫禁城の月 大清相国…』の中で生き生きと描かれており、
「おお。これですかい」
と興味深々である。




さて。ここで入り口近くまで戻り、外城の入り口に行くことにする。
・・・というか、実は何も考えずに夢中で突進して行ったので、外城から先にまわってしまったのだが、
本ブログでは、建築の年代順に追っていく、というコンセプト上、ここでようやく外城登場っす。




外城は、陳廷敬の時代に新たに作られた区域である。

平和な康熙年間後半、--康熙38-42年(1699-1703)。
戦争の心配のない時代に作られたため、防衛については、形式程度にとどめ、贅を尽くした造りになっている。







  

この門構えを見ただけでも、ゴージャスではないですかー。
陳廷敬のほかにも、兄弟7人が外地に官僚として勤め、せっせせっせと稼ぎを実家に持ち帰ってきた。

その後裔らも、清代中期までは、ぼちぼち高級官僚を輩出、
その他にも製鉄稼業で利益を出しているのだ。


大学士第『総憲府』。





別名『冢宰府』。
「冢宰」とは、宰相の別名。つまりは宰相にまで登り詰めた陳廷敬の邸宅、の意である。

一方、「総憲」は、都察院左都御史の別名。
つまりは、不正の告発官、悪と戦う正義の味方を象徴する呼び名。
陳廷敬本人としては、そういう自負を持って、自宅を名付けたということになる。



  











  


入り口を入って最初の建物が、『点翰堂』。

掛かっている扁額の文字は、康熙帝の真筆と言われる。
長年、科挙の採点官を務めてきた陳廷敬のことを表現した。


康熙帝は、洛陽へ行く道中、当時、服喪して故郷に帰っていた陳廷敬の邸宅に滞在したという。
『点翰堂』は、康熙帝が地元の官僚たちを謁見したり、
旅の道中、日常政務をこなすための事務所として使われた。

その状態をそのまま保存している。





こちらの文字も、康熙帝の真筆。












陳廷敬が公務で出かける時に組んだ行列に使う各種道具ですな。









東側の部屋。




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『紫禁城の月』と陳廷敬9、河山楼と麒麟院

2016年09月15日 08時13分34秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

内城の北側のエリアに行くと、『河山楼」が登場。

写真は、以下の過去記事と重複しますー。
あしからず。

また建設の経緯も以下の過去記事のとおり。


陳廷敬と皇城相府2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる



  


  


  

  売店にされてしまっています・・・。





『河山楼』の麓には、お酒の量り売りのお店も。





実は、ここのお店の話は、前日、陽城市内の同じようなお酒の量り売りのお店で聞いていました。


過去記事・定州12・明の城壁の最後でも触れている通り、
田舎町の甕入りの量り売りのお店というのは、偽物が少なく、安くてめっぽうおいしいものが多いものなのだ。

地元の、本物ののんべえしか買いに来ない、化粧箱もへったくれもあったものじゃない、
ペットボトルにギイコギイコと汲み上げるだけの酒に偽があれば、すぐにバレるというもの。


そんなわけで、こんな佇まいのお店を見つけたら、まずは入ってみたくなる。

  


  中に入ると、案の定、甕が並んでる並んでる。


  



  



しかもここは山西省。

それぞれの甕のお酒の名前を聞いていくと、有名な名前のオンパレードー!!

竹葉青酒、杏花村、[さんずい+分]酒、などなど、どこぞの唐詩で聞いたことがある名前がずらり。
しかもお値段は、1斤6元から。
そして味もまた、値段に不釣り合いなくらいレベルが高い!

・・・とまたしこたまさまざまな種類を買いこんでしまったのである。


名声にたがわず、その味は、前回、定州で買った地酒よりもずっとレベルが高かった!
皆、うまいお酒ですわ!



このお店の主人が、言っていたのだ。

「皇城相府はもう行ったか? え? 明日行く?
 それなら、中で同じように甕の測り売りをしている店があるから、見てみたらいいよ。
 あそこのお酒は、うちから出しているけど、値段は3-4倍はするからね。」


・・・というわけで、ああ、このお店のことでしたか、と合点が行ったわけである。

もちろん、皇城相府の中なので、そりゃあ、テナント代もうんと取られているんでしょうから、
当然といえば、当然の話ではないか。

ご商売、ご苦労様です!



・・・と酒の話ばかりしている場合ではない。


『河山楼]からどんどん進んで行きましょう。
西北方向に進んで行くと、『麒麟院』に抜けることができる。


  







またまた立派な日本語つきの説明。

『麒麟院』は、陳廷敬の祖父・陳経済の邸宅だったところである。
しかしその後は、北門に近いため、車馬の出入りに便利だという理由で、車馬の「駐車場」にされた。
馬やロバ、牛などの使役畜を麒麟に見立て、敷地内の装飾に多く取り入れたことから、この名がついた。











  




『麒麟院』から東=山側を見やると、上まで続く階段が見える。





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『紫禁城の月』と陳廷敬8、内城 御史府

2016年09月14日 12時05分56秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

内城を入って右手(南側)に見えるのが、『御史府』である。
陳廷敬の叔父・陳昌言の邸宅。

進士に及第し、江南学政まで務めた人物である。

元々の名前は『中和居』と言ったが、陳昌言が浙江道監察御史になって以来、『御史府」と呼びならわされるようになった。

 
  


  

『台諌清風』は、邸宅の主人を表現する。

「台諌」は、諸官僚の行状を監視し、告発することを任務とする「御史」という官職の別名。

つまりは、他人の不正を告発する「御史」自身が、汚職をしていたのでは埒が明かないわけで、
「御史」というのは、まず自らもが清廉潔白な人でなければ、世間が納得しない。

「御史」というのは、清廉潔白の代名詞のような存在であり、
事実、この邸宅の主人・陳昌言も世間からそのような評判を得ていた、と主張する四文字である。




  


  





その間取りは、弟・陳昌期の『世徳院』とまったく同じ。
兄弟二人の住居が、対を成す形になっているという。





現在、『御史府』は、「陽城生鉄冶鋳技術展覧館」として、展示されている。

陳家の家業であり、陽城一帯の主要産業だった鋳鉄技術に関する展示がされているということらしい。






お! 展示されているのは、今、中国人の爆買い必須アイテム、鉄瓶ではないですかー!

爆買いブームを受けて、鋳鉄の産地・澤州でも生産を始めたということですねー。

ルクルーゼ式の琺瑯コーティングの鉄なべ、ダッチオーブン式の鉄肌露出型の鍋、いろいろ揃っていますねー。
日本で売られている100スキやニトスキなんかは、すべて中国産なわけだから、
この『澤州鉄器』も日本に輸出されているのかもしれないですなー。







  




その昔の鋳鉄の工法が、パネル式に説明されていますな。





外では、大音量の民族風音楽に合わせて、機織りのパフォーマンス、進行中。




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『紫禁城の月』と陳廷敬7、内城 容山公府と世徳院

2016年09月13日 08時31分09秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

  

祠の西北にあるのが、「容山公府」。


陳廷敬のご先祖様の一人、陳天祐の屋敷。

陳天祐は、明の嘉靖年間の進士。
陕西按察副使まで務めた。

陳家で最初に進士に及第した人である。




 






  


康熙帝直筆の扁額。

陳廷敬が北京で康熙帝より賜った書を扁額に仕立てて
故郷の邸宅に飾ったものである。




次に祠から見て、東南にあるのが、『世徳院』。

陳廷敬の生家。
つまりは父・陳昌期の住まいだった院である。

創建は明の中期、大体、明の嘉靖年間から万暦年間といわれる。







   


一応、日本語の説明がすべてに入っているのが、すごい!

ここに日本人が一体、どれだけ来たことがあるのだろうか。。。。。






三階建ての主楼はなかなかの迫力。






一階が生活部分。
二階は蔵書楼。
三階は印刷刻版を保存しているために印書楼というそうな。








  




これが陳昌期の生活空間であり、陳廷敬もここで生まれたということでしょうなああ。












お庭では、手仕事のパフォーマンスが。
靴底に刺繍を施したりしている。






最も南側の端。

も、ものすごい細い隙間じゃ。




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『紫禁城の月』と陳廷敬6、内城『斗築可居』 宗祠

2016年09月12日 07時21分25秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬






陳廷敬が、科挙の試験を受けに故郷を出て行った時、
完成していた部分は、この「内城」の部分である。


ここが明末の動乱の際、最初に城壁で囲んだ部分である。
陳廷敬の叔父・陳昌言が『斗築可居』(住みながら、戦うことのできる住居)と名付けた。






  
  
これがその『斗築可居』の入り口。
門の上にその四文字が並ぶ。

創建当時は、ここが敵を出迎える最前線だったわけで、直立に切り立った壁が敵を寄せ付けない。






  


  


そしてこの鉄板の張り付けようの気合いの入っていること!!

実戦やる気満々感が、あふれております!
ハンパないです!

かっこいいー!!



・・・と鉄鋲に見惚れている場合じゃない。


内城の中に入ると、細い通路がまっすぐ続き、その突き当りに陳家の祠堂がある。
『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の中でも、陳廷敬が実家から出発する前に
家祠でご先祖様に供養を捧げてから出発する場面が出てくるが、
それがここですな。







  

祠(ほこら)の前の狛犬さん。
一般的によく見る、丸々とした狛犬さんより、スリムで珍しいフォルムだわ。



宗祠の中も四方を建物で囲んだ形式になっている。








  














ご先祖さまの位牌がずらり。



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『紫禁城の月』と陳廷敬5、わずか19歳で進士に

2016年09月02日 14時20分16秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
前述のとおり、陳廷敬は明の崇禎11年(1638)生まれ。
幼少の頃から、神童の誉れが高かった。

 
陳廷敬9歳の時の詩が伝わる。

『牡丹詩』

 牡丹後春開
 梅花先春[土斥]

 要使物皆春
 須教春恨釈

    牡丹の花は、春が終わってから咲き、
    梅の花は、春が始まる前に咲く。

  牡丹が最後に咲くのは、そのあでやかさで万物を皆、春にさせ、
  花たちのすべての春の恨みを解き放たんがため。


…子供が詠んだとは思えないような妖艶な詩である。


作られたのは、塾で出された課題だったともいう。
また牡丹が満開だった時期、父・陳昌期が近隣の士大夫仲間を集めて庭園で宴席を設けた際、
大人たちが陳廷敬をからかい、課題を与えたところ、上記の詩を詠んだともいう。

ほどなく塾の先生が、もう自分の手には負えない、と去って行った。
父・陳昌期は、兄の子・陳元に教えさせることにした。

陳廷敬の6歳年上のいとこに当たる。

陳元の父親・陳昌言は、崇禎7年(1659)に進士に及第して以来、
直隷楽亭知県から始まり、江南学政を歴任するまでの高級官僚としてのキャリアを邁進していた。

進士となって以来、故郷で過ごすことはほとんどなく、妻子を実家に残して赴任地での生活を送っていた。

陳昌期は、そのような兄の子供たちの父親代わりになり、陳家を守っていたのである。
こうして陳廷敬は、いとこの兄と父親の薫陶を受けて、勉学に励んだ。


順治8年(1651)、陽城界隈から挙人を10人も輩出したため、
「十鳳重鳴」と言って地元が大喜びしたことは、前述のとおりである。

陳元は、その「十鳳重鳴」の一人として、挙人に及第している。

しかしまもなく陳廷敬はこの兄をも、そして父親をも追い抜き、真っ先に進士に及第することになる。

陳元は順治8年(1651)に挙人に及第したものの、
進士に及第したのは、弟分の陳廷敬に遅れること2年経った順治16年(1659)、陳元26歳の年だった。

陳元もそのまま翰林院庶吉士となったが、惜しいことにわずか31歳で早逝する。



それは後の話である。

順治8年(1651)、13歳の年、陳廷敬は父・陳昌期とともに秀才の試験を受けに行った。
46歳の父もまだ科挙への応試をあきらめていなかったのである。

ところがこれまで厳しく勉強を教え込んできた父が受からず、若干13歳の息子が合格して秀才の資格を得た。
その後、陳廷敬は順治14年(1657)に郷試に及第して挙人となり、
そのまま翌年の会試にも及第して わずか19歳で進士となったのである。




  

  皇城相府


陳廷敬の少年時代に関するエピソードが伝わる。


一つは柿の葉に関する話である。

幼い頃より神童の誉れ高かった陳廷敬は、勉強と作詩は申し分なかったが、
書にはあまり自信がなかった。

せっかくの名詩も力強く美しい文字で書かなければ、台無しになるというものである。


ところがある日、父・陳昌期が久しぶりに息子が持って来た自作の詩を見たところ、
見事な書の上達ぶりに驚いた。

問い正すと、庭に柿の木があったので、柿の葉の裏で練習したのだという。

葉裏には繊毛がびっしりと生えており、墨がなかなか乗らない。

着実に筆に力を入れないと、繊毛の向こう側にある葉の本体まで墨が届かないのである。


その結果、筆に力を入れて書く訓練になり、
男性らしい、生命力を感じさせる書を書けるようになった。



  

  皇城相府 城壁の最上部にある祠。



陳廷敬の抜群の記憶力に関するエピソードもいくつか伝わる。

清初の中国の人口は6500万人ほどだったと言われるが、
その中で科挙の最高峰の進士に及第できるのは、4年に一度、わずか200-300人ほどである。
(この時期は人材不足のため、400人単位で採用していたとはいえ)

一生、受験勉強に励んでもめったに合格できるものではない難関に若干19歳でなってしまった人である。
これくらい超人的な話を聞かないと、納得行かないというものだ(笑)。


15歳の時だった。
ある日、陳廷敬は街を散策し、何の気なしに薬屋に入った。
番頭と雑談になったので、話をしつつ台の上にちょうど店の帳簿があり、帳簿をパラパラとめくっていた。

最後までめくり終えると、帳簿を閉じ、台の隅に寄せて話を続けた。

そこに突然、表の扉が開き、客が入って来た。
扉が開いた瞬間の空気の流れで突風が起きたかと思うと、帳簿が吹き飛ばされ、
ちょうどそばにあった火炉(ストーブ)の中に落ちてしまった。

慌てふためいた番頭が即座に火の中から救い出したが、なんと帳簿は2/3ほども燃えてしまっていた。
番頭は狼狽して店の中をうろうろと歩き回るのみである。

それを見て気の毒に思った陳廷敬が、
「ご心配なく。私が書き出しましょう」
というではないか。

番頭は驚いて聞いた。
「え。帳簿一冊分ですよ。」
「ええ。先ほど一通り目を通したので、たぶん再現できると思います。」

そうして書き出された帳簿は、本当に燃える前のものと寸分違わない内容だったとか。



 

  皇城相府 



また次のような話もある。

前述のとおり、陳廷敬は15歳で結婚した。

ある日、妻の王氏は、陳廷敬が外で「天下の書は読み尽くした」と大風呂敷を広げたと伝え聞いた。
王氏はそれを聞きとがめて夫に意見する。

「古今の書物がどれだけあるか、誰にもわからないのですから、
『読み尽くした』なんていい加減なことをいうのは、どうかと思いますよ。
 例えば皇暦ひとつにしても、あなた、読んだことがありますか」

陳廷敬はそう言われ、それもそうだ、と納得した。


皇暦はつまりは朝廷の欽天監が発行するその年の正しい暦である。
天文学的な動き、24時節などの季節の節目のほかにも、縁起のいい方角、禁忌内容なども書かれている。

政府が独占で印刷・発行・発売するため、民間で印刷することは長らく禁止されていた。
元代、皇暦の販売で得られる収入が、国家収入の千分の五ほどにもなったという。
・・・という中国文明の歴史が始まって以来、綿々と続く暦の記録である。

その歴代の皇暦を陳廷敬はどこからか手に入れ、丸々すべてを暗記したのだという。

後年、陳廷敬は進士に及第し、順治帝の御前に上がることになった。

順治帝がどこからか
「陳廷敬は皇暦をすべて暗記しているらしい」
という噂を聞きつけたらしく、当てずっぽうにある年を口にし、その年の皇暦を言ってみよ、と命じた。

すると、陳廷敬は一字一句も違わず、すらすらとよどみなく暗誦した・・・と伝えられる。



まるで聖徳太子がいっぺんに7人の話を聞きわけたとか、
弘法大師が両手で鏡文字と正文字を同時に書いたとか、
その類の都市伝説的な匂いがするエピソードではある・・・(笑)。


しかし世の中には、黙っていても頭の中に入ってしまうような天才体質の人がいるのは、
なんとなくわからないでもない。

科挙に及第する人というのは、こういうタイプなのだなあ、と
つくづく実感できる話ではないか。


  

  皇城相府 



陳廷敬は順治15年(1658)、北京へ会試の受験に向かう。

その際の道中のエピソードが残っている。

山西から驢馬車に乗って出発し、河南に入ったところで、
先方に大型の轎(かご)とそれに続くいくつかの小型轎の行列に出くわした。

どうやらえらいお大尽さまの行列に出くわしたようである。

御者が陳廷敬に
「追い越すのは、不敬に当たりますから、このまま後ろをついて行くしかありません」
と声をかけた。

それを聞いた陳廷敬は、血気盛んな年齢に加え、神童と呼ばれ続けて恐れを知らぬ性格もあり、
「天下の大道を、誰が通ってはいけないと言った? かまわないから追い越しなさい」
と命じた。

御者が驢馬に鞭を当て、轎行列を追い越そうとすると、
「どこの不届き者がふてえことをしようとしている?!」
と一喝する声が鋭く響き渡った。

さらには、屈強なる武者が数人、肩を怒らせてやってきた。
さすがの高慢な若者もこれには、まずいことになったとうろたえ、思わず答えた。
「山西の陳敬がここにいる」
と。

その名を用心棒どもが大轎に乗ったお大尽に報告に行った。
それはある武官のお偉方の行列だったのである。

なんと山西の神童・陳敬か、と相手はその名を知っており、
たちまち笑顔で轎から降りてくると、自ら挨拶をした上、宴席まで設けた。
 

宴もたけなわとなったところで、
武官はその神童の名声たるや、如何ばかりのものか、と試してみたくなり、詩のかけ合いを誘いかけた。


  両輪並進      両輪を並べて進んでも
  輪速不及轎快   その速さが轎に及ばないとはどういうことだ


陳廷敬の頭には、早くもその返句が浮かんだ。


  八爪斉下      8つの脚が揃って地面を這って進めば、
  輪速哪及轎速   車輪は、いくらなんでも轎よりは早いはず。


つまり驢馬車のくせして轎より遅いとは何事、
と自分たちが地位を笠に着て追い越させなかったことを棚に上げて嫌味な句をひっかけた。

すると、陳廷敬の方も「8本の脚」、――つまり一つの轎を背負う轎夫4人の脚8本を揶揄、
いくら地面に這いつくばっても、車輪の速さには勝てるはずがない、と皮肉を返したのである。


陳廷敬のみごとな瞬発力に満座の人々が、ぐうの根も出なかったとさ、
・・・・というこれまた都市伝説のようなエピソードである。











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『紫禁城の月』と陳廷敬4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻

2016年08月29日 07時30分08秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

陳家では、明の中期から徐々に政府高官を出し、
陳廷敬に連なるまで、すでに100年単位で伝統を築き上げた。

その功績が、皇城相府の入口を入ってすぐの二つの牌楼、大牌楼と小牌楼(奥)に連ねられている。


 大牌楼: 陳廷敬世代以後の功績
 小牌楼: 陳廷敬までの功績



  

  皇城相府のゲートを入ってすぐにまず飛び込んでくる大牌楼。








  一番下に「陳廷敬」の文字が確認できる。




 


裏側から見た様子。文字の内容は、表が最高官職名。裏が科挙の合格記録(功名)。






遠くの方に見えるのが、小牌楼。
  


まずは奥の小牌楼に書かれて名前を見て行こう。


合計6人。

 陕西漢中府西郷県尉・陳秀     :陳廷敬から六代前の祖先。明の正統年間(1439-1449)あたりのことかと思われる。
 直隷大名府滑県県尉・陳[王玉]   :陳秀の息子。明の弘治・正徳年間(1488-1521)あたりか。
 嘉靖甲辰科進士・陳天裕      :陳[王玉]の息子。陕西按察副使等を歴任。
 万暦乙酉科挙人・陳所知      :陳天裕の孫。虞城知県等を歴任。
 儒林郎浙江同監察御史・陳昌言   :陳廷敬の叔父(父の兄)。明の崇禎7年(1634)の進士。
 順治丁酉科挙人・陳廷敬

ええー。上記の内容は、書かれた文字のとおりではないので、あしからず・・・。
本来は表に生涯での最高官職。裏に功名(科挙の合格記録。進士なのか、挙人なのか、貢生なのかと言ったこと)が書かれている。
しかし写真が遠すぎて、文字が判別できないので、とりあえず手に入った情報内で概要だけ・・・・。

とにかく陳廷敬の6代前の始祖の陳秀が下っ端役人になってから丸々200年かけて、
ようやく宰相となるような人材を一族から輩出したことがわかる。


この小牌楼が作られたのは、清の順治14年(1657)。
つまりは陳廷敬が、地元の郷試で挙人に及第した時に作られたものである。
この直後に陳廷敬は、引き続き都に上って会試を受け、若干21歳で見事に進士にも及第し、出世街道をまっしぐらに進むのだが、
地元では挙人に合格しただけで、家では牌楼をおっ立てるこのフィーバーぶりだったことが伺える(笑)。



ご先祖様の軌跡は、次回に詳しく見て行くこととして、
次に入口の大牌楼の方の内容を先に見ておこう・・・・・・。

これは康熙38年(1699)、皇帝の詔を受けて陳廷敬が建てたものである。
真ん中の列の一番上には、「冢宰総憲」の四文字。


冢宰: 宰相の別称。百官の長。
総憲: 都察院左都御史の別称。官僚の不正有無を監督する都察院の長官が左都御史。
    陳廷敬が任命された官職の一つ。
    正義の人だったことを示す。


その下には、陳廷敬の曽祖父・陳三楽、祖父・陳経済、父・陳昌期が、
陳廷敬の功績を受け、朝廷から死後に追封された名誉職の名前が、ずらりと並ぶ。



牌楼の左右各列は、陳廷敬が吏部尚書(人事部門の大臣)に昇級した時点での
兄弟、子供、甥たちの功名が羅列されている。


左: 

 己亥科賜進士翰林院庶吉士・陳元         : 陳廷敬のいとこ。父の兄(陳昌言)の子。
 壬子抜貢国子監正候候補行人司司副・陳廷継    : 陳廷敬の二弟。
 候選知県改補府同知」陳廷愫           : 陳廷敬の四弟。
 征仕郎広東廉州府欽州州判候補知県・陳廷[戸衣]  : 陳廷敬の五弟。
 奉直大夫警部湖広清吏司郎中
  改兵部武庫清吏司郎中加一級・陳廷統      : 陳廷敬の六弟。


右:

 湖広岳州府臨湘県知県・陳廷弼          : 陳廷敬の七弟。
 甲子科挙人揀選知県」陳廷翰           : 陳廷敬の八弟。
 江南淮安府邳睢霊壁河務同知加一級:陳謙吉    : 陳廷敬の長男。
 甲戌科会魁賜二甲第十二名進士
        翰林院庶吉士・陳豫朋       : 陳廷敬の次男。
 丁丑会魁賜二甲第八名進士
        翰林院庶吉士・陳壮履       : 陳廷敬の三男。
    


陳廷敬の兄弟、子供たちのほとんどが官僚となり、各地で活躍していた事実を知ることができる。


彼らは現役中は、政府に命じられるまま、都や赴任先の地方を転々とするが、
どこかに根を下ろそうという気持ちはさらさらなく、
赴任先から余剰資産はせっせせっせと故郷に運び、引退すれば故郷で余生を過ごした。

そのような数百年、連綿と続けられた「送金」により、この荘厳な、都市のような大屋敷が出来上がったのである。

 

 

さて。
ようやく陳廷敬本人の生い立ちの話ができるところまでたどり着いた(笑)。

陳廷敬は明の崇禎11年(1638)生まれ、父・陳昌期の8男4女の中の長子である。
父・陳昌期は生涯に二妻三妾を娶った。
 

父の一人目の妻・李氏は、陽城県白巷里の人。
現地の素封家の娘だったが、子も産まぬままに早逝した。
 
二人目の妻・張氏が、陳廷敬の生母である。
陳廷敬を筆頭に六男三女を生む。
陳昌期の子供の3/4は張氏の出による。

9人も子供が生まれていれば、いくらほかに妾がいても
もう「私ももうお産は勘弁してほしいから、替わりにお勤めしてちょうだい」という域というものである(笑)。

絆の深い夫婦だったのではないか、と想像することができる。
 

張氏は沁水県(やや西に位置する附近の県)の出身。
明の万暦年間の進士・張之屏の孫娘、挙人・直隷威県の知県・張洪翼の娘。

また母方では、明の万暦年間の高官・王国光の孫娘にも当たる。
(陽城の城壁を建てた人物として、登場したとおり)
陽城界隈の有力家系の流れを存分に汲み、自身も高い教養を身につけた女性である。

 

このように同じレベルの家柄同士で通婚がなされ、
女性も高い教養をもち、子弟の教育に貢献していたことも窺える。

また完全なお見合い結婚というか、ほとんど本人の好き嫌いのわがままは通らぬほどの政略結婚でもあったろうが、
9人も子供を成すのだから、それなりに心の通い合った結婚だったのではないだろうか。



皇城相府



次に陳廷敬の兄弟の軌跡である。


 長男: 陳廷敬

 次男: 陳廷継
   以下を見たらわかるとおり、残りの兄弟は全員、中国全土に出払っており、
   数年に一度も帰って来れないような状況である。
   誰か一人は、両親の元に残らねばならぬ、と覚悟を決めたらしい。
   このため敢えて官僚にはならず、実家で親に仕え、家業を守った。

 三男: 陳廷[草かんむり+尽]
   妾・程氏の腹。州の稟生。稟生は生員の中の優秀者。19歳で夭折。

 四男: 陳廷[りっしんべん+素]
   貢生。武安知県。「陳青天」と呼ばれ、民に慕われた。
   「青天」は、北宋の包青天。大岡越前のような存在。正義の味方、よき役人の見本のような人物。

 五男: 陳廷[戸の下に衣]
   妾・程氏の腹。貢生。太原・平陽訓導、広東欽州僉判、湖広鄖陽通判、羅定知州などを歴任。

 六男: 陳廷統
   貢生。湖広民沅靖道、福建延建邵道を歴任

 七男: 陳廷弼
  貢生。臨江知県。[さんずい+豊]知州、粤東糧駅道を歴任。

 八男: 陳廷翰
  挙人。知県に任命されるも、赴任しないうちに33歳で死去。


こうして見て行くと、八男の陳廷翰が自力で挙人に及第しているほかは皆、貢生である。

つまりは科挙のごく初期段階の称号である「秀才」の中から選抜された者、という名目。

時代によっては、その程度の資格では下っ端役人にもありつけるものではないのだが、
どうやらいくらかお金を積み、さらに陳廷敬が政府高官だという「兄の七光り」を受けていくらかの官職についているらしい。


前述のとおり、この時代、南方の優秀な人材が大量に出仕ボイコットをしている中で、人材が不足していたという事情もあっただろう。
さらに陳廷敬という「保証人」がいることは、ある程度の抑止力になる。

不正を働けば、兄である陳廷敬にも害が及ぶからだ。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相』の中に登場する弟は一人だけだが、実はこんなにたくさんの兄弟がいたとは・・・!

おそらく作者・王老師は、わらわらとあまりにも大量の兄弟を登場させると、物語の主旨があらぬ方向に、ぶれてしまうので、ある程度はデフォルメされたものかと思われる。 

その当たりの手法もさすがー! 

 

さて。

小説の中で、このあまたの兄弟の中、登場するのは、誰でしょうか??

・・・それは、読んでのお楽しみー!

 



皇城相府



陳廷敬は生涯に二人の妻を娶った。

一人は山西の本家で両親と一族を守る本妻。
もう一人が、北京の宮仕え先で娶った妾である。

妾とはいえ、生涯のほとんどを北京で過ごした陳廷敬である。
本妻とは数年に一度しか会うことができず、
生涯のうち、ともに過ごせたのが、数年しかなかった本妻と比べると、
所謂「現地妻」であり、名目上は「妾」ながら、どちらがいいか、と言われると、微妙なところである。
(そんなことは誰も聞いていないって??)

それは陳廷敬の人生の成り行き上、そうなってしまったことであり、
若かった二人は、それを選ぶことも変えることも難しかったにちがいない。

何はともあれ内閣大学士にまで登りつめたような政府高官が、
生涯にわずか二人しか女性を娶らぬというのは、当時の中国社会ではごく珍しい事象だったに違いない。


本妻・王氏は、陳廷敬より二つ年下、
この界隈で最も出世した有名人、明代の礼部尚書・王国光の玄孫である。

陳廷敬の母親・張氏は、母方の家系では王国光の孫に当たるので、王氏は陳廷敬の母の姪
・・・・つまりは、陳廷敬のはとこに当たるということになろうか。

王氏は名家の令嬢だけあり、幼い頃より高い教育を受け、才色兼備と近隣では評判の少女だった。


一方の陳廷敬の方はといえば、
陳家は家柄こそは一国の大臣(尚書)まで務めた王家ほどの家柄ではないにせよ、
当主の陳昌言は今や江南学政を務めるまでの高官となり、
さらに王家の血を引く張氏もすでに嫁いでいる。

また陳廷敬本人は9歳で詠んだ『牡丹詩』、
13歳で合格した秀才の科挙試験などですでに近隣に「神童」の名が知れ渡っていた。


そのように二人は、互いに会ったことはなくても、
互いの名と噂はすでに何年も前から耳にしていたのである。


ある時、王氏は大人たちに連れられて陳家にやってきた。

通常、漢族の女性たちは、めったに外出もせず、自分の親族の男性以外と同席して顔をさらすことはなかったが、
女性同士の親戚づきあい、集まりには出かけて行くことがあった。

叔母が陳家に嫁いでいることもあり、母親たちに連れられて、
女性たちだけの集まりに伴をして参加することもあったのだろう。



  
  
  皇城相府 



王氏は大人たちに陳家に連れて来られた折、
大人たちがおしゃべりに夢中になっている間、一人で屋敷の探索に出かけた。

そこで自作の詩を吟じていた陳廷敬に行き会う。
思わず引き込まれて
「素敵な詩だわ」
と声をかけた。

「あなたが陳敬(元の名)ね」
陳廷敬は驚いて振り返った。
「どうして僕の名前を知っている」
「陳家の『童子第一』(童子の中で一番)を知らない人はいないわ」
「そういう君は王家の人だね」
「どうしてわかるの」
「僕の拙い詩作を聞いて、意味を理解できるのは、才色兼備の噂高い王家のご令嬢以外に考えられないからね」


・・・とは言っても、陳廷敬はこの日、
母方の張家、引いては母方の母系の王家の女たちが家を訪ねてくることは知っていたはずである。

男子はその場に同席はできないが、王氏が来ているかもしれない、
とは大方の見当がついていたものかと思われる。



二人は意気投合した。
陳廷敬は大胆にもこう吟じた。

 
 久聞王家出佳人
 王門佳人進陳門
 才貌双全人人愛
 喜鼓闘胆問春風

   王家に佳人あり、と聞いて久しい
   王門の佳人が、陳門をくぐった。
   才色兼備な女性を嫌いな人などいるはずがない。
   嬉しさのあまり、大胆にもその気持ちを聞きたいものだ。

 
王氏は聞くと、恥らいながらも自分も返礼した。

 陳家少的上有詩才
 詩句琅琅入画来
 耳聆目睹心翻浪
 仔細作媒春花開

   陳家の御曹司は詩才に優れている。
   詩の句が滔々と流れ出てまるで絵を描くようだ。
   耳をそばだて、目で見て心がかき乱される。
   詩才が仲を持って、春の花が咲こうとしているわ。
 
二人のこの様子を知った両家の大人たちは、願ったり叶ったりの縁ではないか、
と喜び、二人のためにこの縁談を嬉々として進めてくれたのであった。


・・・という話なのだが、私としては、上記の詩句にやや違和感を覚える。

何かというと、外国人の私にもわかるほどのごく単純明快な詩句が並んでいるからだ。
仮にも父親を抑えて先に秀才に合格し、数年後には全国の精鋭の中に名を連ねようとしている天才の作った詩にしては、
あまりにも子供だましすぎはしないか、という疑いである・・・。

もしかしたら、後世の人たちが想像して作ったものなのかもしれない。
ただ二人が詩作を通じて会話ができるほど、互いに教養高く、
思考レベルの高い精神的側面でつながれた夫婦だったことは確かなようである。

・・・・だとすれば、上記のエピソードも事実からあながち乖離してもいない、楽しい想像の場面なのかもしれない。



  
皇城相府 




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