いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

『紫禁城の月』がフジテレビ ホウドウキョク鴨ちゃんねるで取り上げられました

2017年06月20日 23時35分54秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
2017年6月17日にフジテレビ「ホウドウキョク」で
『紫禁城の月」が取り上げられました。


中国ベストセラー小説に学ぶ処世術…翻訳家・東紫苑さん





自分の二重あごにばかり目が行き、なかなか番組鑑賞に集中できませんでしたが、
それはともかく(笑)、

作品の世界観、現代とのつながりを詳細かつ細やかな映像で再現してくださり、
圧巻です。
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いよいよ『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』が出版されました。

2017年05月26日 08時29分04秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
 

初の翻訳作品『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』が、いよいよ出版されることとなりました。

 

あらすじとしては、康熙帝の帝師・陳廷敬を主人公とした歴史小説です。

私利私欲の亡者となり、蓄財に血眼になる他の官僚らをよそに、ひたすら清廉、率直をつらぬき、

その正直さ、率直さが、時には皇帝のご機嫌を損ねることがあっても、最後には皇帝の厚い信頼を勝ち取った人のお話です。

 

歴史小説ですが、軽快な会話に泣きあり、笑いあり。

気軽に読んでもらいたいなああ、と思っています。

 

「『紫禁城の月』と陳廷敬」の連載も合わせてお読みください。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
 本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!

    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる 
    3、陳家興隆の歴史的背景
    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
    5、わずか19歳で進士に
     6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
    7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院 
    8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
    9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院
    10、陳廷敬以後の『皇城相府』
    11、王岐山と陳廷敬
    12、王岐山と張英
    13、「号」に込められた意味
    14、隠居返上
    15、康熙帝、『湯座り』を勧める
    16、李光地にも『湯座り』を勧める
    17、李光地の病が湯治で完治
    18、陳廷敬、病に伏す
           19、陳廷敬の見送りには
           20、『紫芸[阝千]』
           21、高士奇の生い立ち
    22、高士奇、南書房に入る
    23、軍機処の前に南書房あり
    24、高士奇、起居注官に任命される
    25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺
    26、康熙帝が高士奇を寵愛した理由
    27、高士奇と金の豆粒
    28、高士奇の蓄財が悪評に
           29、康熙帝、西渓山荘に滞在す
   

 

『紫禁城の月』雑感とメディア動向

  2016.9.11.  『紫禁城の月』雑感、G20でも同じことが……
  2016.9.26.  『現代ビジネス』のコラム下に『紫禁城の月』を紹介

  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、日本語訳版を日本語勉強中のご子息にプレゼント
  2016.11.2.  『芸術新潮』2016年11月号に『紫禁城の月』の書評が載りました
  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、偽物に閉口

     2017.6.20.        『紫禁城の月』がフジテレビ ホウドウキョク鴨ちゃんねるで取り上げられました

過去記事も早見表を作っています。

   カテゴリー別 記事の早アクセス表

   各カテゴリーの内容紹介、見出しをまとめました。

 

*なお、本記事は、毎日、先頭に来るように更新しています。

 他の記事も2番目の記事として、更新を続けています。後ろを見てくださーい。

 

また中国在住の方で入手されたい方がいらっしゃれば、10月下旬、私が日本から現物を抱えて帰ってきます。

日本の定価で直接お渡しするか、中国国内で郵送すること、可能でーす。

個人的にメッセージをくださーい。

 

本日、東方書店さんが、ツイッターで紹介くださったということです。

東方書店ツイッター

ありがたいです!

 

なかなか手に入らない、というお声をいただきました。下記のメディア総研HPにて、取扱店が紹介されています。ご参照くださいー。

http://www.mediasoken-publish.net/news/hp0001/index.php?No=37&CNo=1

 

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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで9、「ハーン」の「皇帝」化

2017年05月26日 08時28分57秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
一方、中原の大帝国を維持するためには、騎馬民族の欠点である後継者争いによる政治機能麻痺は避けねばならない。
儒教思想に凝り固まった科挙上がりの士大夫らが、野蛮だ野蛮だとこれまたうるさく罵るのも、うっとうしい話だ。

そのすべての要素を丸く収めた案が、「太子密建」だった。

中原王朝のように早々と太子を立てて失敗した経験を生かし、今上皇帝の生前に後継者を公開することはやめたのである。
さりとて、兄弟が血みどろの骨肉の争いを繰り広げて政治が機能しなくなることは避けねばならない。

そこで現皇帝が死ねば、指名された皇子以外は誰にも権利がないことにする。
雍正帝が自らの苦い経験を踏まえて編み出した実にうまい案といえよう。


ともかくも雍正帝が血みどろの後継者争いの末に即位した話をしている。

中原モデルと草原モデルの板挟みになり、
多くの兄弟を幽閉したり殺したりせざるを得ず、自らも大きく心に傷を負った雍正帝。

そんなワーカホリックな猛烈熱血オトコが57歳で亡くなり、
その後を継いだのが乾隆帝である。


曽祖父、祖父、父の不安定な即位と比べると、乾隆帝の即位には何の障害もなかった。

まず雍正帝の十人の皇子のうち、雍正末年まで生きていたのは三人しかいない。
弘歴(乾隆帝の名前)は第五皇子ながら、上は3人の兄が夭折、
残るは兄が一人いるだけだったが、あまり優秀とはいえず、父帝からは尊重されていなかった。

これに対して、弘歴は幼い頃から優秀で祖父の康熙帝にも特にかわいがられた。
ライバルらしきライバルがいないまま、小さい頃から後継者となることを約束され、二十五歳という理想的な年齢で即位したのである。

父が制定した「太子密建の法」により初めて即位した皇帝でもある。



最も時代が下るに従い、清朝でも次第に中原型の長子相続の傾向が強くなる。
それは満州族の中原化が進んでいくバロメーターでもある。

清末の咸豊帝(西太后の夫)と恭親王の兄弟など典型的な例だろう。
二人は道光帝の息子として、本来なら平等に後継資格があったはずだが、長子であり「心根がやさしい」咸豊帝の方が後継者に選ばれた。

これはすでに中原入りして二百年を越していた清朝の皇帝にとって
「決断力」や「カリスマ性」はすでに必要でなくなっていたことの現れだろう。

それよりも「慈悲深さ」や「周囲を慮る心」、
つまり官僚群の上に「象徴的に君臨する」、立憲君主制に近い体制での皇帝の役割が求められるようになっていたのだ。

ところが、時代はすでにアヘン戦争以後の列強諸国との乱世に突入していた。
「心根のやさしい」咸豊帝では、まったく物の役にも立たず、
列強諸国に北京に攻め込まれ、熱河の避暑山荘に逃げ込んだ挙句、荒淫で自棄死にしてしまったのは、周知のとおりである。

結局、皇帝に選ばれなかった「騎馬民族的」な機動力を持つ弟の恭親王が北京に残って兄の尻拭いをすべて引き受けた。
やっと中原型支配体制に移行したと思ったら、また乱世が来てしまい、対応できなかった悲劇と言えるだろう。


************************************


以上、満州族という異民族が統治した清朝という王朝の皇帝の位置づけについての雑感でした。

これにてこのシリーズは終了です。




古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで8、雍正帝の「太子密建の法」

2017年05月23日 16時07分15秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
元々康熙帝の後宮には、親族関係を結びたい有力者の娘を入内させている。
その結果、皇子らの母方の実家はそれぞれ満州族の有力な勢力の利益を代表していた。

例えば、太子・胤礽の生母の実家は、建国初期の功臣・索尼(ソニン)、赫舍里(シェヘリ)氏、
長子・胤褆の生母の兄・明珠(ミンジュ)も飛ぶ鳥を落とす勢いの有力者である。

満州全体が、それぞれの皇子を応援し、当の康熙帝も浮き上がらんばかりの熾烈な謀略合戦を繰り広げた。


その熾烈な謀略戦争「九子奪嫡」の争いを最終的に勝ち残り、多くの謎を残して即位したのが、第四皇子だった雍正帝だ。
即位したはいいものの、ほかの皇子らからは激烈な抵抗が起こり、兄弟らを幽閉したり殺したりせざるを得なくなる。

北アジアのステップやツンドラの民の間では、ごく日常的に当たり前に行われていたことだが、
農耕文化圏内の中原でやらかしたから非難轟々である。

雍正帝は自分が如何に皇帝にふさわしい人物であるかを死ぬまで証明し続けなければならない羽目になった。
そのために昼夜分けぬ猪突猛進ぶりで政務に勤しみ、燃え尽きて在位わずか十三年で崩御する。

いわば過労死のようなものだ。


自らの悲痛な経験を再び繰り返さないため、雍正帝が決めた家法が「太子密建の法」である。

即ち、太子は立てず皇帝が次の後継者の名前を書き箱に入れて乾清宮の「正大光明」の扁額の後ろに隠し、
皇帝が崩御すればこれを開けて次の皇帝を公開するという方法である。


いわば中原モデルと草原モデルの折衷案である。
双方の短所を補い合い、譲れない部分を盛り込んだ苦心の案であっぱれと言わねばならない。

まず塞外の民として、
中原国家のように如何なる阿呆でもとりあえず長子を太子に選び据えるというのでは、どうしても具合が悪いのである。

前述のとおり、清朝の皇帝にはいくつもの顔があり、
中原王朝の皇帝であると同時に、満州族の大エジェン(皇帝)でもあり、モンゴル族をまとめる大ハーンでもある。

それは創始期に皇帝ホンタイジがチンギス・ハーンの直系の子孫に当たるモンゴル・チャハル部のリンダン・ハーンの正式な後継者となり、
その未亡人四人を自らの妻とした時から始まる。

清朝の軍事力の中心は、満州族とモンゴル族を中心とする八旗で維持するべきであり、
この馬上の民にいうことを聞かせ、命を張って戦ってもらうには、
どうしてもぼんくらエジェンではだめなのである。

満州族とモンゴル族の勇猛果敢なる塞外の民としての武力を維持するためには、有能な皇帝が必要となる。



  


古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで7、康熙帝の太子廃嫡

2017年05月20日 09時08分18秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
イスラム世界の権力交替を見てもわかるように、
騎馬民族社会では、人生最高の頭脳の働きを結集した凝縮度・集中度の高い数年しか、リーダーでいることが難しい。

カリスマ性・判断力が衰えてくると、途端に下から見放されて取り替えられてしまうのである。


そんな騎馬民族の体質を先天的に抱えたまま、康熙帝の在位は60年を超えることになる。
中原王朝であれば、皇帝がいくら長生きしようが、息子である太子は父親が死ぬまで、特にあせりも慌てもしない。

ところが、騎馬民族の社会ではどうもそうではないらしい。

一つは康熙帝の在位年数が長くなるに従い、リーダーシップ・凝集力が弱まったことがあった。

次に太子である方の息子にも「花の盛り」がある。
つまり自分が皇帝を譲られたときによぼよぼの爺さんになってからでは、周りがついてこない恐れがあるということだ。


騎馬民族出身の王朝では、よくある例といっていい。
例えばインドのムガル帝国は、モンゴルの継承者を自覚するトルコ系王朝として、
皇子らが兄弟同士で殺し合い、最後に残った一人が皇帝を継ぐという伝統を持っていた。

また息子が父親を退位に追い込み、帝位を奪うことも行われた。
皇帝アウランゼーブは、父帝ジャハーン・ギールを幽閉して帝位についている。


康熙帝が選んだ太子も不穏な動きを起こした。
父親が長生きしすぎて自分がいつになったら皇帝になれるのかわからない、といってみるかと思えば、
悪い面は中原の文化を率先して学び、江南の美女を買いあさって世間の顰蹙を買ったりする。

康熙帝にも中原の思考回路になりきれないところがあり、
一番優秀な息子ではなく、嫡子だというだけで本人の資質を考えずに無条件に選んだ太子なのに、
優秀なリーダーとしての資質を求めようとした。

不祥事が露見すると、怒って太子を廃止してしまう。

こうなると、もう中原モードもへったくれもない。
元の木阿弥、素のままの騎馬民族の本性そのままに戻ってしまった。

康熙帝は清朝で一番の子沢山、三十五男二十女を抱えたこともあり、
この数十人いる皇子らが一斉に色めき立った。

その取り巻きらの動きも激しくなった。






古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで6、遊牧政権と内紛

2017年05月17日 21時26分13秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
万暦帝の大臣たちは、
「太子を一日も早く決めないことは国家動乱の元、そんな国に生まれたわが王朝の民は不幸でございます」
とでも言っただろう。

誰だって人の上に立てば、下の者から慕われたいという名誉欲が湧くものである。
まずはそこのツボで脅しをかける。

……と一事が万事このような具合なので、
明代の皇帝などは、おいそれと自分の思い通りに政治を進めることができなかったのである。

「とにかく存在しているだけでいい。
 好きなご婦人とでもお戯れ遊ばせ」

というのが、明代の皇帝に求められていた役割であった。
政権を狙う反逆者が現れないために、そこに「いる」ことだけが求められたわけである。


ところが清朝の皇帝はそういうわけにはいかない。

つまるところ、満州族という異民族の政権が270年あまりも存続できた、その存在意義というのは、
中原の王朝にとってそれまであまりにもコストのかかりすぎた防衛問題を解決してくれたからである。

モンゴル族を中心とする北方遊牧民から身を守るために、
明朝は膨大な予算と国民の犠牲を払い、ついにそれが維持できなくなって崩壊した。

そのモンゴル族を丸め込み、有力者たちと婚姻関係を結び、モンゴル語も学び、
モンゴル人が深く信じるラマ教に皇帝自ら改宗までもし、
モンゴルの庶民を兵士として雇用して給料を払って、
侵入される代わりに衣食住を保障することで安全問題を解決したわけである。


……そんなわけで清朝の皇帝は、草原の民に向かっては「ハーン」でいる必要があった。

つまり遊牧民のリーダーとして上に立つ者は、ただの「象徴」では許されないのである。
名実共に命を預けるに足る実力者でないと、皆が納得しない。

遊牧政権の頭の痛い問題である。
常に「名実ともに命を預けるに足る実力者」をリーダーに掲げるため、
やたらと内紛が起きて、政権が自滅していく。

たとえば初期のイスラム集団のカリフの交代が、圧倒的に暗殺による本人の死でなされたことを思い浮かべてほしい。


康熙帝の治世後期に起きた十数人の皇子らによるガチンコの後継者争いは、
まさにそんな遊牧政権の典型的な内紛といえるのではないか。



  


古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで5、長子相続と「皇帝」というシステム

2017年05月14日 18時08分30秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
例えば、明代末期の皇帝・万暦帝は、
一番の寵姫である鄭妃の生んだ皇子・朱常洵(のちの福王)を太子にしようとして、
大臣や官僚らのすさまじい反対を喰らっている。

長子・朱常洛は身分の低い宮女・王氏が産んだが、まったく愛していない女性の子に愛着が湧かぬ。
愛する女性の産んだ息子をどうしても太子に立てたいがために、いつまでたってもぐずぐずと太子を立てなかった。

絶対権力を持つ皇帝なのだから、好きなようにすればいいではないか、
と思うかもしれないが、そうは問屋が卸さない。

官僚集団には各種の手練手管があり、
おいそれと皇帝の思い通りにならないようなシステムが出来上がっていたのである。

だからこそ万暦帝本人だって優秀かぼんくらか見分けもつかない幼年時に
さっさと太子に立てられそのまま皇帝になることができたのではないか、
優秀だから皇帝になれたとでも思っているのか、
国家の一挙一動を一人で決められるくらいの器と能力があるから皇帝になれたとでも思っているのか、

……というのが官僚集団の言い分だろう。


万暦帝が六歳で早くも太子に立てられ、十歳で即位していることを思えば、
資格に該当する皇子が五、六歳になった頃にさっさと太子に決めてしまうことが、
国家体制の安定につながるのである。

いつまでたってもぐずぐずと太子を決めなければ、
立候補者の周りに取り巻きができて陰謀を企て、内乱の元となる。

そこで官僚たちは、まずひっきりなしに上奏文を書き、国家の安定のため早く太子をお決めください、と催促をする。


それでも皇帝を無視を決め込むと、「世間」と「歴史」を使って脅しをかける。





古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで4、二つの身分を同時に

2017年05月11日 15時02分41秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
順治帝が20代前半であっけなく亡くなると、
残された数人の皇子の中から選ばれて即位したのが、康熙帝である。

即位の年は父親と同じ八歳、両親共に亡い孤児だ。

中原に入り、紫禁城の主となった満州族はこの頃から漢人を意識した意思決定を行うが、
康熙帝が後継者に選ばれたのは、まさにその生母が漢人だったからである。


元来、漢民族の伝統である長子相続や嫡子相続には、体制安定の目的があることは前述のとおりである。
皇帝は特別優秀である必要はなく、優秀な官僚らがこれを支える。

だからこそ国内が「三藩の乱」で乱れたとき、康熙帝は狩猟民族の伝統を捨て、
中原の伝統に従い、まだ幼かった嫡子を太子を立てた。

「三藩の乱」は、元々満州人に協力して天下を取ってきた漢人王らの反乱である。
その大義名分は異民族である満州人から中国を漢人の手に取り戻すというものだった。

そのタイミングで、本来は「塞外」(つまりは万里の長城の外、中原文化の薫陶を受けていない夷荻ということ)
の習慣にはない「立太子」宣言により自らの「中原化」をアピールし、中原の民たる自覚のあることを示したわけである。

この政治パフォーマンスは、「三藩の乱」平定、漢人の心を満州側に引き付けるために大いに効果があったと言われている。


ところが満州人自身の中では、これと別問題を抱えていた。

つまりは中原の漢族を支配すると同時に、自身の民族内の団結を維持することも同様に重要なのである。
さらに清朝の皇帝は、チンギスハーン直系の最後のハーンと言われるリンダン・ハーンの正式な後継者でもある。

ホンタイジがリンダン・ハーンを攻め滅ぼし、その四人の「ハトン」(妃)を
自らの正式な妃以下、第三夫人とまでした時から、その位置づけにある。

清朝の皇帝は、中原王朝の「皇帝」であると同時に、モンゴル族を中心とするユーラシアの草原世界の「ハーン」でもあるという
二重の身分と役割を担うようになった。


このように満州人のスタンダードは未だに「塞外」モード、狩猟民族モードのままであり、
つまりはリーダーとして上に立つ者は、名実共に命を預けるに足る実力者でないと、皆が納得しない。

康熙帝はその意味で満州人を率いるに十分な堂々たるリーダーであった。
「三藩の乱」を平定し、国内の情勢を安定させ、兵士らを叱咤激励するために毎年熱河で大規模な巻き狩りを組織、
自ら獰猛な虎にとどめを刺し、リーダーたる資質を兵士らに示した。

そんな典型的な狩猟民族の「実力派」リーダーの次の代から
いきなり中原型「ぼんくら秩序安定第一」モデルに切り替えるのは、やはり無理がある。


中国の皇帝制度は「絶対権力」、皇帝は思うがままに好き勝手なことができるような印象があるが、実はそうではない。

朝廷に経済的な余裕があれば、好きなだけ酒色にふけり、奢侈を楽しめたことは間違いないが、
政治体制や政治そのものに関わる問題となると、おいそれと思い通りにならないものだったらしい。

典型的な漢人王朝とされる明朝でも、皇帝がすべてを思い通り決めていたかと言えば、肝心なことはあまり思い通りにできていない。





古北口鎮。
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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで3、ヌルハチ以後も後継者決定は実力主義

2017年05月08日 15時02分41秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
清朝が征服王朝として独自の後継者選びシステムを完成させるまでの軌跡を追ってみよう。

時代を清朝の創始者ヌルハチの子供たちまで遡って見る。

ヌルハチは満州族をまとめた創始者であるから、
実力による台頭であることはいうまでもないこととして、
その息子たちは、複雑な要素が多く絡み合うさまざまな背景を持っていた。

ヌルハチが勢力を広げていく過程で軍事同盟、征服による服従の証などさまざまな形で
各部族から有力者の娘がヌルハチに嫁ぎ、それぞれに子供を産んだ。

その中で後継者候補に名前が挙がったのは、兄弟の中でも能力が優れているか、
あるいは生母の実家の軍事力が強力でその力が部族の発展に不可欠な者だ。

最終的にヌルハチの後継者になったホンタイジは第八皇子、まったく長子でもなんでもない。
この人の場合は、生母の勢力背景のためではなく、自身の緻密な謀略によりその地位を手に入れた。


次にホンタイジの息子、順治帝も長男ではない。


順治帝が八歳の幼少にも関わらず選ばれたのは、
生母の孝庄皇太后ボルジギット氏の背後にあるモンゴルホルチン部との提携を期待されたことが大きい。

ボルジギット姓はチンギスハーンの直系の末裔のみに与えられる姓である。
モンゴルではチンギス・ハーンの直系でなければ、民衆がリーダーとして認めない心理があったらしい。

またホルチン部は最初期の頃にヌルハチと同盟関係になり、その軍事力に大いに依存するところがあったため、
ホルチンの血を引く皇帝を立てることは、大きな意味を持っていた。

が、順治帝は何分幼く非力すぎる。
皇帝の叔父として当時皇室で最も実力のあったドルゴンは母子にとっての脅威だった。


夫の弟であるドルゴンに嫁ぐのは、騎馬民族の中では広く行われてきた習慣でもある。
父親が死ねば後継者となる息子は自分の生母以外のすべての父の女たちを娶る。

兄が死に、弟が位を引き継ぐ場合も同じである。
よって騎馬民族的要素が色濃く残る満州族の中で、孝庄皇太后ボルジギット氏の再婚はあながち不自然な選択でもなかった。

この結婚は我が子の安全を確保するための策だったが、
少年時代継父であるドルゴンにいびられた順治帝は、情緒的に不安定な青年に成長する。

ドルゴンが死に、親政できるようになっても、弟の嫁さんを横取り挙句にその弟を殺したり、母親が決めた皇后を何度も廃したり、
かんしゃくを起こしては出家すると寺に駆け込んでみたり、奇行が目立つ。


結局若くして天然痘で亡くなった。





古北口鎮。
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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで2、草原の民の後継者争い

2017年05月05日 23時11分36秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
農耕民にも敵に襲われる要素がまったくないかといえばそうでもないが、
それぞれの部落の所有する土地の収穫が
生死に関わるほど落差が激しいということが日常的に存在するということは有り得ない。

人間というものは、遊牧民であれ農耕民であれ、生きるか死ぬかというところまで追い詰められなければ、
誰も自分から戦争を仕掛けて生死の危険を冒したいとは思わないだろう。

実際、中国世界でも遊牧民が万里の長城を突破して農耕地帯を襲うのは、
冷害で家畜が大量に死に、餓死の危機に追い詰められるなどの切迫した事情がある場合が多い。

農耕民であれば土地の条件が悪いと、それを改善するオプション的ノウハウがいくらか存在する。
水の条件が悪ければ、米ではなく小麦、
それより悪い場合はヒエ・アワ・コウリャン・とうもろこしなどの雑穀を植える、
と作物の品種を変えたり、灌漑施設を整えて水条件を改善することができる。


そんな農耕民の欠点は安穏たる生活に満たされ、危機管理が甘くなり騎馬民族に襲われたら、
ひとたまりもないことだろう。

中原の覇者を見ても、常に遊牧民の勇士を軍隊に取り入れ、優遇し活用できた者が天下を取って来た。
農耕民と遊牧民の二重構造が中華世界の歴史を突き動かす、なくてはならない二つの要素である。

前述のように、遊牧の民にとって部族単位という少人数で生産基盤の不安定な草原や砂漠の生活を送っている間は、
リーダー推戴型の後継者選びシステムが有利である。

ところが運よくも多くの部族を統合して集団の規模が大きくなったり、
農耕地帯を征服できてしまった場合には、
後継者の交替のたびに兄弟同士が殺しあう、一族同士がさまざまな勢力に分かれて反目しあうことで、
政権基盤が弱まり社会不安を起こすという欠点が出てくる。

モンゴル人政権だった元朝はわずか百年で崩壊し、
その後もやや勢力が強くなったかと思うと、後継者争いで力をすり減らし衰退する、ということを繰り返す。

イスラム政権のカリフが往々にして暗殺で交代する現象、
モンゴルの後継者を自負するインドのムガル帝国のスルタンはすべての兄弟を殺さなければ即位できないという現象もその延長上で語れる。


長子相続による政情安定システムが高度に完成していた中原に
大興安嶺の原生林から出てきたばかりの満州族が征服者として入ってきた。

その満州族の採るべき道は、
征服王朝として同族内の結束力を失わないために満州族をリーダー推戴型でまとめる一方で、
これを農耕社会の中原文明と如何に融合させていくか、という難しい舵取りを必要とするシステムの移行・融合である。

満州モデルの後継者移行システムでスムースに即位した最初の皇帝は、乾隆帝である。


……しかしそこに至るまでには、痛みを伴う模索があった。






古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで1、農耕民と騎馬民族の後継者選び

2017年05月02日 11時00分01秒 | 清朝「ハーン」と「皇帝」のはざまで
楠木のお話は、一応前回までで終わります。

今日からは新しいシリーズ。
遊牧民族の満州族が統治した清朝の佇まいに思いを馳せた雑文です。

おつきあいくださいー。


**************************************************


遊牧民に長男相続の伝統はない。

優秀でない長男がリーダーになったがために、他部族に襲われ征服されてしまえば、
女は全員犯されて妾にされ、男は皆殺しにされるか奴隷に落とされる。

死活問題に関わるから、農耕民族のような長子相続は行われない。


これと好対照にあるのが、農耕民族の長子相続だろう。

農耕民にとって必要なのは安定であり、
どんな資質の人間でも長子に生まれたら後継者にすると決めておけば、
争いが起こらないからである。

長子が少々馬鹿でも、周囲にいる長老たちが補助しながらやっていく。

農耕民族である漢民族の王朝として、
長子相続をうまく機能させていた典型的な王朝が明朝といえる。

三代目の永楽帝以後の皇帝は揃いも揃ってろくな資質の皇帝を輩出していない。

こんなひどいリーダーを掲げてどうして政権がさっさとつぶれないのか、不思議に感じるくらいである。

それでも三百年近くも王朝が続いたのは、実は皇帝の役割はあまり大きくはなく、
熾烈な科挙を勝ち抜いた選りすぐりの官僚集団がブレインとしてしっかり政治をサポートしたからである。

皇帝が少々阿呆でも、少々酒色に耽ろうとも、一人でできる贅沢はたかがしれている。

数億人の人口を持つ中国が一人の皇帝の贅沢を養えないほどでもない。
それよりも後継者が変わるたびに争いが起き、数年に渡り政治機能が麻痺してしまったり、
内乱で田畑・都市が荒らされ農産物の収穫が減り、
商売が妨げられて経済がストップしてしまう方がはるかに損失が大きいのである。


明朝は、半ば立憲君主制に移行していたともいえる。
それが巨大な帝国を治めていくために自然にたどり着いたシステムだったのかもしれない。


さて、そこにわずかな人口の少数民族・満州族が乗り込んできた。

長子相続ではなく、最も優秀な子弟を周りが推戴してリーダーにするという方式は、
ほぼすべての遊牧生活を送る民族に見られる。

その理由は前述のとおり、
草原の治安は不安定で常に機敏な決断力を持つリーダーがいない限り、生存を保てないからである。

逆に常に部族同士で襲ったり襲われたりすることは、遊牧生活自体の構造の脆さにもある。

冷害などで家畜が大量に死ぬ、水や草の条件がいい場所に限りがあるためにこれを取り合う、
という部族同士の争いの種が常に存在している。





村の中にある長城のリアルなアップ。

古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
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楠(タブノキ)物語14、康熙帝、楠をあきらめる

2017年04月29日 12時15分56秒 | 楠(タブノキ)物語
太平洋戦争の時期におけるマラリア死亡率の壮絶さを見ると、
明代の四川の原生林に分け入った人夫たちが十万人も犠牲になったという数字も
あながち荒唐無稽だとはいえないのである。

楠木の伐採に徴用された成人男子を見送る家族が
「子婦啼哭(女子供が泣いてすがった)」のも、
生きて返ってくる確率があまりにも低いことを土地の人々がよく知っていたためだ。

現地の民謡に「入山一千、出山五百」と謡ったという。
まさに人間の欲望のための壮絶な犠牲に肝も冷える思いがする。
  

このように楠木伐採は、明代ですでにここまで困難になっていた。
切り出しにおけるマラリア感染も然ることながら、
今度は山奥からの運び出しにも莫大な経費と歳月がかかる。

巨木の運搬には舗装された道路がなければ、
丸木の上を転がしつつ移動させていくことができない。

このため山岳地帯での道路建設がまず行われ、
道路が完成してから初めて巨木を降ろすことができるのである。

さらに長江をくだり、大運河から北上、北京に到着するには六年の歳月を要したという。

その費用は莫大なものとなり、天安門城楼の楠の柱は運賃だけで黄金九十万両かかったといわれる。
 

康煕年間、官僚を南に派遣し、楠木の伐採を行ったことがあったが、
前述の如きあまりに困難な作業、民の犠牲が伴ったために
康熙帝はついにこれをあきらめたという経緯がある。

このために康煕年間に建てられた宮殿は満洲黄松で代用し、
外だけ楠木でくるんで面目を保った。
 
康煕年間はまだ建国まもなく、
異民族である満州族統治者が中原の民を疲弊させるのは、危険だったこともあるだろう。

内輪のいじめとよそ者によるいじめは、本質的に違うのだ。



古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
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楠(タブノキ)物語13、楠とマラリア

2017年04月26日 09時08分49秒 | 楠(タブノキ)物語
木の伐採に行っただけで、そんなに大量の人が死ぬものなのか。

その可能性を探っていくと、近代にもなぞらえることのできる例がある。
 

太平洋戦争中に日本軍がタイとビルマの国境の山岳地帯で建設した「泰緬鉄道」は、
ジャングルを切り開き、険しい山岳地帯を這うように作られた。

工事を担ったのは、連合軍捕虜三万人と現地住民十万人である。
それ以前にもかつてイギリスが同じルートで鉄道建設を試みたことがあったが、
強烈なマラリア蚊の問題を解決することができず、断念したという経緯がある。
 
それにも関わらず、日本軍は全長四百五十キロの道のりをわずか十六ヵ月の突貫工事で強引に完成させたため、
実にこの期間にマラリアのために十万人が命を落とした。

枕木一本に対し、人間一人が犠牲になっている計算となり、
まさに「死の鉄道」と呼ばれたいわく付きの鉄道である。

戦後にはこのために捕虜虐待として、国際問題にもなった。
 

二十世紀初頭でもそれくらいマラリアの殺傷力はすさまじく、
ジャングルに入った途端、数万人単位で人が死ぬことが有り得たことがわかる。

だからこそ人類はジャングルの奥に入ることを恐れ、畏怖してきたのである。

楠木伐採はその条理に触れる行いだった。




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楠(タブノキ)物語12、明代の楠木切り出しの惨状

2017年04月23日 16時34分06秒 | 楠(タブノキ)物語
以上、少し横道に逸れたが、乾隆帝と楠木の浅からぬ因縁を見ている。

 
明初の紫禁城の建設には、ふんだんに楠木が使われた。

その後、明代を通じて楠木への執着は衰えることがない。

現在残る最も荘厳なる楠木建築は「明の十三陵」の長陵である。
宣徳二年(一四二七)の創建、六十本の楠木の大木を柱に使う。
 
その調達がどれくらい困難であったかというと、これまた想像を絶する。

万暦年間の工科給事中・王徳亮の奏文では、次のように訴える。

「採運之夫、歴険而渡水、触瘴死者積屍遍野
(伐採と運搬の人夫は、危険な道のりを越えて川を渡っていくが、瘴気に当たり死体が野を覆う)」

「木夫就道、子婦啼哭。畏死貧生如赴湯火
(木こりに徴用される男子が出発しようとすると、女子供が泣いてすがりつく。
 死を恐れ、生を貪ること、煮えたぎる湯か火に追い立てられるが如し)」


「風嵐煙瘴地区、木夫一触、輒僵溝叡、屍流水塞、積骨成山。其偸生而回者、又皆黄胆臃腫之夫。
 (風・嵐・煙・瘴気の地区、木こりはその空気に触れた途端、谷は麻痺する。
 屍-しかばね-が流れて水をつまらせ、骨が積み上げられること山の如し。
 その生を偸み-ぬすみ-回りし者も、皆黄疸、腫れの夫となれり)」

「一県計木夫之死、約近千人。合省不下十万
(一県の木こりの死を計算すると千人近い。省全体を見ると、十万を下らない)」

と、楠木の切り出しに「大量殺戮」が伴う現象を綿々と書き綴っている。

たかが木の切り出しになぜ十万単位の人が死ななければならないのか。

それを「瘴気(しょうき)」のためと説明する。
触れるだけで病気を惹き起こす「悪い気」という概念として、主にマラリアを指した。
 
運よく生き長らえたとしても「皆黄胆臃腫之夫」、というところを見ると、
「黄胆(=黄疸-おうだん。眼球、皮膚が黄色くなる)」、
浮腫(むくみ)などは、典型的なマラリアの症状である。


  


古北口鎮。
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楠(タブノキ)物語11、乾隆帝『神木謡碑』のその後

2017年04月21日 16時34分06秒 | 楠(タブノキ)物語
二00三年、北京オリンピックを控え、都市再開発が進められる中、
市内にある工場を徐々に郊外に移転させる過程で星海ピアノ工場も通州(東郊外)に移転することとなった。
 
創立からともに歩んできた石碑を移転とともに持って行きたい、というのが職員の願いであったが、
文物は元あった場所で保護するという原則に従い、
工場のみが移転し、石碑はそこに残された。

星海の職員は石碑を懐かしみ、
通州の移転先でも等身大の石碑のレプリカと碑亭を作り、工場内に立てているという。

また神木をテーブルに加工した当時、
余った木片を保管していた当事者が、後に工場にこれを寄付した。

木片は工場の資料館で見ることができる。
 

さて。

神木謡碑そのものは、どうなっているか。

新開発のビル郡に埋もれ、ぽつりと残されているらしい。

周囲は今北京で最もホットな一等地。
工場の移転後、土地の半分は分譲マンションの建設用地として売られ、
石碑のある部分はまだ空き地のままだという。

マンションの敷地の一部に取り込まれてしまう日も遅からず来ることだろう。
 

……というのが、私がオリンピック前後までフォローした神木碑に関する行方である。
さらなる後日談は、情報がはいれば、またアップしていきたい。


  

古北口鎮。
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