いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

和[王申]少年物語45、学校での回想

2017年01月20日 17時53分36秒 | 和珅少年物語
英廉は、動揺する孫娘を見やりながら、昼間の咸安宮官学での出来事を思い出していた。

「英大人」
「英大人」
英廉が学校の正門をくぐろうとすると、侍衛らが次々と声をかける。

中庭に入ったところで、門の並びの部屋から人が飛び出してきた。
「英大人、これはまた突然のお越しで……」

振り返ると、李峰がねずみのように細く釣りあがった目に愛想笑いをこめて立ってる。
学校には内務府から事務官が四人派遣されており、彼はその責任者だった。

ちょんちょん、と数本しかないひげがねずみのそっくりなので、英廉はひそかに
――ねずみ男
と呼んでいた。

内務府は、成立当時より包衣を中心に構成されている。
この男も包衣出身であるからには、先祖は漢人のはずだが、ツングース系の血が濃いのか、ひげが薄い。

長城の北から来た人々は体毛が薄く、すねも脇の下もつるつる、
ひげもぴょこっぴょこっと左右に数本ずつしかはえない者も多い。

いずれにしても、包衣は数代にもわたり長城の北で暮らしており、複雑な歴史的背景で混血を繰り返してきた。
満人に強姦されて混血したものもいれば、
高麗人参の貿易を通して満人が富をなして都市に住み着いて漢語でしゃべり、
漢服を着るようになり、しかるのちに「漢人」として再び征服された例もあるという。

……となれば、もう民族的な違いは自我の差であったり、社会的な認証の差でしかなくなっている。

「子供らの意気のいい叫び声を聞いていると、力が湧いてきて、ふらふらと寄ってしまうわい」
「……それはそれは」
心なしか膝をやや曲げて姿勢を低くしつつかしこまっていた李峰は、やや訝しげに首をかしげた。

--本当にそれだけの用事ですかい
とでも言いたげだ。
 
目的もなしにふらりとやってきたのかといえば、確かに完全にそうとも言い切れなかった。
心密かに孫娘の縁談相手を物色する下心があったのだから。

英廉はうなずきながら、李峰に案内され客庁(応接間)に入り、腰掛けた。

学校は「三進院」になっていた。
「三合院」を縦に三組重ねた形、つまりは、「コ」の字を伏せた型を三つ重ねる。

本来なら中国北方の家屋の間取りは「四合院」が標準だが、
北向きの部屋は日当たりが悪くじめじめしており、倉庫程度しか使い道がない。

このためにいっそのこと反対側に窓を開け、前の列の南向きの部屋にしてしまうのだ。
つまりは、南向きの部屋が三間、東西それぞれも三間ずつ、
これが「一院」九部屋、「三院」で合計二十七間の作りである。
 





朝陽門外東岳廟


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いよいよ『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』が出版されました。

2017年01月18日 01時21分35秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
 

初の翻訳作品『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』が、いよいよ出版されることとなりました。

 

あらすじとしては、康熙帝の帝師・陳廷敬を主人公とした歴史小説です。

私利私欲の亡者となり、蓄財に血眼になる他の官僚らをよそに、ひたすら清廉、率直をつらぬき、

その正直さ、率直さが、時には皇帝のご機嫌を損ねることがあっても、最後には皇帝の厚い信頼を勝ち取った人のお話です。

 

歴史小説ですが、軽快な会話に泣きあり、笑いあり。

気軽に読んでもらいたいなああ、と思っています。

 

「『紫禁城の月』と陳廷敬」の連載も合わせてお読みください。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
 本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!

    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる
    3、陳家興隆の歴史的背景
    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
    5、わずか19歳で進士に
     6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
    7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院 
    8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
    9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院
    10、陳廷敬以後の『皇城相府』
    11、王岐山と陳廷敬
    12、王岐山と張英
    13、「号」に込められた意味

    14、隠居返上

    15、康熙帝、『湯座り』を勧める

    16、李光地にも『湯座り』を勧める

 

『紫禁城の月』雑感とメディア動向

  2016.9.11.  『紫禁城の月』雑感、G20でも同じことが……
  2016.9.26.  『現代ビジネス』のコラム下に『紫禁城の月』を紹介

  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、日本語訳版を日本語勉強中のご子息にプレゼント
  2016.11.2.  『芸術新潮』2016年11月号に『紫禁城の月』の書評が載りました
  2016.11.2.  『紫禁城の月』作者・王躍文氏、偽物に閉口

 

過去記事も早見表を作っています。

   カテゴリー別 記事の早アクセス表

   各カテゴリーの内容紹介、見出しをまとめました。

 

*なお、本記事は、毎日、先頭に来るように更新しています。

 他の記事も2番目の記事として、更新を続けています。後ろを見てくださーい。

 

また中国在住の方で入手されたい方がいらっしゃれば、10月下旬、私が日本から現物を抱えて帰ってきます。

日本の定価で直接お渡しするか、中国国内で郵送すること、可能でーす。

個人的にメッセージをくださーい。

 

本日、東方書店さんが、ツイッターで紹介くださったということです。

東方書店ツイッター

ありがたいです!

 

なかなか手に入らない、というお声をいただきました。下記のメディア総研HPにて、取扱店が紹介されています。ご参照くださいー。

http://www.mediasoken-publish.net/news/hp0001/index.php?No=37&CNo=1

 

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和[王申]少年物語44、外八旗に嫁に行く

2017年01月18日 01時21分27秒 | 和珅少年物語
侍女の麗梅(リーメイ)は、厨房で仕入れた使用人たちの噂話をひっきりなしにまくし立てていた。
しかし月瑶は上の空でそれを受け流し、まだ酸味が強くない中途半端な刺激の酸菜湯(スアンツアイタン=白菜の漬物スープ)を
機械的に杓子(シャオズ=スプーン)で口に運んでいた。
 
脳裏を往来していたのは、数日前に祖父の英廉が言い出したことだ。
朝、請安(チンアン=ご機嫌伺い)に祖父を訪ね、そのまま堂でお茶をいただいていたときだった。

「月月(ユエユエ)」
英廉は孫娘の幼名を呼んだ。
大きく息をして湯のみのふたを閉じ、横の卓上に置く。

月謡が相槌を打つ代わりに口元にわずかに匂う寸前の好意を漂わせて少し首をかしげた。
「どこに出しても恥ずかしくない娘になったのお……」

英廉は孫娘の横顔を両手で真綿を包み込むような暖かさで見つめた。
目尻のしわに流れ込むのは、薄氷を踏むが如き長い官僚人生で築き上げてきた容易ならぬ日々への感慨であったかもしれない。

「この春節でいくつになる」
この時代の年の数え方では、誕生日の遅い早いに関わらず、春節(新年)に一斉に一歳年をとる。
個別に誕生日を祝うこともあるが、春節を区切りとするのが基本である。

「十五になります……」
月謡は小声で答えると、うつむいた。
年頃の娘にとって家長から年齢を問われることが何を意味するか、予感のようなものは感じられる。

「月月。外八旗(ワイパーチー)に嫁に行くのは嫌か」
祖父の唐突な質問に、月謡ははっと顔を上げた。見る見るうちに眉根を寄せ、眼が潤む。

「爺爺(イエイエ)。もしや、月月にもうお婿様を決めてしまったのですか」
若い娘にとっては生涯がかかっている。

――まさか……何の前触れもなしに……。

自分の意志で相手が選べるとは思っていないが、
これまでこんなに自分を愛しんできた祖父ではないか。

両親との死別以来、肩を寄せ合うようにして暮らして来たのに、
結婚のこととなれば世間一般の親のように娘に意志に関係なく勝手に決めてしまったのだろうか。

「そうではない。
 ただ内務三旗ではなく外八旗にもし家柄のいい前途も有望な良い青年がおれば、ぴったりと思ったまでじゃ」

孫娘は黙って首を垂れている。
うなじに垂直になったまとめ髪の燕尾(イエンウェイ)がかすかに震える。
 
英廉がいうのは、本来は包衣家系という奴隷階級の出身である家系は、
同じ家柄の包衣同士で通婚するのが慣わしであったが、
そうではなくて、いわば格上に当たる普通の八旗の家柄に嫁に行くのはいやか、と聞いたのである。

「うちは今、微妙な立場にある。
 爺爺は、内務府三旗の中では高位まで登りつめた。
 
 そなたの相手に門当戸対(メンダンフートイ、家柄が釣り合う)な相手を探すと言っても、
 三旗には釣り合う家柄が少ない。
 
 のう。そうではないか。」

月謡にとっても、それは日頃から考えていることでもあった。


  


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和[王申]少年物語43、冬の風物詩、酸菜白肉

2017年01月16日 17時18分20秒 | 和珅少年物語
嫁入り前の馮月瑶の日々は、侍女の麗梅との日々で過ぎていった。
家庭教師から授業を受けるほか、普段は二人で部屋で刺繍をしたり、おしゃべりをしながら過ごす。

季節はそろそろ冬になろうとしていた。
寒さが増し、炕(かん、オンドル)に火が入り、
食卓に初めての「酸菜(スアンツアイ、白菜の漬物)と白肉(バイロウ)、春雨の煮物が上がった。

「今年は師傅(シーフ)が変わったら、ひどく美味になったと皆が申しておりましたり」
先ほど厨房で少しいただきました、と麗梅が物珍しげに言った。

江南出身の麗梅も北国の風物を楽しんでいる。
--もう酸菜が出る季節になってしまった……。

月謡はここしばらく放心して過ごした自分の日々を振り返らずにはいられなかった。

 
馮家は内務府所属とはいえ、さすがに満州族ではないので、
家で「薩満跳神(サーマンティアオシェン)」を頼み、豚肉の水煮を備えることはしない。

「薩満」(サーマン)は、「シャーマン」の語源。
北アジアツングース系民族に共通する巫女である。

「跳神」(ティアオシェン)は、薩満(サーマン)が神がかりな恍惚状態となり精霊を乗り移らせる儀式だが、
跳んだりはねたりトランス状態となって時には痙攣して口から泡を吹かして失神したりもする。

儀式のお供え物は、豚肉だ。

満州族が広大な北方の森林地帯で生活していた頃、
満州の地では豚が家畜として主力をなしていたため、
供え物には大鍋のぐらぐらと煮えたぎる湯の中で豚肉の塊を煮る。

祭事が終わると、この「白肉」(バイロウ)は料理に利用され、
鍋物に入れたり、にんにくやごま油とあえ物にしたりする。

満州族の大家では儀式が頻繁にあり、白肉が大量に出るため、誰もが食べ飽きていた。
見るのもいやになり、外に売るくらいである。
 

馮家の食卓にも白肉が入った料理が出るが、これは祭事肉ではなく、
すでに北京の風土料理と化した「酸菜白肉」(スアンツアイ・バイロウ)の具として登場したのである。

「酸っぱさの中にも、こくがあると思いません? 作り方は同じなのに、不思議ですわね」
麗梅が土鍋から茶碗に取り分けた。

鼻をかすかに刺激する酸味がかった匂いが蒸気とともに漂ってきた。
冬の到来を実感する瞬間である。
 
酸菜は、外の水瓶に張る氷が、斧でもかち割れないほどしっかり凍る寒さになってから初めて漬ける。
低温でじっくり発酵させた方がうまみが増すからだ。

極寒の冬が数ヶ月も続く京師(北京)では、野菜と言えばひたすら白菜である。
馮家の厨房裏にも半地下に掘った野菜貯蔵庫がある。

白菜や大根、にんじん、じゃがいもなどの根菜類を冬口に大量に買い込み、
この地下室に保存し、入り口は扉に厳重に綿入りの門簾をかけ、外気を遮断する。

門簾というが、平たく言えばふとんである。
入り口にふとんをかけて保温しないと、中まで凍ってしまうのだ。

垂れた鼻水がそのままつららになるような極寒でも、地下室はじっとりと暖かい。
程よい湿気があるため、葱だって表面の皮をむく必要がないほどだ。

冬、野菜の種類はどうしても単調になりがちだが、それを紛らせてくれるのが酸菜でもあった。





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和[王申]少年物語42、纏足の威力

2017年01月14日 16時32分11秒 | 和珅少年物語
旗装は纏足女性には無理である。

清朝建国当時、満州族が漢族に対して、
男性には全員辮髪と旗装を強要したことは、有名な話だ。

しかし女性に対しては一切制約がなく、伝統的な漢族の風俗をそのまま続けることが許されたのである。


ところが時代が下るにつれ、いかんせん支配者階級の裕福な階層のやることは、下々の者にも伝染しやすい。

漢族女性の伝統的な服装はスカートだが、
満州族の多い首都の女性は次第にズボンをはくようになる。

また漢族文化の正統を受け継ぐと自負する江南でも、
いわゆるチャイナボタンやたて襟をデザインとして採用するようになり(和服のようにボタンなしで帯で固定する方法ではなく)
次第に両者の境界線が、まだらになってくる。


それでも纏足には、足元がゆったりとした服装が圧倒的によく似合う。

このため江南女性の服装には、首から肩元をなで肩が生えるようにすっきりと見せ、
纏足の足元は、地面に触れるくらいの長く、たっぷりとボリュームのあるスカートが最も喜ばれた。

旗装の場合は、形状としては現在いわゆる「チャイナドレス」と言われているワンピース型だが
もう少し腰周りをゆったりとさせ、あまりはっきり体のラインを見せないのが特徴だ。

その下にズボンをはいて、木で高くしたぽっくりのような靴をはき、ぽっくりぽっくり、ころんころんと歩く。


これに対して纏足は。

前述のとおり、纏足女性は歩き方で一目で判別がつく。
夜中に遠目に影が揺れたって、そうだとすぐにわかる。

足の指を内側に折り曲げた極限の不均衡状態にあるため、
必ず足を逆「ハ」の字に開きながら進まないと、均衡を崩して倒れる。

足先が真っ直ぐ前に向くことは有り得ず、常に斜め四十五度外に開ける。
歩幅も胸より先を越えると、これまた均衡を崩して倒れるため、自分の足幅程度にしかよちよちと進めない。

膝を曲げて後ろ足で地面を蹴れば、勢いで倒れるので、太ももの付け根から直接足を持ち上げ、いっそのこと、膝も曲げない。

すると、足を下ろした瞬間にお尻が上下する。
小刻みにお尻を左右に振りながら進む様子は、確かにあたかも踊りの振り付けのようでもある。


――これでは、殿方に襲ってください、って言ってるようなものだわ。

初めて麗梅の動作を見たとき、あまりのくねくねとした悩ましげな姿態に、
月謡は子供心につくづくと納得したものだった。

馮家に来たとき、麗梅の足はすでに見事な纏足に仕上がっていた。


--月謡が初めて見る纏足だった。
 
旗人は旗人同士の付き合いしかない。
男性は外の社会でさまざまな社交があるが、女性同士はどうしても親戚づきあいが中心となる。

馮家も婚姻関係はほとんど旗人同士、包衣同士だった。
例え妾分に漢人がいたとしても、その家族が堂々たる親戚として正門をくぐって尋ねて来て家族に紹介されることは決してなかった。

英廉自身にも漢人女性の妾もいない。

英廉の夫人ももう今は亡く、嫁も亡く、
女主人のいない馮家で、月謡はめったに女性同士の親戚づきあいもなく育ったのだった。





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和[王申]少年物語41、八旗の娘の日常

2017年01月12日 13時19分49秒 | 和珅少年物語
嫁入り前の娘の日常は、ほとんどを侍女と過ごす日々であった。

女親がいない月瑶(げつよう、ユエヤオ)にとっては、特にそうであった。

祖母も母も早くに亡くなっている。

祖母が亡くなった時、すでに老年に達していた祖父の英廉は、
女の機嫌を取ることも面倒がり、後添えや妾も取らなかった。

女中頭のような年増がいるが、小姐(シャオジエ=お嬢様)の月瑶には遠慮があって日常生活を管理するほどまでには至っていなかった。


この数年、月瑶付きになっている侍女の中でも、一番の仲良しは麗梅(リーメイ)だった。

麗梅は元来、江南の中流家庭の出だったが、
父親が一族の刑事事件に連座したために身売りしたのが、わずか二年ほど前のことである。

この時代、名のある名家が親族の各種災難に連座してあっという間に財産没収、一家離散、身売り
……という天変地異となることは、どこにでも普通に転がっていた話で、
彼女の身の上もそれほど珍しいものでもなかった。

しっかりとした教養も身につけている麗梅を、英廉が孫娘の陪読(ペイドゥー=勉強相手)として買い取って来たのである。
それ以来二人は主従関係ではあるが、姉妹のように寝食を共にしてきた。

二人は家庭教師からの授業も一緒に受け、午後のけだるい陽だまりの中を共に刺繍を刺して過ごした。


そんな生活の中でただ一つだけ、麗梅が嫌がることがあった。

それは旗人女性の風俗である「街歩き」である。

漢族の良家の女性は、中年を過ぎるまで公衆の面前に姿をさらすことはしないことは以前にも触れたとおりである。

嫁入り前の娘は、
――大門不出
家の門でさえ外に跨がないのが良家の証であったし、
その後も実家に帰ったり、親戚の家を訪ねるにも籠や驢馬車の奥深くに入り込み、公衆に姿をさらすことは決してない。

街で見かけるのは、華も艶も枯れ果てた中年も終わりの、しかも下層階級の女性たちばかりである。



この両者の間、行政区分的には「旗人」と「民人」(漢族)という区別があるとはいえ、
人種的にはっきりと違いがあるかといえば、そうでもない。

満州族はツングース系のため、頬骨が高く一重まぶたで額が突き出ている、と言った特徴はある。

そのため現代の北京でも、祖父母の代に数分の一満州族の血が混じっていると告白してくれた中国の人が、
確かに明らかにツングース的肉体特徴を備えていることはある。

しかし旗人の中には月瑶のように馮(フォン)という純粋な漢姓を維持したままの漢人(この場合は包衣という身分枠で)もいれば、
そのほかにも、多くの漢族の血も混じっている。

たとえば、最後の皇帝溥儀やその弟の溥傑の実の祖母は正妻ではなく、
漢族の妾だったことなど、そういう例は日常的にどこにでも転がっていた話であった。

正妻には満州族女性を娶るが、その妻に嫡子が生まれない場合は、漢族の妾が産んだハーフが当主となる。

数世代に渡り、そのような混血が繰り返されていくうちに、
もはや血統的な純粋が、「旗人」と「民人」(漢人)の区別の根拠とはなりにくくなっていた。


--それなら麗梅が、旗装(チージュワン=旗人の服装)で街に出れば別に誰もわかりはしないではないか、
と思うかもしれないが、そうはいかない。

麗梅は江南の良家の子女らしく、みごとな纏足に仕上がっていたため、歩き方で一目でばれてしまう。


  

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和[王申]少年物語40、嫁入り前の日々

2017年01月10日 06時51分10秒 | 和珅少年物語
祖父が自分の婿を探していることなど露知らず、馮月瑶(ふうげつよう)は天真爛漫な日々を送っていた。

年は和珅より一つ年下の十六歳。
当時は数え年が一般的だったので、十七歳。
--立派な適齢期である。

しかし母親が早くに亡くなり、結婚のことを日々口にしてはその覚悟を決めさせる大人がいなかった。
周りの少女たちにそろそろ縁談の話が来ていても、自分は蚊帳の外だと思っているところがあった。

祖父の英廉は、むやみやたらにあちこちの縁談話を月瑶に聞かせたりはしない。
これは、と思う人物を見極めるまでじっと何も口にしないだけなのだったが、
そんな祖父の胸の内を少女は知る由もなかった。

月瑶には、祖父しか肉親がいなかった。
使用人はおれども、家族と言える存在は祖父のみだ。

祖母の思い出もおぼろげにあったが、肉親としての情が湧く前に亡くなってしまった。
月謡が覚えている祖母は、毎朝のご機嫌伺いに部屋を訪れるとき、
厳つい肩を反らせて、黒光りした椅子に腰掛けている姿だった。

血は漢族とはいえ、何世代も関外(万里の長城の北)で暮らすうちに、
包衣も北方の異民族諸部族と同じように骨太のがっちりした体格になっていた。


包衣は包衣同士の結婚が一般的なため、祖母も包衣家庭の出身だった。
体は右側にある机に気持ち傾けられ、五彩の蓋と受け皿のついた湯飲みを両手で持ち上げていた。

両手の小指と薬指には長い爪を保護するための爪覆いをはめている。
祖母の指は、その太い骨組みと同様に節くれだち、女性的ではなかったが、
鼻にかかった息とも声ともつかない声音を思わせるような微妙な曲線と細さを描いた爪覆いが、
見事にその無骨な印象を隠していた。

その上、手に持つ五彩の湯のみに描かれた花草は細い線の黒い縁取りで囲まれた細さが白い地肌に浮き上がり、
さらに指の動きを繊細に見せた。

 
月謡は、角度が変わるたびに透き通った琺瑯質の青や緑の唐草模様が、
光を反射させて揺らめくのを目で追い、その威圧的で優雅な指の動きに見入っていた。

祖母は左手で受け皿を持ち、右手で蓋をわずかにずらせて、湯のみをそっと口につけた。
両手からは四本の細長いかすかに曲がった指が反りあがって宙に突き出、冬野にそよぐ枯れ枝のような影を形作っていた。
 

大人の女になるとは、こういうことなのか―――。

月謡は祖母がやんわりとした口調で問いかける勉学の進み具合に関する質問も、
ほとんど心に留めることなく、ただひたすらその青い光の揺らめきばかりを目で追ったものだった。

まだ十六歳の月瑶には、そんなけだるい退廃的な成熟した女性の放つ優雅さはなかった。

北国の良家の令嬢のまっすぐさと健全さが感じられる少女だ。




 朝陽門外東岳廟


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和[王申]少年物語39、英廉の一目惚れ

2017年01月08日 09時21分22秒 | 和珅少年物語
咸安宮官学の教官が、科挙受験科目の成績のいい学生ばかりを推薦するのを英廉は、うんざりしながら聞いていた。

―― 思考回路が完全に漢化しとるわ。

英廉は自分も元々は漢人だが、八旗の一員であることに誇りを持っていた。
それは旗人であることが特権であり、権力への切符でもあるからだ。


科挙はあくまでも権力に近づくための手段でしかなく、最初から権力に近い旗人にとっては決定的要素ではない。

―― さてさて。あの攻撃的な目線の意味を探らねばの。

孫娘を託す青年には、へなちょこの根性のない男はだめだというのが、英廉の強い希望であった。
しかし家柄のいい家庭出身の婿を選びたいと思えば、
ほとんどがなよなよとした甘えん坊の坊ちゃん育ちばかりで、どうにも情けない青年しかいなくて往生していた。

―― 八旗もこれじゃあ、先が思いやられるわ。お上が嘆かれるのもわかるわい。


乾隆帝は八旗が軟弱化したのを大いに嘆いていた。
そのためにも承徳での夏の巻き狩りはほとんど毎年欠かすことなく、
自らも馬にまたがり、弓を引いて猛々しく狩りを指揮しているのである。


英廉もいざ自分の婿を探すとなると、本当にまともな青年がいないことを改めて知った。
思いあぐねている目の前に現れた和珅の剽悍な鋭い視線は、英廉をどきりとさせた。

―― おお。おったわい。

はっきり言って一目惚れである。
おっさんが青年に一目惚れした。

もちろん性的な意味ではなく、孫の婿がねとしてである。
それでも一目惚れというのはある。
 
しかしその視線の意味を探らねばならない。
何か強く訴えかけるような目には、世の中への怒りがこもっている。

その怒りは何に対してなのか。

それは将来自分と接することによっていい方向に矯正していける種類のものなのか、
ただ単にどうしようもない危ない奴で箸にも棒にもひっかからないのか。
 
英廉は息子をなくした心の空虚もあったし、
二十代から三十代にかけての働き盛りの頃は、仕事にかけずりまわっていて子育ては家庭教師と妻にまかせっきりで、
半年に一度も会えないこともよくあった。

安定した地位まで登りつめ、人生も一段落した今、
初めて手塩にかけて誰かを育ててみたいと強く思うようになっていた。
 
これまでも孫娘の月搖は、そういう気持ちで育ててきた。
自ら四書五経の類も厳しく仕込んで、自分の子供よりもよほど多くの時間を共に過ごしてきた。

しかし何分、女である。

どれだけ優れた女性に仕上げようとも、所詮は国家の大事を背負うような活躍の場は与えられない。
やはり将来有望な男を育ててみたい。
 

英廉は、最初から肌に肌をぶつけて取っ組み合える濃厚な人間関係を持てる相手を選ぼうとやる気まんまんだった。

それには、選び出した青年の方が最初からあまりしがらみを抱えているようでは、かなわない。

青年の家や両親が強くその将来や生活に干渉してくるような家庭環境にあるなら、
自分の家族に愛情を注ぐのが精一杯で、こちらまで気持ちを注ぐ余裕はないだろう。

愛情も精神も満たされていれば、自分の愛情だって必要とはしない上、逆に煩わしく思われるのがおちである。




  

  









頤和園の展示物。

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和[王申]少年物語38、風変わりな特技

2017年01月06日 13時49分39秒 | 和珅少年物語
咸安宮官学の中から、英廉は和珅を孫娘の婿候補として選んだ。

学校の教官陣は、和珅少年を変わったことに秀でている変人、と評価した。

チベット語、現皇帝である乾隆帝の筆跡の真似が得意だというのだ。
聞いた英廉は苦笑いした。

どちらも科挙にはまったく役にたたない。

斜に構えて世の中を薄笑いを浮かべて見ているようなあの黒目勝ちな目を思い浮かべると、
――やりそうなこった
と、納得がいった。

 
しかし八旗に所属する満州族を中心とする旗人の出世は、科挙が中心ではなく、
家柄、爵位、先祖の功績、武芸などが、より重視される。

科挙は、一般人(民人)と旗人枠が別に設けられ、試験も採用基準も違う上、
旗人枠は通常の科挙のように三年に一度きっちり開かれるわけではない。

たまになくなったり、また再開されたりしてあまりまじめに執り行われない。
――文弱な漢文化のまねをして、若者が机にかじりついて勉強ばかりしていれば、国の屋台骨に関わる。
という満州人の危機感から来ているのだ。

 
それでも時代が進み、旗人社会が次第に漢人の価値観に染まっていくに従い、科挙の価値も上がっていった。
 
和珅の青年時代の乾隆末期には、すでに満州人社会でも科挙出身者であることが、重要な意味を持つようになってきていた。
 
ところが、和珅はその科挙の受験科目である四書五経にはどうも抜群の成績というほどでもないらしい。
――四書五経の成績も悪くはないですが、今度の科挙に確実合格となる優秀な学生が、ほかにいますよ。
教官はそういって身を乗り出した。

――なんだって、よりによってああいうひねくれたもんを気に入るかなあ。
と明らかにいぶかしんでいる風だった。

教官にとって、自分の教え子の中から科挙合格者や将来出世する人材を出すことは、教官の業績にもつながる。
教官の任期は三年。
その間にどれだけ優秀な学生を官界に送り出したかにより、次の転属先が決まるのだ。

――こやつは、わかっとらん。

生き馬の目を抜く官界を泳ぎきって、初老の年になった英廉の経験からすると、
科挙合格はそこまで重視しなくてもよいものだった。

漢人にとっての科挙は、中央に身を置くための資格の一つとして、これに合格しなければ始まらない。
数億人の人口の中から、まずは皇帝や中枢機構の政治家の目にとまるくらい近くまで来るためには、科挙に及第するしかないのだ。

そこから初めてそれ以外のスキルを発揮する資格を得る。
人間的な魅力、事務能力、責任感、モラル、勇気、忍耐力、
そういったすべてのスキルは、科挙に及第しなければまったく使うチャンスさえもできない。
 
だからこそ、漢人社会で科挙は重要だ。
 

ところが満州人社会では、そうではない。

首都生まれで曲がりなりにも三等軽車尉という爵位を持つ家系に生まれている和珅は、
すでにかなり権力の中枢に近い。

重要なのは、科挙に受かる能力ではなく、人間的魅力とそれ以外の能力だ。


  





  


頤和園の展示物。

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和[王申]少年物語37、英廉が和[王申]を婿に選んだわけ

2017年01月04日 10時21分28秒 | 和珅少年物語
英廉は、役得に乗じて孫娘の婿を咸安宮官学から選ぶことに決めていた。
そしてできるなら、満州八旗から選びたかった。
 
英廉は奴隷身分の「包位(ボウイ)」出身なので、本来なら満州族とは身分違いである。
現に建国当時は満州族との通婚は許されていなかった。

ところが、包衣も八旗の一員として、ごく少数の支配階級のはしくれに数えられるようになり、
皇帝のおそば近くにいるということで、絶大な権力を持って栄華を極める名門家系も出てきた。

『紅楼夢』の作者、曹雪芹の家柄はその典型的な例と言える。


こうして建国から百年以上たっていたこの時期、ぼつぼつと包衣と満州族の通婚は前例が出てきていた。
 

……が、例は多くない。
やはり包衣は包衣の家柄同士での通婚が圧倒的だった。

そんな中で、英廉は婿を
――どうしても、満州八旗から
とこだわったのである。

理由は、本人の地位の高さにあった。
英廉は、当世の包衣集団の中で一番の出世頭であったのだ。

内務府大臣といえば、これはもう堂々たる包衣集団のトップだ。
加えて戸部侍郎も兼任する。
今でいう大蔵省の二番手だ。

包衣集団からこの地位まで登り詰めた人間は、同時代にはいなかった。


――釣り合う家庭がないわい。
というのが理由である。


実は包衣出身者と満州八旗との通婚は、包衣側が高い地位を極めて初めて可能となる。

前述の『紅楼夢』曹雪芹の家庭は、曹寅が康熙帝の乳兄弟なり、
皇帝家のもっとも信頼厚い人材のみが任せられる「江寧織造」を三代に渡って務め上げた家庭である。
そのために曹寅の娘が皇族・平郡王の福晋(フジン=夫人)として嫁いだ。
 

英廉は、自分にも満洲八旗本体との通婚の資格があると判断した。

しかしあまりにも名門よりは、将来性は高いが、現時点であまり地位の高くない青年がいい。
鼻持ちならないところに嫁に行って、孫娘が苦労するのは、見るに忍びないからだ。
 

--和珅はその条件にぴったりだった。
 
学校で青年は目立っていた。
口を開ければ物が自然に口の中に運ばれ、手を伸ばせは服を着せてくれるような甘ったれたぼんぼん育ちが多い中で、
和珅の目つきは確実に野性味があった。

――お。いい眼をしとる。

一目見ただけでも、荒んだ心の孤独を感じさせる鋭い刃物のような内面が見て取れるような面構えだった。


そこでまずは身元調査にとりかかった。

手始めに学校の教官らに評判を聞いてみる。
教官は眉を顰めた。

あの触れただけで切れそうな視線から見て、
どうやら心服できない先生には、徹底的に反抗してるらしいことが感じ取れた。

優等生ではない。

――変わった輩でございます。役にも立たないことばかりに抜きん出ておりまして。
と、教官は苦笑いする。

ほお・・。
英廉は身を乗り出した。


――蔵語にかけては、かの者の右に出る者はおりません。
 それから、筆跡が今上に瓜二つでございまして。
 これは確かに見事でございます。

英廉はうなった。
蔵語はチベット語である。
確かに出世登用の試験にはない科目だ。

現皇帝である乾隆帝の筆跡の真似など、もちろん試験科目にあるわけはない。


――ううむ。なかなか変わっとるわ。








頤和園の展示物。如意。

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和[王申]少年物語36、和[王申]を婿に

2017年01月02日 10時25分57秒 | 和珅少年物語
満州女性の風習に話がそれたが、話を本題の和珅に戻す。
 
満州族を中心とする八旗社会のエリート校、咸安宮官学で勉学に励む和珅、和琳兄弟であったが、
これをひそかに見守っている人物がいた。
 
内務府大臣の英廉(えいれん)である。
これまで見てきたように咸安宮官学は、後にこそ満州族子弟のためのエリート校として発展したが、
発足当初は内務府「包衣」子弟しか対象としなかった。

「包衣」、満州語の「ボーイアハ」、家の奴僕を指す。
多くは遠い昔、満州族が北京入りする前、満州の地で漢人の戦争捕虜や普通の農民を奴隷にした者たちである。

彼らはそのまま代々仕え、「内務府包衣」は、その中でも皇帝一家に仕える人々をいう。
英廉自身も包衣出身であり、先祖は漢人、その末裔に当たる。

皇帝一家の生活こもごも、暮らし向きに関するあらゆる雑用をこなす機関「内務府」は、
この代々の「内輪の人間」である包衣を中心に運営されていた。

内務府大臣は、必ず包衣出身者しかならないというわけでもない。
皇族、皇子(乾隆帝の息子も内務府大臣を務めている)、寵臣(のちに和珅も内務府大臣になる)などが務めることもあるが、
無難な人材がいないときには、とりあえず包衣の中から選ぶことが多く、英廉はそんな事情で内務府大臣を務めていた。

しかして咸安宮官学は、最初包衣子弟のための学校とした発足されたという経緯のために、
最初から内務府の管轄下に入っていた。

その後、満州族や八旗全体に開放されてもその管轄はそのまま内務府に属したままだったのである。

内務府大臣として、英廉は咸安宮官学によく顔を出した。
場所も近かったのである。

内務府の役所は、紫禁城の西華門の辺りに集中しており、咸安宮官学もその界隈にある。
公務の合間に、視察と銘打ってはちょくちょくとのぞきに行った。    

総責任者である大臣が、末端の一機関でしかない学校にわざわざ熱心に視察を重ねる必要はどこにもなかったのだが、
これには下心があった。

--適齢期にある孫娘、馮月謡(ふうげつよう)のために婿がねを物色することだった。

当時の適齢期は十五歳から十七歳前後を言い、
咸安宮官学の学生は十一歳から二十歳過ぎの青年らを中心としていたからちょうどおあつらえ向きだったのである。

野史(民間の伝説)によると、英廉は早くに息子夫婦をなくし、孫娘が唯一の落とし胤だったという。
つまりは、この孫娘に婿をもらい、家を盛り立てて行ってもらわないと、家系が途絶えるということである。

このためこの婿がね選びには、とりわけ気合いが入っていた。
咸安宮官学は八旗社会一番の名門校であり、人材としては申し分ない。

あまたいる学生の中でも、英廉が熱い視線を注いでいたのが、和珅だったらしい。





北京動物園の中にある清の農事試験場跡。


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和[王申]少年物語35、首都の女性たち

2016年12月31日 19時19分24秒 | 和珅少年物語
奔放な旗人女性の風習は清末まで続き、清朝が倒れ再び政権が漢人の手に戻ったとき、
この遺風の始末には手を焼いたらしい。

辛亥革命後の民国政府は、茶棚(喫茶店)で男女の席を分けるよう告示を出したと言われる。
ところが昨日までの習慣をなかなか変えれるわけもなく、なかなか浸透しなかったという(笑)。

清朝時代の首都では、圧倒的に旗人(八旗に属する人々)の人口が多く、漢族とは違う独自の風俗をもっていた。
その一つが、女性たちの好き勝手な外出である。

辛亥革命で清朝が滅んでもその漢族から見ると「野蛮」な風俗は、直らず、警察は取り締まりに苦労した。

  隔座嬌音喚喫茶 分かれて座り、嬌声を上げてお茶を頼めば、
  渇猶未解眼先花 のどの渇きも癒さぬうちに視線が飛び交う。

  而今事事皆皮相 今ではすべてが薄皮一枚の表面でしかない
  第一須生好脳瓜 まずは頭が良くないと連中は出し抜けない。

  警察巡羅也太勤 警察の見回りもあまりに真面目じゃないか。
  茶棚男女座須分 おかげで茶棚の男女も分かれて座らないといけない羽目になった。

  目中各有陰陽電 目には互いに陰陽(男と女)の電気が走り、
  空向晴天激雨雲 空回りして熱を放ち、晴れ渡った空に雨を呼んでも知らないぞ。 

とざれ歌がはやる始末。

「警察だ! それっっ」
と慌てて男女別に座る風景に目に浮かぶ。

この北京の女性の「奇習」については、魯迅もいぶかり、
「北京は婦女をあまり制限しないらしい。好きに外を歩いていて、恥知らずな土地柄だ。
 ……こういう風習は、満州族が持ち込んだものだろうか」

とあきれている。

魯迅の故郷である紹興は、漢文化の正統を自負する円熟した江南の地である。
 

漢族女性はこの時代、良家の子女は纏足である。

纏足女性は歩き方で、一目で判別がつく。
夜中に遠目に影が揺れたって、そうだとすぐにわかる。

足の指を内側に折り曲げた極限の不均衡状態にあるため、
必ず足を逆「ハ」の字に開きながら進まないと、均衡を崩して倒れる。

足先が真っ直ぐ前に向くことは有り得ず、常に斜め四十五度外に開ける。
歩幅も胸より先を越えると、これまた均衡を崩して倒れるため、自分の足幅程度にしかよちよちと進めない。

膝を曲げて後ろ足で地面を蹴れば、勢いで倒れるので、
太ももの付け根から直接足を持ち上げ、いっそのこと、膝も曲げない。

すると、足を下ろした瞬間にお尻が上下する。
小刻みにお尻を左右に振りながら進む様子は、確かにあたかも踊りの振り付けのようでもある。

そのあまりのくねくねとした悩ましげな姿態は、やはり究極にセックスアピールだろう。
--纏足とは、そのような強制的な「腰振りダンス」を作り出すための究極の人体芸だったかと思われる。
 


漢人社会において、自分の妻や姉妹以外の年頃女性が、腰を振って歩く姿を拝むのは、強烈なセックスアピールだったのである。
現代の感覚で言えばさながら回教国で肌を露出させた女性を見るようなものかもしれない。


一方、首都の町を歩いている女性にそういう悩ましい姿はなく、
のっすのっすと大またで歩く旗人女性だけだったということになる。


清朝が崩壊し、そんな相容れない二つの文化の衝突がようやく起きたというところだろうか(笑)。










頤和園の展示品

西太后の愛玩物だったのだろうか。


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和[王申]少年物語34、八旗社会の女性たち

2016年12月29日 19時19分24秒 | 和珅少年物語
清朝の支配層の中核をなすのは「八旗」である。

満州族だけなのかといえば、そうではなく、
「満州八旗」以外にも「蒙古八旗」と「漢軍八旗」、さらに「包衣」がいる。

「蒙古八旗」はモンゴル人、「漢軍八旗」と「包衣」は漢族を中心とするが、
満州族の中に混じって生活しているうちに、モンゴル人はモンゴル語がだいぶ怪しくなり、漢人も多くの風俗が「満化」する。
 

一方、満州族も「漢化」が進み、互いに文化が融合し、歩み寄りあい、独自の「八旗文化」が生まれるわけである。
 
女性の風俗で言えば、その大きな特徴が纏足をしないことだと言われるが、
そのほかにも女性たちの外出の頻繁さが挙げられる。

漢族の女性は、中年を過ぎるまで公衆の面前に姿をさらすことはしない。

嫁入り前の娘は
――「大門不出」
家の門でさえ外に跨がないのが良家の証であったし、その後も実家に帰ったり、
親戚の家を訪ねるにも籠や驢馬車の奥深くに入り込み、公衆に姿をさらすことは決してない。

街で見かけるのは、華も艶も枯れ果てた中年も終わりの女性ばかりである。
 

ところが、満州族を中心とした旗人女性は違う。
纏足もしなければ、人目を避けることもない。

思うままに芝居見物にもいけば、年頃の男女入り混じって茶館に座り込み、笑いさざめく。

外地から京師に来た人の目にはあまりにも物珍しい。

――鶏不鳴、狗不叫、十八歳的大姑娘満街跑
鶏鳴かず、犬吼えず(という世にも珍しい現象が起きよう)とも、十八歳の年頃娘、街中を走り回る。

これが「首都名物」であったという。


元々、少ない人口で中国全土を征服した満州族は、「全民一丸」戦闘体制である。
初期の戦争には、女たちが飯炊きや洗濯に鎧兜の繕い物のために同行し、
男たちとともに槍鉄砲を避けながら、泥や汗にまみれて一丸となって戦った。

その遺風が顕著な京師では、旗人女性は、一般漢人女性よりはるかに自由である。

特に未婚女性は、
――姑[女乃] [女乃]
と尊称され、それはもう好き勝手して過ごす。

京師城南部一帯の茶楼、酒館(居酒屋)、戯院(劇場)に好きに出入りし、男女入り混じって雑座するという、
伝統的な漢文化から考えると、卒倒しそうなほど破廉恥かつ野蛮な風景が普通に散見できた。

それが場末の女性だけかと言えば、
むしろ反対でたっぷりとお小遣いをもらっている良家の令嬢ほど派手に遊んだというのだから、
伝統的な儒教文化の薫陶を受けた士大夫らから見たら、苦々しい限りであったろう。







北京動物園の中にある清の農事試験場跡。


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和[王申]少年物語33、『紅楼夢』の不肖息子ら

2016年12月27日 09時22分29秒 | 和珅少年物語
さて。
『紅楼夢』では、ここで金持ちの不肖息子の典型のような薛蟠(せつばん)が登場する。

主人公の賈宝玉とは母親同士が姉妹といういとこの関係にあるが、
女を手に入れるために人殺しをするわ、あらゆる悪さをやらかす手に負えない少年だ。

父親は早くに死に、唯一の跡継ぎだと母親が甘やかして不肖の息子と成り果ててしまった。
「贅沢好きで、言葉遣いも横柄」、「学校には行ったことがあるものの、いくらか文字を覚えた程度」の十五歳という。

この部分に謎の注釈者「脂硯斎(しえんさい)」の赤字注釈が入る。
「この句は兄貴が加えたものだから、真実を書いている」

……どうやらこの薛蟠くんには実在のモデルがおり、
謎の注釈者はその本人と兄貴分に当たる人物を知っていると匂わせている。

名家の十五歳の青年が、ほとんど文盲状態という事実は、これまで見てきた世襲子弟の堕落ぶりの記述とも一致する。

「(世襲子弟は)自ら進んで学校に入学しようという者は極めて少ない。
 この児童たちは甘やかされてまったく武芸も習わず、世職にあることを笠に着てでたらめに振る舞い、やくざまがいである」


……と世職幼学の設立を提案した大臣らが嘆いていたではないか。
 

続けて薛蟠くんは「皇商といえども、商売のことや世間のこととなると、全然知らない」という。

薛家のモデルとなった一族も内務府包衣であった可能性が高い。

包衣は包衣同士の通婚が大部分を占めるという。
曹家と同じように皇帝の寵愛を受けて権勢を極め、その後世代が下るにつれ、
寵愛はそれほどまでではなくなったが、
古いコネを生かして「皇商(政商)」となり、特権ビジネスで儲けた一族らしいことがわかる。

そんな楽な大名商売でさえあまりよくわかっていない薛蟠くんがなぜ贅沢を続けられるかというと、
「祖父、父の旧情に頼り、戸部(大蔵省に当たる)に虚名(名誉職)を得て、俸禄と官糧を受け取り、
残りの雑事は執事がすべてこな」してくれるからだという。

つまり薛蟠くんも世襲官僚のはしくれで、大臣が嘆いていた幼官らの縮図と見ていい。
 
よって他の官学は希望者を募る自由選択なのに対して、
世職幼学だけは「年が幼い世襲官で十歳以上の者は、入学を命じる」と命令形である。


この薛蟠くん、賈家に同居して私塾に少年らがあまた通っていることを知ると、
思わず「龍陽(男色で有名な戦国時代の人物)の興」を起こす。

勉強する気もないのに、学校に通い始めるが、はなからやる気がないもんで、
三日通っては二日さぼり、先生に差し出した礼金もほとんどどぶに捨てたようなものである。

が、そのへんは家にうなるほど金があるから気にもせず、ただ美少年あさりに精を出した。
 
男色に走るのは、女は当たり前に手に入りすぎて、飢餓感がないからである。

家にはいくらでも若い女中がおり、手をつけようと思えば、手を伸ばすだけで手篭めにできる。
現に賈宝玉も初体験の相手は、身の回りの世話をする女中の襲人(しゅうじん)だ。





  

北京動物園の中にある清の農事試験場跡。


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和[王申]少年物語32、『紅楼夢』に描かれる学校生活

2016年12月25日 18時52分51秒 | 和珅少年物語
和珅らの学校生活は、どんな日々だったのだろうか。

『紅楼夢』の作者、曹雪芹が咸安宮官学の出身だったのではないか、という説がある。

曹雪芹の家は内務府包衣の一族であることを考えると、
こちらは乾隆元年の一般旗人子弟開放前にすでに資格があったことになる。

曹雪芹は、諸説はあるが雍正二年(一七二四)生まれ説を取ると、
十四、五歳のころは、ちょうど乾隆初年に当たる。

咸安宮の学生だったかは確定できないが、
少なくとも『紅楼夢』の中で乾隆初年の「錦衣紈絝(錦の服を着て、さらさらの白絹のズボンをはいた苦労知らずのお坊ちゃん)」らの
ドラ息子ぶりを如実に描いていることには変わりがない。


『紅楼夢』第九回には、主人公の賈宝玉が初めて家塾に入学する場面が描かれている。
この賈家の「義学」(金持ちの家が関係者への慈善事業的に経営する私塾)は、賈家の開祖が建て、
一族の子弟の中に貧しくて師匠を雇えない者のために立てられ、
一族の中で官職についたり、爵位を授かった者がいれば、それぞれの経済力の範囲内で援助する仕組みになっていた。

仮に曹雪芹の描いた情景が私塾ではなく、
官学のことであったとしても、そんなことは努々明記できるものではない。

清朝は「漢人に弱みを見せてはいけない」という虚勢を一貫して張り続けた「見栄の王朝」である。
旗人子弟の堕落は満州社会の「内輪の恥」であり、漢語で書いて公にするのは、とんでもないことだ。

従って曹雪芹も学校で満州語も騎射も習ったかもしれないが、
それはあえて描くことができなかっただろうことは想像できる。

雍正年間から乾隆年間にかけては、文字の獄(思想統制)が吹き荒れた時代でもある。
曹雪芹はその「打ち首」ぎりぎりの線で変化球を投げているわけである。


(検閲にひっかかり、禁書になることは元より覚悟の上、それでも地下で知識人や数寄者に愛され、
 こっそり写本され、まわし読みされるなら本望、という思いである。

 しかしあまりにも過激だと作者本人も引っ張り出されて殺され、本人が死んでいれば墓を暴かれ、
 六族すべて連座し極寒の黒龍江に流刑に遭い、貧困とひもじさと飢えで空をつかんで犬死し、
 子孫まで途絶えることになるのは、かなわないということ)、



賈宝玉は、一族の嫁である秦可卿(しんかきょう)の弟の秦種(しんしゅ)と一緒に学校に通うこととなった。

学校では「花のような二人」が入学してきて、少年らが色めきたつ。
秦種は「うつむいて恥ずかし気、言葉を発する前から頬が紅色に染まり、消え入らんばかりに身を震わせ」、
たおやかな美少女を思わせる。

宝玉は「身分が高いのに、天性謙虚に振舞うことができ、言葉遣いも思いやりに満ちて細やか」に秦種に接する。
美少年二人のただならぬ様子に同級生らが疑いの目を向けたのも無理はなく、影でひそひそと噂が飛び交い、教室は騒然とした。

……と、勉強そっちのけで少年愛の色恋に騒ぎ立てる様子が描かれている。


このように和[王申]の学校生活は、玉石混淆の生徒たちの中で
ただ粛々と己を切磋琢磨する生活だったようである(笑)。




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