いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

陳廷敬と皇城相府10、『河山楼』に籠城

2016年07月25日 15時06分37秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
『河山楼』の工事は、崇禎5年(1632年)の正月明けに始まった。

陳氏兄弟は一族郎党の者を動員し、大工を招き、
石3000個、レンガ30万個を使ってわずか6ヶ月で完成させた。

何しろ、蜂起軍の襲来が刻々と伝えられる中での工事である。
作る方も自分と家族の命がかかっているから必死の突貫工事となる。


入口の門は火攻めにも対抗できるように石で作り、後ろには頑丈な閂(かんぬき)を作った。
屋上には敵攻撃のための壁を備える。



  

  『河山楼』




構造工事の終わった矢先の7月、内装工事を始める吉日を占っていると、
突然、賊の襲来が知らされた。

そこで慌ただしく、石、矢、食糧、石炭、金目のものを運び入れ、
夜はぴたりと門を閉じて守備に入った。
立て籠もりの間の食糧はすべて陳家が提供、楼の中には老若男女約800人が入った。


陳家は製鉄工房を営むため、屋敷の中だけでなく、
近隣の村内も従業員や下請け業者、関連業者と言った内輪の人々だったかと思われる。

まもなく賊が襲来、辺り一面が赤い装束の色で真っ赤に染まったという。


・・・・明末の李自成を中心とした陕西軍には歴史上、特に衣装の特徴的な名前はついていない。
漢末の乱『黄巾の乱』、元末の乱「紅巾の乱」のようには・・・。

しかし陽城界隈を徘徊していた頃は、確かに赤装束で固めていたようである。



蜂起軍は、郭峪の一鎮だけでも1万人ほどもいたかと思われる。

敷地内に乱入してくると、金目の物を奪って回ったが、
楼に入ることができないため、腹いせに屋敷に放火を始めた。


近づけば、上から矢や石の投下で攻撃されたため、賊は楼に近づくことができずにいた。
あまりの腹立たしさに飢え死に、焼け死に、渇き死ににでもしてやらねば気が済まぬとばかり
賊は楼を包囲し始めた。
しばらく包囲して、兵糧攻めにしてやろうとしたのである。

しかしそういう籠城戦を当初から想定していた陳兄弟は、
工事の最初から楼内に井戸を掘っており、数日の包囲程度ではびくともしなかった。

敵に居座られれば、今後何が起こるか予測不可能である。
楼の外の村の家々の被害も拡大するだろう。

敵の希望をくじくため、陳兄弟は井戸から汲んだ水を敵に示した。
それを見た賊は、いくら囲んでも水が豊富にあることを知って観念。
 
わずか5日で包囲をあきらめ、立ち去った。



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陳廷敬と皇城相府9、山むこうの砥洎城に刺激を受ける

2016年07月23日 19時48分18秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
陽城周辺は、飢えた蜂起軍の大群の襲撃に怯えていた。

実は陽城周辺では、崇禎年間以前にも、農民反乱軍の襲撃を受けたことがある。
明の正徳7年(1512)、河北覇州の劉六、劉七の農民蜂起軍が、
皇城と山一つを隔てた西隣の白巷里に侵入したのだ。


それが現在の潤城鎮の上、中、下の三庄だが、当時は製鉄業で栄えていた。


村民が「大きな鉄釜で道を塞ぎ、屋根に上って瓦を投げつけ」て敵を撃退したという。
その当時、皇城、郭峪は潤城に比べ、人口も少なく、経済的にも豊かにではなかったために、襲われることはなかった。



明末になり、皇城相府のある郭峪村、中道庄村の経済、文化が発展し、
樊渓河のほとりには、豪商、政府高官の豪邸が軒を連ねるようになったため、
当然、農民軍の略奪の対象となった。


崇禎4年(1631年)秋、潤城屯城の出身、
明末に刑部右侍郎で免職になって故郷に帰っていた張慎言は、
一族郎党の者たちと団結し、屯城に「同閣」と名付けた防衛土木工事を展開した。

「同閣」には、身を隠すことのできる地下蔵も掘れば、上から敵を攻撃できる城壁と防護壁もあった。
別名「砥洎城」。

ここは今回の旅で回っているので、のちにレポートしたい。






砥洎城が完成したことにより、農民蜂起軍への備えが万全となった。

山一つ隔てたところに住む陳昌言、朕昌期兄弟には、それが大いに刺激になった。


蜂起軍が、手前の潤城などから順番に攻略している、という情報が、日々伝えられて来る・・・。

さらに山奥にある中道庄村でも、その被害の甚大さを伝え聞き、
危機感を強めて自らの防衛も始めたことがわかる。



---こうして『河山楼』の建設が始まったのである。


  

  

  遠くに『河山楼』が見える。


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陳廷敬と皇城相府8、陽城が狙われた理由

2016年07月21日 19時48分18秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城


皇城相府




王嘉胤を失った後も、陕西の蜂起軍は、王自用が新たな首領に推戴され、「紫金梁」と号した。
各地の農民蜂起軍とも連合し、36営20万人にも膨れ上がったのである。
・・・これが、陽城に押し寄せた農民軍の規模・・・。

略奪なしに、この群衆を養えるわけがない・・・。


 
不完全な統計によると、崇禎5年(1632年)、
「紫金梁」とその軍隊が陽城県内を襲撃すること12度に渡ったことが判明している。
10月一ヶ月だけでも皇城、郭峪に4回侵入、崇禎6年(1633年)の前半5ヶ月は7回も侵入した。
 

そもそも農民蜂起軍は、なぜ頻繁に陽城にやってきたのだろうか。

 1、陽城は沁河のほとりにあり、沁河は東南に流れて鄭州近くで黄河に合流する。
   つまりは黄河の支流の一つの流域に沿った地区ということになる。
   
   
  太行、中条、太岳の三山が交わるところにあり、
  山深く、谷が入り込んでいて身を隠すにはちょうどよい。

  しかもここから中原を俯瞰することができ、
  山西から河南の中原地帯に入ろうとする軍隊には、ちょうどよい根拠地になる。

  出ていけば中原を攻めることができ、
  負ければ退去して山の中に潜伏して体制を立て直すことができる。
  このため古来より激戦地となってきた。

 2、陽城は古来より経済的に豊かだった。
  特に北部の北留、潤城の二鎮は沁河流域で最も栄えた石炭と鉄鋼の里、商業と貿易の重鎮だった。

  澤州と西部の河東諸県を結ぶ交通の要所にもあったため、
  周囲はこの豊かな土地を取ろうと虎視眈々としていた。




そもそも鄭州に近い、河をたどっていけば、鄭州に出る、という位置関係が、
すでに安寧でいられない運命を決定づけている(笑)。


鄭州は、古来より各勢力が激突する激戦地である。
西の勢力が、勢いを拡大させようとすれば、
黄河の川底に沿って東に出ようとするのが、最も自然だろう。

北にいけば、次第に寒冷になり、乾燥した土地でロクな食べ物はない。
西に行っても砂漠ばかりで、大した収穫にはならない。
南に行くには、山だらけで前に進めない。
東は豊かで食べ物もお金もたくさんあるし、行きやすい。

・・・となるからだ。


中国大陸は、黄河と長江という二大大河が山を削りながら西から東に流れ、
その過程で東の方にどんどんと削った土砂を河口に溜めて平らな土地を作り続けたことで出来上がっている。

東にいけばいくほど、土地が平らになり、流域の栄養分を蓄えながら流れてくるので、土地も肥沃、
海に近いから、貿易も漁業もできる、と経済活動の種が山ほどある。
人口も多ければ、生産性も高く、経済的にも豊かだ。

食えなくなって反乱を起こした人々が、東に向かおうとするのは、自然の流れである。



西の勢力が東に出る場合、もっとも歩きやすい、平らな場所というのは、河原になる。
山をえっちらおっちらと越えて行くよりも、勾配の少ない河原を行くのが最も安易に決まっている。

そして山がなくなり、ぱっと平原が開けるのが、鄭州である。
そこから東には、広大な中原平野が広がる。
気候も温暖、圧倒的な食糧の生産力を誇る、中国大陸でもっとも豊かな土地と言っていいだろう。

今も河南省の一省だけで人口は一億人。
中国首位である。


鄭州は王朝交替のたびに、激しい戦火にさらされてきたため、
これだけ古い歴史を持つ都市であるにもかかわらず、古跡がほとんどない。
残し得なかった宿命があると言える・・・。



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陳廷敬と皇城相府7、王嘉胤を殺した二人の末路

2016年07月19日 19時06分52秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
前回で紹介した過去記事のとおり、明代の身分制度は固定されており、通婚もほぼ同戸籍内で行われた。


「逃亡兵だった」という王嘉胤の経歴を見れば、王嘉胤が「軍戸」出身だったことがわかるが、
ほとんど賎民扱いの軍戸に、ほかの階層から嫁いできたいと思う女性はほとんどいない。
したがって王嘉胤の妻もほぼ「軍戸」家庭出身だった可能性が高いわけである。

その妻の弟が、これまた軍人としてどこかの部隊に所属しており、
それが偶然にも曹文詔の部隊だった・・・・。


張立位にしてみれば、自分のまったく意図せぬところで、
自分の所属する部隊が討伐する対象が、なんと自分の姉婿だった、ということになる。


そこで張立位は、自分が王嘉胤の妻の弟であることを上司に告げ、
王嘉胤軍に身を投じる振りをして、隙を見つけて王嘉胤を殺すことができる、と献策した。

こうして張立位は曹文詔から派遣されて王嘉胤のそばに行き、王嘉胤に「帳前指揮」に任じられた。
何しろ妻の弟である・・・。
相手に気を許すには、当然の成り行きと言えよう。


ほどなくして王嘉胤は、泥酔しているところを
帳幕の中に忍び込んだ張立位と同族の王国忠の二人に寝首をかかれて殺されたのである。
享年40歳過ぎ。

蜂起軍は、そのまま部下の王自用が仲間から推戴されて率いることとなる。
  

・・・・さて。
このように道徳もモラルもへったくれもない、
犬畜生な行動をとった後、この二人がどうなったか、という結末も興味深いので、見ておきたい。



王嘉胤の妻の弟・張立位は、王嘉胤を殺した功で崇禎帝に左衛協副将に取り立てられた。
その後も明軍のために将軍として、戦いを率い、
満州族との戦いで山西の殺虎口の戦役で重傷を負い、そのまま戦死した。

・・・・死後、明の朝廷から「龍虎将軍」の追贈されている。


一方、王国忠の方といいえば、
王嘉胤を殺した功で「蒲州協副将」に任命された。


しかし後に李自成軍との戦いで敗れ、明の朝廷に免職される。


「王」姓のとおり、彼は王嘉胤と同族である。
いとこと言わぬまでも、はとこか、曽祖父あたりまでたどれば、同じ血だったくらい近い仲だったのだろう。

その王嘉胤を殺して、自分だけ出世したという経緯では、
原籍の府谷には戻ることはできない。


・・・やむなく綏德(陕西省北部)に客住した。

しかしまもなく李自成の将軍・李過の部隊が、綏德を陥落させた。
李自成は、かつての主人だった王嘉胤を殺した犯人の一人、
蜂起軍の叛徒・王国忠を探し出すよう、李過に命じていた。


王国忠はじきに見つけ出され、その場で制裁として殺された・・・・。



 


皇城相府の城壁の上からの眺め


以上が、陽城襲撃前後の内輪もめの顛末である・・・。




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陳廷敬と皇城相府6、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる

2016年07月17日 09時31分17秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
そんななか、いよいよ時代は明末の動乱の時代に差し掛かる。
皇城相府が現在のような要塞都市の様相を呈するようになったのは、
この時代のことである。

時代は明の最後の年号・崇禎年間。
主役は、陳廷敬の父の代、陳昌言(陳廷敬の叔父)と陳昌期(陳廷敬の父)兄弟である。

前述の陳修の代からは、陳三楽、陳経済・・・と三世代下った時代に当たる。


陳経済の長男・陳昌言はその後、崇禎7年(1634)の科挙に及第して進士となり、
直隷楽亭知県、監察御史、巡按山東、提督江南学政等の重要官職を歴任することになるが、
それはこの農民軍襲撃が去って、一段落した後のことである。


  

  皇城相府、正門。この頑丈な鉄鋲のでかさをご覧あれ。飾りではなく、実戦のやる気マンマンのものものしさじゃ。





明の崇禎5年(1632)、明末の動乱が始まり、王嘉胤の農民蜂起軍が陽城に迫った。
王嘉胤は元々、辺境の守兵だったが、逃亡して故郷の陕西省府谷県に帰ってきた人物である。



明代の辺境守兵が如何に過酷な状態にあり、如何に逃亡兵が多かったかは、過去記事を参考にされたし。

 楡林24・明代の戸籍制度
 楡林25・軍戸は賎民と紙一重
 楡林26・軍戸の苦悩
 楡林27・守城と屯田
 楡林28・耕牛の不足
 楡林29・負のスパイラル
 楡林30・遠隔地の支給



『水滸伝』など無法者たちの正義を訴える物語は、
宋代の話という設定ではあるものの、実際には明代に書かれている。

それは当時の社会で軍戸から逃亡してお尋ね者になり、表社会に出れなくなってしまった人間の数が、
如何に多かったかを示していることは、どこかですでに触れたとおりである。
逃亡兵から王朝転覆の狼煙が上がったことは、避けられない流れだったことがわかる。


王嘉胤は逃亡して故郷である陕西省府谷県に戻っていたが、飢饉で食うに困り、崇禎元年(1628)、仲間とともに蜂起した。
---いわゆる李自成の乱の始まりである。


王嘉胤が最も初期に蜂起した人物であり、
後に頭角を現す高迎祥、李自成、張献忠、王自用等は皆、元々は王嘉胤の部下から身を起こした。
そして当然、皆、陕西の同郷である。

蜂起軍はまたたく間に広がり、陕西、甘粛、寧夏、山西で3万人を超える勢力に膨れ上がった。
その勢いは留まるところを知らず、明の兵部尚書・洪承畴の率いる明の主力軍を破ったこともあった。


崇禎四年(1631年)、蜂起軍は明の官軍・延綏東路孤山総兵・曹文詔の圧倒的な兵力に囲まれたため、
押し出されるように陽城一帯に侵入した。

ところがここで当の王嘉胤が身内に殺されるという出来事が起こる。
明末清初の王嘉胤の同族、同郷の残した記録によると、
王嘉胤を殺したのは、妻の弟・張立位と同族の兄弟・王国忠だった。


曹文詔が山西陽城県で王嘉胤の蜂起軍と激戦を繰り広げたが、蜂起軍の士気は高く、
王嘉胤の指揮にも抜かりがなかったため、明軍は連戦連敗を期していた。


そんな中、王嘉胤の妻の弟・張立位が、偶然にも曹文詔の元で兵士になっていたのである。




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陳廷敬と皇城相府5、村人を抱き込んだ家族経営

2016年07月15日 21時33分41秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城

陳[王玉]の息子の一人・陳天祐がついに明の嘉靖23年(1544)、進士に及第し、
高級官僚の世界に進出する。
陕西按察副使などの官職を歴任した。

こうなると、車輪の両輪のような相乗効果を生む。
一族から高級官僚が出ると、余計な搾取を受けなくて済み、
働いた分だけ純利益となり、社会的な信用ができて仕事も多く舞い込んでくる。


他の競合他社が搾取され、信用ないために注文を取れない中でますます商売が楽になり、利益が上がる。
余裕ができた分だけ、さらに子弟の教育も充実させることができる。

自分の子供だけでなく、一族郎党のやや遠い関係の子弟であっても、
とにかく教育し、将来合格者を出す確率を上げていくことができる---。


陳天祐の三代後の陳所知も明の万暦13年(1585)、挙人に及第し、虞城知県などを歴任する。


  

  皇城相府の正門。立派であると同時に軍事的に強固な作り。




陳廷敬の直系は、陳[王玉]の弟にあたる。
七代前の始祖・陳秀には、三人の息子がいた。
長男・陳[王玉]、次男・陳[王向]、三男・陳[王共]である。

陳廷敬の血筋は、三男・陳[王共]から来る。
一族から陳天祐が進士となり、中央官僚となって活躍すると同時に、
一族の残りの者は、せっせせっせと家業に精を出したわけである。

陳[王共]の息子・陳修は、仕途はせずに、実家で鍛冶屋の営みに勤しんだ。
陳家と周囲の村人たちとの関係を示す逸話が伝わっている。


陳修は金銭へのこだわりが少なく、村人が生活に困っていると、
惜しみなく援助の手を差し伸べた。

ある年、旱魃がひどく、村が凶作に喘いだ時は100両を寄付して村人の救済に当てたという。

100両がどれくらいのお金かと言えば・・・・。
清末の記録を見ると、都会で住み込みの使用人として働いた時の給料が1年12両ほどだったという。
1ヶ月1両、・・・ということは今の価値なら20-40万円くらいですかね。

100両は2000-4000万円くらい、てゆうことになる。

・・・・現代の例で考えても、地震や津波などの災害が起きた時、
企業が数千万円の寄付をすることは普通に見られるから、まあ標準的と言ったところだろうか(笑)。

それを小さな村という単位で行えば、中間搾取も起こらなくて済むし、
目に見える形で進行すれば、効果は絶大だろう・・・・。


陳家の暮らす村・中道庄村に貧しい家庭があった。
劉東と妻の張氏、二人の息子・劉一と劉二がいた。

・・・まさに絵に描いたような庶民の名前ですな。
太郎と次郎、みたいな。。。
どこの庶民も発想は同じだああ。

ある時、劉東が突然病に倒れて急死した。
残された張氏は子供二人を抱えて、女の細腕で黄土高原の痩せた土地を耕し、
体力の限界を超えたために、重病にかかった。

そのことを聞き知った陳修は、この親子に食糧と現金を与えた。
張氏は感謝し、その借金の念書を書いたが、まもなく力尽きてなくなった。

残された子供たちは、母親の葬儀が出せず、途方に暮れていたが、
そこに陳修がやってきて、葬儀代を出してやったばかりでなく、母親がかつて書いた借金の念書を二人の目の前で破り捨てた。

やがて二人の遺児は成長して、嫁を迎える年齢になったが、
あまりの貧しさのために、嫁の来手のあてがまったく立たなかった。

すると、陳修は二人に提案した。
自分の鍛冶屋で働くといい、自らの労働で稼いだお金で嫁をもらう支度をしなさい、と。
こうして二人は陳家の鍛冶屋で労働に精を出し、三年かけて貯めたお金でそれぞれに家を建て、
嫁を取ることができたという。


・・・つまりは、日本の中小企業の社長さんにもたまには見ることのできる、
従業員の家族の生活もろとも面倒を見て、ファミリーのようにしてしまう、というやり方ですな。

日本では、それほど珍しくないやり方かもしれないが、
当時の中国では、あまり一般的ではなかったかと思われる。

そんなことも陳家が興隆した理由の一つなのかもしれない、と考えさせられる逸話だ。




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陳廷敬と皇城相府4、一族から官僚を出すことの意味

2016年07月13日 21時18分03秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
少し小金が貯まれば、
下級役人になる程度のことなら、「買官」することができる。


重要なポストには、科挙への及第が必須である。
旨みの強いポストにつくには、さらにいくらか金を積む場合もあるが、それもとても庶民が用意できるような額ではない。

しかし下級役人でもよいから官職につくことができれば、
子弟を教育するだけの生活の余裕ができ、何よりも搾取されずに済む。

・・・・これが最も重要なことかもしれない。



そもそもなぜ猫も杓子も官僚になろうとするかと言えば、
一族の中に庇護してくれる官僚を一人も出していなければ、あらゆる場面で「やられ放題」だからである。


せっかく商売を起こしても、役人がただ飯を喰らいに来る、
何かと名目や言いがかりをつけて、余計なお金を上納させられる、
他人とトラブルになった時に白黒に関係なく、しょっ引かれる、
・・・・と言ったことが日常的に起こる。


朝から晩まで骨も砕けんばかりに働いたところで
役人に甘い汁を吸い取られるばかりで一向にお金は残らない、商売も大きくできない、ということになる。


---ところがこれが、一族から一人でも役人を出したとなると、途端にがらりと状況が違ってくる。
身内に役人がいるということは、こちら側にも「搾取のカード」、「反撃のカード」があることを意味するからだ。


仮に言われもない理由でお金を巻き上げれば、こちらも身内の役人が奔走し、
ターゲットに何か不正理由をでっち上げて(大抵はでっち上げではない。ほとんどの役人は叩けば埃だらけなのだから)、
弾劾することもできるのである。


このため役人同士は、利害関係がない限り、互いに恨みを買わないよう、かばい合うものである。


・・・こうして役人を一人出しただけでも、勤勉に働いた労働がお金に変わり、蓄えに変わる。
出さなければ、ざあざあと手から零れ落ち、他人の懐を満たすだけとなるのだ。



七代前の先祖・陳林が炭鉱夫や開墾労働者で蓄え、鍛冶屋として開業すると、
息子・陳秀を下級役人にすることができた。


陕西省漢中府西郷県の典史(警察署長のようなもの)である。


さらにその子・陳[王玉]は直隷省大名府滑県の典史となった。
同じ警察署長でも辺境の陕西省ではなく、直隷省、首都に近いので、父親の代よりややマシなところに赴任したことになる(笑)。




皇城相府の正面玄関。



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陳廷敬と皇城相府3、炭鉱と製鉄で身を起こす

2016年07月11日 20時04分05秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
では、陳家が流浪の民からどのように一国の宰相となる陳廷敬までたどりついたのか、
見て行きたいと思う。


まずは、家系図をまとめたので、以下のとおり。






陳家の先祖の軌跡について、わかっているのは9代前、明の初期からである。
陳家の祖籍は彰徳府臨漳県(現在の河北省)、
九代(または十代前か?)前の祖先・陳仲民が澤州府の天戸里半坡村に移ってきた(家系図参照)。


天戸里半坡村は現在の皇城村(中道庄村)の東北、樊山を境に十数里ほど離れたところにある。

その孫(または息子)陳林が明の宣徳4年(1429)、郭峪村に移って来た(現在の皇城村と樊河を挟んで隣村)。
そこで炭鉱夫や開墾労働者として働きつつ、少しずつ蓄えをし、
鍛冶屋として開業すると、徐々に生活を豊かにして行ったのだという。



---つまり9-10代前の先祖が、河北からなぜこの山奥にやってきたか、という理由がある。

1、この地に炭鉱や鉄鉱山があった。
2、山西から河南の中原平野に抜けるための沁河流域の交通要所にあり、商業が発達していた。


無一文でやってくる働き盛りの貧乏人がありつける職場があり、
炭鉱のような危険と引き換えにするような仕事に身を投じれば、
無事に生きながらえた暁には、
少しくらいは余剰生産物が残り、やや上の階層にステップアップできるようなチャンスがあったということである。



伝統的に中国で少し生活が豊かになり、蓄えができると、子供に教育を受けさせ、何とか役人にしようとする。


水飲み百姓から一代で科挙の受験は難しい。

塾に通わせるだけでなく、両親などによる勉強の監督、ノウハウの伝授が必要なので、
一代では末端のランクの試験でもなかなか合格できるものではないのだ。

現代でもクラシック音楽家を育てるには三代かかる、と言われることと同じだろうか。。。


一代目より二代目、二代目より三代目、と数十年、百年をかけて少しずつ登って行くしかない。




皇城相府。チケット売り場前。





まずは見取り図を抑えておきましょう。



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陳廷敬と皇城相府2、政府高官が鈴鳴り

2016年07月09日 10時58分31秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
私事ながら、まもなく日本への帰国を控えており、
帰省中はブログの更新もままならぬことから、こうして予約投稿で事前に書き溜めております。

陳廷敬と皇城相府に関する資料は、今、読みながら書いているところで、まだ書き方、構成などがあまりうまくまとまってはいません‥‥。
このため、構成としては、まだベストな状態ではありませんが、
とりあえずは備忘録も兼ねて、アップして行きたいと思います。

帰ってきてから、少し諸用などが落ち着いたところで、
また構成を変更していくこともあるかもしれません(笑)。



*********************************************************


陳家では、明の中期から徐々に政府高官を出し、
陳廷敬に連なるまで、すでに100年単位で伝統を築き上げている。

その功績が、皇城相府の入口を入ってすぐの二つの牌楼、大牌楼と小牌楼(奥)に連ねられている。


 大牌楼: 陳廷敬世代以後の功績
 小牌楼: 陳廷敬までの功績



  

  皇城相府のゲートを入ってすぐにまず飛び込んでくる大牌楼。








  一番下に「陳廷敬」の文字が確認できる。




 


裏側から見た様子。文字の内容は、表が最高官職名。裏が科挙の合格記録(功名)。






遠くの方に見えるのが、小牌楼。
  


まずは奥の小牌楼に書かれて名前を見て行こう。


合計6人。

 陕西漢中府西郷県尉・陳秀   :陳廷敬から六代前の祖先。明の正統年間(1439-1449)あたりのことかと思われる。
 直隷大名府滑県県尉・陳[王玉] :陳秀の息子。明の弘治・正徳年間(1488-1521)あたりか。
 嘉靖甲辰科進士・陳天裕    :陳[王玉]の息子。陕西按察副使等を歴任。
 万暦乙酉科挙人・陳所知    :陳天裕の孫。虞城知県等を歴任。
 儒林郎浙江同監察御史・陳昌言 :陳廷敬の叔父(父の兄)。明の崇禎7年(1634)の進士。
 順治丁酉科挙人・陳廷敬

ええー。上記の内容は、書かれた文字のとおりではないので、あしからず・・・。
本来は表に生涯での最高官職。裏に功名(科挙の合格記録。進士なのか、挙人なのか、貢生なのかと言ったこと)が書かれている。
しかし写真が遠すぎて、文字が判別できないので、とりあえず手に入った情報内で概要だけ・・・・。

とにかく陳廷敬の6代前の始祖の陳秀が下っ端役人になってから丸々200年かけて、
ようやく宰相となるような人材を一族から輩出したことがわかる。


この小牌楼が作られたのは、清の順治14年(1657)。
つまりは陳廷敬が、地元の郷試で挙人に及第した時に作られたものである。
この直後に陳廷敬は、引き続き都に上って会試を受け、若干21歳で見事に進士にも及第し、出世街道をまっしぐらに進むのだが、
地元では挙人に合格しただけで、家では牌楼をおっ立てるこのフィーバーぶりだったことが伺える(笑)。



ご先祖様の軌跡は、次回に詳しく見て行くこととして、
次に入口の大牌楼の方の内容を先に見ておこう・・・・・・。

これは康熙38年(1699)、皇帝の詔を受けて陳廷敬が建てたものである。
真ん中の列の一番上には、「冢宰総憲」の四文字。


冢宰: 宰相の別称。百官の長。
総憲: 都察院左都御史の別称。官僚の不正有無を監督する都察院の長官が左都御史。
    陳廷敬が任命された官職の一つ。
    正義の人だったことを示す。


その下には、陳廷敬の曽祖父・陳三楽、祖父・陳経済、父・陳昌期が、
陳廷敬の功績を受け、朝廷から死後に追封された名誉職の名前が、ずらりと並ぶ。



牌楼の左右各列は、陳廷敬が吏部尚書(人事部門の大臣)に昇級した時点での
兄弟、子供、甥たちの功名が羅列されている。


左: 

 己亥科賜進士翰林院庶吉士・陳元       : 陳廷敬のいとこ。父の兄(陳昌言)の子。
 壬子抜貢国子監正候候補行人司司副・陳廷継  : 陳廷敬の二弟。
 候選知県改補府同知」陳廷愫         : 陳廷敬の四弟。
 征仕郎広東廉州府欽州州判候補知県・陳廷[戸衣]: 陳廷敬の五弟。
 奉直大夫警部湖広清吏司郎中
  改兵部武庫清吏司郎中加一級・陳廷統    : 陳廷敬の六弟。


右:

 湖広岳州府臨湘県知県・陳廷弼        : 陳廷敬の七弟。
 甲子科挙人揀選知県」陳廷翰         : 陳廷敬の八弟。
 江南淮安府邳睢霊壁河務同知加一級:陳謙吉  : 陳廷敬の長男。
 甲戌科会魁賜二甲第十二名進士
        翰林院庶吉士・陳豫朋     : 陳廷敬の次男。
 丁丑会魁賜二甲第八名進士
        翰林院庶吉士・陳壮履     : 陳廷敬の三男。
    


陳廷敬の兄弟、子供たちのほとんどが官僚となり、各地で活躍していた事実を知ることができる。


彼らは現役中は、政府に命じられるまま、都や赴任先の地方を転々とするが、
どこかに根を下ろそうという気持ちはさらさらなく、
赴任先から余剰資産はせっせせっせと故郷に運び、引退すれば故郷で余生を過ごした。

そのような数百年、連綿と続けられた「送金」により、この荘厳な、都市のような大屋敷が出来上がったのである。


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陳廷敬と皇城相府1、まずは概要の説明

2016年07月07日 09時42分20秒 | 陳廷敬と皇城相府、山西晋城
ええー。今日から新しいシリーズですー。


このところ、ある中国語の歴史小説の翻訳に関わり、
その翻訳作品がいよいよ近いうちに出版される運びとなったことを受け、
作品の主人公である陳廷敬の生家へ行ってまいりました。

これから出版される小説は、もちろんさまざまなフィクションを織り交ぜた、あくまでも小説なのですが、
モデルとなった陳廷敬という人物の、歴史上の姿を追ってみたいという好奇心に駆られ、
探究したい気持ちになったのでした。


えええー。

陳廷敬の生家、皇城相府(こうじょうしょうふ)は、
山西省陽城県にある巨大な要塞都市のような様相を呈した大屋敷です。


いつものように、まずは場所を確認しましょうー。











山西省の東南、陽城県は、鉄道の幹線からは離れ、交通はあまり便利とは言えません。
そのため週末の1泊2日では無理と判断し、
端午の節句の三連休をねらい、あんてぃーく倶楽部の仲間と合計4人の珍道中で行ってきましたー!(笑)。

鉄道の便悪く、ましてや高速鉄道など、付近を通っているはずもなく、
アクセスを検討した結果、鄭州まで高速鉄道で行き、そこから現地の車をチャーター、170㎞ほどの距離で陽城に到着しました。




陳廷敬とは、清初、康熙帝の師となり、
後に名君と言われた康熙帝の人格形成に大いに影響を与えたと言われる康熙年間の重臣です。
清廉潔白の人として知られ、皇帝にも諫言を憚らなかったため、
時には煙たがられながらも、最後には漢人として最高の地位まで登り詰めました。


官職は、経筵講官(康熙帝の師)、《康熙字典》の総裁官、
工部尚書、戸部尚書、文渊閣大学士、刑部尚書、吏部尚書、《康熙字典》総修官等の職を歴任する。

詩文にも優れ、《午亭文編》五十巻が《四庫全書》の中に収蔵された。
その中に詩二十巻、《午亭山人第二集》三巻等の作品がある。


字(あざな)・子端、号(ごう)・説岩、晩年の号・午亭。
澤州府陽城(現在の山西晋城市陽城県)の人。

明の崇禎12年(1639年)生まれ、清の康熙51年(1712)没。
順治十五年(1658年)、若干21歳で進士に及第し、翰林院入り、庶吉士となる。

当初の名前は敬だったが、同回の科挙で同姓同名の合格者がいたため、順治帝から「廷」の字を賜り、以後、「廷敬」と改名する。


・・・・という人です。


本人に対しても然ることながら、私はその陳廷敬を生み出した一族の背景にも
猛烈な興味を持ちました。


清廉潔白、清廉潔白…簡単には言いますが、
当時の中国の官僚で、汚職で一財産貯め込まない官僚などほとんどいなかった中、
それを実行に移し、信念を貫くのは、生半可なことではない。

それは陳廷敬の一族が今更、汚職して財産を貯め込む必要もないほど、
すでに地元でも有名な素封家、資産家だったからにほかならない。


陳廷敬は、確かに陳一族の中では最も出世した、最高峰ではあるが、
それ以前、それ以後にも一族から政府高官を出し続け、陳廷敬はその官僚群の中の一存在にしか過ぎない。
つまりは集団プレイの中の一メンバーとして、その存在をとらえ、
彼の属する集団そのものこそが、私の強烈な興味の対象である・・・。




城壁の上に立って、皇城相府全体を見渡した図。


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定州12・明の城壁

2016年07月05日 15時13分40秒 | 河北・定州府
最後にやってきたのが、南側にある明の城壁である。


繁華街の商店街のような場所を抜けたところに、
その姿は忽然と現れた。








定州になぜこのような巨大な城壁が必要だったかというと、
モンゴルとの対立の中で、定州から目と鼻の先である太原なんかも
モンゴルの襲撃を受けて、略奪の対象になったことを考えなければならない。

まずもう一度、定州と西の太原あたり、そして北京との位置関係を
最初の記事の地図で確認しておきたい。


定州1・開元寺塔、天竺より仏舎利を持ち帰る


次にフフホトあたりに本拠地をかまえていたモンゴルのアルタン・ハーンと明朝との関係、
太原やその周辺への侵入、略奪に関する過去記事ももう一度見ていただきたい。


楡林20・人口の増加、いなごの害
楡林21・アルタン、城門を叩く
楡林22・嘉靖帝の不信感
楡林23・天然痘で人口激減


そして太原あたりが陥落すると、
モンゴル族がそこから太行山を越えて北京まで一気に攻めてこようとすれば、
定州はもろにその通過の道筋にある。


飢えた兵士らが略奪のために攻め入ることも防がねばならないだろうし、
北京へ登らせぬよう、ここで水際で阻止もせねばならない。


・・・そんな役割があったのかと思われる。





  

 城壁の麓の路地。






こちらは「きょうさんとう万歳」の文字が。
古い時代の流れですかねー。







こちらもただ今、絶賛大改装中。
とにかく定州の街全体が、巨大な資金を投入して、壮大なテーマパークに生まれ変わらせるべく、
一気に大改造を行っている最中、という印象である。




お堀の川。
これもこれからきれいに水も通して、整備していくんでしょうかねえ。


二重構造になっております。

城門を丸く囲んで、さらに城門を守るためだけに存在する甕城の門洞が先に続きます。


甕城については、こちらの記事の後半に出てくる絵を参照に。






こちらが甕城の城門。


甕城の中から城門を振り返った図。

さすがに上に楼閣までついていて、立派です。

















こちらは甕城の門洞。


近くの物見台に登ってみたところの図。









最後におまけですー(笑)。

城壁近くで地酒を売るお店を見つけました。







甕からの量り売りです。
渋いー!


これまでの経験から、こういう地元に密着した甕売りのお店には、偽物が少なく、
そして化粧箱も中間業者もいないから、思いっきり安い!・・・ということを確信しておりました。


お値段が安すぎて、もう感覚がマヒしてくるのですが、
1斤(500㏄)6元と12元という地元醸造の白酒(バイジウ)…確かともに40-60度くらいのアルコール数
・・・を買って帰りました。

お店のご主人は、1斤20元というのを指名して、
「これは自信作だ、とてもよいお酒だから、ぜひ試してほしい」
と言いました。

しかしかたや6元とか言われて、もう感覚がおかしくなってしまっている私は、
躊躇して結局買わずじまい・・・。

その後、ずっと後悔し続けるのでした(笑)。


・・・というのも、6元のお酒、悪くなかったからですー!
期待を裏切らない高品質でした。

北京ではちょっといい白酒なら100元近く出さないと手に入らないのは、
当たり前なのですから、その場の雰囲気というのは、恐ろしいものです(笑)。


しかしこの後悔が、この後行く山西省で再び地酒を爆買いすることにつながっていくのです(笑)。



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定州11・清真寺、中国風モスク

2016年07月04日 13時13分34秒 | 河北・定州府
定州の清真寺、モスクです。



















創建はいつのことか、正確な年代は不明ながら、
少なくとも元の至正8年(1348)には、再建された記録があるという。





  


通りに面する門楼のほか、敷地内のすべての門、建物は、
元代のレンガアーチ梁なし構造がそのまま残っているとのこと。
国内でも貴重な建物だそうだ。







この石碑二つはどうも、近代のものみたいですね。

『重修礼拝寺碑記]という元の至正8年(1348)付けの石碑は、
漢文で書かれた中国で最も古いイスラム教の石碑になるそうです。
ちゃんとチェックしてへんかったー。









 









扁額をアラビア語で書くというのは、独特ですね。




この日は、何かの集まりの日だったのか、
後ろの食堂のようなところで、大勢の人たちが食事をされていました。

このモスクが今でも地元の回族の人たちの生活の一部となっているというのは、素晴らしいですね。
元代の建築構造そのままの建物で・・・・。






関係ないですが、モスクのとなりの屋上。
なんだか心地よさげ。




表の通りに面した門楼を後ろから見た図。







敷地内には、専用の車もありました。




なんとナンバープレートなし!
「清真寺」だけで通じるんですかい!

奥に食堂もあったことを思うと、恐らく豚などを運んだ不浄の車で
食べ物を運んだりしないように、という配慮からも、専用車があるのかもしれないですねー。







お寺の近くの商店では、シシカバブセットが売っていましたー。
なんだか異国情緒ですねー。




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定州10・文廟

2016年07月03日 17時46分29秒 | 河北・定州府
次に文廟。















ここも貢院とセットで考えるべき場所ですな。
孔子や魁星を祭る学問の神様の廟。

科挙の試験の前、学政や試験官などが祭事に訪れ、
学生らが合格すれば、試験官らとともに、お礼参りに訪れる・・・。
文廟には大抵、府学、県学と言った学校もセットになり、敷地内にある。
---「前廟後学」。

定州の文廟は、中国北方で最も完全な状態で保存されている古跡だそうな。

唐の大中12年(858)創建。
千年以上にもわたって継続的に祭事活動が続けられてきた文廟は、全国でも珍しいという。




「ここで馬を下りろ」と書いていますね。

















入口の門は、[木霊]星門。
四柱三楼式。典型的な明代の様式なのだそうだ。















宋代、蘇東坡が1093-4年に半年だけ定州太守を勤めたことがあるという。
短っ!


その際にその手で植えたと伝わる樹齢千年の槐(えんじゅ)の木、二本。
東側が鳳が舞うが如し、西側が神龍の如し、ということで「龍鳳双槐」というとのこと。


・・・・ううーん。
千年前は鳳と龍の見目麗しい姿だったのかもしれないけど、
今はお年を召しすぎていて、ただの木材の塊にしか見えません・・・(失礼)。
























ううーん。
お堂の塑像は、安っぽい張りぼてで、どうもありがたみがないですね。。。
ふう。。。


  



  


本堂の中庭にも、立派な大木が鎮座ましましておりましたが、
こちらは桑の木なのだそうな。



途中から別の中国人の一団が来て、
「お! 身が食べられるぞ!」
と大騒ぎを始める。

ベリー系のつぶつぶした果実がそこかしこに落ちており、
木にもたくさんなっている。

商品として育てられたものではないので、糖分が足りず、酸っぱくて大しておいしいものではなかったが
(食べてみた)
何しろただ、となれば、テンションが一気にマックスになったよう。





周辺で拾い集めるのはいいとして、







木に登って、揺らし始めた・・・・。

出たああああー!
何とかしてください、この人たち・・・・。




・・・・ところで、東側のお部屋に珍しいものがありました。




中山穆王・劉暢の墓から出土した玉衣だそうな。

前述のとおり、漢代には景帝がBC3年、皇子・劉勝を中山靖王に封じて以後、
漢王室の中山王の系譜が、世襲で17代、329年続いた。

つまり定州の近くには、17人の漢の王様の墓がそこかしこにあり、
わらわらと出土したものと思われる。


実は、この日の日程には、定州市内にある「中山漢墓」も見学の予定だったが、
残念ながら、昼休みに職員がどこかへ昼食を食べに行ってしまったのか、
その後、しばらく待ったが、返ってくる様子もなく、あきらめた経緯があった。

この「中山漢墓」の主は、後漢の光武帝の皇后の出の皇子・劉焉・中山簡王だという。

この文廟にあった玉衣の主、中山穆王・劉暢は、劉焉の孫にあたるそうだ。


定州はこのように古い時代の文物が、豊富にあるんですねー。

この日は、市の中心部にある定州博物館も絶賛大改装中。
展示物を見ることができませんでした・・・。

こんな文廟の横部屋に、打ち捨てたように無造作に漢代の玉衣を展示するくらいですから、
その扱いの雑さから、漢代のこの程度のもん、どんだけ珍しくないねん、--という感覚が伝わってきます(笑)。

おそらく博物館には、古い時代の文物がわんさか収蔵されていると思われ、
定州はまたリベンジで訪れる価値のある場所だなあ、と実感しましたー。


・・・とにかく街中、どこもかしこも絶賛、大開発中でしたから・・・。
個人向けのタワーマンションはもちろん、博物館とその周辺の大広場、
市内のあちこちで伝統建築を模したテーマパーク風の商店街の建設もすごい規模です・・・。

確かに北京から高速鉄道で2時間ほどの距離になった今、
こうして日帰りか、週末二日で充分楽しみに来れる場所になったわけです。

誰がどんだけ投資しとんねん、とその規模にくらくらしまっさ・・・。



そんな生臭い話ばかりしている場合ではないですな(笑)。


えええー。

最後に文廟の横にある中山書院です。
こちらは入口だけ。入れませんでした。

文廟が中軸線が三ラインある構造になっており、真ん中の建築群が今さっき文廟として見学した部分。

中山書院は西側のラインになります。






前述のとおり、文廟には官学がセットで併設されていました。
中山書院の創建は宋代。
以後清末に至るまで続き、民国時代には職業学校に。
2015年に修復したということ。

・・・つまりは学校を追い出して、参観用の古跡とするべく整備したということですね。
中に入れてくれなかったのは、まだ整備中なのでしょうか・・・。





門番のおっちゃんの頭越しに中を少しだけ撮影しました。。。






文廟の東側には、大きな楼閣が見えますね。
これは3本中軸ラインのうちに、もっとも東側「文昌閣」でしょうかね(最初の見取り図参照」。
残念ながら、真ん中ラインのほかは、対外解放されていないようです。








文廟の外にも、何やら古めかしげな門構えもありました。。。







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定州9・貢院、鎖院

2016年07月02日 16時57分49秒 | 河北・定州府






さて。

大堂を出た後は、その後ろには二堂があるはずである。
この窓の写真は、たぶん二堂のもの。。。。

当日はたぶん、大堂と同じような建物が並んでいるから、と特に注意して撮らなかった(涙)。


とにかく、二堂は「内簾官」らの仕事場になる。

つまりは学政が連れて歩くチームではなく、
元々、現地にいる事務員たちである。



試験には「謄写(とうしゃ)」という大作業がある。
つまりは受験生の筆跡がわからないように、まったく別の筆跡に写本する作業である。
受験生が数百人規模となれば、どれだけの謄写係が必要だったか、想像もできるというものである。




そして一番後ろにあるのが、後楼。


ここは、学政とそのチームも含めたすべての職員が、試験の期間中、寝泊りする宿舎となる。


・・・・それにしても、関係ないですが、背後のマンション群、すごいですね。。。。

定州にしても、最近でかけた河南、山西省にしても、あちこちにょきにょきとタワーマンション、絶賛建設中。
日本で報道されている空き部屋だらけとか、鬼城とかそんな報道との食い違いがハンパないねええー。

どう見てもこれがすべて空き部屋とも思えない。
少し違うロジックで物事が動いているような気もしますねー。



まあ。そんなことはどうでもええんですが(爆)







試験の期間前後、関係者はこの貢院の敷地内に「鎖院」される。
外部との連絡を絶ち、一切接触を断つことにより、不正の嫌疑を絶たなければいけないわけです。

試験後も謄写や採点の期間中、数十人の人間が密閉された空間で暮らさなければならないわけで、
そのためにこの三階建ての建物もあるというわけですね。


  








後楼のさらに後ろの空間









  

石碑にあるこの大きな穴のようなものは何なのか。。。
皆でいろいろああでもないこうでもない、と言い合いましたが、結論は出ません。。。。



  

















スピーカーまでこのようなおしゃれな形になっていて、なかなかやりますなああー。






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定州8・貢院、学政の仕事

2016年07月01日 16時57分49秒 | 河北・定州府
ところで敷地は、南から北に向かって、
影壁、大門、二門、魁閣号舍、大堂、二堂、後楼
という順番に建物が並んでいる。



 




試験場である魁閣号舎を出て、さらに奥に行くと、大堂が現れる。

主に学政などの「外簾官」が仕事を行ったところという。












試験会場の後ろ側。

奥に見えるのが、学政のための大堂。


学政がその地域の学風を決定する重要な要因になったことは前述のとおりである。
通常は当然、進士の出身にして、京官、翰林院侍読などの地位にある人がなる。

進士でも三甲なら、中央機関の北京勤務ではなく、地方の知県からキャリアをスタートさせていき、
しばらくはドサ周りを続ける。

その中で何か優秀な成績を残せば、中央に呼び戻してもらえることもあるが、
一生ドサ周りだけで終わる人も多い。

第一甲の状元以下3人は無条件で中央残留、まずは翰林院に入る。
第二甲は見習い3年後の散館試験で成績によっては、そのまま地方のドサ周りに回される(笑)。

・・・・というように、進士の出身にして、京官、翰林院侍読であるというのは、生半可な実力ではなく、
本人の実力も文句なしに士琳の崇拝を集める人物である。
特に直隷、江蘇、安徽、江西、浙江などの経済先進地域では、士大夫らもとりわけ口うるさい故、
信服させるに足る人材を送り込むのが常である。
定州に送り込まれてくるのは、直隷省学政ということになる。


学政の任期は3年。

赴任して最初の年にまず「歳試」を行う。
これはすでに童試に合格した者に対して、3年に一度、確認の学力テストを行うもの。
童試に合格すると、「生員」の称号を与えられるが、
それは社会で一定の尊敬を集めることを意味する。

生員以上に対し、平民はこれを敬う義務があり、集まりでは常に上席を譲り、
官吏は礼を持って接しなければならない。

何かの刑事事件にかかわった場合でも、官吏はこれを一存で逮捕することはできず、
教官の許可を受けなければならない。

生員は授業に出ることはなくとも、名義上は府学、県学の学生ということになっており、
その管轄は学校の教官という建前になっているのである。
つまりは何かの事件に巻き込まれた時にも、平民と比べると、理不尽な思いをすることが格段に少なくなることを意味する。



そのような地位に応えるためにも、合格当初の学力を維持していることを確認しなければ、
名誉と地位を授与した側として、責任が取れないということらしい。

三年に一度行われる「歳試」は、必ず受験しなければならず、
無断で欠席すれば、一度でも称号剥奪となる。

また理由を届け出て認められれば、欠席も許されるが、3度以上すれば同じく剥奪。

但し、生員になって30年以上たった人、70歳以上の人、会場に来れない持病を持った人は許される。
成績は5等に分けられ、最後の5等になった人は、称号をはく奪されて平民に戻された。


しかし道光年間以後、4等以下はほとんど出さない方針となったという。
それは苦労して手に入れた地位をはく奪されることに士大夫層が強く抵抗を示したためと思われる。
合格者を出すことが、社会に対する福利の一つでもあったのだろう・・・。

・・・確かに、生産活動にも従事せず、必死に机にかじりついてようやく得た地位を
3年ごとのテストで落とされるかと戦々恐々とせねばならぬとなれば、たまったものではない・・・・。






大堂


学政の仕事は、ひたすら試験答案の採点を組織していくことである。

赴任の最中、ひたすら地域内の各府を回り、試験を実施していく。

大堂はその学政の事務所となるところである。

前述のとおり、人にはそれぞれ文章の好みがある。
さらに自らの考え、思想を反映させた判断基準というものがあるものだろう。

そんなトップの方針を反映させるには、それぞれの府の現地の採点官では、
もちろん採点基準、思想の統一をすることができない。

したがって学政は、自ら雇った私設秘書である幕僚を採点の助手として雇い、
その集団とともに、旅から旅へ移動していくのである。

小規模な省なら、幕僚の数は5-6人、
江南の巨大省なら、10人を超すこともある。


大堂では、学政とその幕僚たちが、忙しく立ち働いていたのかしら・・・。


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