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北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語10、世職幼学から咸安宮官学に上がれる可能性

2016年05月10日 00時34分56秒 | 和珅少年物語
爵位世襲子弟のための学校世職幼学「」は、四校作られた。
[金襄]黄旗と正白旗で一校、[金襄]白旗と正藍旗で一校、正黄旗と正紅旗で一校、[金襄]紅旗と[金襄]藍旗で一校である。

八旗それぞれの米局(官米を管理する官庁)が相談し、近くの空き部屋を整備して校舎にせよ、という。
管理は各翼から参領(武官の一種)を二人出し、当番を決めて順番に管理する。

満州語と騎射の教師は、満州の「閑散(無職でぶらぶらしている人というほどのニュアンス)」の筆帖式(ビジャンシ、書記)
または降格された官員から選べ、という。
教師の選び方にもあまり気合いが入っていない。
 

なにはともあれ、和[王申]と和琳の兄弟が「世職幼学」に通ったとすれば、
本籍の正紅旗に属する学校に行ったと考えるのが自然である。

創設当時の上奏文(前回掲載)には乾隆十七年(1752)の時点で、
爵位を持ちながら未成年のままの児童は百七十人であったと書かれていた。

これを四校で割ると、一校平均四十人あまり、教室が二、三部屋あれば足りる程度の規模だ。
継承者本人だけでなく、その兄弟らも多少は入れたことだろう。
 
和[王申]と和琳以外にも、義母が生んだ異母兄弟らも一緒に通ったと思われるが、
そこから選抜されて咸安宮官学に行くには実力勝負である。

四十人規模の小さな学校であれば、咸安宮官学に選抜されるのは、おそらく一、二人がせいぜいだ。

咸安宮官学自体が九十人から百人程度の定員しかない。
在学年数が十三歳から二十三歳までの十年であることを考えると、
毎年二十三歳を過ぎて離校する学生は、十人程度となる。

これを八旗官学八校と世職幼学などから新入生を補欠するとすれば、
一校から選抜されるのは、せいぜい一、二人だ。

この状況を考えると、和[王申]兄弟は選抜されたが、ほかの異母兄弟らが入るほどの枠はなかったと思われる。
彼らは甘やかされて育ち、和[王申]兄弟ほどハングリーになる動機がない。



大臣らが奏文に書いていた世襲子弟らの傍若無人ぶりは、あきれたものがある。
おそらく熱心に勉強するような子供が、稀であった中、
和[王申]と和琳の兄弟が頭角を現すのは、そんなに難しいことではなかったろう。

二人は両親に先立たれ、継母の支配する家の中で、異母弟らにも遠慮しながら暮らすという、
年に似合わない苦労をしているおかげで、向上心があった。

家の中でのさばり暮らす異母弟らに対する意地もあり、
――このままでは終わらない
という思いは強かったはずである。

これに対して、何の苦労もせずに傲慢に育った異母兄弟らは、
まじめに勉強に精を出そうという覇気はない・・・・という図が思い浮かぶ。

もし爵位を告ぐ立場になれば、何もしなくても一生月々に俸禄が入ってくる。

例えば、和[王申]家の三等軽車都尉なら、年俸は百六十両もらえる。

一般的には嫡男がこの地位を継ぐことになり、それ以外の兄弟ははじき出されることになるが、
兄弟が困れば面倒は見ざるを得ない。

どちらにしても、食うには困らない。
そもそも中国の家族制度では基本的に分家しない。

長男は財産を継ぐ代わりに、弟らを家から追い出すこともなく、
一緒に暮らし、皆食うに困らないだけの暮らしは保証する制度になっている。

満州人は、漢族に比べて特権階級にあったとはいえ、それは経済的な優位とは別である。
苦労して八旗兵になったところで、砲手で月二両、つまり年俸は二十四両にしかならない。

前鋒で月四両、年俸四十八両、江南あたりの豪商と比べれば、はした金でしかない。
爵位を世襲できる家柄に生まれたどら息子らが、これでは馬鹿らしくて学業や武芸に励んで出世しようと言う気が起こらなかったはずだ。

まったくやる気のない同年代の少年らは、ハングリーな和[王申]と和琳兄弟の敵ではなかった。
彼らはこつこつと勉学を重ね、に選抜されて通うこととなったのである。


和[王申](満州名ヘシェン)と和琳(ヘリエン)の兄弟は、
十代の始めに咸安宮(かんあんきゅう)官学に入学した。

学校生活でも兄の和[王申]が何かと弟をかばって面倒を見たのか。
兄の和[王申]は生活や家庭環境の圧力を受けて、がめつい苦労人となり、お金の工面から生活の面倒まで見た。

和琳の軌跡が、兄ほどえげつない印象を与えないのは、そんなことが理由なのではないだろうか。
世間の世知辛さも知らなければ、お金の苦労もすべて兄が引き受けてくれたから・・・・。

苦労知らずという面がある一方で、和[王申]のような出世欲満々の鼻息の荒さ、えげつなさはない・・・。
たった三歳しか違わない兄弟でもその苦労の重さが違うのだった。


数年後にはいつのまにか、兄は天子様のお気に入りとなり、
和琳もその七光りでどんどん出世することになる。
しかし元から苦労知らずで兄のような猛烈なハングリーさがない和琳にとってそれは戸惑うことの方が多かった。

上からどんどん引っ張ってくる和[王申]に必死についていこうと息を切らせて走ってくるといった印象である。
しかも兄はやり方がえげつな過ぎて悪評ばかりが聞こえてくる。

かと言って、これと言ってずばぬけた才能がない和琳は自分の力だけでそこまで出世することは不可能だ。
兄の七光りをつき返すわけにも行かない。
 


・・・これは後の話である。
和[王申]兄弟の苦労はまだ続いている。

現代の我々の感覚から言えば、支配階級として圧倒的多数の漢族の上に君臨する満州族にも貧乏人なぞいたのか、
といぶかしいが、どうやらよくあった話らしい。


清の建国以来、生活が良くなったこともあり、八旗人口は爆発的に増えた。
ところが八旗兵の定員はあまり増えない。

康熙五十年(一七一一)の時点で、京師八旗は千二百九十三「佐領」の規模だったという。
佐領は軍隊の単位で一佐領の兵士が約百三十から百四十人なので、
京師(北京)全体の定員が十九万人あまりということになる。

ところが実際にはさらに二十万人の成人男性旗人が仕事にありつけず、あぶれていたのである。


「旗人は商い、農業をしてはいけない」
という規定がある。

これでは当時の人間が従事できる仕事はほかにないではないか、どうせえっちゅうねん、と言いたくなるが、
すでに康熙帝の時代から「不良旗人」の存在が社会問題になっていた。

北京でやることもなくぶらぶらして賭博、買春、観劇に明け暮れ財産を食いつぶす旗人が増え、皇帝の頭痛い問題だったのだ。
 

・・・・以上のような社会環境を考えると、満州族である和[王申]兄弟がお金に困っていることも、よくある話だったのである。
江戸時代の旗本が傘張りの内職をしていたようなものであろうか。





元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。



多田麻美さんの胡同の本です。

老北京の胡同: 開発と喪失、ささやかな抵抗の記録
張 全
晶文社




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