では、和[王申]と和琳の兄弟は、どういう資格と経緯をもって、
咸安宮官学に入ることができたのだろうか。
咸安宮官学は、優秀者の選抜学校である。
「優秀」と認められるには、ただ家で先生を雇って勉強をしていたのでは、
「優秀」と評判がたつのは、難しい。
やはりそれ以前にどこかの学校に属し、そこで成績が上位だったために選ばれたと考えるのが自然だろう。
前段階に通っていた学校としては、まずは八旗官学が考えられる。
和[王申]兄弟の父親の福建副都統という地位は、武官として正二品官。
縁故による選抜が著しかったとしても、和[王申]の家柄は充分に選ばれるだけの資格がある。
第一、爵位保持者の子弟は、無条件でに入学できる規定があるのだ。
和[王申]が先祖から世襲する三等軽車都尉も末端ながら、爵位には違いない。
乾隆元年(一七三六)、討議の結果、以下の内容が決議された。
「八旗世職で二十歳以下の者、それぞれ各旗の官学で共に勉強するように。
三年満期になれば、当旗の大臣が試験を行い、等級に分けて引見して採用せよ。
三年たっても二十歳に満たない場合は、そのまま勉強を続け、満二十歳になってから、試験を受けよ。」
和[王申]は、三等軽車都尉の跡継ぎというだけで、
まずは八旗官学への入学資格は、無条件に持っていたことになる。
弟の和琳も少し運動すれば、一緒に入れてもらうことは、そんなに難しくないはずだ。
まずは自分の所属する正紅旗の八旗官学に通い、そこから頭角を現して咸安宮官学に選抜された可能性が考えられる。
もう一つ考えられるルートは、「世職幼学」からの選抜である。
世職幼学は、爵位を継いだ子弟が通う。
どうやら彼らは、先祖の威光を食い物にして、好き放題やらかし、八旗社会内で頭痛の種になっていたらしい。
学校設立のきっかけは、乾隆十七年(1752)の上諭から始まる。
「最近の八旗世襲官は、満州語や騎射も習わず、見るに耐えないほどに流される者が多い。
これも皆、幼いころから官を世襲し、(何もせずとも)俸禄を食めるがために、
向上心がなくなり、ただ安逸を求めるがためなり。
(所属する旗の)都統がしっかり教育せんがために起こったことだ。」
わがまま世襲官の堕落ぶりを都統らの責任とされるとは、都統もいい面の皮である。
「これらの官は皆、先祖が功を立てたおかげで世襲するに至っている。
ところがまだ職務につく年齢に達さぬうちは、ただ遊び暮らすだけで、
正務にも精を出さず、堕落するに任せて無用の長物と化してしまった。
何か仕事を与えて勤務させたなら、かの者らも実績を作れるだろう。」
爵位を世襲したドラ息子らのわがままぶりを嘆いたまではいいが、
その後の乾隆帝の解決策の提案は、何とも歯切れが悪い。
何か仕事をさせよ、と言ったものの、
八旗人口が増えて五体満足な成人男子旗人が無職でうろうろしているのを知っているだけに、要領を得ない。
「各旗の定員はいくらもなく、侍衛になるにも順番がなかなか回ってこない状態である。
そこで、かの者らを八旗護軍営にいれ、参領、護軍校などのもとに通わせよ。
騎射を習わせ、練達すれば、正式に採用せよ。
これなら幼き者どもも立派な人材となることができるだろう。
この件、検討せよ。」
検討せよ、と押し付けられたのは、軍機大臣、八旗都統、前峰統領、護軍統領らである。上奏文に書いていわく。
「我がお上のお言葉、世襲官が安逸に走り、無用となることを恐れ、武芸を習えとのこと、仁厚の至りなり。
調べたところによりますと、
八旗世襲官は大臣の侍衛、部院(六部などの中央官庁)、衙門(がもん・役所)や各営で、
自力(世襲の資格に頼らず)勤務している者以外には、倉庫番、城街(巡回警察)などを勤めております。
(中略)
現在各旗にあるポストを回すとなると、旗人の定員はいくばくもなくなってしまいます。」
回りくどく書いてはいるが、要するにいくらもないポストを、ろくに能力もなく、
プライドだけ高い世職子弟に回せといわれ、ひどく迷惑だと言いたいらしい。
「成人に達していない幼官は、ただ禄を食むだけでどこに勤務して修行する場所もないにも関わらず、
自ら進んで学校に入学しようという者は極めて少ない。
これらの児童らは甘やかされてまったく武芸も習わず、
世職にあることを笠に着てでたらめに振る舞い、やくざまがいである。
故に成長して賢者になる例は極めて少なく、不肖の者が多い。
調べたところでは、未成年の幼官は合計百七十名、
もし特に大臣を派遣して教育してもらえるなら、役に立つ人材にもなろうと思う。」
と、ここからは、仕事を回せという論理がいつの間にか、教育問題にすり替っている。
仕事を回すのもいやだし、わがままな連中のめんどうを見るのは、
軍隊より専門の学校を作ったほうがいい、という提案である。
「検討の結果、
両翼(八旗を二翼に分けた数え方)に各二学設け、
米局(官米を管理する官庁)の現有の官房を急ぎ修理して校舎にあてることとしては如何か。
八旗幼官のなかで十歳以上の者に入学を命じて満州語と騎射を習わせる。
三年の満期になれば試験をして、それぞれ採用せん。」
こうして乾隆十七年(一七五二)、世襲子弟のための学校「世職幼学」が発足した。
三等軽車都尉の爵位を持つ家に生まれた和[王申]と和琳の兄弟は、
この学校に通っていた可能性も高い。
おそらくこの学校ができてからは、
八旗官学の枠をこれらの世襲子弟が奪うのは、はばかられたのではないだろうか。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
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咸安宮官学に入ることができたのだろうか。
咸安宮官学は、優秀者の選抜学校である。
「優秀」と認められるには、ただ家で先生を雇って勉強をしていたのでは、
「優秀」と評判がたつのは、難しい。
やはりそれ以前にどこかの学校に属し、そこで成績が上位だったために選ばれたと考えるのが自然だろう。
前段階に通っていた学校としては、まずは八旗官学が考えられる。
和[王申]兄弟の父親の福建副都統という地位は、武官として正二品官。
縁故による選抜が著しかったとしても、和[王申]の家柄は充分に選ばれるだけの資格がある。
第一、爵位保持者の子弟は、無条件でに入学できる規定があるのだ。
和[王申]が先祖から世襲する三等軽車都尉も末端ながら、爵位には違いない。
乾隆元年(一七三六)、討議の結果、以下の内容が決議された。
「八旗世職で二十歳以下の者、それぞれ各旗の官学で共に勉強するように。
三年満期になれば、当旗の大臣が試験を行い、等級に分けて引見して採用せよ。
三年たっても二十歳に満たない場合は、そのまま勉強を続け、満二十歳になってから、試験を受けよ。」
和[王申]は、三等軽車都尉の跡継ぎというだけで、
まずは八旗官学への入学資格は、無条件に持っていたことになる。
弟の和琳も少し運動すれば、一緒に入れてもらうことは、そんなに難しくないはずだ。
まずは自分の所属する正紅旗の八旗官学に通い、そこから頭角を現して咸安宮官学に選抜された可能性が考えられる。
もう一つ考えられるルートは、「世職幼学」からの選抜である。
世職幼学は、爵位を継いだ子弟が通う。
どうやら彼らは、先祖の威光を食い物にして、好き放題やらかし、八旗社会内で頭痛の種になっていたらしい。
学校設立のきっかけは、乾隆十七年(1752)の上諭から始まる。
「最近の八旗世襲官は、満州語や騎射も習わず、見るに耐えないほどに流される者が多い。
これも皆、幼いころから官を世襲し、(何もせずとも)俸禄を食めるがために、
向上心がなくなり、ただ安逸を求めるがためなり。
(所属する旗の)都統がしっかり教育せんがために起こったことだ。」
わがまま世襲官の堕落ぶりを都統らの責任とされるとは、都統もいい面の皮である。
「これらの官は皆、先祖が功を立てたおかげで世襲するに至っている。
ところがまだ職務につく年齢に達さぬうちは、ただ遊び暮らすだけで、
正務にも精を出さず、堕落するに任せて無用の長物と化してしまった。
何か仕事を与えて勤務させたなら、かの者らも実績を作れるだろう。」
爵位を世襲したドラ息子らのわがままぶりを嘆いたまではいいが、
その後の乾隆帝の解決策の提案は、何とも歯切れが悪い。
何か仕事をさせよ、と言ったものの、
八旗人口が増えて五体満足な成人男子旗人が無職でうろうろしているのを知っているだけに、要領を得ない。
「各旗の定員はいくらもなく、侍衛になるにも順番がなかなか回ってこない状態である。
そこで、かの者らを八旗護軍営にいれ、参領、護軍校などのもとに通わせよ。
騎射を習わせ、練達すれば、正式に採用せよ。
これなら幼き者どもも立派な人材となることができるだろう。
この件、検討せよ。」
検討せよ、と押し付けられたのは、軍機大臣、八旗都統、前峰統領、護軍統領らである。上奏文に書いていわく。
「我がお上のお言葉、世襲官が安逸に走り、無用となることを恐れ、武芸を習えとのこと、仁厚の至りなり。
調べたところによりますと、
八旗世襲官は大臣の侍衛、部院(六部などの中央官庁)、衙門(がもん・役所)や各営で、
自力(世襲の資格に頼らず)勤務している者以外には、倉庫番、城街(巡回警察)などを勤めております。
(中略)
現在各旗にあるポストを回すとなると、旗人の定員はいくばくもなくなってしまいます。」
回りくどく書いてはいるが、要するにいくらもないポストを、ろくに能力もなく、
プライドだけ高い世職子弟に回せといわれ、ひどく迷惑だと言いたいらしい。
「成人に達していない幼官は、ただ禄を食むだけでどこに勤務して修行する場所もないにも関わらず、
自ら進んで学校に入学しようという者は極めて少ない。
これらの児童らは甘やかされてまったく武芸も習わず、
世職にあることを笠に着てでたらめに振る舞い、やくざまがいである。
故に成長して賢者になる例は極めて少なく、不肖の者が多い。
調べたところでは、未成年の幼官は合計百七十名、
もし特に大臣を派遣して教育してもらえるなら、役に立つ人材にもなろうと思う。」
と、ここからは、仕事を回せという論理がいつの間にか、教育問題にすり替っている。
仕事を回すのもいやだし、わがままな連中のめんどうを見るのは、
軍隊より専門の学校を作ったほうがいい、という提案である。
「検討の結果、
両翼(八旗を二翼に分けた数え方)に各二学設け、
米局(官米を管理する官庁)の現有の官房を急ぎ修理して校舎にあてることとしては如何か。
八旗幼官のなかで十歳以上の者に入学を命じて満州語と騎射を習わせる。
三年の満期になれば試験をして、それぞれ採用せん。」
こうして乾隆十七年(一七五二)、世襲子弟のための学校「世職幼学」が発足した。
三等軽車都尉の爵位を持つ家に生まれた和[王申]と和琳の兄弟は、
この学校に通っていた可能性も高い。
おそらくこの学校ができてからは、
八旗官学の枠をこれらの世襲子弟が奪うのは、はばかられたのではないだろうか。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
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