正史には伝わらない和[王申](満州名ヘシェン)の幼年期に肉薄するため、
さまざまな方向から分析を試みている。
思春期に大きな影響を与えたと思われるのは、なさぬ仲の継母、伍弥泰(ウミタイ)の娘である。
十歳前後で父親が他界しているため、この継母が家庭で絶対的な権力を握っていただろうと想像するからである。
彼女はモンゴル人である。
その影響の大きさのほどを続けて分析して行こうと思う。
再び和[王申]より百年後の清末西太后の時代の記述を見ていくことにしよう。
清末のモンゴル王公の一人に、ハルハ親王の那彦図(ナヤントゥー)(サイイン・ノヤン部出身)がいる。
ご先祖様の策凌(ツェリン)が康熙年間、オイラート部の平定で戦功を立てて以来、
清初からすでに京師(北京)に王府を構え、京師で暮らすこと二百年近くとなっていた。
ほとんど京師の習慣に染まってしまっているのではないか、といいたくなるが、
経済基盤(そこから上がる年貢)である土地がモンゴルにある以上、影響力はある。
清の朝廷はモンゴル王公に対して、
「最初の子供を必ずモンゴル現地に帰って産み落とし、教育せよ」
と言う規定を設けていた。
少なくとも十歳までは北京に連れてきてはならない、と。
この規定を見る限り、幼少期にモンゴル現地で育てられた殿様、格格(ゴーゴ・姫様)は案外多かったのかもしれない、
と想像することができる。
また家庭内の私塾では、モンゴル現地からモンゴル語の教師を呼び寄せ、モンゴル語の教育に当たらせたという。
満州族の王府と違い、モンゴル王府では宦官も使わなかった。
王らは代々清朝皇室の公主や満州族の娘を正妻や側室にもらってきた。
那彦図(ナヤントゥー)の正福晋(フジン・夫人)は慶親王の娘、
以下六人の側福晋(側室)のうち、少なくとも半分は満州族である。
皇室から嫁いでくる公主らは、時に自分が小さい頃から使っている宦官を連れてきたが、
モンゴル王府では彼らに仕事をさせなかったので、
じきに手持ち無沙汰でつまらなくなり、他家に転属を希望して出て行ってしまうという。
以上の記述を見る限り、清末のモンゴル的習慣が薄れる傾向にある時代でもこうだったのだから、
これより百年以上前の人である和[王申]の継母は、こてこてのモンゴル人だったと想像することができる。
和[王申](満州名ヘシェン)の家は、モンゴル人の継母が来たことで、
家庭内の雰囲気が一変したことだろう。
前述のとおり、新郎よりも格上の家柄から嫁いだこともあり、
態度でかく、遠慮もなかったものと思われる。
母語はモンゴル語だった可能性も高い。
満州語や中国語はもちろん、意思疎通程度の教養はある。
連れてきた女中、下僕はすべてモンゴル人。
季節ごとに大量の乳製品が送り届けられ、厨房からは常に濃厚なチーズの匂いが漂う・・・・。
満州族はここまで羊や乳製品どっぷりの習慣ではない。
前述の清末のモンゴル親王・那彦図(ナヤントゥー・略して那王(ナー・ワン))の家には、
常駐のラマ僧が二、三人いたという。
那王府では、大晦日の夜には、家廟のある院の中庭に
小さなモンゴル・ゲル(天幕=包(パオ))を組み立てて多くのラマ僧を呼び、中で両側に座らせて読経させた。
これは満州族にはない、北京在住のモンゴル王公独特の習慣と言える。
満州族も「満蒙一家」政策の下、チベット仏教を受け入れはしたが、
家にラマ僧を常駐させたり、年越しに呼び入れたりするほど信仰熱心ではなかった。
この点、王公にいたるまで息子のうち少なくとも一人を必ず寺に入れてラマ僧にするモンゴルは、
チベット仏教の浸透の深さが違うというものだ。
和[王申]の継母の父・伍弥泰(ウミタイ)は、モンゴル王公ではない。
蒙古八旗所属の旗人であり、やや身分は異なる。
建国当時、満州族はモンゴル族を帰属させる段階で、そのリーダーらをそのまま王公として冊封した。
モンゴルではチンギスハンの時代以降、
その直系子孫を崇拝してリーダーに推戴する伝統ができ、
彼らをボルジギンと言った。
清朝が冊封した王公らもほとんどがボルジギンである。
満州族の王は世代が下がるごとに格下げされていく。
ある皇族が手柄を立てて親王に冊封されても、死んで息子が後を継ぐとワンランク下の群王に格下げとなる。
その下はさらに下げられ、数世代で無冠となってしまうようにできているのである。
これに対して、モンゴル王公は別扱いで「世襲罔替(せしゅうもうたい)」、
つまり世代が下がってもランクが下がらない、末代まで親王は親王のまま、という特権を与えられていた。
建国から一貫して国の主力軍事力であり続けたモンゴル族への優遇の体現である。
彼らはモンゴルの地に自らの領土と属民を抱え、ある程度の自治が認められていた。
伍弥泰(ウミタイ)はボルジギンではないし、領土を持つ王公でもない。
蒙古正黄旗(もうこせいこうき)の所属である。
先祖の巴頼都爾奔奈(バライドルボンナ)は察哈爾(チャハール)のに暮らしていたが、
太宗ホンタイジの時代に帰属し、頭等男爵を授かった。
男爵は正二品の爵位、王公の爵位とはまったく別系統である。
清代の爵位は宗室(=皇室)爵位、異姓功臣爵位、蒙古爵位に分かれており、
伍弥泰(ウミタイ)の先祖は「異姓功臣爵位」というカテゴリーの中で、男爵を授かっていたのである。
その後、伍弥泰(ウミタイ)の父親・阿喇納(アラナ)の世代でトルファン将軍まで出世し、
男爵よりさらに二ランク上の伯爵を授かった。
伍弥泰(ウミタイ)は父親の爵位を継いで三頭伯の位をそのまま受け継ぐ。
蒙古八旗の中では上の下程度に入る家柄だったといえる。
このように伍弥泰(ウミタイ)は、王公ほど生まれはよくなかったが、
自らの実力で涼州将軍、江寧将軍などを歴任し、正二品以上の高官となった。
経済的にも王府に匹敵するくらいの屋敷と消費力はあったと思われる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。
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さまざまな方向から分析を試みている。
思春期に大きな影響を与えたと思われるのは、なさぬ仲の継母、伍弥泰(ウミタイ)の娘である。
十歳前後で父親が他界しているため、この継母が家庭で絶対的な権力を握っていただろうと想像するからである。
彼女はモンゴル人である。
その影響の大きさのほどを続けて分析して行こうと思う。
再び和[王申]より百年後の清末西太后の時代の記述を見ていくことにしよう。
清末のモンゴル王公の一人に、ハルハ親王の那彦図(ナヤントゥー)(サイイン・ノヤン部出身)がいる。
ご先祖様の策凌(ツェリン)が康熙年間、オイラート部の平定で戦功を立てて以来、
清初からすでに京師(北京)に王府を構え、京師で暮らすこと二百年近くとなっていた。
ほとんど京師の習慣に染まってしまっているのではないか、といいたくなるが、
経済基盤(そこから上がる年貢)である土地がモンゴルにある以上、影響力はある。
清の朝廷はモンゴル王公に対して、
「最初の子供を必ずモンゴル現地に帰って産み落とし、教育せよ」
と言う規定を設けていた。
少なくとも十歳までは北京に連れてきてはならない、と。
この規定を見る限り、幼少期にモンゴル現地で育てられた殿様、格格(ゴーゴ・姫様)は案外多かったのかもしれない、
と想像することができる。
また家庭内の私塾では、モンゴル現地からモンゴル語の教師を呼び寄せ、モンゴル語の教育に当たらせたという。
満州族の王府と違い、モンゴル王府では宦官も使わなかった。
王らは代々清朝皇室の公主や満州族の娘を正妻や側室にもらってきた。
那彦図(ナヤントゥー)の正福晋(フジン・夫人)は慶親王の娘、
以下六人の側福晋(側室)のうち、少なくとも半分は満州族である。
皇室から嫁いでくる公主らは、時に自分が小さい頃から使っている宦官を連れてきたが、
モンゴル王府では彼らに仕事をさせなかったので、
じきに手持ち無沙汰でつまらなくなり、他家に転属を希望して出て行ってしまうという。
以上の記述を見る限り、清末のモンゴル的習慣が薄れる傾向にある時代でもこうだったのだから、
これより百年以上前の人である和[王申]の継母は、こてこてのモンゴル人だったと想像することができる。
和[王申](満州名ヘシェン)の家は、モンゴル人の継母が来たことで、
家庭内の雰囲気が一変したことだろう。
前述のとおり、新郎よりも格上の家柄から嫁いだこともあり、
態度でかく、遠慮もなかったものと思われる。
母語はモンゴル語だった可能性も高い。
満州語や中国語はもちろん、意思疎通程度の教養はある。
連れてきた女中、下僕はすべてモンゴル人。
季節ごとに大量の乳製品が送り届けられ、厨房からは常に濃厚なチーズの匂いが漂う・・・・。
満州族はここまで羊や乳製品どっぷりの習慣ではない。
前述の清末のモンゴル親王・那彦図(ナヤントゥー・略して那王(ナー・ワン))の家には、
常駐のラマ僧が二、三人いたという。
那王府では、大晦日の夜には、家廟のある院の中庭に
小さなモンゴル・ゲル(天幕=包(パオ))を組み立てて多くのラマ僧を呼び、中で両側に座らせて読経させた。
これは満州族にはない、北京在住のモンゴル王公独特の習慣と言える。
満州族も「満蒙一家」政策の下、チベット仏教を受け入れはしたが、
家にラマ僧を常駐させたり、年越しに呼び入れたりするほど信仰熱心ではなかった。
この点、王公にいたるまで息子のうち少なくとも一人を必ず寺に入れてラマ僧にするモンゴルは、
チベット仏教の浸透の深さが違うというものだ。
和[王申]の継母の父・伍弥泰(ウミタイ)は、モンゴル王公ではない。
蒙古八旗所属の旗人であり、やや身分は異なる。
建国当時、満州族はモンゴル族を帰属させる段階で、そのリーダーらをそのまま王公として冊封した。
モンゴルではチンギスハンの時代以降、
その直系子孫を崇拝してリーダーに推戴する伝統ができ、
彼らをボルジギンと言った。
清朝が冊封した王公らもほとんどがボルジギンである。
満州族の王は世代が下がるごとに格下げされていく。
ある皇族が手柄を立てて親王に冊封されても、死んで息子が後を継ぐとワンランク下の群王に格下げとなる。
その下はさらに下げられ、数世代で無冠となってしまうようにできているのである。
これに対して、モンゴル王公は別扱いで「世襲罔替(せしゅうもうたい)」、
つまり世代が下がってもランクが下がらない、末代まで親王は親王のまま、という特権を与えられていた。
建国から一貫して国の主力軍事力であり続けたモンゴル族への優遇の体現である。
彼らはモンゴルの地に自らの領土と属民を抱え、ある程度の自治が認められていた。
伍弥泰(ウミタイ)はボルジギンではないし、領土を持つ王公でもない。
蒙古正黄旗(もうこせいこうき)の所属である。
先祖の巴頼都爾奔奈(バライドルボンナ)は察哈爾(チャハール)のに暮らしていたが、
太宗ホンタイジの時代に帰属し、頭等男爵を授かった。
男爵は正二品の爵位、王公の爵位とはまったく別系統である。
清代の爵位は宗室(=皇室)爵位、異姓功臣爵位、蒙古爵位に分かれており、
伍弥泰(ウミタイ)の先祖は「異姓功臣爵位」というカテゴリーの中で、男爵を授かっていたのである。
その後、伍弥泰(ウミタイ)の父親・阿喇納(アラナ)の世代でトルファン将軍まで出世し、
男爵よりさらに二ランク上の伯爵を授かった。
伍弥泰(ウミタイ)は父親の爵位を継いで三頭伯の位をそのまま受け継ぐ。
蒙古八旗の中では上の下程度に入る家柄だったといえる。
このように伍弥泰(ウミタイ)は、王公ほど生まれはよくなかったが、
自らの実力で涼州将軍、江寧将軍などを歴任し、正二品以上の高官となった。
経済的にも王府に匹敵するくらいの屋敷と消費力はあったと思われる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。
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