和[王申](満州名ヘシェン)は、後に他人にはない特技を身につけていた。
---チベット語への精通である。
これは清朝全体を通しても珍しい。
満州族なら乾隆時代以降は、もちろん漢語は自由に操れただろうし、
モンゴル語は教養としてかなり浸透していた。
康熙帝や乾隆帝と言った皇帝自らもモンゴル王公らとモンゴル語で会話している。
・・・ここまでは、当時の満州族官僚にとっては常識の範囲内である。
しかしチベット語となると話は別で、そうそう誰でも操れたわけではない。
和[王申]のチベット語が、確かに特殊技能だったことは、後に乾隆帝がこれを褒めていることでも知れる。
乾隆五十七年(1792)四月、グルカ(現在のネパール)がチベットに侵入、清朝は軍隊を派遣し、国境紛争となった。
紛争が解決し、功労者の表彰を行うため、
翌年五月、功労者十五人の肖像画を作り、紫光閣に飾り、宴会を行った。
「御制平定廓弥喀(グルカ)十五功臣図賛」は、肖像画に乾隆帝が一人一人コメントを施したものである。
この中には和[王申]も含まれており、「大学士三等忠襄伯和[王申]」に対するコメントは、こうである。
「国家用武、帷幄糸綸、事殊四朝。原注、謂漢唐宋明、清文、漢文、蒙古、西番(チベット)頗通大義。
原注、去歳用兵之際、所有指示機宜、毎兼用清漢文、此分頌給達頼喇[口+麻](ダライラマ)、
及伝諭廓弥喀(グルカ)勅書、併兼用蒙古、西番字。
臣工中通暁西番字者、殊難其人、唯和[王申]承旨書諭、具能弁理秩如、勤労書旨、見称能事。」
大体の意味は、
「国が戦争をする際、政策決定に大きく貢献し、その功績は過去の四王朝にも稀に見るものだ。
原注、漢唐宋明の歴史、満州語、漢語、モンゴル、チベットの事情に詳しい。
原注、昨年軍隊動員の際、すべての指示は満州語と漢文を併用し、ダライラマに通達した。
グルカ側に出す勅令はモンゴル語とチベット語で書いた。
臣下でチベット語に精通する者はきわめて稀であり、
ただ和[王申]だけが上諭を書くことができ、その有能さが知れる。」
と言ったところである。
グルカへの国書はチベット語で書かれ、
あまたいる大臣らの中でも和[王申]しかその役目を果たすことができなかったことがわかる。
またグルカとの外交や戦争、交渉を進める段階で、和[王申]が政策決定に大きな発言権を持ち、
その根本となるのが、古今東西の歴史への精通というのである。
過去にも唐代にチベット(当時は吐番)が長安に侵入してきたことや、
その後のチベットとの交流に詳しかったことがわかり、
いわばチベット問題のエキスパートである。
和[王申]のそのようなチベット語エキスパートのスキルがいつ、どのように養われたのか---。
・・・と考える時、家庭の中のモンゴル人継母の存在が浮かび上がる。
なぜなら、咸安宮官学では確かにチベット語を教えるが、
同じ学校の先輩である阿桂などには、このような特技はない。
やはり学校教育以外に特殊な環境があったと考えるしかないのである。
それがモンゴル人の継母がよく実家から呼び入れていたラマ僧の存在ではないのだろうか。
ラマ僧はモンゴル人と言えども、チベット語に精通している。
チベットと縁が深かったのは、一蓮托生で生きていた和[王申]の弟・和琳(満州名ヘリエン)も同様だ。
乾隆五十七年(1792)、グルカ(現在のネパール)との国境紛争があった際、
和琳は軍糧調達係りとして従軍した。
この戦争は、兄の和[王申]も政策決定から国書起草に至るまで深く関わった事件である。
弟の和琳もチベットで三年を過ごす。
乾隆帝が和琳に書き送っている上諭にはこんな言葉がある。
「和琳は平素より仏教に帰依しているが、このたびチベットでの政務でダライ、パンチェン(ラマ)に会うときは、
通常の礼儀内に収めなくてはならない。
立場はダライ、パンチェンと対等なのだから、そのことを忘れるべからず(必要以上に崇拝したり、へりくだったりするな)。
以前の習慣は必ず改めよ。」
この乾隆帝の言葉からも、和琳のラマ教帰依が周囲の人々に広く知られていたことがわかる。
乾隆帝は、和琳がダライラマやパンチェンラマを神様のように崇拝して、
宗主国の使者として派遣されている威厳を失うことを恐れたのだ。
そんな心配をされるくらい和琳は、ピュアで純粋な性格だったのだろう。
出世街道を突っ走る兄に、兄弟の情にほだされるままに必死につま転びながらついていく図が思い浮かぶ。
和[王申]がチベット語が得意だったように、和琳も他の満州官僚よりは、
かなりチベット事情に詳しかったことが想像できる。
和[王申]兄弟はラマ教と特に縁が深かったのだ。
和琳のチベット滞在の苦労が伺える詩が残っている。
厳しい自然環境の中で書かれた詩にはその辺境で暮らす哀愁が伝わる。
野菜のないチベットでは中央から派遣された兵らのために四川からリレーで野菜を運ぶ。
「到此空嗟色香改 ここまで運ばれると色も香りも全然ない。
(中略)
吟詩大嚼挑銀灯
瓜茄有霊幸知己
大いに詩を吟じ、むしゃむしゃと野菜にかぶりつき、明かりを思いっきり明るく調節する。
きゅうりやなすびも私のような知己を得て幸せじゃ。」
--色も香りもなくても、数ヶ月ぶりに見る野菜。
あまりの嬉しさに油の明かりを大いに開け、
宴を張って仲間たちと夜の耽るのも忘れ、交互に詩をひねり出したことだろう。
仕事の面では、和琳が担当していた軍糧供給は軍隊の命である。
辺境の砂漠や山の中、軍糧が届いた地点までは勝ちつづけることができる。
軍糧のフロンティアが戦勝のフロンティアなのだ。
和琳は、重要な役目を担っていた。
和[王申]が中央で政策を決定し、弟に最大限の支持を与えて助けてやったことだろう。
和琳は、チベットで故郷に帰れない役夫らに救済措置を取ってもいる。
グルカと戦うため、チベットでの食糧調達は限界があった。
そのため四川省から険しい山を越えて軍量を運ばなければならなかった。
政府軍は四川で役夫を雇い、これを運ばせたが、
多くの役夫はチベットで放り出された後、故郷に戻れず、悲惨な状態にあった。
帰るための旅費もまかなえず、乞食をしながら四川へと帰った。
「可憐役夫衆 気の毒な役夫衆らよ。
帰路嗟逍遥 帰り道はああ、なんと遙に遠いことか。
雪峰七十二 雪の峰を越えること七十二。
斗日寒威驕 太陽は大きいが、寒さは威厳高く立ちはだかる。
人可万里歩 人は万里の道のりでも歩くことはできるが、
腹難終日枵 腹が減っては、一日中空しく叫ぶだけ。
家郷忍棄置 家の家族は棄て置くに忍びない。
乞食度昏朝 乞食をして過ごしてでも帰り着かねば。」
和琳はこれを見るに見かね、私財をなげうち、
この流浪の役夫らを故郷に護送してやった。
その数は二百人あまりあったという。
細やかな心遣いから人柄が伝わる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。
多田麻美さんの翻訳書
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---チベット語への精通である。
これは清朝全体を通しても珍しい。
満州族なら乾隆時代以降は、もちろん漢語は自由に操れただろうし、
モンゴル語は教養としてかなり浸透していた。
康熙帝や乾隆帝と言った皇帝自らもモンゴル王公らとモンゴル語で会話している。
・・・ここまでは、当時の満州族官僚にとっては常識の範囲内である。
しかしチベット語となると話は別で、そうそう誰でも操れたわけではない。
和[王申]のチベット語が、確かに特殊技能だったことは、後に乾隆帝がこれを褒めていることでも知れる。
乾隆五十七年(1792)四月、グルカ(現在のネパール)がチベットに侵入、清朝は軍隊を派遣し、国境紛争となった。
紛争が解決し、功労者の表彰を行うため、
翌年五月、功労者十五人の肖像画を作り、紫光閣に飾り、宴会を行った。
「御制平定廓弥喀(グルカ)十五功臣図賛」は、肖像画に乾隆帝が一人一人コメントを施したものである。
この中には和[王申]も含まれており、「大学士三等忠襄伯和[王申]」に対するコメントは、こうである。
「国家用武、帷幄糸綸、事殊四朝。原注、謂漢唐宋明、清文、漢文、蒙古、西番(チベット)頗通大義。
原注、去歳用兵之際、所有指示機宜、毎兼用清漢文、此分頌給達頼喇[口+麻](ダライラマ)、
及伝諭廓弥喀(グルカ)勅書、併兼用蒙古、西番字。
臣工中通暁西番字者、殊難其人、唯和[王申]承旨書諭、具能弁理秩如、勤労書旨、見称能事。」
大体の意味は、
「国が戦争をする際、政策決定に大きく貢献し、その功績は過去の四王朝にも稀に見るものだ。
原注、漢唐宋明の歴史、満州語、漢語、モンゴル、チベットの事情に詳しい。
原注、昨年軍隊動員の際、すべての指示は満州語と漢文を併用し、ダライラマに通達した。
グルカ側に出す勅令はモンゴル語とチベット語で書いた。
臣下でチベット語に精通する者はきわめて稀であり、
ただ和[王申]だけが上諭を書くことができ、その有能さが知れる。」
と言ったところである。
グルカへの国書はチベット語で書かれ、
あまたいる大臣らの中でも和[王申]しかその役目を果たすことができなかったことがわかる。
またグルカとの外交や戦争、交渉を進める段階で、和[王申]が政策決定に大きな発言権を持ち、
その根本となるのが、古今東西の歴史への精通というのである。
過去にも唐代にチベット(当時は吐番)が長安に侵入してきたことや、
その後のチベットとの交流に詳しかったことがわかり、
いわばチベット問題のエキスパートである。
和[王申]のそのようなチベット語エキスパートのスキルがいつ、どのように養われたのか---。
・・・と考える時、家庭の中のモンゴル人継母の存在が浮かび上がる。
なぜなら、咸安宮官学では確かにチベット語を教えるが、
同じ学校の先輩である阿桂などには、このような特技はない。
やはり学校教育以外に特殊な環境があったと考えるしかないのである。
それがモンゴル人の継母がよく実家から呼び入れていたラマ僧の存在ではないのだろうか。
ラマ僧はモンゴル人と言えども、チベット語に精通している。
チベットと縁が深かったのは、一蓮托生で生きていた和[王申]の弟・和琳(満州名ヘリエン)も同様だ。
乾隆五十七年(1792)、グルカ(現在のネパール)との国境紛争があった際、
和琳は軍糧調達係りとして従軍した。
この戦争は、兄の和[王申]も政策決定から国書起草に至るまで深く関わった事件である。
弟の和琳もチベットで三年を過ごす。
乾隆帝が和琳に書き送っている上諭にはこんな言葉がある。
「和琳は平素より仏教に帰依しているが、このたびチベットでの政務でダライ、パンチェン(ラマ)に会うときは、
通常の礼儀内に収めなくてはならない。
立場はダライ、パンチェンと対等なのだから、そのことを忘れるべからず(必要以上に崇拝したり、へりくだったりするな)。
以前の習慣は必ず改めよ。」
この乾隆帝の言葉からも、和琳のラマ教帰依が周囲の人々に広く知られていたことがわかる。
乾隆帝は、和琳がダライラマやパンチェンラマを神様のように崇拝して、
宗主国の使者として派遣されている威厳を失うことを恐れたのだ。
そんな心配をされるくらい和琳は、ピュアで純粋な性格だったのだろう。
出世街道を突っ走る兄に、兄弟の情にほだされるままに必死につま転びながらついていく図が思い浮かぶ。
和[王申]がチベット語が得意だったように、和琳も他の満州官僚よりは、
かなりチベット事情に詳しかったことが想像できる。
和[王申]兄弟はラマ教と特に縁が深かったのだ。
和琳のチベット滞在の苦労が伺える詩が残っている。
厳しい自然環境の中で書かれた詩にはその辺境で暮らす哀愁が伝わる。
野菜のないチベットでは中央から派遣された兵らのために四川からリレーで野菜を運ぶ。
「到此空嗟色香改 ここまで運ばれると色も香りも全然ない。
(中略)
吟詩大嚼挑銀灯
瓜茄有霊幸知己
大いに詩を吟じ、むしゃむしゃと野菜にかぶりつき、明かりを思いっきり明るく調節する。
きゅうりやなすびも私のような知己を得て幸せじゃ。」
--色も香りもなくても、数ヶ月ぶりに見る野菜。
あまりの嬉しさに油の明かりを大いに開け、
宴を張って仲間たちと夜の耽るのも忘れ、交互に詩をひねり出したことだろう。
仕事の面では、和琳が担当していた軍糧供給は軍隊の命である。
辺境の砂漠や山の中、軍糧が届いた地点までは勝ちつづけることができる。
軍糧のフロンティアが戦勝のフロンティアなのだ。
和琳は、重要な役目を担っていた。
和[王申]が中央で政策を決定し、弟に最大限の支持を与えて助けてやったことだろう。
和琳は、チベットで故郷に帰れない役夫らに救済措置を取ってもいる。
グルカと戦うため、チベットでの食糧調達は限界があった。
そのため四川省から険しい山を越えて軍量を運ばなければならなかった。
政府軍は四川で役夫を雇い、これを運ばせたが、
多くの役夫はチベットで放り出された後、故郷に戻れず、悲惨な状態にあった。
帰るための旅費もまかなえず、乞食をしながら四川へと帰った。
「可憐役夫衆 気の毒な役夫衆らよ。
帰路嗟逍遥 帰り道はああ、なんと遙に遠いことか。
雪峰七十二 雪の峰を越えること七十二。
斗日寒威驕 太陽は大きいが、寒さは威厳高く立ちはだかる。
人可万里歩 人は万里の道のりでも歩くことはできるが、
腹難終日枵 腹が減っては、一日中空しく叫ぶだけ。
家郷忍棄置 家の家族は棄て置くに忍びない。
乞食度昏朝 乞食をして過ごしてでも帰り着かねば。」
和琳はこれを見るに見かね、私財をなげうち、
この流浪の役夫らを故郷に護送してやった。
その数は二百人あまりあったという。
細やかな心遣いから人柄が伝わる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。
乾隆帝の幻玉―老北京(ラオベイジン)骨董異聞 | |
劉 一達,多田 麻美 | |
中央公論新社 |
多田麻美さんの翻訳書
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