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北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語4、包衣階級の成立と明代の宦官

2016年05月04日 07時46分23秒 | 和珅少年物語
和[王申]の母校、咸安宮官学は、雍正帝が行った一連の教育改革の一環として建てられた。
当初は満州族の学校ではなく、内務府「包衣」の子弟のための学校として発足したことは前述のとおりである。

「包衣」について、何度も出てきているが、しつこいながら(笑)改めて総括しようと思う。

満州語の「ボーイアハ」、家の奴僕を指す。
多くは、満州族が北京入りする前、満州の地で漢人の戦争捕虜や普通の農民を奴隷にした者たちである。

彼らはそのまま代々仕え、「内務府包衣」は、その中でも皇帝一家に仕える人々をいう。
奴隷とは言え、人間数十年もともに暮らしていれば、他人にはない信頼関係も生まれてくる。

主人である満州族が奴隷の漢人の言葉を覚えるわけはないので、
そこは当然、長く仕えるうちに包衣の方が満州語を覚えるようになってくる。


覚えなければ罰せられるわけではないが、覚えれば主人と精神的に深い会話をすることができ、かわいがってもらえる。
覚えた方が生きるのが楽であれば、人間は自然に努力するようになるものである。


言葉だけでなく、思考回路や生活習慣まで次第に満州に合わせるようになる。
漢人でありながら満州族の言葉と文化を深く理解し、漢語も忘れていない者どもの集団、
---それが「包衣」集団を形成する。

明との戦争が次第に拡大してくると、彼らは自然と「橋渡し役」となった。
新たに捕虜となった漢人に対する通訳、降伏条件の交渉などの通訳を務めるのは、
満州の武将らに昔から仕えているこれら包衣らであったろう。



清の首脳部が紫禁城に入ったとき、明王朝の宦官が九万人も残っていた。
外地に赴任していた宦官らも多かったので、全員が紫禁城にいたわけではないが、この異様な巨大集団を見て、清の朝廷は困った。

――この連中をどうしよう・・・・と。




元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。


明代から紫禁城に残っていた宦官らは、
政権が変わっても自分たちが必要とされる仕事の需要には変わりがないので、当然使ってもらえるものと思っていた。

主人が変わっても、普通の人間ではできない大事な役目。
――後宮の皇后様、お妃様たちの身の回りの世話をするのは、生殖能力をもたない彼らしか適さない。

これは確かに最もである。
しかし後宮の女性はいくらもいないから、九万人も必要はない。

明代の宦官の活用は、中国史上でも最大だったと思われる。
官公庁のあやゆる事務仕事、軍事監督、秘密警察に至るまであらゆる任務を担っていた。
そんな仕事のためになんで去勢が必要やねん、と言いたくなるくらい・・。


その理由:

 1、子孫を増やせないため、一人でできる贅沢、手に入れる権利は知れていること。
 2、特定の一族が権力を独占する心配がなく、皇帝ご一家御用向きの大切な事業を任せるには安心。

皇室直轄の織造局、炭鉱などの管理も宦官がやっていた。
そのほか大切な買い付け、隠密のご用達は、すべて宦官が責任を持ち、皇帝と秘密を共有していた。


しかし新たに紫禁城の主になった満州族は、
――うーむ。そういうことは、すべて包衣で済むではないか。

素直にそう感じたらしい。


実際、これまで皇帝個人の家庭向きの買い物、家事はすべて包衣集団がまかなって来た。

彼らには生殖機能はあるが、同じ一家の包衣の男女が結婚して子供を産み、
その子供もまた包衣になるだけのことである。

財産分散の問題は存在しない。


 
 
 
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。


――第一、言葉も習慣も違うのに、気持ち悪いわ。
もしかしたら、それが一番の理由だったかもしれない。
 
紫禁城に残っていた、九万人もの明の宦官を無用と感じた由縁である。
 

清初、京師(北京)に入城したばかりの満州族は、
漢人とはまったく別世界の異星人と言ってよく、両者の文化の違いはあまりにも大きかった。

言葉も違えば、生活習慣や服装、食べるものも違う、体臭でさえもまったく違った匂いがしただろう。

このため順治初年、満人と漢人のトラブルが耐えない。
当初は京師城内に満漢が雑居していたのが、その後漢人の居住を禁止せざるを得なかったのも、
生活習慣の違うもの同士が隣り合わせに住むと、いらぬ争いごとが耐えないからである。

同じように八旗軍が駐屯した全国の地方都市でも別個に「満城」を作り、雑居しないことを基本方針として貫いたのである。
 
それと同じように、いくら宦官らが
――ご奉仕させていただきます。
とかしこまったって、満州人側では非常に居心地が悪い。

腹心として使ってやってください、と言われても、
当時の満人は漢人にすぐに心を開けるものではない。

満人にとって、彼らは生殖能力を失った特殊な集団である前に、
漢語しか解さず、漢人の服を着て、漢人のものを食べる、ただの漢人でしかない。

数代前から半ば「満化」している包衣らの気安さとはわけが違う。



こうして清朝は、後宮で女性たちの身の回りの世話をする部分のみを残し、後の宦官はすべてお引取り願った。

明代には九万人いた宦官を九千人、十分の一に削減したのである。



 
   
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。

宦官が担当していた仕事は、
そのままほとんど包衣が担当することとなった。   

これまで明朝で宦官が司っていた二十四衙門は、「内務府」に組織され、
職員はほとんどを包衣出身者で固めた。

役所のあった場所も、まったく同じ紫禁城の西南角、咸安宮付近の一角である。
宦官が出て行き、包衣が代わりに入ってきた。


皇帝一家の生活に直接関わる日常生活を「七司三院」が扱う。
食べ物、着る物の調達、予算の調達などを行った。

着る物は江南に「蘇州織造」などの皇室直轄機関に作らせる。


明代には、まさに宦官が管理していた機関である。
織物を作るだけではなく、民情を探り、皇帝に密書を書くスパイの役割を果たしていた。
このようなあまり表沙汰にできないような隠密行動は、数世代前から馴染んでいる包衣に任せるのが安心できたのである。

『紅楼夢』の作者、曹雪芹の家族は包衣出身で何代にも渡り織造を勤めたことで知られる。

曹雪芹については、以下の過去ログも参考に・・・。

 清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路
 の中の25皇子あたりの記述を参考に。延々と皇子らの軌跡が続くので、前の方はさっさと飛ばして、中間あたりまで進んでください。

このほか、大きな予算が動くポストである河道監督(黄河などの治水を見る)、税関などは、包衣で押さえることが多かった。

 

 元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。


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