1937年の盧溝橋事件から日本占領期間、続けて国共内戦の時期にかけては、戦争で糞業改革どころではなくなる。
糞具を改善し、糞道の登記を行ったところまでかろうじて進め、
そのまま1949年の新中国成立を迎えるのである。
共産主義となり、すべての職業の「公営化」が実施される中、
糞業があっけなく公営化されたことは、いうまでもない。
「糞覇」はいなくなり、打倒され、すべての糞夫は公務員となったが、
逆に市の行政が糞業で儲ける目的もなくなった。
これについては後述する。
中国で糞夫といえば、すぐに名前が挙がるのが「時伝祥」である。
1950年代の労働模範であり、
中国の小学校の教科書には日本でいえば、二宮金次郎のように「見習うべきえらい人」として、エピソードが必ず載っている。
そして必ずセットに掲載されているのが、劉少奇との握手の写真である。
共産主義になってからの糞業の流れを見る前に、ここからしばらくは時伝祥の生涯を追いたい。
一つには、これまで民国時代の糞夫の生態を追ってきたが、実在する糞夫の実例がなかったことがある。
時伝祥の前半生を追うことにより、実際に糞夫が経験した事象をこれまでの総括としたい。
その次に時伝祥の後半生を通して、解放後の糞業の経緯を見て行きたい。
彼の人生は共産主義下の糞業の生きた標本の如し。
その人生に沿い、共産主義となってからの糞業の沿革を追う。
糞桶を背負った時伝祥。
時伝祥は1915年、山東省斉河県の生まれである。
斉河県は、山東省の省都・済南のすぐ西にあり、
これまで見てきたとおり、北京の糞夫はほとんどが山東省出身、その例に漏れない。
時伝祥は貧しい農家・時家の五男一女の6人兄弟の四人目として生まれた。
貧しさのために上の兄二人は小さい頃に裕福な家の養子に売ってしまい、
3番目の兄が実質の長男、次に時伝祥、その下にはさらに弟と妹がいた。
一家は塩害にやられた8畝(=ムー、30坪。ムーの計算の仕方はこちら)でどうにか飢え死にしないだけのぎりぎりの食糧を養っていた。
塩害がひどいために実際に耕作できるのは6、2ムーのみ、不作の年は1ムーに40斤(=1斤は500g)しか収穫できなかった。
ということは6ムーで240斤、つまりは120kg、
1ヶ月に10kgを一家6人で食べると、1ヶ月1人当たり1、2kgほど。
・・・・確かに生存条件ぎりぎりといえるだろう。
6ムー余りといえば、180坪。日本人の感覚からすると、すさまじく広大な土地ではないか、と思う。
実は現代でもそうで、今でも北方にいけばいくほど、かなりの広さの土地の支給を受けているようだ。
出張などで華北以北の地方に行き、タクシーを拾った際、家の土地はどれくらいだ、と聞いたりすれば、やはり5ムーだの8ムーだの答えが返ってくる。
これが南方になると、生産力が高く人口密度が高くなるため、どんどん少なくなる。
安徽省出身だったお手伝いさんに聞くと、家の土地は半ムーだという。
南方では雨がじゃんじゃん降るほかにも、
灌漑施設が充実しており、天候に関係なく安定した水の供給がある。
だから半ムーでも一家の食糧を十分に作ることができるのである。
これに対して黄河以北では、北京郊外や山西省も含めてあまり灌漑施設を見かけない。
農民自身も「靠天(天任せ)」と口を揃えていう。
しとしとと雨の多い土地から来た日本人の私なんかから見ると、
「靠天」ってあーた、ぜんぜん雨ふらへんやんか!! と思うくらい、北京などは年に数回くらいしか雨が降らない。
これでどうやって作物が生き延びるのか、と思うくらいだ。
だからそんな気候でも育つとうもろこし、粟の類を植える。
雨が降らないから雑草さえ生えない。
農民は植えたら、植えっぱなし。
水遣りもしなければ、雑草とりもせず、日がなぼおおっと太陽に当たって家の前で座っている。
時伝祥
あやや。。。どアップ、ちょっと怖いかも。。
でも当時の糞夫の標本的な人物として、やはりよくよく観察したい面構えでもあり、やっぱりこの大きさで載せます。
一個人の力で灌漑施設をどうにかできるものではなく、これは大規模な国家の力に頼るしかない。
庶民にできることは、少ない収穫を大切に食べることしかなかった。
ある時、地元の有力者・趙老官(老官はベテランの官僚というほどのニュアンスか。つまりは地元で長く役人を勤めた人ほどの意味か)のために
父親と時伝祥は、二人で豚の売却の代理を引き受けた。
ところが道中大雪が降り、豚の半分が凍死してしまった。
怒った趙老官は、死んだ豚の代金のかたに一家の命の綱である8ムーの土地をごっそりと奪っていった。
あまりの憤懣のため、父親は全身をむくませ、腹を風船のように大きく膨らませて憤死した。
食べる綱の土地がなくなり、一家の中で上の兄(三男)は糞夫になるために北京に出て行った。
妹は童養[女息](トンヤンシー、子供のうちから嫁を育てること。将来の嫁でもあり、労働力でもある)に売られていき、
一家は瞬く間に離散。
時伝祥は15歳、外で給金をもらって稼ぐためにはやや中途半端な年齢であり、弟と二人だけが母親の元に残った。
しかし妹が嫁いだ翌年、今度は斉河が氾濫して大洪水となり、次に大飢饉が起こることは、目に見えていた。
これ以上、家に留まっていてももはや飢え死にを待つしかない。
かかる命の限界まで追い立てられ、時伝祥は北京へ旅立って行ったのである。
斉河県は、東に黄河と接しており、その向こう側が済南市になる。
斉河は黄河の支流だ。
洪水の頻発というのは、乱世の象徴である。
古来より「黄河を制する者が天下を制す」の言葉があるように、中国に統一王朝の存在する意義は治水にあった。
治水には大規模な予算と人員の動員が必要となり、そのために統一王朝が必要となる。
一説には元王朝がわずか100年でつぶれてしまったのも、治水を放置したからとも言われる。
つまりモンゴル人が科挙を廃止しようが、宋の遺民が南人と馬鹿にされようが、
色目人の役人がでたらめな税の取立ての悪政を行おうが、生活できる限りは我慢するが、
飢饉まで追い詰められたら、反乱に立ち上がるということである。
その飢饉が確実に起こるのが大洪水の後だ。
治水は数十年程度は放っておいても大きな違いは出ない。
しかし100年近くも放っておくと、堤防は崩れ果て、川底の泥がたまって水位が上がり、洪水が起きやすくなる。
元朝が最も致命的だったのは、こうしたインフラのメンテナンス軽視だったというのである。
他の王朝も同様に生命力が弱ってくると、それまできちんと行っていた治水のメンテナンスを怠るようになり、
数十年かけてじわじわとたまってくる。
この時代でも清朝末期にはアヘン戦争以来、治水に回る予算が大幅に削られていたであろうことは想像に難くない。
ましてや民国の乱世になってからは、放置しっぱなしである。
そのつけがじわじわと現れ始めたといっていいだろう。
時伝祥は15歳の年、母親からもらった7個の糠餅(ぬかを混ぜ込んで焼いたお焼き)を懐に抱え、
何人かの仲間の少年らとともに北京を目指した。
食糧は数日で尽き、残りの日々は乞食をしつつ、13日かけて北京にたどり着く。
当初は知り合いを頼りに行ったが、相手は貧乏な彼と関わり合うのを嫌い、受け入れてくれなかったという。
路頭に迷っているところを糞夫の李大爺(李の爺様)に拾われ、
糞覇の元に連れて行かれて雇い入れてもらい、時伝祥の糞夫人生が始まる。
先に糞夫となっている三番目の兄貴はどうなっているんだ、とつっこみを入れたくなるが、
通信手段の不便な当時、ましてや互いに文盲という状況では、
連絡がつくには数ヶ月から1年の時間がかかったことは想像に難くない。
仕事に慣れ始めるまでは精神的な余裕もなく、当時の給料は年に一度の一括払いも多いので、
春節になるまで手紙を出す現金さえなく、まだ連絡がついていかなったことも考えられる。
年に一回の一括払いという方法は、もらう方にとっては悪いものではない。
オリンピック以前までは、数ヶ月に一度しか給金が出ないという職場もけっこうあった。
私が通っていた按摩屋は三ヶ月に一度、一括で給料が支給され、それが按摩の少年たちにはえらく評判がよかった。
貯金を最大の目標としている彼らにとり、日常の消費への誘惑は悪魔のささやきだ。
普段は宿舎で暮らし、食事も出るのだから現金がなくても暮らしてはいける。
そして3ヶ月分の給料といえば、けっこうな大金になる。
その達成感のうれしさのために消費しようとは思わず、
いそいそと全額貯金し、数年経ってみれば、けっこうな額になるというのだ。
ましてや時伝祥の時代のように銀行に預けるという方法もなかった時代、
毎月現金をもらってもたこ部屋では保管もままならない。
一日の労働に疲れた体には、酒の誘惑ほど甘いものはない。
こうしてせっかくあたら若き青春をすり減らして稼いだお金を飲み代に使い込んでしまうほど恐ろしいことはないのだ。
男たちは春節前に1年分の給金を受け取り、故郷に持ち帰ることを楽しみだけに日々を過ごす。
糞夫として時伝祥は糞覇の元で昼間は糞集めに精を出し、夜は十三人と1頭のロバとともに一部屋に寝た。
布団はなく、オンドルもなく、ロバのえさ用に積み上げてある藁の中に転がり、麻袋の切れ端をかぶり、レンガを枕とした。
寝る体制に入ったら、さっさと油灯を吹き消さないと、すぐに糞覇の怒鳴り声を喰らうことになる。
この糞花子(花子は乞食の意味。糞こじき)どもは無駄遣いしか脳のない奴どもめ、と。
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糞具を改善し、糞道の登記を行ったところまでかろうじて進め、
そのまま1949年の新中国成立を迎えるのである。
共産主義となり、すべての職業の「公営化」が実施される中、
糞業があっけなく公営化されたことは、いうまでもない。
「糞覇」はいなくなり、打倒され、すべての糞夫は公務員となったが、
逆に市の行政が糞業で儲ける目的もなくなった。
これについては後述する。
中国で糞夫といえば、すぐに名前が挙がるのが「時伝祥」である。
1950年代の労働模範であり、
中国の小学校の教科書には日本でいえば、二宮金次郎のように「見習うべきえらい人」として、エピソードが必ず載っている。
そして必ずセットに掲載されているのが、劉少奇との握手の写真である。
共産主義になってからの糞業の流れを見る前に、ここからしばらくは時伝祥の生涯を追いたい。
一つには、これまで民国時代の糞夫の生態を追ってきたが、実在する糞夫の実例がなかったことがある。
時伝祥の前半生を追うことにより、実際に糞夫が経験した事象をこれまでの総括としたい。
その次に時伝祥の後半生を通して、解放後の糞業の経緯を見て行きたい。
彼の人生は共産主義下の糞業の生きた標本の如し。
その人生に沿い、共産主義となってからの糞業の沿革を追う。
糞桶を背負った時伝祥。
時伝祥は1915年、山東省斉河県の生まれである。
斉河県は、山東省の省都・済南のすぐ西にあり、
これまで見てきたとおり、北京の糞夫はほとんどが山東省出身、その例に漏れない。
時伝祥は貧しい農家・時家の五男一女の6人兄弟の四人目として生まれた。
貧しさのために上の兄二人は小さい頃に裕福な家の養子に売ってしまい、
3番目の兄が実質の長男、次に時伝祥、その下にはさらに弟と妹がいた。
一家は塩害にやられた8畝(=ムー、30坪。ムーの計算の仕方はこちら)でどうにか飢え死にしないだけのぎりぎりの食糧を養っていた。
塩害がひどいために実際に耕作できるのは6、2ムーのみ、不作の年は1ムーに40斤(=1斤は500g)しか収穫できなかった。
ということは6ムーで240斤、つまりは120kg、
1ヶ月に10kgを一家6人で食べると、1ヶ月1人当たり1、2kgほど。
・・・・確かに生存条件ぎりぎりといえるだろう。
6ムー余りといえば、180坪。日本人の感覚からすると、すさまじく広大な土地ではないか、と思う。
実は現代でもそうで、今でも北方にいけばいくほど、かなりの広さの土地の支給を受けているようだ。
出張などで華北以北の地方に行き、タクシーを拾った際、家の土地はどれくらいだ、と聞いたりすれば、やはり5ムーだの8ムーだの答えが返ってくる。
これが南方になると、生産力が高く人口密度が高くなるため、どんどん少なくなる。
安徽省出身だったお手伝いさんに聞くと、家の土地は半ムーだという。
南方では雨がじゃんじゃん降るほかにも、
灌漑施設が充実しており、天候に関係なく安定した水の供給がある。
だから半ムーでも一家の食糧を十分に作ることができるのである。
これに対して黄河以北では、北京郊外や山西省も含めてあまり灌漑施設を見かけない。
農民自身も「靠天(天任せ)」と口を揃えていう。
しとしとと雨の多い土地から来た日本人の私なんかから見ると、
「靠天」ってあーた、ぜんぜん雨ふらへんやんか!! と思うくらい、北京などは年に数回くらいしか雨が降らない。
これでどうやって作物が生き延びるのか、と思うくらいだ。
だからそんな気候でも育つとうもろこし、粟の類を植える。
雨が降らないから雑草さえ生えない。
農民は植えたら、植えっぱなし。
水遣りもしなければ、雑草とりもせず、日がなぼおおっと太陽に当たって家の前で座っている。
時伝祥
あやや。。。どアップ、ちょっと怖いかも。。
でも当時の糞夫の標本的な人物として、やはりよくよく観察したい面構えでもあり、やっぱりこの大きさで載せます。
一個人の力で灌漑施設をどうにかできるものではなく、これは大規模な国家の力に頼るしかない。
庶民にできることは、少ない収穫を大切に食べることしかなかった。
ある時、地元の有力者・趙老官(老官はベテランの官僚というほどのニュアンスか。つまりは地元で長く役人を勤めた人ほどの意味か)のために
父親と時伝祥は、二人で豚の売却の代理を引き受けた。
ところが道中大雪が降り、豚の半分が凍死してしまった。
怒った趙老官は、死んだ豚の代金のかたに一家の命の綱である8ムーの土地をごっそりと奪っていった。
あまりの憤懣のため、父親は全身をむくませ、腹を風船のように大きく膨らませて憤死した。
食べる綱の土地がなくなり、一家の中で上の兄(三男)は糞夫になるために北京に出て行った。
妹は童養[女息](トンヤンシー、子供のうちから嫁を育てること。将来の嫁でもあり、労働力でもある)に売られていき、
一家は瞬く間に離散。
時伝祥は15歳、外で給金をもらって稼ぐためにはやや中途半端な年齢であり、弟と二人だけが母親の元に残った。
しかし妹が嫁いだ翌年、今度は斉河が氾濫して大洪水となり、次に大飢饉が起こることは、目に見えていた。
これ以上、家に留まっていてももはや飢え死にを待つしかない。
かかる命の限界まで追い立てられ、時伝祥は北京へ旅立って行ったのである。
斉河県は、東に黄河と接しており、その向こう側が済南市になる。
斉河は黄河の支流だ。
洪水の頻発というのは、乱世の象徴である。
古来より「黄河を制する者が天下を制す」の言葉があるように、中国に統一王朝の存在する意義は治水にあった。
治水には大規模な予算と人員の動員が必要となり、そのために統一王朝が必要となる。
一説には元王朝がわずか100年でつぶれてしまったのも、治水を放置したからとも言われる。
つまりモンゴル人が科挙を廃止しようが、宋の遺民が南人と馬鹿にされようが、
色目人の役人がでたらめな税の取立ての悪政を行おうが、生活できる限りは我慢するが、
飢饉まで追い詰められたら、反乱に立ち上がるということである。
その飢饉が確実に起こるのが大洪水の後だ。
治水は数十年程度は放っておいても大きな違いは出ない。
しかし100年近くも放っておくと、堤防は崩れ果て、川底の泥がたまって水位が上がり、洪水が起きやすくなる。
元朝が最も致命的だったのは、こうしたインフラのメンテナンス軽視だったというのである。
他の王朝も同様に生命力が弱ってくると、それまできちんと行っていた治水のメンテナンスを怠るようになり、
数十年かけてじわじわとたまってくる。
この時代でも清朝末期にはアヘン戦争以来、治水に回る予算が大幅に削られていたであろうことは想像に難くない。
ましてや民国の乱世になってからは、放置しっぱなしである。
そのつけがじわじわと現れ始めたといっていいだろう。
時伝祥は15歳の年、母親からもらった7個の糠餅(ぬかを混ぜ込んで焼いたお焼き)を懐に抱え、
何人かの仲間の少年らとともに北京を目指した。
食糧は数日で尽き、残りの日々は乞食をしつつ、13日かけて北京にたどり着く。
当初は知り合いを頼りに行ったが、相手は貧乏な彼と関わり合うのを嫌い、受け入れてくれなかったという。
路頭に迷っているところを糞夫の李大爺(李の爺様)に拾われ、
糞覇の元に連れて行かれて雇い入れてもらい、時伝祥の糞夫人生が始まる。
先に糞夫となっている三番目の兄貴はどうなっているんだ、とつっこみを入れたくなるが、
通信手段の不便な当時、ましてや互いに文盲という状況では、
連絡がつくには数ヶ月から1年の時間がかかったことは想像に難くない。
仕事に慣れ始めるまでは精神的な余裕もなく、当時の給料は年に一度の一括払いも多いので、
春節になるまで手紙を出す現金さえなく、まだ連絡がついていかなったことも考えられる。
年に一回の一括払いという方法は、もらう方にとっては悪いものではない。
オリンピック以前までは、数ヶ月に一度しか給金が出ないという職場もけっこうあった。
私が通っていた按摩屋は三ヶ月に一度、一括で給料が支給され、それが按摩の少年たちにはえらく評判がよかった。
貯金を最大の目標としている彼らにとり、日常の消費への誘惑は悪魔のささやきだ。
普段は宿舎で暮らし、食事も出るのだから現金がなくても暮らしてはいける。
そして3ヶ月分の給料といえば、けっこうな大金になる。
その達成感のうれしさのために消費しようとは思わず、
いそいそと全額貯金し、数年経ってみれば、けっこうな額になるというのだ。
ましてや時伝祥の時代のように銀行に預けるという方法もなかった時代、
毎月現金をもらってもたこ部屋では保管もままならない。
一日の労働に疲れた体には、酒の誘惑ほど甘いものはない。
こうしてせっかくあたら若き青春をすり減らして稼いだお金を飲み代に使い込んでしまうほど恐ろしいことはないのだ。
男たちは春節前に1年分の給金を受け取り、故郷に持ち帰ることを楽しみだけに日々を過ごす。
糞夫として時伝祥は糞覇の元で昼間は糞集めに精を出し、夜は十三人と1頭のロバとともに一部屋に寝た。
布団はなく、オンドルもなく、ロバのえさ用に積み上げてある藁の中に転がり、麻袋の切れ端をかぶり、レンガを枕とした。
寝る体制に入ったら、さっさと油灯を吹き消さないと、すぐに糞覇の怒鳴り声を喰らうことになる。
この糞花子(花子は乞食の意味。糞こじき)どもは無駄遣いしか脳のない奴どもめ、と。
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