いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥  6、解放直後の北京

2011年04月06日 18時14分11秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
こうして糞夫を続けつつ、時伝祥は家族とともに新中国の成立を北京で迎えた。

1949年1月31日、共産軍が北京に入城、共産党は旧国民党の市の衛生局所属の清潔総隊をそのまま引き継いだ。
当局は糞汚管理所を発足させ、各区に次々と「糞業工人工会(労働組合)」を発足する。
プロレタリアート革命が成功したのだから、この「労働組合」は資本家の参加しない「本物」というわけだ。


その年の8月、市政府は『城市存晒糞便処理弁法(都市の貯蔵・日干し糞便の処理に関する条例)』を公布、
城内の糞廠、糞坑、糞山を取り除くよう定めた。

その作業には丸々3ヶ月を要し、城外に運び出した大便は約61万トン。


・・・・聞いただけでも気絶しそうなほどの膨大な量ではないか。
一辺がたった6kmしかない北京城のどこにそんなに大量の糞を「隠し」所蔵していたのか、めまいもするくらいに不思議だ。


「無政府」とは、この状態をいう。

内戦が長引き、国共両軍の戦いがクライマックスを迎えるにつれ、行政機能が麻痺したままの状態が長期化すると、
誰も法律を守らなくなり、人の迷惑も顧みなくなり、世論による監視の機能もなくなる。

糞夫、糞覇にとって郊外の遠くまで糞を運んでいくのは当然、めんどうであり、重労働だ。
警察が機能しなくなれば、城内に少しでも広い土地があれば、そこで直接糞の加工を始めてしまうわ、
加工はしないまでもせめてしばらくそこに干して、水分を減らしてかさを軽くしてから運び出そうとするわ、
穴を掘って一時的に糞を溜め込むわ、それならまだしもそのまま空き地に山積みにするわ、と、もう好き放題である。

24時間体制で悪臭を放ち続けたことは疑いない。

しかし戦争状態では、誰にもどうすることもできないではないか。



戦争状態で砲弾が飛び交う中、1日に何度も城外に往復していたら、いつ流れ弾に当たらぬとも限らないとか、
兵士徴用に「誘拐」されるかわからないから嫌だ、てなもんだろう。

老舎『駱駝のシャンツー』が、城外の海定にある清華大学まで客を送りに行ったら、
その帰りに軍閥に拉致されて兵士に徴用されてしまうではないか。

せっかく何年もかけて血のにじむ思いをして買った人力車もあっけなく没収されて。
あれは馮玉祥の部隊である。
各軍閥が限りある壮丁を兵として取り合うものだから、ひと気のないところで「壮丁」と見れば、拉致されることも少なくなかったらしい。

かくして北京城内は、新聞で糞夫らの恐喝を罵っていた頃が懐かしいほどの「悪臭城」と成り果てる始末であったのだ。



糞だけではない。
行政機能の麻痺は、あらゆる分野に及ぶ。

ゴミもしかり、前述の治水問題しかり。まずはゴミから見ていこう。


解放直前の北京城内では、ゴミが文字通り「山」積みになっていた。
どれくらいの「山」かといえば、屋根まで積みあがっているところ、城壁(高さ11.3m)まで(!!)積みあがっているところ、
街の入り口、胡同の入り口をふさぎ、交通機能を麻痺させているところなど、普通の日常生活もままならない状態だったという。


安定した政府が存在しないということは、税金を徴収し、公務員を雇い、ゴミの始末をする人がいないということだ。
人々は生活ごみを家の外に捨てるだけで、数kmも離れた城外まで捨てに行くような人はいないに決まっている。

内戦状態の市政府はころころと主人が入れ替わり、収入と支出の自己完結をする間もないのだから仕方がない。


1949年3月、共産党が北京に入城してから1ヶ月後、市の人民政府は「北平市清潔運動委員会」を発足、
各区に支部を設け、市民を動員して大規模なごみの搬出を行った。

発足まもない市政府には予算がないから、それなら「人力」動員というわけだ。
市民の手により91日間に渡るゴミ搬出が続けられ、20万1638トンにもなる長年のゴミを一気に運び出した。

その年の11月、2年後の1951年3月の二度にわたり、
さらに大掃除を決行した結果、もう60万トン余りのゴミを城外に運び出した。

1952年からはトラックによる運行も始まった。

城外に運び出されたゴミは、沼地の埋め立てに使われたほかは、
穴を掘り、埋め立てられた。

統一政府が機能しだしたことにより、徐々に街の様相が落ち着きを取り戻してきたのである。




内戦の間、放置されたままだったのは、町の清掃業務だけではない。
治水も清末辺りから充分な予算が出ていなかったのではないか、と思われる。

アヘン戦争勃発辺りからもう政府は余裕がなくなっていた。
少なくとも辛亥革命から解放まで40年近くは、ほぼ放りっぱなしである。

長年、河底を浚(さら)わなかったため、水の流れが鈍くなるわ、水門は壊れて機能しないわで水量も減り、
水系の果たすべき環境への調整弁的な役割が破綻していた。

北京城内の三海(中・南海、北海)、積水潭、什刹海等の人工湖はほとんど水流の入り込まないためにただの池と化して久しかった。

本来なら城内の湖は、北京の西北の玉泉山水系から引いてくる水が、
最終的に南から来る大運河と合流する北京城の東南にある通県まで続く総合水系の一環でなければならず、
お堀の水とも通じ、常に滔滔と新鮮な水が流れ込み、流れ去っていなければならない。

それが入り口から入ってこず、出口からも出て行かないただの池となり果ててしまったがために、
ボーフラが湧き、長年の伝染病の源となる始末であった。


1950年、人民政府は北京市の水系を本格的に整備し始めた。

玉泉山水系は水源地から数十kmの田園地帯を通り、市の中心地区とその周辺に入ってくる。
その機能が健全でなければ、城内の環境、衛生状態、ひいては人々の健康にまで大きな影響を及ぼすことになる。

その意味でも川底を浚(さら)い、メンテナンスをすべき最優先は、玉泉山水系だったのである。


さらに1950年には、水源からすぐの玉泉山のふもとにある金河、長河で上流を浚い、
北京城内の水系を構成する内外城を囲むお堀、紫禁城のお堀である筒子河の川底の泥を取り除いた。

泥がなくなると、各河の水流量は一気に増えて流れも速くなり、ボーフラと汚水をすっきりと運河に向けて押し流していったのである。


また水量全体をさらに増やすため、玉泉山の金河、長河の岸に沿って水源として井戸を10本掘った。
その出水量は1日当たり2.4万立方メートルにもなり、新たな山の地下水を北京城に向けて送りこんだ。
これに加え、玉泉山のふもとにある巨大なる昆明湖の貯水力もあり、毎年6ヶ月ある水不足期間の水供給の問題を解決したのである。


今でも北京市内で市民の憩い場になっている龍潭、玉渊潭、陶然亭、紫竹院等の湖は当時、葦が生い茂るただの悪臭漂うため池でしかなかったが、
水系とつなげて入り口と出口を作り、底をさらうことにより、清潔な水辺に変身を遂げ、公園に整備されて人々に癒しを与えた。



新中国の成立後、共産党の指導の元、
北京の糞業界で次々と「糞業工人工会(労働者組合)」が組織されたことは、前述のとおりである。

が、この時点では、まだ解放前と同じ体制、つまり糞覇の元で糞夫が働き、
給料を受け取るという体制のままである。

糞道の私有制という体制は、動かされていない。

そこに共産党が労働者の味方となり、労働組合の組織を指導し、
資本家になされるがままで泣き寝入りしないようにノウハウを叩き込んだ、という状態だろうか。


糞業界自体では、まだこの程度の変化に留まっており、
糞覇らにとっては糞夫らがえらく扱いにくくなっただけだが、大きなうねりは実は農村のほうからやってくる。

つまり農村で土地改革が行われ、すべての農民に土地が分けられたので、
糞夫らが次々と農村へ帰ってしまい、糞夫が激減したのである。


民国時代の北京に5000人もの糞夫がいたことを思い出してほしい。

北京城にそれだけの糞夫が必要だったのではなく、ほかにもっとましな生き方、食べ方が見つからないがために、
我も我もと押しくら饅頭のように数千の肉体をねじ込み、この人数となった。

その多くは、時伝祥のように土地を持たない農民たちである。
農村で地主の下で働くのでは、生きるための食べ物がなんとか手に入る以外は、ほとんど貯蓄も残らず、
家の新築もできなければ、一生嫁を取ることもできない、ほぼ農奴と変わらない暮らししか残されていない。

それなら都会に出てきて糞夫をやれば、少なくとも少しずつ貯金をしたり、田舎に仕送りすることもできる。


工業化以前の社会では、安定した収入の稼げる仕事などめったに転がっているものではない。
糞夫の収入は巡査の給料とほぼ同じだったことに触れたことがあるが、
山東から出てきた農民がいきなり巡査に採用してもらえるわけがない。

こういう安定した職業は、たいていが役人の親族などの「内輪」で埋まっており、
部外者に就業機会が回ってくることはめったにない。

同じように商人の使う従業員は、同族・同郷で固めている場合が多く、部外者に回ってくるチャンスは多くはなかった。

だからこそ最も人に軽蔑される糞取りでも、そのやる価値があった。

そこへ共産党による土地改革があり、自分の土地が持てるようになるというではないか。
大多数の糞夫が喜び勇んで糞勺と糞桶を放り出し、家路を急いだのも無理はない。


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写真: 時伝祥記念館。

上は、当時の国家主席・劉少奇と時伝祥が握手する有名な写真の塑像。
劉少奇と王光美の息子・劉源将軍が時伝祥の息子・時純利に贈ったものだという。

       




民国時代に改良された、ふたのついた一輪車。

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