いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥  5、花嫁が雄鶏と婚礼

2011年04月05日 19時56分17秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
このように時伝祥の家では、唯一の女の子であった妹を飢饉の年に童養[女息]として「安売り」してしまったがために、
男兄弟の嫁取りの足しにすることはできなかった。

当時、時伝祥の実家に残されていたのは年老いた母親と弟だけである。
土地もないことから、二人ともどこかに日雇い労働にでも出るか、土地を借り受けて小作人となるかして、
どうにか生き延びていたことだろう。

弟が稼いだ金があったとしたら当然、自分の嫁取りに使わなければならない。
でなければ、自分だって一生嫁も取れない生涯で終わってしまう可能性が高いのだ。

母親が稼いだお金があるとしても、女の細腕で稼いで嫁取りの金まで貯めることができたとは想像しにくい。

このように分析してみると、時伝祥の嫁取り資金は15歳から22歳までの7年間に貯めた糞取りの報酬で貯めたと考えるしかない。


きつく、汚く、つらく、尊厳のない仕事ではあったが、それでも生きるための最低限の収入を男たちは稼ぎ出していたのである。



花嫁の崔秀庭は、花婿の不在のまま婚礼の日を迎えた。

婚家の敷居を跨いで入ってきた花嫁を迎えたのは、「雄鶏」である。

映画『時伝祥』では、この場面を再現している。
赤い布を頭にかぶった花嫁を介添え人が二人両脇から抱えて連れ添い、花嫁の手に雄鶏を抱えさせ、
仲人が「嫁鶏随鶏―!!」と叫ぶ。

つまり中国語で俗に言う「嫁鶏随鶏、嫁狗随狗(一旦嫁げば、相手が例え鶏、犬であっても、夫につき従うべし)」
をビジュアル化しているシュールなる「身代わり」だ。

花嫁は、ばたばたと暴れる雄鶏と生涯の愛を誓い合う。


交通手段の不便な時代、恐らく花婿の到着が間に合わない同様のケースはあちこちに見られたために、
雄鶏を身代わりに結婚する儀式の習慣があったのだろう。

結婚というのはタイミングであり、双方の年齢、結納金などの折り合いがつき、
両家が納得しているうちに既成事実を作っておかないと、いつどちらかの気が変わるかわからない。


婚礼はぎりぎりの経済力で行われた。
雄鶏も実は近所からの借り物で婚礼が終わった暁には「花婿」は近所の家に戻された。

新婚の晩、花嫁は一人で婚礼用の赤いふとんを敷き、赤い上着を着て寝たが、
これも翌日には「借り物だから」と姑がすべてひっぺがして、持ち主に返却したのである。



花嫁の崔秀庭はこの後、時家に住み込んで姑に従って家事手伝いをして過ごし、
半年経った春節に帰省した時伝祥とやっと初めて夫婦になることができた。


時伝祥は1年間の給金を胸にかかえ、家路を急いだことだろう。
甘い新婚生活を楽しめたのは、春節休みの間の1ヶ月のみ。
時伝祥は単身、北京に戻るしかなかった。

時伝祥が15歳から22歳の間にこつこつと貯めて来た給金は、
恐らく嫁取りのためにすっからかんに使い果たしてしまったことだろう。

一から生活の基盤を立て直すには、まだもう数年は糞覇の元でたこ部屋暮らしを続けるしかない。
その状態ではとても妻を呼び寄せるような条件もなく、その後も夫婦が一緒に過ごせるのは、1年のうち春節の半月から1ヶ月間だけという七夕夫婦だったと思われる。

二人が最初の子供・時純庭を授かったのは、結婚して6年目のことだった。
1年に一回、1ヶ月未満の夫婦生活では、世間並みの夫婦なら年に12回ある子作りのチャンスも年に1回。

それではなかなか子を授からなかったのも自然の道理だろう。


その2年後、ちょうど日本の敗戦(1945年)前後に妻と子供をやっと北京に呼び寄せることができた。

一家が移り住んだのは、宣武門槐柏樹街8号の1間わずか8平方メートルの部屋である。
ベッド1つとテーブルをおいたら、もう何も入らなくなるような小さな空間だが、それでもやっと訪れた一家が共に暮らせる人間らしい生活である。


時伝祥の伝記では解放前、妻子を呼び寄せる前のことと思われるが、
あるエピソードが必ず紹介される。

ある弁護士の家に汲み取りに行ったとき、あまりののどの渇きに水を一杯所望した。

すると、出されたお椀には死んだ蝿が浮き、水の底には魚の骨が沈んでおり、一目で猫のためのお碗と知れた。
時伝祥はさっと青ざめ、怒りのために打ち震えて無言で去った。

――俺は犬猫にも劣るというのか。
心の底からこの稼業がいやになり、糞覇の元に帰ると、やめて山東の田舎に帰る、と宣言した。



この件については、どっちもどっちという気がしないでもない。

時伝祥は解放後、出入りする家庭で水やその他のものを所望しないように弟子らにも躾けている。
この時期はまだ若く、その当たりのポリシーができていない段階にも思える。

時伝祥は怒っただけで帰ってきたが、これまで見てきた他の糞夫らの傍若無人ぶりを見ると、
この家の主人は糞夫らに汲み取りをボイコットされ、しばらくは「臭い目」に遭わなければならなかったとも限らない。

そういったことが巷の話題になっているだけに、すべての家庭で時伝祥がこういう目に遭うとは、考えにくい。
むしろ映画にもあったように対応に出たのが、女主人などの世間を知らぬ浅はかな輩であり、後々のことも考えずに行動したことのようにも思える。

社会底辺の人々には、彼らなりの復讐の仕方というものがあり、機嫌を損ねると手に負えないことを知らぬ輩が。


糞夫稼業に嫌気がさして、山東の田舎に帰る、と啖呵を切った時伝祥だが、
180cmを超える巨漢、20代の働き盛りの時伝祥を糞覇は、放そうとしなかった。

糞覇にとっても、時伝祥は貴重な戦力だったらしい。


偶然にこういう写真を発見した。

このあまりにもやせ細った糞夫ら二人を見よ。
(写真の貼り付けの仕方がわからない。。UTRを開いてもらうしかないです。。)


父子が縄で糞車を引っ張り、後ろからさらに一人押し、三人係りだ。
糞車の重さが時代によって違うことを考えると、腕っ節の強さの判断をすることはできないが、
こうして比べてみると、同じ糞夫でも時伝祥が堅強なる肉体の持ち主だったことには間違いない。
その時伝祥を糞覇が密か重宝していたとしても不思議はない。


糞覇は時伝祥を手放したくないがために、
お決まりの警察との結託プレーを展開、時伝祥を「八路」だといって、ひっ捕らえさせたのである。

つまり国民党政権下にあった時代、共産軍=八路軍のスパイではないか、という嫌疑である。
ごく普通の市民のように見えても心の奥底で共産主義に共鳴し、
密かに情報を送る、同士を匿う、テロ活動をするなどの活動に従事する人がいたからである。


つまり「八路」といえば、誰でもしょっ引ける便利な口実でもある。
毎日取り調べで適当に因縁をつけて困らせ、数日留置所に入れておき、時機を見計らって糞覇が保証人として請け出してやる。

さらには、山東に帰るとは口実で、延安(当時の共産党の本拠地)にでも逃げるつもりだな、と因縁をつけ、
北京を離れることまかりならぬ、と半ば軟禁状態にしたのである。


*******************************************************************************

写真: 時伝祥記念館。蝋人形での再現もあります。



   
   そうそう。このズボンはぶかぶか具合がちょっと本物に近いです。すそがすぼまっているのは、ほかの業界ではあまり見かけませんが、わざとでしょうか。



人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン