♪次♪の部屋

和紙人形・デコパージュ・料理・旅行記

肥後の歴史と自然探訪3日間(2日目)

2007-06-27 00:30:59 | 観光、旅行、山歩き
朝の熊本城散策のため6時集合。
昨夜宿泊したアークホテルが見える。(写真1)

サツキのシーズンが終っていたNHK文化センター(写真2)前を通って熊本城横にある加藤神社へ。


写真1 アークホテル


写真2 右がNHK文化センター 前方には熊本城が

加藤神社(写真3)は戦国時代の武将加藤清正を主神とする神社である。
事前にIさんが神主さんにお願いしていたのでここで節目の年である古稀のお祓いを8人で受けることに。
一同神妙な顔で1人1人名前を呼ばれると玉串俸奠、現在まで元気に生きてこられたことへ感謝の気持ちを新たにしました。
境内には清正公の旗立石、清正公肥後入国400年記念碑や虎の像など清正公ゆかりのものが祭ってありました。
境内から見上げる天守閣と宇土櫓の眺めが絶景。(写真4)
お祓いの記念にお土産を頂いた。


写真3 加藤神社


写真4 加藤神社から城を望む


写真5 記念に頂いたお土産

二の丸広場(写真6)当たりを散策し、長塀(写真7)を眺めながらホテルへ戻る。


写真6 二の丸広場にはこんな大きな木が(この木何の木 気になる木・・・)


写真7 長塀

ホテルに戻り朝食。普段は朝ゆっくりの起床でしたが、早起きした今日の朝食は格別に美味しい。


今度は車で熊本城(写真8)へ向かう。


写真8 熊本城 

日本三名城の一つに数えられる熊本城は加藤清正公が築城し、今年400年を迎えるという記念の年です。
城域の周囲が約5.3km、面積は約98平方kmという規模の大きさで難攻不落の城としても有名です。築城当時は重厚な櫓門(やぐらもん)が18、その他の様々な形式の門が29もありました。
私たちは加藤神社に車を置かせて貰ってメーン入口である頬当御門(ほほあてごもん)(写真9)から城内へ。 現在使われている入り口は四カ所です。

なんとIさんはここの城主でした。全員招待券で入場です。(写真10)
熊本城復元のための「一口城主」制度をスタートさせていたのです。


写真9 頬当御門


写真10 城主の招待券

首掛石(写真11)と井戸(写真12)には熊本城の築城に際し次のようなエピソードがあったのです。横手の五郎の物語です。
資料より
~五郎は熊本城下にあたる横手に住んでいた若者で、怪力の持主として知られていました。この大きな石も、数人がかりで運べなかったものを、五郎が首に掛けて一人で運んできたと伝えられています。しかし実は、五郎は仏木坂(ぶっきざか)の戦い(天草)で清正に殺された木山弾正(きやまだんじょう)の遺児で、城づくりを手伝ったのは父の仇を討つためだったのです。ある日、清正を襲った五郎は家来たちに取り押さえられ、古井戸に投げ込まれてしまいました。清正の命令で井戸の上から大きな石が次々と投げ落とされましたが、五郎はそれを片手で受け止めては足下に置きながらどんどん上ってきました。そこで、今度は砂が投げ込まれ、とうとう生き埋めにされてしまったという逸話が残されています ~


写真11 首掛石


写真12 井戸

熊本城天守閣へ階段を上がる。
天守閣の内部は現在、熊本市立熊本博物館の分館となっており、肥後歴代藩主の武具や調度品のほか、西南戦争の資料などが展示していました。
最上階からは熊本の東西南北が展望(写真13)できました。


写真13 最上階からの展望

次は本妙寺へ。
資料より
~本の本妙寺(写真14)は加藤清正(1562~1611)の菩提寺である。元々清正の父、清忠を祭るためであったが、清正が肥後に移ったことをきっかけに、大阪から移してきた。清正の死後、遺言でここに廟を建てた。
廟の横には金宦の墓がある。清正が文禄慶長の役で朝鮮に行ったとき、金宦をはじめとして多くの人を朝鮮から連れてきた。金宦は清正のブレインとして、清正に一目置かれていたという。清正が死亡したときに金宦も殉死した。~

この寺の色あざやかさが資料でなんとなく理解できた。

境内にある本妙寺宝物館(写真15)には加藤家:細川家寄進の宝物、殊に清正公の遺品
日蓮宗及び本妙寺関係の什物など「日本紀竟宴和歌集」「三池典太光世」「安南国勅書」「清正公拵網代鞘短刀祐定」「蛇目紋長烏帽子兜」「朱書の御題目軍旗」「中将棋盤・水無瀬駒」などが展示されていて住職さんが詳しく説明をしてくれました。


写真14 本妙寺


写真15 宝物殿

岳林寺へ
岳林寺(写真16)は隈本城主・城親賢公が眠る曹洞宗の寺である。
りっぱな仁王様(写真17,18)です。
Iさんからここで座禅をとの提案がありましたが膝に何らかのトラブルを持っている人が多く、お経に変更しました。全員(?)で般若心経を唱えました。


写真16 岳林寺



写真17・18 仁王様

ここから夏目漱石の峠の茶屋まで本来なら歩いて行けばいいのですが時間の関係で車で移動。金峰山への道で最初に目にする漱石の句碑(写真19)があった。漱石来熊100年を記念した新しいもので、目的地である鳥越の峠の茶屋の少し手前にありました。
「木瓜(ぼけ)咲くや 漱石拙を 守るべく」
「拙を守る」とは、漱石が好んだ言葉で、生き方の基本としたもの。世渡りが下手なことを自覚しながら、それをよしとして敢えて節を曲げぬ愚直な生き方、俗世に媚びて利を追求する事を卑しとする心だそうです。

「オイと声を掛けたが返事が無い。軒下から奥をのぞくと・・・・」草枕に出てくる茶屋です。
峠の茶屋(写真20)には公園(写真21)や売店があり昼食は皆でだご汁定食(写真22)に決まり。
大きなお鍋に食べきれないほどのだご汁が。


写真19 句碑


写真20 峠の茶屋


写真21 公園


写真22 だご汁(撮影を忘れて食べてしまった)

本日の最後の目的地である雲厳禅寺へ。
金峰山の西麓にある雲巌禅寺(写真23)は、曹洞宗に属する寺で、南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永が開基したと伝えられています。

境内に入りうっそうと茂った木々に覆われた細い道を進んでいくと右手に五百羅漢(写真24)が並んでいて異様な感じがした。首が取れた、手が取れた五百羅漢、これは熊本商人 淵田屋儀平が24年かけて奉納したということです。

さらに奥に進むと霊厳洞(写真25)があり階段を上ると岩戸観音が安置されてありました。
大きな岩がむき出しになっていて宮本武蔵がここに籠もり「五輪書」を書いたとい
う。


写真23 雲厳禅寺


写真24 五百羅漢


写真25 雲厳洞

今日の宿は後輩が経営しているというユースホステルです。
宿に着くと温泉に車で出かけた。人里離れた温泉でなかなか良いところでした。

夜は地元の材料を使ったオーナーの創作料理、これがまた美味しかった。
オーナーから馬刺のサービスを出して頂き、嬉しいことに同総会肥後からのビールの差し入れもあった。


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肥後の歴史と自然探訪3日間(1日目)

2007-06-21 23:30:35 | 観光、旅行、山歩き
6月8日7時30分に宿泊先の西鉄イン天神を出発。8時に関西のTさんと合流し[特急]リレーつばめ35号 博多発8時28分に乗車、熊本へ9時55分着。
駅には熊本のIさんが出迎えてくれていた。 ホテルニューオオタニにて中津のMさん、Jさん、関東のSさんと合流。
全員揃うまでに時間があったので花岡山へ。JR熊本駅の近くにあり、標高133mである。頂上に立つインドから寄贈されたお釈迦様の骨である仏舎利を納めた白い仏舎利塔(写真1)があり、 ここからは熊本市街(写真2)も一望できる。


写真1 仏舎利塔


写真2 花岡山から市街地を望む

昼食はニューオオタニ中国料理大観苑。関東よりNさん到着。 Iさんのお薦めの新鮮な海の幸を使った鶏ガラベースの具だくさん春雨スープ太平燕(写真3)を頂く。大変美味であった。


写真3 春雨スープ太平燕

水前寺公園で関東のYさんと合流。8人全員が揃う。
水前寺公園は1632年肥後の領主細川忠利によって築造され、「桃山式回遊庭園」東海道五十三次になぞらえたと言われている。


写真4 水前寺公園 富士山に見立てられた築山
 
成趣園「古今伝授の間」(写真5)にて美しい水前寺公園を眺めながらお茶席を。
「古今伝授の間」は、1912年に京都から移築したものだということです。
県指定有形文化財になっています。
細川家古流のお手前のお抹茶を頂く。
私は千宗旦の流れを組む裏千家の茶道を少しばかり嗜みました。
細川家古流のお点前とは何処が違うのだろうと興味深くお点前を拝見。
肥後古流(ひごこりゅう)は、熊本藩で伝承された茶道の流派の一つである。
お辞儀からして武士の茶道といった感じ。お道具類はどの流派も似たようなものですがお点前をするときの正面が床の間ではなく、正客と同方向をむいて点てることや袱紗のたたみ方、また袱紗を右につけたりお茶碗を2つ重ねるなど細かいところが違っていて、面白い。
袱紗を右腰につけるのは、左腰は刀をつけるからだそうです。
茶道流派は表千家、裏千家、武者小路千家流、藪内流、小堀流などは知っていたが何と 30数種の流派があったのです。

茶碗は高田(こうだ)焼き、菓子皿は小岱(しょうだい)焼きでした。(写真6)(現在は小代の文字を使っているということです)
白い満月を思わせるこの和菓子は、皇室へも御献上されたという「望月」です。
我が家では高田焼きの花瓶、小岱焼きの湯飲み茶碗は50年間愛用しています。

お菓子、お抹茶と頂き至福の時に浸りました。

茶室よりの水前寺公園池は額に入れられたような眺め。(写真7)


写真5 古今伝受の間


写真6 お茶菓子


写真6 細川家紋入りの菓子皿


写真7 茶室より水前寺公園の眺め

次に立田自然公園へ
細川家の菩提寺として建立された泰勝寺(たいしょうじ)(写真8)跡を公園化したもので立田山の麓に位置します。

細川藩初代藤孝夫妻と二代忠興とその妻玉子(ガラシャ)の御廟があります。
元国会議員、細川護熙さんは19代目の当主にあたります。

細川ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。織田信長の仲立ちで細川忠興の妻となったのは、16歳のときであったが、本能寺の変で父光秀が主人の信長を殺したため、玉子は離別され味土野の山中に幽閉された。その後、豊臣秀吉の許しで復縁し、キリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。
 忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人たちを人質として大阪城内に入れようとした。玉子はその要求を拒み、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ、38歳の生涯を終えた

宮本武蔵のお墓もあり)細川藩の兵法指南役として格別の待遇で迎えられた武蔵は、二天一流兵法をあみ出し「兵法三十五ヶ条の覚書」、集大成として「五輪書」を残し1645年(正保2年)62歳でこの世をさりました。

周りには竹林があり新緑のこの時期とても美しい。市民の憩いの場になっているとのことです。


写真8 泰勝寺


写真9 四つの御廟


写真10 ガラシア夫人の墓


写真11 ガラシア夫人の手水鉢


写真12 竹林 

北岡自然公園に向かう途中の橋には狸が。(写真13)

♪あんたがたどこさ ひごさ ひごどこさ くまもとさ 
 くまもとどこさ せんばさ  せんば山には たぬきがおってさ
 それをりょうしが  てっぽうでうってさ
   にてさ やいてさ たべてさ
    それをこのはで ちょいとかぶせ♪

8人全員が幼少の頃を思い出し口ずさむ。


写真13

北岡自然公園
花岡山の麓にあり、細川家菩提寺妙解寺跡として、園内には今も歴代藩主やその妻子等の墓が並んでいます。「熊本藩主細川家墓所」として泰勝寺跡(立田自然公園)とともに国の史跡に指定されています。


写真14 北岡自然公園入り口


写真15 細川四代目光尚公の霊廟

私たちの案内役を務めた眼科出田病院を見学。西日本一と云われるだけあって眼科医、患者数など驚くような数字。

アークホテルチェックイン後キャッスルホテルにて夕食。
先ず、玄関ですてきな花がお出迎え(写真16)。
キャッスルホテル 細川家古料理(写真17)を頂く。
調理長の説明を聞きながらメニュー(写真18)に合わせて当時の細川家の料理を味あう、美味しい。

写真16 ホテル内花


写真17 細川家古料理



写真18 メニュー
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肥後旅行前日博多へ

2007-06-14 14:08:15 | 観光、旅行、山歩き
8人のメンバーで2泊3日の「肥後歴史と阿蘇自然探訪の旅」に私は5泊6日の旅をしてきました。
熊本に行く途中下車し太宰府天満宮、太宰府菖蒲園、九州国立博物館へ行き博多で一泊しました。帰りにまた博多で2泊です。 

太宰府天満宮
天満宮に続く参道には梅が枝餅の店が軒を連ね、焼きたてのお餅は特に美味しい。


写真1鳥居までの参道に並んでいる店


写真2正面鳥居の参道

鳥居をくぐり橋を渡ると本殿へとつながります。
心字池にかけられたこの橋は手前から太鼓橋、平橋、太鼓橋、これは過去・現在・未来の三世を表しているのだそうです。


写真3心字池にかかる橋


学問の神さま菅原道真公を奉った太宰府天満宮は天満宮の総本山であり、天正19年(1591年)小早川隆景の再建で、国宝重要文化財です。桃山時代の建築様式の華麗さ、豪華さを感じることが出来ます。


写真4桜門


写真5本殿

社殿右には京都から飛んできたという有名な飛び梅、今は花の時期はとっくに過ぎていて、緑の葉が茂っていました。


写真6飛梅

~東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 
主なしとて 春な忘れそ~


3年前に関西福岡県人会の35周年記念誌の編集をしました。
関西と福岡を結ぶに相応しいと言うことで、表紙は「東風吹かば」としました。

太宰府菖蒲園

菖蒲園は菖蒲が満開、先に訪れた大阪の城北菖蒲園とはまた雰囲気が違っていました。


写真7菖蒲1


写真8菖蒲2


写真9菖蒲3


写真10菖蒲4


写真11菖蒲5


写真12菖蒲6


写真13菖蒲7

九州国立博物館

ここは3度目の来訪です。
「未来への贈りもの―中国泰山石経と浄土教美術」展が6月10日まで開催されていました。


写真14九州国立博物館入り口


写真15動く歩道を通過して入場券売場へ


写真16動く歩道を出たところからの博物館


写真17正面入り口

「未来への贈りもの―中国泰山石経と浄土教美術」展について、2泊3日の「肥後歴史と阿蘇自然探訪」は後日アップしたいと思います。


コメント (12)
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花菖蒲の美しい季節になりました。

2007-06-05 22:09:10 | 
6月3日、大阪市内にある北菖蒲園に行きました。
この菖蒲園は城北公園の一角にあり、回遊式の花菖蒲園です。
250品種、約13,000株がほぼ満開、大勢の人たちが訪れていました。


写真1 先ず入場すると出迎えてくれた花たち


写真2 広い菖蒲園内

いずれかアヤメかカキツバタというように見分けがつかないくらいです。
菖蒲や杜若は水辺に咲いているがアヤメが山野にさいています。
アヤメの仲間としては一初(いちはつ)、文目(あやめ)、杜若(かきつばた)、
黄菖蒲、花菖蒲があります。

菖蒲の種類には江戸系、肥後系、伊勢系などと書いてありました。

資料より

・江戸系 
奥州安積沼の野花菖蒲を江戸の堀切村で改良し栽培された。 色彩が鮮やかで群生美に優れる。 江戸系は庭園用として改良されたため、花は、風や雨に強く、斜め上から見ると良く、群生で美しさが発揮されるようになっているそうです。

・肥後系
幕末に細川家(熊本)に譲られた江戸系から改良された。 花は厚弁の大輪で品位、風格が堂々としている。
肥後系は、室内での観賞用(鉢植え)として改良されたもので、花は、座って真横から見ると美しく見え、一輪での鑑賞に絶えられるように改良されたそうです。ただ、風雨に弱いという欠点もあるそうです。

・伊勢系
幕末に三重県松坂で発達した。 花弁が縮緬地で深く垂れ、優しくこじんまりとしている。 伊勢系は野花菖蒲から坪庭や茶庭向きに改良されたもので、花弁は肩が張らずやわらかく垂れ,細かな縮緬状しわのあるやさしい形をした花です。これも風雨で傷み易いそうです。

カメラに納めてきた美しい花の数々をご紹介します。


写真3 猿踊り(江戸系)


写真4 船遊び(江戸系)

写真5 夕鶴(江戸系)

写真6 長井小紫(長井古種系)


写真7 潮来の夢1(江戸系)


写真8 潮来の夢2


写真9 小町娘(江戸系)


写真10 小町娘2


写真11 吉野山


写真12 出羽の里(長井古種系)


写真13 五色の珠(江戸系)


写真14 園内にはさつきや紫陽花、美容柳なども美しく咲いていました。


写真15 鉢植え作品展に縞菖蒲がありました。
コメント (10)
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若沖は若冲

2007-06-01 12:59:51 | 美術館巡りの部屋
先日、若冲展のことをかきましたが漢字が間違っていました。
ちゅうはサンズイではなくニスイだったのですね。
間違って掲載してしまいました。

若冲

今日、栗猫さんのmixiを見て気がつきました。
コメント (2)
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