僕は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。知里幸恵について簡潔に。
知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。
「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに」
近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。
『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚に、まだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸は、過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うものと考えるべきである。
知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。
(僕の提案:『アイヌ神謡集』を世界記憶遺産に!)
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