ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『令嬢ジュリー』を観て

2018年01月04日 | 1950年代映画(外国)

若い頃から是非観てみたいと思いながら、未だ目に触れないままの作品がいくつかある。
そんな中の一つ、『令嬢ジュリー』(アルフ・シェーベルイ監督、1951年)をやっと観た。

ヨハネ祭のイヴ、伯爵家の納屋では農民や使用人たちが酒を飲み踊り興じている。
伯爵は知事の家に行って留守をし、娘のジュリーは使用人たちのダンスに交じる。
そこへやって来た下男のジャンをジュリーはパートナー役に選ぶが、彼は横柄な素振りをとる。

ダンスをやめたジャンは、料理人で許婚のクリスティンの部屋へ来る。
と、ジュリーも彼を追って来る。
そして、ジュリーはジャンに対して再度ダンスをしようと、挑発的な態度を取り始め・・・

物語は、スウェーデン、夏至祭の6月24日、白夜の宵から朝方までである。
ストリンドベルイの同名戯曲を、スウェーデン王室演劇場出身の監督、出演者で映画化。
戯曲の映画化といっても、ここにあるのは完全な映画の世界である。
人の表情の撮り方、シーンの構成の仕方、そのカメラワーク。
それらをないまぜにしての、主人公ジュリーとジャンの心の変化、葛藤とそれに伴う緊張感。

わがままで勝気なジュリーは、ジャンにしつこく付きまとう。
それに対して、ジャンの方はジュリーの戯れにうんざりしている。
が、
ジュリーが、恋をしたことがあるかを聞けば、
ジャンの答えは、思いを寄せ悩んだことの対象は、あなただ、と言う。

ジャンの幼い頃の経験。
湖の対岸の花園にいる、下の世界を知らない少女ジュリーへの関心、憧憬。

この物語に緊張感が張りつめ出すのは、この後で、ジュリーがジャンに身を任せてから。

主従の態度が、180度逆転する。
今までの横柄なジュリーが、オロオロと自立できない女としてジャンにすがる。

作品は、映画的手法を駆使して、ふたりの心的葛藤を、巧みなセリフでもって目を離せなくする。

ジュリーが身の上話を始める。
そこにあるのは、自身の親からの育てられ方。
男女同権を吹き込まれて育った平民出の、母の影響。
男の子としての教育と、それにつらなう生活態度の徹底。
父が育て方の間違いに気付いて女の子として育て出しても、男を憎むことを教えた母。

そして、今のジュリーの現実は、
家族の名誉を犠牲にして、下男に心を許したこと。
その事実を知るクリスティン。
伯爵にわかった時の、伯爵の苦しみを心配するクリスティン。
今やジュリーは、ジャンとの罪の贖いをどのようしたらいいかわからない。

罪の結果を背負わねば、と思うジュリー。
伯爵が帰ってくる。
伯爵の用聞きをして、召使いであることに目覚めるジャン。
そしてクライマックスでの、ジュリーにとっての剃刀の存在。

まさしく素晴らしいとしか言いようのない、傑作作品である。
映画とは、このようにして舞台劇作品を自己消化し、独自の作品とするものなのかと感心させられる。
ただラストのジュリーの自害については、もう少し納得させてほしいと、贅沢な愚痴も出してみる。
と言っても、作品への想いは変わらない。やはり、これはすごい傑作である。


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