原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

焼け跡に虹を架けたホームラン

2012年11月27日 07時53分11秒 | スポーツ

 

先日、懐かしい昔のテレビ番組が放映されていた。1989年にRKB毎日が制作した「桜吹雪のホームラン―証言・天才打者大下弘」である。戦後を代表する天才スラッガー大下弘選手については、子供だったからその全盛期は知らない。だが、長嶋茂雄が巨人に入団した年の日本シリーズで西鉄ライオンズと闘い(昭和33年)、西鉄が三連敗の後四連勝という離れ業で優勝した時に彼がいた事は覚えている。たしか6番か7番。すでに四番ではなかった。この翌年に引退している。全盛時を知らなくても、大下弘の名前とその波乱に満ちた生涯は、なぜか記憶に生きていた。

 

大下弘(セネタース)が日本のプロ野球界にデビューをしたのは1946年。日本プロ野球の復活を告げる東西対抗試合だった。この試合で大下はプロ1号のホームランを放つ。これは戦後のプロ野球の第1号でもあった。日本は敗戦と言う衝撃からまだ立ち直ることができず、東京をはじめ各地に戦火の残骸があった。プロ野球の復活と華やかなホームランは、まさに戦後の日本を奮い立たせるものがあった。大下のホームランの軌跡は大きな放物線を描き、虹の外形に良く似ていたと言われている。虹の男の異名はそんなところからついた。

大下弘は青バットでホームランを連発。一躍日本のスターとなる。赤バットの川上哲治(巨人)、物干し竿の藤村富美男(阪神)とともにプロ野球にホームランブームを呼んだ。この年、大下は20本打ってホームラン王となる。記録によるとこの年のリーグ本塁打数は全部で211本。大下は一人で全体の1割弱のホームランを打ったことになる。あまり意味はないのだが、現在のホームラン数の割合に換算すると70本以上のホームランと言うことになると、喧伝する人がいるくらいだ。

恐ろしい記録がまだある。1949年に札幌の円山球場で放ったホームランは170m(推定)。これは今でも日本プロ野球最長記録と言われている。彼は三度のホームラン王と首位打者を獲得。名実ともにスーパースターとなった。

しかし、私生活は相当に奔放であったと噂されていた。そのことが球団との摩擦を生む。入団したセネタースはその後オーナーの変遷で球団名が四度も変わり、1946年には東映フライヤーズとなっていた。北海道日本ハムファイターズの前身である。金遣いの荒い大下とそれを快く思わない球団首脳との軋轢が、1952年のトレードにつながる。この年から九州の西鉄ライオンズに入団する。大下の遊び好きは天性のものがあったらしいが、本当の理由が別にあった。母親が麻薬中毒となり、そのためにお金が必要であった。

 

西鉄ライオンズには巨人を追い出されてきた知将三原脩監督がいた。三原は大下を四番打者に据え、西鉄の黄金時代を築き上げる。中西太、豊田泰光、稲尾和久などいわゆる野武士軍団の中心打者であった。この名前を聞くだけで当時を知る博多っ子は涙ものであろう。巨人を連破して日本シリーズ三連覇も達成する。

だが、大下弘の放蕩生活は博多に移ってもほとんど変わらなかった。毎晩のようにライオンズの選手を引き連れて遊郭へ。シーズン中でもそうなのである。今ではちょっと考えられないプロ野球選手だ。当時の日本記録である7打数7安打と言う記録も、徹夜で飲み明かした翌日のものと言われている。酒豪大下弘伝説の一つである。どうやらこれはマスコミと噂が創り上げた話のようだ。実際の大下はビール一杯が限度の下戸。酒はほとんど飲めないに等しい。

ではなぜ、毎晩遊びに出かけたのか。彼独特の美学がそこにあったように思う。そのことを監督の三原はかなり早くから見抜いて自由にさせていた。その方が彼の特性が生かせると考えたからだ。なぜ三原はそれを知っていたかと言うと、大下の手のひらを見ていたからだ。豆が固まったごつごつとした手をしていた。彼は密かにバットの素振りを続けていたのである。遊郭にバットを持ち込んでいたのも事実。皆が寝静まった後、彼は庭で素振り練習を毎夜繰り返していた。三原は大下にこのことを何度も訊ねているが、彼は頑として答えなかった。後年になってようやく、その通りだと告白している。努力する姿を他人に見せないと言う独特の心情と美学がそこにある。それが大下弘と言う男の生きざまであった。そこに彼の長所と弱点を見るような気がする。

 

30代半ばからひざの故障でフル出場ができなくなり、38歳と言う年齢で引退となる。この時、大下弘には一銭の貯金もなかったと言われている。世間は放蕩三昧の結果と言うが、どうもそんなことではなかったと私は思う。たぶん彼の信条がそうさせたのだと。彼は文章を書かせても一角のものがあった。単なる放蕩ではなく、人生と言う戦場で闘う男だった。早くから母子家庭となり、台湾で高校まで過ごしている。明治大学に在学中に学徒出陣で兵役へ。そして豊岡陸軍航空士官学校で終戦を迎えている。戦争時、特攻隊として死ぬことを目指していた一人であった。このことは彼のその後の人生に大きな影響を与えたのではないのだろうか。その当時の西鉄ライオンズの選手の多くが母子家庭であった。父親を戦争で失った人が当たり前にいた時代である。そうした時代背景を抜きに彼の行動を判断すると真実を見誤る。同時にあまりにも真面目であった。遊郭における真夜中の素振りにもそれが見えてくる。

 

この真面目な性格がその後の彼の人生に災いした。彼は引退後阪急ブレーブスのコーチとなるが1年で終わる。その後、関西テレビの解説をして生活。1968年に東映フライヤーズの監督に招へいされる。この時打ち出したのが有名な「三無主義」。サインなし、罰金なし、門限なし。その結果の成績が最下位。シーズン半ばで監督交代となる。実は三無主義はオーナーの大川博の発案であった。人の良い大下は自分の考えと言うことにしてすべての罪をかぶったのである。選手にも気を遣いすぎた。そのことが結局身を滅ぼすことにつながる。監督と言うマネージメント業の厳しさは、やさしさや真面目さが邪魔になる時がある。彼は時代と見事にすれ違ったまま生きていた。

 

その後、大洋ホエールズのコーチを経由して、千葉に移り住み少年野球の監督やアマチュア野球の振興に努める。1978年に脳血栓で倒れ療養。翌年の5月逝去。新聞発表は心筋梗塞であったが、実際は大量の睡眠薬を飲んでの自殺であった。

 

後年、三原脩前監督はこう語っている。「日本を代表する打撃陣を5人あげれば、川上、大下、中西、長嶋、王に絞られる」「3人あげるとすれば、大下、中西、長嶋」。「たった一人を選ぶとしたら、大下だな」。それほどの天才だった。現在はイチローという名選手がいるが、三原御大は五人の中にイチローを入れるだろうか?三原の選手を見る目は独特なものがある。チームの中心選手は単に記録だけではないことも知っている。もし生きていたならぜひ聞いてみたい事の一つだ。ひょっとするとイチローは選ばれないのでは。その可能性を感じている。

「大下弘 虹の生涯」を著作したノンフィクション作家の辺見じゅんは「日本のプロ野球が今の繁栄を迎えるには二人の背番号3の存在が必要だった」。つまり大下弘と長嶋茂雄のことだ。

そう言えば、長嶋と言う選手も天衣無縫のところがあった。同時に純粋と言う点でも似ている。監督の技量と言う点でもかなり似ている。野球少年時代の無垢な心を持ち続けたという点でもよく似ているような気がする。

 

昨今、野球人気が少しずつ落ち、テレビ視聴率も低迷しているとか。ノーアウトでランナーが出るとバントという判で押したような作戦。ヒットエンドランも素人でも分かる場面で実行する。見る者に意外性を感じさせなくなった。プロ野球から人が去っていった理由もここにある。ドキドキするような意外性やドラマ性を感じさせた二人の天才は、時代を超えて輝いて見える。ひょっとすると、彼らは半世紀ほど早く世に出てしまった天才だったのでは、という思いさえする。

古い動画で大下弘が打ったホームランを見た。ボールの軌道は動画が古すぎてよく見えなかったが、彼のスイングはよく見えた。ゆったりとしたフォームで柔らかなスイング。そこからはじかれた球がゆっくりと空に向かっていくように見えた。虹を架けるホームランはここから生まれたのだ。

 

背番号3という歴史も面白い。東映から日拓、そして日本ハムと球団名が変わったファイターズで、2000年から田中健介がその番号を引き継ぎ、日ハムのリーダーとなった。西武も幾つか変遷があったが背番号は受け継がれている。記憶に残るのは高校卒でいきなり四番打った土井正博、そして清原和博も忘れられない。現在は中島裕之がつけている。何の因縁か、現在背番号3をつけている田中健介も中島裕之も来シーズンからメジャーへ行く。今度は誰が引き継ぐのか興味深い。巨人の背番号3は言わずと知れた永久欠番。長嶋の後は誰もいない。


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2 コメント

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懐かしい名前! (numapy)
2012-11-27 09:38:35
天才とか、野球の神様とか、怪童とか懐かしい人々の名前が沢山出てきて嬉しくなっちゃった。
そう言えば東映が日本シリーズに出た時、毒島なんて外野手がいませんでしたっけ?あのシリーズ、キノコ採りに行ってて、トランジスタラジオを聞きながら応援したことを覚えてます。
長島とはウチの会社のエレベーターの中で二人きりになり、話したことや、キャッチボールの指導(ひと言ですが…)など、楽しい思い出をつくっていただきました。
懐かしいなぁ…。そんな話をしながら、一献飲りたくなりました。
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毒島、いましたね。 (genyajin)
2012-11-27 13:58:54
「ぶすじま」と読むのには手間取りましたが、なかなか印象的な選手でした。もう存命ではないと思いますが、懐かしい名前です。
三原監督も凄い人でしたね。魔術師などとも呼ばれる意外性のある采配は忘れられません。万年最下位の大洋を一気に日本一にしたのもこの監督でした。たしかあて馬という作戦を考えたのもこの人だったと思います。こんな人はもう出てこないと思います。そんな日本になってしまったことが残念です。やはり時代の空気と言うものが変わってしまったためなのでしょうか。
こちらはいつでもOKです。足がよくなればご連絡ください。
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