原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

明治の世相を反映した、塀の中の面々

2008年12月16日 10時12分44秒 | 地域/北海道
明治時代に標茶町にできた釧路集治監が、町を形成させるきっかけとなったことは、11月のブログで紹介した。集治監とは「徒流刑に処せられた者を拘禁する所」、後の網走刑務所へとつながっていく。極寒の北海道に送り込まれた者たちは、重罪人はもちろん政治に絡む思想犯たちであった。明治の世相が囚人たちにそのまま反映されていた。彼らの記録を見ると明治と平成がリアルタイムにつながってくる。

1885年(明治18年)にできた釧路集治監は1901年(明治34年)までの16年間にわたり開設。延べ2万人の囚人が収監されている。実に様々な罪人が集められていた。なにしろ、「役限満ちて郷土に還るを廃し、永住の産に就かしむべし」とまで告知されていた。刑期が満了しても故郷に帰ることを許されず、永遠に追放されたものが北海道に送り込まれたのである。それほど明治初期には国事犯が急増していた。明治維新という時代の中で世相もまた複雑に動いていたのである。

写真にある建物は集治監時代のもの。本館の建物である。明治時代を強く感じさせる建物である。標茶高校の敷地にあったものを塘路湖のほとりに移動して再現。現在は標茶町の郷土館として公開されている。釧路湿原の動植物の紹介から、開拓民の生活やアイヌ文化の展示などもされている。その中に集治監時代のことも解説されている。収監されていた囚人も紹介されていて、なかなかに興味深い。日本中に知られた囚人も数多くいた。それらを見るだけでも、明治時代の世相が感じられてくる。

五寸釘を足にさしたまま逃亡したところから呼ばれた「五寸釘寅吉」、お茶の水美人殺しの犯人「松平紀義」、小説家により劇化までされた自称義賊の「関口文七」、思想犯もいた、秩父事件の「高野作太郎」である。李鴻章を狙撃した「小山豊太郎」もいた。それぞれを紹介するだけで一冊の本ができる人物ばかりである。まさにそうそうたる囚人たちであった。なかでも特筆すべき人物は「津田三蔵」であろう。この名前を聞いただけで大津事件を思い出す人はかなりの歴史通と言える。当時来日していた帝政ロシアの皇太子ニコライを襲撃、明治政府に衝撃を与えた大事件であった。

事件は1891年(明治24年)5月11日に起こる。長崎から京都へと日本各地を旅行しながら、日本人の歓迎を受け、ご機嫌だった皇太子一行を、こともあろうに警護の一員であった警察官の津田巡査が突然サーベルを抜いて襲いかかったのである。皇太子の頭部を切りつけ、さらにとどめを刺さんと追いかける津田を人力車の車夫二人が押さえ、皇太子は幸いにも命を落とすことはなかった。
しかし、明治政府は仰天する。大国帝政ロシアの皇太子を負傷させたのである。明治天皇自ら見舞いに駆けつけるほどの慌てようであった。明治維新からわずか、近代化の波に乗りかけたばかりの日本であるから無理もなかった。ロシアから大軍が攻めてくるかもしれない。あるいは膨大な慰謝料を請求されるかもしれない。政府は大混乱を起こしていたのである。当時の日本では皇族を襲うことは重罪。どんな場合でも即死刑となる。ところがこれは日本の皇族に限られたもの。ニコライは帝政ロシアの皇太子とはいえ、この法律の適用外となる。最高刑で無期懲役であった。ロシアの怒りを恐れた政府は、皇族罪として死刑を提案する。しかし、当時の最高裁判官にあたる大審院長の児島惟謙は、政府の圧力をはねのける。法律に順じて津田に無期懲役の判決を下す。まさに司法の独立を実践した大英断であった。明治人の精神を強く感じさせる。
来年から日本で始まる「裁判員制度」が当時にあったなら、この事件はどうなったであったろうか。世論や政府の意向を感じて、間違いなく死刑を宣告されたはずである。裁判員制度にはこうした負の部分もあることを、大津事件は伝えている。

津田三蔵は無期囚人として、その年の7月2日に釧路集治監に収監されている。襲撃事件の際、津田もまた頭部と背中に傷を負っていた。傷はまだ完治していなかったために、当初は軽作業に従事していた。ところが9月に入ると高熱を発し、病院に入院。そして9月29日に急性肺炎で急逝している。収監されて三カ月に満たないうちに死亡となった。死因にはいろいろな噂が流れている。自殺や傷がもとでの死亡説である。しかし、死後、彼の日記が発見され、病死であることが確認されている。
津田三蔵があまりにも早く亡くなったので、なぜニコライ皇太子を襲撃したかについては謎のままとなってしまった。精神分裂という噂が流れたり、西郷隆盛の亡霊説というのもある。しかし、その理由はついに解明できていない。明治維新直後の当時の世相が浮かんでくる。同時に、今年の日本に起きた秋葉原などの無差別殺人が思い浮かんだ。あらわれ方も行動も違うけれど、何か共通項を感じてならない。明治という新しい時代の中で、厳然と残る階級性と差別。殖産興業の圧力が日本中にふりまかれていた時代であった。精神的に津田三蔵を追いつめていた何かがあったのではないだろうか。いつの時代にもこうした事件が起こるという証しでもあるだろう。雇用制度の問題でも、教育制度の問題でもあるかもしれないが、原因が分からない事件をすべて社会のせいにする現代のマスコミの風潮はあまり同調できない。

小説家司馬遼太郎の説によれば、皇太子はニコライ二世としてロシア皇帝(最後の皇帝)を継ぎ、大津事件の恨みから日露戦争(1905年)へと進んだという。実際はそんな個人的な事情で戦争が始まったわけではない。ニコライ二世はむしろ日本に最後まで好意を持っていたと伝えられている。津田三蔵の墓は囚人墓地に葬られていた。現在は標茶霊園にある合葬之墓に慰霊碑とともにある。


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