原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

徒然紀行②―挽歌橋

2010年10月19日 08時45分02秒 | 徒然記
記憶というのは不思議なものだ。ふだん全く忘れていても、何かの拍子に一気に思い出したり、突然意味もなく頭に浮かぶこともある。そのくせ、肝心の時になかなか思い出せない、面倒なやつでもある。いや、認知症の話ではない。一般論としての記憶のことである。
もう既に存在していないが、ある古い橋の話が釧路湿原に残っている。
その名は「挽歌橋」という。この橋が記憶の糸を手繰る旅の出発となった。

釧網線の塘路駅から、釧路方面に向かって線路沿いに細い一本の道がある。十分も歩けば釧路川につきあたり、その先は進めない。もちろん冬は雪に閉ざされる道である。この行き止まりの場所にかつて、木の橋がかかっていた。挽歌橋と呼ばれていた。すでに消滅していて、いまはない。この橋にまつわる記憶の話である。
もう、気づいた人もいると思うが、橋の名は原田康子氏が小説家として一躍脚光を浴びた「挽歌」に由来した名前である。ブームを呼んだ小説であった。すぐに映画化されている(五所平之助監督)。釧路の街が舞台となり、道東でその撮影が行われた。この撮影に使われた場所の一つに釧路湿原のこの橋が選ばれていた。元の名前は不明だが、この時以来、挽歌橋と呼ばれるようになった。昭和32年(1957年)のことである(小説は1956年に出版されている)。

噂に誘われて挽歌橋の跡を見ようと出かけてみた。ところどころに水たまりのあるダートの小道には懐かしさがあった。昔の道東の道はすべてこんな感じであった。道そのものがタイムトンネルとなっているように感じた。釧路川に出た時、時代は大きく逆戻りしたような気分であった。名も知らぬ雑草が生い茂り、荒涼たる原野が目の前に広がり、滔々とした流れがそこにあった。
しかしながら、橋がどこにあったのか全く分からない。痕跡が何も残っていない。異次元郷に迷い込んだ感じとなった。
河川調査の車がきたので、訊ねてみた。ドライバーはまだ二十代の若い女性。ところが、
「橋があったことも知らない」という答え。いまさらながら流れた時の長さを感じる。
ほどなく河川調査のパトロールボートが上流からやって来た。彼女がボートの誰かが知っているかも、とアドバイスしてくれた。さっそく、降り立つ調査員に訊ねた。その中の一人が、
「あ、知ってるよ、ここにあったよ」
これでようやく場所の確認ができた。そこでさらに、
「それは挽歌橋と呼ばれてましたか」と聞くと、
「うん、そんな名前だったな。だけど、意味は知らないよ」
「昔映画の撮影がここであって、そのタイトルが挽歌だったのですが」と聞いても、
「そうなの?」と逆に聞かれてしまった。
見事な空回りであった。昔の橋を知っていても、映画のことも挽歌という映画のことも、すでに過去の彼方。彼らの記憶には残っていなかった。そのくせ、この橋の向こう側に、炭焼き小屋があって、炭を運ぶためにできた道と橋だった、と語っていた。なるほど、湿原の中の橋が映画のためにできたわけはない。生活に必要な橋であったことが理解できた。

(釧路川にはノガモの一家がいた)

ここから、記憶の旅が始まる。記憶というよりは想像か妄想の旅となるかもしれない。なにしろ小説ができた時は子供であった。高校に入ってから、釧路出身の作家ということで、小説を読んだ記憶があるが、ほとんど忘れている。まして映画など全く知らなかった。この橋のシーンがどんなものであったのかなど、推測するしかほかないのである。

釧路の街を一躍有名にした小説であった。霧の街、幣舞橋の名前を日本中に広めた。その頃景気も上昇中で、釧路市の人口も六万人から十二万人に倍増した時期であった。
主人公となる女性は片腕が不自由で、ちょっと変わった性格であった。彼女が一人の男性を愛する。この男性には妻がいて、その妻もまた若い男性と、つまりダブル不倫となっていた。それぞれの人間関係が複雑に絡む。今ではよくあるパターンだが、当時としては斬新だったのかも。ファッションも先進的で、映画の衣装は森英恵が担当していた(記録にあった)。当時、挽歌族という言葉もできたとか(これも資料から)。
記憶の旅にはこうした基礎資料が重要になる。その中で、橋のシーンはいかなるものであったか、妄想してみた。たしか小説では、男性の妻が入水自殺をしていた(記憶が定かではないが)。その場所が湿原の中の釧路川であった。そのシーンにこの場所が使われたのでは。あくまで推測だが。
そうした目で川の風景を眺めると、まさにぴったり。湿原の荒涼たる雰囲気と不気味なほど静かに流れる川の風景が、死の場所を暗示していた。その象徴が古びた橋であったのでは。たぶん、小説家もまたこの地を訪れていたはず。そして主演の久我美子、森雅之、高峰三枝子(いずれも遠い記憶の彼方の俳優、女優たち)もまた、同じ風景の中で演じていたのでは。橋以外の風景は全く変わっていない、そんな気がしていた。
挽歌というタイトルにもふさわしい場所だ。挽歌とは、柩を乗せた車を引く人たちが歌う、葬送の歌の意味である。人の死を悼んで作る哀悼歌なのだ。

(石碑は新しいが、お地蔵さんは古い感じ。映画の撮影時にはすでに橋のたもとにあったと推測している)

ここまで妄想した時、川べりに立つお地蔵さんと石碑に気づいた。その石碑には昭和十八年七月三十一日の事故が記されていた。川遊びをしていた児童が深みにはまり、それを助けようと川に飛び込んだ先生とともに、二人がここで命を落としていた。この近くに小学校があったらしい。日にちを見れば、夏休み中のことであったことが分かる。今年の夏のような暑さに、川で水浴びをしていたに違いない。楽しい夏休みが悪夢となったのであろう。この場所はこうした人たちの歴史も刻んでいた。

この話を知って、さらに確信をもった。この場所は入水自殺のシーンに使われ、知らせを聞いて駆けつけた登場人物が集まった場所に違いない。私の頭の中にはその風景が鮮やかに浮かび上がっていた。妄想もここまでくると、確信となる。
この映画を記憶している人がいたなら、ぜひ聞いてみたい。私の妄想が正しいかどうかを。
記憶をたどる旅は今も継続している。

小説家原田康子氏は東京生まれ、釧路で育っていた。釧路新聞社にも勤務していた。ガリ版刷りの同人誌「北海文学」に寄稿していた小説が「挽歌」であった。無名のしかも地方の同人誌が取り上げられ、ブームを呼んだのも初めてのことであったと、聞いた。
原田康子氏は昨年の2009年10月20日、札幌で永眠している。享年81歳であった。明日20日は原田康子氏の命日であり、一周忌にあたる。

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3 コメント

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飲み屋「挽歌」 (numapy)
2010-10-20 11:36:48
確か、釧路の末広町の一角だったと思いますが、
「挽歌」という飲み屋に行ったことが1回。
道新の記者に連れてってもらいました。「挽歌」の映画のタイトルは覚えてますが、さて内容までは・・。
ただ、写真を見ていてふと「あがたもりお」の歌を思い出しました。
♪森羅万象酔生~ああ無常~♪
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懐かしい! (原野人)
2010-10-21 08:22:11
時々、記憶のかなたの名前を聞くのはいいものですね。
あがたもりお、どんな漢字の名前だったかな?ひらがなでしたっけ?
こんなふうに記憶の旅が継続します。昔のことを語り出したら、人生終わりとか、愚かな人は言いますが、それは違うと思います。懐古する心は、人生の味付けです。おおいに昔を思い出しましょう!
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時代の空気を共に吸う (numapy)
2010-10-21 09:21:35
「あがたもりお」は「あがた森魚」です。
もしかしたら貴ブログの写真を見てて、「森魚」の文字がイメージリーダーになったのかもしれません。
それにしても釧路川は音無く流れますね。
時間の流れと同じ、無音。
もしかしたら日本で一番の悠久な時が流れているのかもしれない。来年は屈斜路湖から海までカヌーで旅してみたい。
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