※【国語教材論】シリーズは、小学校国語教科書の「説明文」について、主にその「(主観的)現実度」を検討するもの<参照>。「主観的現実度」とは、その作品の真実性、妥当性・適切性などのこと。前記観点での特化した教材論ですが、関連する「指導」についても考えます。原文(引用)は青字。
■説明文2「見立てる」作:野口 廣((小学5年用光村国語教科書p38~39)(2)
教科書を持たない方のために、全文を再掲します。(※原文は縦書き。なお、ここでは読みやすいように段落の間を一行あけている。)
なお、茶色字化、緑字化は松永による。
見立てる 野口 廣(のぐち ひろし)
わたしたちは、知らず知らずのうちに、「見立てる」という行為をしている。ここでいう「見立てる」とは、あるものを別のものとして見るということである。たがいに関係のない二つを結びつけるとき、そこには想像力が働いている。
あや取りを例に考えてみよう。あや取りでは、一本のひもを輪にして結び、手や指にかける。それを、一人で、ときには二、三人で、取ったりからめたりして形を作る。そして、ひもが作りだした形に名前がつけられる。これが、見立てるということだ。あや取りで作った形と、その名前でよばれている実在するものとが結び付けられたのである。
この場合、同じ形に対してつけられる名前が、地域によってちがうことがある。その土地の自然や人々の生活のしかたなどによって、結び付けられるものがことなるからだ。
日本でよく知られている写真○1の形は、地域ごとにちがう名前をもっている。「あみ」「田んぼ」「ざる」「たたみ」「かきね」「しょうじ」「油あげ」など、日本各地で名前を集めると、約三十種類にもなる。それぞれの土地の生活と、よりかかわりの深いものに見立てられた結果といえる。
あや取りは、世界各地で行われている。写真○2は、アラスカの西部で「かもめ」とよばれている形である。しかし、カナダでは、同じ形に対し、真ん中にあるトンネルのような部分が家の出入口に見立てられ、「ログハウス」(丸太を組んでつくった家)などという名前がつけられている。
見立てるという行為は、想像力にささえられている。そして、想像力は、わたしたちをはぐくんでくれた自然や生活と深くかかわっているのだ。
※挿絵・写真は前回を見てください。
■国語の授業で「文章教材」を学習(=勉強)するということは、どんな人間力を育てようとすることなのか?
大きくは、(1)他者の書いた文章の内容を理解する力=文章理解力、(2)理解したことについての何らかの想いや見解を述べる力=言語表現力、の二つだと思います。
どちらも、現代社会で、一人前に生きていくためには絶対に欠かせない重要な能力(の一部)です。
「えっ、表現力も?」と疑問に思われた方がいらっしゃるでしょう。・・・では、考えてみてください。教師や級友は、子供:Aが何を理解したのか、その内容・内心(=脳内世界)をどうやって知ることができるのでしょうか?
少なくとも、Aが、疑問や、教師の質問に対する答え、要約、感想や意見などを述べ(=言う、書く)ないかぎり、絶対に知ることはできません。
つまり、教師は、《「Aが表現した言葉」によってしか、「Aが理解している内容」を知る(≒想像する)ことはできない》、ということです。
ですから、もしも教師が、真剣に教え子の文章理解力を育てたいと思うのならば、どうしても教え子に表現させなければいけないと思います。
※教材文を何度も音読・黙読させれば、あるいは教師が説明・講義すれば、《何か理解しているだろう》という想定はできます。しかし、通常はそれだけの授業では、少なくとも小学校では、《安易で無責任な手抜き授業》という非難を逃れることはできないでしょう。(※当たり前ですが、「優れた講義」は存在します、とても少ないと思いますが。)
小学校でもたまに「先生の話」中心の授業を見たことがあります。昔の中学校ではよく見かけました(今は?)。昔の高校ではほとんど講義だけでした(今も?)。
日本人は、人前で話すことが苦手な人が多いようです。小学校高学年以後の思春期の青少年の多くが、その認識世界を大きく広げる時期に、「理解+表現力」を鍛え・育てる授業を受けられなかった(だろう)ことがその大きな要因の一つではないかと思います。(※個々の教師の責任というより、教育システムの問題が大きいと思います。)
(※1 日本人の民族性や《戦後の「愚民化政策」「教育投資の手抜き」》の要因についてはここでは追究しません。)
(※2 否応なく「国際化」「高度化」した現代世界では、人間力の一つとしての「言語理解・表現力」は、「経済力」にも匹敵する国力要素と思いませんか?)
(※3 《人前でまともなことがほとんど話せない日本の小中高・大学生》や《人前で言える自分の意見を持たない日本の青少年》の多さにびっくりしたことはありませんか?)
1【現実世界】のなかの、何について書かれて(=説明して)あるのか? その1
この教材文は「意見・論説文」ではないので、まず、《筆者は何について説明しているのか》を理解しなければならないでしょう。
(※意見・論説文の場合は、まず《筆者の主張》を…)
ところが、私にとっては、何度読んでも(※というより、読めば読むほど)、《なんとなく分かるが、何が分かったかはっきりしない》という、なんとも悩ましい文章です。
数学者である野口氏の思考が理解できないのだろうか? いやいや、小5のための文章をすっきり理解できないなんておかしいのでは、などと考え始めて・・・
そこで、そのもやもや感をすっきりさせるために、この説明文の主題(※説明文では「主材」と同じ)について、通常の教材研究、つまり、教師だったころと同じように研究してみようと思います。仮説・検証思考で。
(1)説明している主題は何か、ということについての仮説(と、その直観的な理由)
a.「見立てる」(という、思考行為について)・・・題名だし、キーワードとして、この短文中に6回も使われているから。
b.「想像力」(という、思考力の一種について)・・・キーワードとして3回も使われ、もっとも大事な「最終段落」の「最後の文」は「想像力」についての説明だから。
c.「あや取りの名前のつけられ方」(という現象について)・・・全部で6つの形式段落のうち、4つもの段落がその説明だから。
d. 「見立てるという行為」と「想像力」と「自然や生活」(の関係について)・・・つまり、最終第6段落の内容すべて。
<指導の工夫> 発問「この説明文は、何について説明してあると思いますか? いちばん中心になると思われることを一つだけあげなさい。」
※なかなかの議論が期待できます。30人もいればおそらく上にあげた3つは意見が出るでしょうから。(※出なければ、教師が出す。)
※この発問の危険性・・・この文章の場合、どんな建設的な議論をしても、abdについては優劣つけがたいことになる可能性が大です。実はcについても「有力な論拠」があるかもしれません(後日考察)。
ですから、まとめとしては、「よく分からない」、「読者によっていろいろに思える」などとおさめるしかないかもしれません。しかし、小学5年生用の短い説明文で「主題」が決定できないなんて、それは「難解」すぎるからなのか、それとも「理解しがたい悪文」だからなのか…???
(当然のことですが、教師は「教え子たちの回答」のほとんどについて想定・予想しておかないと授業ではきちんと対応・処理できません。それは必須の教材分析です。つまり、事前にいろいろなシミュレーションをしておく必要があるということです。
もちろん若い先生方にとってはなかなか難しいことでしょうが、そのために「指導書」、「教師仲間との教材研究会」や「先輩の智恵」、「TOSS」「教育センター」などのネット上の支援サイト、などがありますからせっせと活用しましょう。※勤務時間内ではできないでしょうが、体力で…)
~次回、(2)各仮説についての検討~ ※とても嫌な予感が…、超長く、かつ難しい検討になりそうな…
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