やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【国語教材論】3 説明文の「主観的現実度」 ~読み物教材における「現実」と「非現実」の考え方(3)~

2012年03月08日 | 教育1 小学校国語教材論

1 読み物教材における「現実」と「非現実」の考え方 その3

 前回フィクションとノンフィクションの区別は厳密に言えばできないが、学校現場では、文科省の保証により、おむむね《説明文は現実(真実)を伝えているノンフィクション》として子供達に与えられている、と書きました。

 したがって、説明文の読解の観点(の一部)としては、《書かれていることは妥当か?(=「真実」か?、「適切」か?)》ということよりも、《何について書かれているか?》《現実の事象についてどのように書かれているか?》ということがはるかに多く問題にされていると思います。
 もちろん、表現方法・技術(=言葉の使い方)を教えることは、国語科のとても重要な目標の一つです。しかし、少なくともこの数十年ほどはその「技術主義」への偏重が、読み物教材の授業の魅力やおもしろさを大きく減らしてしまっていると感じてきました。

・現実社会においては、《言語や映像で伝えられていることが本当のことかどうか》ということが最も重要なこと。だから、さまざまな方法でまずそのことを確認しようとするのが普通だと思う
 ※現代では、相手の言うことを頭から信じてうのみにする人間は、職業人としても、消費者としても最初から失格のようです(※残念なことですが)。 

・説明文などの授業で《現実性や真実性を問う》ような学習をとりいれれば、授業の臨場感や現実感を高め、国語の授業の魅力を高めるのではないだろうか。
 ※一般的に、広く調べられたアンケートの場合、「国語」は、嫌いな教科の1位または上位になっていることが多い。


 説明文教材などの「主観的現実度」

 では、
5年用光村国語教科書が買えたので、実際に説明文教材などにあたって、その「主観的現実度」について考えてみます。

 「現実度」とは、その作品の妥当性、真実性、適切性などのことと考えてください。
 おそれおおくも、各界の一流の作者の作品について、《【現実そのもの】から、その対極にある「非現実」「妄想」「嘘」までのどの段階にあるか》を測定してみようという冒険です。正直言ってどうなるものやらほとんど予想できません。

※「主観的現実度」とは?

・【現実A】について、作者によって(表現意図に基づいて)書かれた【説明文A】は、当然ながら【現実A】そのものではない。さらに、【説明文A】を読んだ読者(私)の脳内には、個性的な{説明文Aの世界(※概念群)}ができる。

 私は【説明文A】が【現実A】を真に、適切に表現できているかどうかを調べようとする。しかし、
(1)作者が体験したもともとの【現実A】を私が体験することはできない。(※【似たような現実】なら体験できないこともない)
(2)たとえ同じ現実を体験していたとしても{記憶}は同じではない。
(3)作者の表現意図はほとんどの場合推測することしかできない。
(4){
私が理解した説明文Aの世界}は、{他の人が理解した説明文Aの世界}とは「個性的」に違っている。
(5)ほとんどの場合、作者の専門的知識や技術、表現力などに関して、私の力量は及ばない。

 などの理由により、読者による「理解」や「現実度判定」は、必ず主観的になります。
 それほどめんどうなことではあっても、「ある作品の現実度」を追究する・読解する努力をすることは、その作品を理解する上でもっとも重要なことだと思います。
 また、「各読者の主観」の交流やぶつかり合いが、授業の「臨場感」や「現実感」を高めるのだと思います。


 ※「真実」・・・ここでは「真の現実」「真の事実」という意味。厳密には、それは表現されたとたんに「それぞれの人による真実」しか存在できない(と思う)。が、人類どうしが《おおむねコミュニケーションできている》状況を認めれば、《「(おおむね)真実」を共有できる》状況も認めることができると思います。

~つづく~


 ←参考になりましたらクリックをお願いします! 読んでくださる方の存在が励みです。※コピー、リンクはご自由に。