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伊勢暴動

2020年12月19日 | 日常


12月19日は伊勢暴動が始まった日である。
明治9年、地租改正による重税に耐えかねた農民による暴動で、農民暴動としては最大規模になる。

明治維新によって立ち上がった新政府は、一刻も早く欧米に追いつくことを目標に、強引に改革を進めていく。
そのしわ寄せは庶民から士族まで、つまりほとんどの国民に相当な痛みを伴わせるもので、明治9年頃は各地で乱や暴動か発生していた。
その中で農民の場合、江戸時代まではその年の収穫に応じた米を年貢として納めていればよかったのだが、地租改正により、毎年決まった額のお金を納めなくてはならなくなる。
それが安ければ問題なかったのだが、急速に近代化を目指す政府からするとそんな悠長なことは言ってられない。
無慈悲なまでに重税を負担させ、米が不作であっても豊作のときと同じ金額を納めなければならなくなったのだ。
安定した財源が確保される一方、農民はたちまち困窮する。
政府としては、何も米作に拘らず、商売するなり工場で働くなりして、自由にお金を稼いだらいいんだということなんだけど、先祖代々農業しかしていない人には、いまいちピンとこないのは当たり前である。

12月18日、松阪の農民たちは税を軽減させてほしいとの嘆願書をもって集まり、そのうちどんどん人が集まって1000人を超える。
揉めに揉めて、19日の昼からついに暴動となる。
まずは、市内の三井銀行が襲撃され炎に包まれたあと、役所などが次々に襲われる。
暴動軍の人は膨れ上がり、やがて三重県全土に広がるのだった。
このときの県令は佐賀出身の岩村定高で、政府に軍の派遣を要請する一方、旧士族に応援を求める。
岩村としては士族側が暴動軍に加わると大変なことになるため、というのもあったのだろう。
なんといっても、この2ヶ月前には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が相次いで発生し、鹿児島では西郷隆盛がいつ決起するかわからない状況なのだ。
伊勢暴動が三重の乱に発展する前に、士族を利用したのだ。
士族と市街戦となり、当然のことながら暴動側は敗退する。
それでも規模があまりに大きいため、三重県を通り越して岐阜や愛知まで暴動が広がるのだった。

政府軍が到着し各地で戦闘があったものの、12月24日頃には鎮圧される。
死者35人、逮捕者は5万人を超えたという。
それでも政府側としては農民の要求を飲まざるをえず、税率は3パーセントから2.5パーセントに下げられた。
これをもって、ある意味農民側の勝利ともいえる。

明治9年から10年にかけての日本というのは、今だと世界的なニュースになるような大事件がいくつも発生している。
伊勢暴動もその一つだが、日本のあまりに急速な近代化の陰で、こういうことがあったというのを忘れてはいけない。

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