久しぶりに村上春樹を読んだ。
僕は決して村上春樹のいい読者ではない。
エッセイは面白いと思うけど、小説は世間が絶賛するほどにはいいと思えない。
それでも周りから「多崎つくるは面白い」といわれたら、なんとなくちょっと読んでみるか、という気になるくらいには関心はある。
それは僕が常に周りに流される性格だからなんだけど。
読み始めてすぐ、主人公の多崎つくるは典型的な村上登場人物であることに気がつく。
友達ゼロで、無類の読書好きで、しょっちゅうミネラルウォーター飲んでて、シャワーを浴びれば念入りに石鹸で身体を洗う。
生粋の名古屋人のくせに、生まれてから一度も味噌煮込みうどんも小倉トーストも味噌カツも食べたことないような生活感(だいたいいつもサラダやチーズ、ピザとか食べてる)。
意味なく身体を鍛え、クラシック音楽を聴き、社会的地位はそれなりに高く、裕福なんだけど、世界一不幸みたいな顔をしている。
そのくせ、ちゃっかり女にはモテてやることはやってるという、村上作品にしか登場しない非現実男だ。
ただし、今回は鏡の中やテレビの中といった異次元空間に迷うこともなく、観覧車からもう一人の自分を見つけることもなく、芸術的な耳の女も、ネコと喋る人も出てこない。
もちろん、カーネルサンダースが極上の女を紹介してくれることもない。
わりとまともな現実社会のなかの話になってるので、読みやすいほうだろう。
この多崎つくるの物語をどう読むか、については数多くの書評があるので割愛させていただくが、僕がここで取り上げるのは「男女の友情」だ。
多崎つくるは高校生のころ、男3人女2人の仲よしグループにいた。
多崎つくるによると、それはもう身体の一部のように仲のよい大親友の集まりで、その5人にしかないケミストリーがあったらしい。
しかし大学へ進学する際、多崎つくるのみ東京へ行き、他の4人は地元の名古屋にとどまった。
しばらくして多崎つくるは4人から絶縁される。
なぜなら、いい若者となった5人がいつまでも子供みたいにお友達ゴッコなんて出来るわけがないからだ。
20歳前後のそれぞれ将来有望な魅力ある男女なら、性を意識せざるをえなくなるのは当然の成り行きである。
そのため、多崎つくるは犠牲になったのだ。
最初はなぜ自分が絶縁されたのか、つくるはわからず、自殺を考えるほど落ち込む。
そして何年経ってもウジウジとそのことが引っかかってる彼に、年上の恋人は「本人に確認にしてスッキリしろ」とカツを入れる。
で、男女の友情なんだけど、この小説ではどう扱われているか、僕なりに解釈してみた。
人生経験の少ない若者の間では、男女の友情はありえない。
必ず性的な問題が起こりうる。
ましてや、男の部屋に泊まりに来た女は、そのまま何事もなく朝を迎えることは困難である。
つくるをめぐる三角関係も存在し、いつまでも友達でいることは、それぞれに苦しみをもたらす。
しかし、年齢を重ね30代後半以上になってくると、あるいは男女の友情は存在するかもしれない。
つくるの年上の恋人には、別に仲良くしている男性がいる。
二股をかけられてると焦っているつくるは、恋人にどっちを選ぶのか選択させるところで物語は終わるんだけど、僕はつくるを選ぶんだと思う。
たぶん、もう一人の男性は親しい友人なんだろうから。
僕は決して村上春樹のいい読者ではない。
エッセイは面白いと思うけど、小説は世間が絶賛するほどにはいいと思えない。
それでも周りから「多崎つくるは面白い」といわれたら、なんとなくちょっと読んでみるか、という気になるくらいには関心はある。
それは僕が常に周りに流される性格だからなんだけど。
読み始めてすぐ、主人公の多崎つくるは典型的な村上登場人物であることに気がつく。
友達ゼロで、無類の読書好きで、しょっちゅうミネラルウォーター飲んでて、シャワーを浴びれば念入りに石鹸で身体を洗う。
生粋の名古屋人のくせに、生まれてから一度も味噌煮込みうどんも小倉トーストも味噌カツも食べたことないような生活感(だいたいいつもサラダやチーズ、ピザとか食べてる)。
意味なく身体を鍛え、クラシック音楽を聴き、社会的地位はそれなりに高く、裕福なんだけど、世界一不幸みたいな顔をしている。
そのくせ、ちゃっかり女にはモテてやることはやってるという、村上作品にしか登場しない非現実男だ。
ただし、今回は鏡の中やテレビの中といった異次元空間に迷うこともなく、観覧車からもう一人の自分を見つけることもなく、芸術的な耳の女も、ネコと喋る人も出てこない。
もちろん、カーネルサンダースが極上の女を紹介してくれることもない。
わりとまともな現実社会のなかの話になってるので、読みやすいほうだろう。
この多崎つくるの物語をどう読むか、については数多くの書評があるので割愛させていただくが、僕がここで取り上げるのは「男女の友情」だ。
多崎つくるは高校生のころ、男3人女2人の仲よしグループにいた。
多崎つくるによると、それはもう身体の一部のように仲のよい大親友の集まりで、その5人にしかないケミストリーがあったらしい。
しかし大学へ進学する際、多崎つくるのみ東京へ行き、他の4人は地元の名古屋にとどまった。
しばらくして多崎つくるは4人から絶縁される。
なぜなら、いい若者となった5人がいつまでも子供みたいにお友達ゴッコなんて出来るわけがないからだ。
20歳前後のそれぞれ将来有望な魅力ある男女なら、性を意識せざるをえなくなるのは当然の成り行きである。
そのため、多崎つくるは犠牲になったのだ。
最初はなぜ自分が絶縁されたのか、つくるはわからず、自殺を考えるほど落ち込む。
そして何年経ってもウジウジとそのことが引っかかってる彼に、年上の恋人は「本人に確認にしてスッキリしろ」とカツを入れる。
で、男女の友情なんだけど、この小説ではどう扱われているか、僕なりに解釈してみた。
人生経験の少ない若者の間では、男女の友情はありえない。
必ず性的な問題が起こりうる。
ましてや、男の部屋に泊まりに来た女は、そのまま何事もなく朝を迎えることは困難である。
つくるをめぐる三角関係も存在し、いつまでも友達でいることは、それぞれに苦しみをもたらす。
しかし、年齢を重ね30代後半以上になってくると、あるいは男女の友情は存在するかもしれない。
つくるの年上の恋人には、別に仲良くしている男性がいる。
二股をかけられてると焦っているつくるは、恋人にどっちを選ぶのか選択させるところで物語は終わるんだけど、僕はつくるを選ぶんだと思う。
たぶん、もう一人の男性は親しい友人なんだろうから。